第36話 私たちを甘く見過ぎですわ!
王都の商業区、その一角にひときわ大きな商館が建っていた。
磨き上げられた石造りの壁。
広々とした正面玄関。
出入りする使用人たちの服装も、他の商館より明らかに上等だ。
表向きには、王都でも有数の穀物商。
そして十年前には、北門の管理責任者だった男――ハロルド・ベルク。
私たちが応接室へ通されると、恰幅のいい男が満面の笑みを浮かべて現れた。
「これはこれは、エヴァンジェリン様。そしてヴィンセント様まで。わざわざこのような場所へお越しいただけるとは、光栄ですな」
口調だけなら丁寧だった。
だが、その目には明らかな警戒がある。
「突然の訪問で申し訳ありません」
私がそう言うと、ハロルドは大げさに首を振った。
「とんでもない。私は王室に忠誠を誓う商人ですからな。何でもお尋ねください」
――こういう人ほど、何か隠している。
私はそう思った。
だが、隣のヴィンセントは穏やかな顔を崩さない。
「では、単刀直入に伺います」
「何でしょう?」
「十年前、あなたは北門の管理責任者でしたね」
一瞬。
ハロルドの笑顔が固まった。
「……昔の話ですな」
「ええ。だからこそ確認したいのです」
ヴィンセントは一枚の紙を机に置いた。
ーー白百合の印が押された古い輸送命令書。
「これはご存じですか?」
ハロルドは紙を見つめたあと、すぐに笑った。
「古い書類です。そんなもの、商人の私には分かりませんよ」
「そうですか」
ヴィンセントはそれ以上追及しない。その代わり、私は彼の机の上に置かれた帳簿へ目を向けた。
穀物の取引記録。
そして、いくつかの数字が不自然に修正されている。
「その帳簿、見せていただけますか?」
「これは商売上の秘密です」
「では、こちらも秘密を一つ申し上げましょう」
私は微笑んだ。
「先月、あなたの系列商店が購入した小麦の量は、王都の通常消費量のおよそ二倍です」
ハロルドの顔から笑みが消えた。
「それは……」
「さらに、その小麦の一部が旧王室倉庫へ運ばれていましたわね」
「証拠はあるのですか?」
男が強気に出た。
私は静かに別の書類を置いた。
「あります」
運搬人の証言。
馬車の記録。
そして白百合の印が入った包装紙。
ハロルドは言葉を失った。
私は胸の中で小さく息を吐く。
ようやく、こちらが優位に立ったのだ。
ところが。
「……しかし、それだけでは私が今回の事件に関わった証拠にはなりませんな」
ハロルドが笑った。
「その通りです」
ヴィンセントが即座に答えた。
「ですから、あなたを犯人だとは言っていません」
「では、何のために?」
「確認のためです」
ヴィンセントは立ち上がる。
「そして確認できました」
「何を……?」
「あなたが、白百合の経路を知っていることを」
ハロルドの顔が引きつる。
「私はそんなこと――」
「知らない人間なら、先ほどの質問に『証拠はあるのか』とは答えません」
ヴィンセントは静かに微笑んだ。
「知らないなら、『何の話ですか』と聞くはずですから」
完全に詰みだ。
ハロルドはしばらく黙り込み、それから机を叩いた。
「……そんな細かい言葉尻で!」
「言葉は時に、帳簿より正直ですよ」
その言葉に、私は思わずヴィンセントを見る。彼は相変わらず涼しい顔をしていた。けれど、その目は少しも笑っていない。
「ハロルド殿」
ヴィンセントが続ける。
「あなたが何を知っているのかは、これから調べます。ただ、一つだけ忠告しておきましょう」
「……何を」
「王室の名前を利用して商売をした人間は、利益だけでなく信用も失います」
静かな声だった。
「そして商人にとって、信用を失うことは、金を失うことより重い」
ハロルドの顔が青ざめる。
その日のうちに、商業ギルドへ調査資料が提出された。
正式な処分はこれからだが、少なくとも彼の商館には監査が入り、主要な取引先も距離を置き始めるだろう。
軽い処分ではない。
けれど、これはまだ序章に過ぎない。
帰りの馬車の中で、私は大きく息を吐いた。
「……疲れましたわ」
「そうでしょうね」
「ですが、少し気分がいいです」
「ハロルド殿が慌てていたからですか?」
「ええ。少しだけ」
「なるほど」
ヴィンセントが笑う。
「あなた、意外と根に持つタイプですね」
「失礼ですわね。私は公平なだけです」
「では、次から『公平なざまあ』と呼びましょう」
「その言葉、どこで覚えたのです?」
「あなたが以前、こっそり読んでいた本です」
「……見ていましたの?」
「婚約者ですから」
「その言葉、本当に便利ですわね!」
私が笑うと、彼も楽しそうに笑った。
しかし、笑いが落ち着いたところで、ヴィンセントが窓の外を見た。
「ただ――一つ気になることがあります」
「何ですの?」
「ハロルド殿は、白百合の経路を知っていました。でも、彼が中心人物とは思えません」
「……やはり?」
「ええ」
ヴィンセントは、私の手をそっと握った。
「もっと上にいる人間がいるはずです」
その言葉に、私は静かに頷いた。
事件は、まだ終わらない。
むしろ、ようやく本当の入口に立ったのだ。
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