第46話 随分と静かですわね
数日後。
王都の市場には、ようやく以前の活気が戻っていた。
買い占められていた穀物は順次市場へ戻され、価格も落ち着きを取り戻している。商人たちへの調査も進み、白百合の指示を受けていた者たちは、それぞれの関与に応じて処分を受けることになった。
中には、ローデリックに騙されていただけの商人もいた。一方で、混乱を利用して利益を得ようとしていた者もいる。
特に、以前私たちが調査したハロルド・ベルクは、今回の証拠が決定打となり、商業組合から正式な資格停止処分を受けたらしい。
その知らせを聞いたとき、私は思わず紅茶を一口飲んだ。
「……随分と静かですね」
「何がです?」
「もっと『私を誰だと思っている!』とか『こんな処分は不当だ!』とか、騒ぐと思っていました」
ヴィンセントが向かいで笑う。
「彼は十分騒いだそうですよ。ただ、商業組合の全員から『その話はもう聞き飽きた』と言われて静かになったとか」
「それは……少しだけ気の毒ですね」
「同情しますか?」
「いいえ。自業自得だと思います」
「では、その顔は?」
「ちょっとだけ面白かっただけです」
「なるほど。あなたも意外と悪い顔をするようになりましたね」
「誰の影響でしょう」
「私でしょうか」
「自覚があるのですね」
二人で笑う。
こうして笑えることが、以前よりもずっと大切に思えた。
事件が起きている間、私はずっと「未来」を気にしていた。
ゲームにはこんな事件はなかった。
知っているはずの未来と違う。
だからこそ、次に何が起きるのか分からなかった。
けれど今は、少し違う。
分からないなら、分からないままでいい。
隣にいる人と一緒に確かめればいい。
「エヴァンジェリン」
「はい?」
ヴィンセントが紅茶のカップを置いた。
「事件の調査報告書が正式にまとまりました」
「もう読んだのですか?」
「当然です」
「……私より先に?」
「あなたが三時間かけて読むところを、私は一時間で読めますから」
「嫌味ですか?」
「事実です」
「では、今日のお菓子は私が二つ食べます」
「それは困ります」
「どうしてあなたが困るのです?」
「あなたが食べている姿を見るのが好きだからです。一つ減ると、その分だけ見られる時間も減るでしょう?」
私は思わず黙った。
「……そういうことを、さらっと言うのは反則だと思います」
「何がです?」
「あなたは本当に、分かっていないのですか?」
「何のことでしょう」
明らかに分かっている顔で、ヴィンセントは笑っている。
悔しい。
けれど、そんな彼の隣にいることが嫌ではない。
むしろ――嬉しい。
「そういえば」
ヴィンセントがふと声を落とした。
「事件が終わったら、旅行に行く約束をしましたね」
「しました」
「どこへ行きたいですか?」
私は少し考える。
「王都の外へ行ってみたいです。できれば、古い街道や歴史のある町を巡ってみたいですね」
「予想通りです」
「何ですか、その反応は」
「あなたなら海辺とか温泉とかではなく、古い城壁や廃道を見たいと言うと思っていました」
「だって面白そうではありませんか」
「ええ。あなたが目を輝かせながら古い石碑を眺める姿を見るのも、楽しそうです」
「……あなたは旅行先まで私を観察するつもりですか?」
「もちろん」
ヴィンセントは当然のように答えた。
「あなたと過ごす時間なら、観察しても飽きませんから」
まただ。
こういうところなのだ。
大げさな言葉を並べるわけでもないのに、彼の言葉はいつも私の心の奥へ届く。
私は照れ隠しに紅茶を飲んだ。
けれど、その瞬間。
「熱いですよ」
「え?」
ヴィンセントが手を伸ばし、私のカップを持つ。
「少し冷ましてから飲んでください」
「……子供ではありません」
「知っています。だから、心配しているんです」
「それは理屈になっていません」
「あなたは大人なのに、古文書を見つけると食事を忘れるという、非常に困った性質がありますから」
「そこをいつまでも言わないでください」
「では、次から古文書を見つけたら私に報告してください」
「なぜです?」
「先にお菓子を食べさせます」
「……」
「何か?」
「あなた、本当に私を甘やかすのが好きですよね」
ヴィンセントは少しだけ目を細めた。
「ええ」
今度は、冗談ではなかった。
「あなたが頑張っている姿を見るのは好きです。ですが、それ以上に、あなたが何も背負わず笑っている姿を見るほうが好きなんですよ」
胸が静かに熱くなる。
「だから、これからはもっと頼ってください」
「……努力します」
「努力ではなく、約束にしましょう」
「随分と強引ですね」
「あなたが自分から頼ってくれるまで待っていたら、十年くらいかかりそうなので」
「そこまでではありません」
「では、五年?」
「長すぎます」
「三年」
「交渉するところではありませんよ」
二人で笑う。
窓の外には、夕暮れの王都が広がっていた。
事件は終わった。
白百合の印も、もう私たちを追ってはいない。
けれど、私は思う。
もし、あの日の私が「ゲームの未来」を信じて、その筋書きだけを追いかけていたなら、今ここにあるものには辿り着けなかっただろう。
私は未来を知っているから幸せになれたわけではない。
むしろ、未来を知らなくなったからこそ、自分の手で選べるようになった。
「ヴィンセント」
「はい」
「これから先、何が起きるか分かりませんね」
「ええ」
「また事件が起きるかもしれません」
「できれば起きてほしくありませんね。あなたが事件に巻き込まれるたび、私の胃が痛くなるので」
「そこですか?」
「大切なことですよ」
彼は苦笑してから、私の手を取った。
「それでも、何が起きても一緒に考えましょう」
指先が重なる。
「未来を知っている必要なんてありません。あなたとなら、知らない未来へ進むことも、私は怖くない」
その言葉が、静かな夕暮れの中に溶けていく。
私は彼の手を握り返した。
「……私もです」
「では、まずは旅行の計画から始めましょうか」
「ええ。古い街道を――」
「その前に」
「何です?」
「明日は完全に休んでください」
「……」
「何です、その顔は」
「旅行の計画を立てるだけなのに、どうして休養命令がついてくるのですか?」
「あなたが計画書を作り始めると、朝まで寝ないからです」
「そんなことは――」
「あります」
「……」
「ありますよね?」
「……少しだけ」
ヴィンセントが満足そうに笑う。
「では決まりです。明日は休みです」
「分かりました。ただし、午後からなら――」
「駄目です」
「まだ何も言っていません」
「あなたのことですから、古地図を持ち出そうとしているでしょう」
「……」
「図星ですね」
また笑い声が重なった。
白百合の事件は終わった。
けれど、私たちの物語は、ここから始まる。
知らない未来を、二人で選びながら歩いていく。
それはきっと、どんな物語の筋書きよりも――私にとって、大切な未来だった。
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