第28話 私が婚約者を甘やかす理由....?
南区の倉庫から戻った翌日。
王宮では朝から慌ただしい空気が漂っていた。
門を開けろ。
王都が揺れたら。
その言葉が意味するところを考えれば、当然だった。けれど、ヴィンセントはいつもと変わらない。
「今日は庭へ行きましょう」
「……この状況で?」
「この状況だからです」
「事件の調査は?」
「部下がしています」
「わたくしも手伝えますわ」
「知っています」
「なら――」
「だから休んでください」
にこやかに遮られた。
「……本当に、あなたは頑固ですわね」
「あなたほどではありません」
庭へ出ると、秋の風が頬を撫でた。
少し冷たい。
けれど、その冷たさが頭を落ち着かせてくれる。テーブルには紅茶と小さな焼き菓子が用意されていた。
「またこれですか?」
「好きでしょう?」
「好きですけれど……」
「なら問題ありません」
ヴィンセントは満足そうに椅子へ座った。わたくしも向かいへ腰を下ろす。
「事件が片付いたら、何をしたいですか?」
突然の質問だった。
「事件が終わったら?」
「ええ」
「そうですね……」
少し考えてから答える。
「何も考えずに、一日中どこかを歩いてみたいですわ」
「それなら、朝から出かけましょう」
「そんなに早く?」
「では昼から」
「それでは半日しかありません」
「では一泊しましょう」
「……あなた、最初から旅行するつもりだったでしょう」
「ばれましたか」
笑い合う。
そんな何気ない時間が、今は何より心地よかった。そこへ一人の侍従が駆けてきた。
「ヴィンセント様!」
「どうしました?」
「例の帳簿について、新しい情報が」
差し出された紙を見て、ヴィンセントの表情が変わった。
「……王城北門」
「はい」
「やはり、そうか」
わたくしも紙を見る。そこには、旧備蓄路と北門を繋ぐ地下通路の記録があった。
「北門の地下に、古い搬入口があります」
「そこを使って何かを運び込むつもりだった?」
「おそらく」
「では、門を開けるというのは……」
「外から誰かを入れるためでしょう」
王都の外。
そこには隣国へ続く街道がある。
もし武装した人間が大量に入り込めば、王都は大混乱に陥る。そのために食料を買い占め、人々を不安にさせ、騒ぎを起こす。
そして、その混乱の中で門を開ける。ようやく事件の全体像が見え始めた。
けれど、まだ一つ足りない。
「誰が?」
わたくしが呟く。
「ええ」
ヴィンセントも頷く。
「実行する者は見えてきました。しかし、その命令を出している人物だけが、まだ見えません」
そこへ侍従がもう一枚の書類を差し出した。
「それと、こちらを」
ヴィンセントが目を通す。
そして、静かに息を吐いた。
「……これで繋がりました」
「何がです?」
「オルフェン伯爵へ資金を流していた人物です」
わたくしは書類を覗き込んだ。
そこに記されていた名前を見た瞬間、息が止まった。
「この名前……」
王都の大商会でもない。
軍人でもない。
ましてや隣国の人間でもない。それは、王宮に出入りすることを許された、とある高位貴族の名だった。
ヴィンセントが紙を閉じる。
「まだ断定はできません」
「ええ」
「ですが、これからは相手もこちらの動きに気づくでしょう」
胸に緊張が走る。
するとヴィンセントが、わたくしの手を取った。
「怖いですか?」
「……少し」
「なら、手を握っていてください」
指を絡める。
温かい。
「一人で立てなくてもいいんです」
彼は静かに言った。
「誰かの手を借りて立つことは、負けることではありません。人は一人で強くなるのではなく、支えてくれる人がいるからこそ、倒れてもまた立ち上がれるのだと思います」
その言葉を聞いて、胸の奥が熱くなる。
「……以前のわたくしなら、そんな考え方はできなかったでしょうね」
「今は?」
「今は――」
わたくしは彼の手を握り返した。
「あなたがいるなら、何度でも立ち上がれると思います」
ヴィンセントはしばらく黙っていた。
やがて、困ったように笑う。
「そんなことを言われると、ますますあなたを甘やかしたくなります」
「どうしてそうなりますの?」
「あなたが私を必要としてくれるのが、嬉しいからです」
その言葉は、思った以上に真っ直ぐだった。わたくしは少しだけ頬を赤くする。
「……では、もう一つお願いがあります」
「何でも」
「今日は、このお茶を飲み終わるまで仕事の話をしないでください」
「承知しました」
「本当に?」
「ええ。ただし、一つ条件があります」
「何ですの?」
「お茶を飲み終わったら、散歩に付き合ってください」
「それだけ?」
「それだけです」
わたくしは笑った。
「分かりました」
ヴィンセントも笑う。
王都のどこかでは、まだ事件が動いている。黒幕は、こちらが迫っていることに気づいているかもしれない。
それでも今だけは、焦らない。
事件を解決することも大切だ。
けれど、事件が終わったあとにも人生は続いていく。だからこそ、その先にある日々を守りたい。
わたくしは、隣で紅茶を飲む彼を見つめた。
かつてのわたくしは、未来を知ることができれば、何も恐れる必要はないと思っていた。
けれど今なら分かる。
未来を知ることよりも、知らない未来を誰と迎えるのかのほうが、ずっと大切なのだ。
「ヴィンセント」
「はい?」
「事件が終わったら、本当に旅行へ行きましょうね」
「もちろんです」
「約束ですよ」
「ええ。あなたとの約束なら、何年先でも覚えています」
そう言って笑う彼の隣で、わたくしも笑った。
そしてその日の夕方。
王都北門の地下で、白百合の印が刻まれた新たな扉が発見された。
その扉の向こうに何があるのか。
そして、この事件を十年以上前から動かしていた人物が誰なのか。
答えは、もうすぐそこまで来ていた。
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