第44話 一つの古い手紙
王城西塔。
普段ならば夜の見回りをする騎士でさえ足を向けない、古びた塔の最上階。その一角に、私たちは立っていた。
壁に埋め込まれるように存在する扉には、確かに白百合の紋章が刻まれている。
月明かりが細い窓から差し込み、古い石壁を青白く照らしていた。人の気配はない。それなのに、扉の前に立った瞬間から、私は妙な胸騒ぎを覚えていた。
「……随分と趣味の悪い場所ですね」
隣でヴィンセントが静かに呟く。
「あなた、さっきから楽しそうではありませんか?」
「まさか。私はあなたが一人でこの扉を開けようとしないか、それだけが心配で仕方がないんですよ」
「私はそこまで無鉄砲ではありません」
「では、質問を変えましょう。古文書を見つけた瞬間、私の存在を忘れて読み始める癖は?」
「……それは」
言葉に詰まる。
ヴィンセントは満足そうに笑った。
「否定できないようですね」
「だって、古い記録というのは一度読み始めると止まらないのです。書いた人間の癖や、時代背景まで読み取れるかもしれませんし、それに、こういう場所に残されている文書は――」
「はい、そこから先は朝食を食べながら聞きましょう」
「どうして今、朝食の話になるのですか」
「あなたが空腹になると、古文書と会話を始めるからです」
「そんなことはしません」
「前回、三時間ほど誰にも話しかけずに記録簿を読んでいた人の台詞とは思えませんね」
思わず睨みつけると、ヴィンセントは肩をすくめた。こういうときだけ、本当に楽しそうなのだから困る。
けれど、その軽いやり取りのおかげで、張り詰めていた空気が少しだけ和らいだ。
ヴィンセントは懐から古い鍵を取り出す。
以前、北門の地下で見つけたものと同じ、王家の古い形式をした鍵だった。
「この鍵が使えるかは分かりません。ですから、私が先に確認します」
「私も一緒に行きます」
「ええ。だからこそ、私の後ろから離れないでください」
「それは命令ですか?」
「お願いです」
その言葉に、私は少しだけ目を見開いた。
ヴィンセントはいつだって私を守ろうとする。それでも、私の行動を奪おうとはしない。
閉じ込めるのではなく、隣に立とうとしてくれる。
それが、彼の優しさなのだと思う。
「……分かりました。ただし、あなたも無茶はしないでください」
「善処します」
「その返事は信用できません」
「おや、随分と手厳しい」
そんな会話を交わしながら、鍵を差し込む。
かちり、と小さな音がした。
扉がゆっくりと開く。
中にあったのは、武器でも罠でもなかった。
古い机。
書棚。
壁一面に並べられた王室の記録。
そして、机の上に置かれた一冊の分厚い帳簿。
私は思わず息を呑んだ。
「……これは」
「見覚えがありますか?」
「ええ。王室物資輸送記録です。ただ、この形式は――」
私は机へ駆け寄り、帳簿を開いた。
紙は古い。それでも保存状態は異様なほど良かった。
ページをめくる。
北門。
第二倉庫。
南街道。
そして――白百合。
胸の奥がざわめいた。
「ヴィンセント。これを見てください」
「何かありましたか?」
「この記録、白百合の印が単なる輸送経路を意味しているわけではありません」
何度も読み返す。
以前の記録では、白百合は物資を運ぶための目印だと思っていた。
けれど、この帳簿では違う。
白百合の横には、必ず数字と短い文章が添えられている。
数字は倉庫。
文章は指示。
そして、その指示の中に一つだけ、他とは明らかに違う記述があった。
『王都が揺れた場合、第二管理者は西塔へ報告すること』
「……第二管理者」
ヴィンセントの表情が変わった。
「北門の記録にあった名前と一致しています」
「つまり、白百合の経路を動かしていた人間が、王城内にもいたということですか?」
「その可能性は高いでしょう」
私はさらにページをめくる。
すると、一枚の紙が挟まっていた。
古い手紙だった。
差出人の名前はない。
ただ、最後にこう記されている。
『王都を飢えさせる必要はない。人々に、飢えるかもしれないと思わせればいい』
背筋が冷たくなった。
ヴィンセントが静かに息を吐く。
「……やはり、目的は食料そのものではありませんでしたね」
「不安を利用して、王都を混乱させること」
「ええ。そして、その混乱を利用して何かを起こすつもりだったのでしょう」
そのとき。
廊下から、足音が聞こえた。
一つ。
二つ。
規則正しい足音が、こちらへ近づいてくる。ヴィンセントはすぐに私の前へ立った。けれど私は、彼の袖を掴む。
「待ってください」
「どうしました?」
「……足音が一人分なのに、聞こえる音が二種類あります」
「二種類?」
「革靴と、杖の音です」
ヴィンセントが目を細める。
そして、扉の外から低い声がした。
「そこにいるのは、誰だ」
私たちは顔を見合わせた。
どうやら、この塔には――私たち以外にも、この記録を知る人間がいるらしい。
ヴィンセントが私の手をそっと握る。
「大丈夫です」
「……怖くないと言えば、嘘になります」
「なら、怖いままでいましょう」
彼は私を見つめ、静かに笑った。
「怖いからこそ、私たちは慎重になれる。勇気というのは、恐怖が消えることではありません。怖いままでも、大切な人の手を離さないことです」
その言葉に、私は強く頷いた。
そして扉の向こうにいる人物へ向けて、声を張る。
「白百合の記録について、お聞きしたいことがあります」
しばらく沈黙が続いた。
やがて――鍵が回る音がした。
外からではない。
内側から。
誰かが、私たちをこの部屋へ誘い込んだのだ。
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