第37話 婚約者の独占欲があらわに!?
ハロルドの商館への監査が始まってから三日。
王都は、少しずつ平静を取り戻していた。
穀物の流通も回復し、市場から消えていた不安そうな表情も減っている。
事件が完全に終わったわけではない。
けれど、少なくとも王都を覆っていた緊張は薄れていた。
そんな午後。
私は庭園のテーブルで紅茶を飲んでいた。
「……平和ですわね」
「ええ」
向かいに座るヴィンセントが、満足そうにカップを傾ける。
「やはり事件のない午後は素晴らしい」
「あなた、事件が嫌いでしたの?」
「嫌いではありません。ただ、事件よりあなたと紅茶を飲むほうが好きです」
「……それはそれで、少し困りますわ」
「なぜ?」
「そんなことを言われると、事件が起きるたびに私が罪悪感を覚えるでしょう」
「では、事件が起きないように祈りましょう」
「随分と平和的ですわね」
「あなたが笑っているなら、私は平和主義者になります」
私は思わず吹き出した。
こういうところがずるい。
甘い言葉を平然と言うくせに、本人には照れている様子がまったくない。
――いや。
最近は少し分かってきた。
この人も、本当は照れている。ただ、私より隠すのが上手いだけだ。
「ところで、今日は何も調べないのですか?」
「調べません」
「珍しいですわね」
「昨日、あなたが夜遅くまで資料を読んでいたでしょう」
「少しだけです」
「二時間です」
「……よく覚えていますわね」
「あなたのことですから」
ヴィンセントはため息をついた。
「私はあなたが頑張ることを嫌っているわけではありません。ただ、あなたが自分を後回しにするのが嫌なんです」
その声は、いつもの軽さとは違った。
「人は、自分を大切にすることを贅沢だと思ってはいけません。自分を守れない人間に、他人を守り続けることはできませんから」
私は黙って彼を見つめた。
その言葉は、胸に深く残る。
「……覚えておきます」
「できれば今日からお願いします」
「努力しますわ」
「では、今日の午後は休みです」
「それは命令ですの?」
「婚約者としてのお願いです」
「それなら断れませんわね」
私が笑った、そのとき。
庭園の向こうから侍従が走ってきた。
「ヴィンセント様! エヴァンジェリン様!」
嫌な予感がする。
「何か見つかりました」
差し出されたのは、ハロルドの商館から押収された一枚の古い帳簿だった。
「監査中、隠し金庫から発見されたそうです」
私はページを開いた。
そこには十年前の取引記録が並んでいる。
そして最後のページに――。
『北門経路、第二管理者へ引き継ぎ』
「第二管理者……?」
ヴィンセントが眉を寄せる。
さらにその下には、名前の代わりに記号が書かれていた。
ーー白百合。
その中央に、小さな王冠。
「これは……」
「王室内部の人間を示している?」
私は息を呑んだ。
もしそうなら、事件は商人だけの仕業ではない。十年前から、王室の内部に協力者がいたことになる。
「しかし、王室紋ではありません」
ヴィンセントが慎重に紙を調べる。
「王冠の形が少し違う」
「偽物?」
「おそらく。ですが、王室の内部事情を知っている人間でなければ、こんな印は作れない」
私は資料を握りしめた。
そしてふと、あることに気づいた。
「ヴィンセント」
「何でしょう」
「これ、あなたが見つけた古い命令書と筆跡が似ています」
彼は紙を並べた。
しばらく無言で見比べる。
「……確かに」
「つまり、同じ人物が書いた?」
「可能性は高いでしょう」
事件の核心が、初めてはっきりとこちらを向いた。
その人物は十年以上前から王室の物流に関わり、白百合の経路を知っている。そして今回、その古い経路を利用して王都へ食料と武器を流した。
「ようやく、顔のない敵に輪郭ができましたわね」
「ええ」
ヴィンセントは頷いた。
けれど次の瞬間、彼は帳簿を閉じた。
「今日はここまでです」
「……え?」
「午後は休みです」
「いや、今とても重要なところではありませんか?」
「重要です」
「でしたら――」
「だからこそです」
彼は私の前に手を差し出した。
「ここから先は、一人で焦って追いかけるところではありません。準備を整えてから向かいます」
「……あなたは本当に頑固ですわね」
「あなたほどではありません」
「否定できませんわ」
私は苦笑しながら、その手を取った。
するとヴィンセントは、少しだけ目を細めた。
「それと」
「何です?」
「今日、庭園に来る前に、若い騎士があなたを見ていました」
「……それが?」
「少し気になりました」
「まさか、嫉妬ですの?」
「ええ」
あまりにも即答されて、私は目を丸くした。
「そこは否定するところでは?」
「あなたに関しては、格好をつける必要がないでしょう」
「……ずるい人」
「あなたの婚約者ですから」
「また、それですわね」
「便利でしょう?」
私は思わず笑った。
事件の黒幕へ続く道が見つかった。
けれど、それ以上に心に残ったのは、彼が隠さず見せてくれた小さな独占欲だった。
未来は、まだ分からない。
黒幕が誰なのかも。
何を企んでいるのかも。
それでも――。
私はもう、未知の未来を怖いとは思わなかった。
未来を知っているから強いのではない。
未来を知らなくても、隣に立ってくれる人がいるから前へ進める。
それこそが、私がこの世界で手に入れた、一番大切なものなのだから。
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