第32話 あまりに冷静すぎませんか!?
北門の地下にある古い書庫へ続く階段は、王都の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
石造りの壁には長い年月を経た苔が薄く張りつき、足元には細かな砂が積もっている。ところどころに設置された燭台には新しい蝋燭が灯されていたが、それでも地下特有の冷たく湿った空気までは拭えない。
先頭を歩くヴィンセントは、いつもの穏やかな顔を崩さないまま、何度も私の歩幅を確認していた。
「……ヴィンセント」
「何でしょう」
「さっきから三回目ですわ」
「何がです?」
「私がちゃんとついてきているか確認するために、振り返る回数です」
そう指摘すると、彼は少しだけ目を細めた。
「よく見ていますね。さすがは私の婚約者です」
「誤魔化さないでください。私、子どもではありませんのよ?」
「ええ、知っています。だから困っているんです」
「……何がですの?」
「あなたが、自分を大人だと思って無茶をするところが」
あまりにも自然に言われて、私は返す言葉を失った。
こういうところが、この人はずるい。
心配していることを隠さないくせに、こちらが怒る余地を与えないほど穏やかに言うのだ。
私は小さく息を吐いて、彼の隣に並んだ。
「でしたら、今日は無茶をしないと約束します」
「本当ですか?」
「ええ」
「では、帰ったら温かい紅茶を淹れましょう」
「……なぜ事件現場から帰った後の話になるのです?」
「あなたは事件を調べ始めると、夕食を忘れるでしょう」
「忘れませんわ」
「先月、書類を読みながら焼き菓子を三枚食べて、それを昼食だと言い張りました」
「……あれは昼食です」
「では、今度から私も三枚の焼き菓子を昼食にします」
「それは健康に悪いのでやめてください」
「ほら。私の心配はするのですね」
完全に一本取られた。
私は頬を膨らませながら、彼の腕を軽く叩く。
「……本当に、あなたは性格が悪いですわ」
「あなたにだけですよ」
そんなやり取りをしながら辿り着いた地下書庫には、古びた棚が幾重にも並んでいた。
その中央に、鉄で補強された大きな机が置かれている。調査隊が慎重に周囲を確認する中、私は棚に並ぶ帳簿へ目を向けた。
古い王室紋。
十年以上前の日付。
そして――白百合の印。
「これですわ」
私は一冊の帳簿を抜き取った。
表紙には『王室物資輸送記録』と書かれている。ページをめくると、穀物、武器、医薬品、馬車、燃料などの数量が細かく記録されていた。
だが、途中から奇妙な記載が増えている。
『第一倉庫より移送』
『第二倉庫へ変更』
『白百合経由』
そして、あるページだけが不自然に破り取られていた。
「ここだけありませんね」
ヴィンセントが隣から覗き込む。
「犯人が破ったのでしょうか」
「その可能性はあります。ただし――」
彼は帳簿の端を指でなぞった。
「破られたのは最近ではありません。紙の変色具合を見る限り、かなり昔です」
「……では、今回の事件のために作られた記録ではない?」
「ええ。むしろ今回の事件は、この古い仕組みを利用した可能性があります」
胸の奥が静かにざわめいた。
ゲームには存在しなかった。
少なくとも、私が知る『白百合の誓い』には。
ならば――この世界は、私の知識だけでは決して測れない。
その事実に不安を覚えた私の手を、ヴィンセントがそっと握った。
「大丈夫です」
「……何を根拠に?」
「根拠ならあります」
彼は私の手を握ったまま、穏やかに微笑んだ。
「あなたが一人で未来を知っている必要はありません。知らない未来なら、私と一緒に調べればいい」
その言葉は、地下の冷たい空気の中でも、不思議なほど温かかった。
――未来を知ることよりも、未来を誰と歩くかのほうが大切なのかもしれない。
そう思った、そのとき。
「エヴァンジェリン様!」
調査員の声が響いた。
彼が持ってきたのは、一枚の古い紙だった。
「帳簿の裏から見つかりました。どうやら破られたページの写しのようです」
そこには一行だけ、文字が残されていた。
『白百合は、王都の外へ道を伸ばす』
ヴィンセントの表情がわずかに変わる。
「……なるほど」
「何か分かりましたの?」
「ええ。ただし――」
彼は紙を折りたたみながら、私を見た。
「今日はここまでにしましょう」
「なぜです?」
「あなたのお腹が鳴りました」
「…………」
「非常に説得力のある終了合図でした」
「忘れてくださいませ!」
地下書庫に、彼の小さな笑い声が響いた。
ーー事件はまだ終わっていない。
けれど私は、以前ほど未来を恐れてはいなかった。
隣に、この人がいるからだ。
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