第22話 誰よりも甘く、誰よりも優しい
その日の夜。
わたくしたちは、西区の古い倉庫へ向かった。
もちろん、正面から入るような真似はしない。
護衛を数名連れ、ヴィンセントが事前に手配した別の入口から建物へ入る。
昼間なら商人や荷馬車が行き交う場所も、夜になれば不気味なほど静かだった。
倉庫の中には、使われなくなった木箱が積まれている。
その一つに、例の白百合の印が刻まれていた。
「やはりここですわね」
「ええ」
ヴィンセントが箱を開ける。
中には何も入っていない。ただ、底板に小さな紙が貼りつけられており、そこには数字が三つだけ書かれていた。
「……帳簿と同じですわ」
「そうですね」
ヴィンセントは紙を手に取ると、地図と照らし合わせた。
「この数字は品物の数ではない。場所を示している」
「場所?」
「王都の古い区画番号です」
彼は地図上の三か所を指した。
西区。
南区。
そして、王城に近い北区。
「三つの倉庫が、すべて地下の旧備蓄路に繋がっています」
背筋に冷たいものが走った。
「では、食料を集めていたのは……」
「王都の流通を一時的に止め、旧備蓄路を使って別の場所へ移動させるためでしょう」
ヴィンセントの声は静かだった。
けれど、その目には鋭い光が宿っていた。
「つまり、食料不足そのものが目的ではない........何かを王都へ運び込むため?」
「あるいは、王都から運び出すため」
その瞬間、遠くから物音がした。
わたくしが振り向くより早く、ヴィンセントがわたくしの肩を引き寄せる。
「動かないで」
「ヴィンセント?」
「大丈夫です。私の後ろに」
声は穏やかだった。
けれど、わたくしを庇う姿には一切の迷いがない。
数秒後、別の入口から護衛が駆け込んできた。
「誰かが裏口から逃げました!」
「追ってください。ただし、一人で追わないように」
指示を出すヴィンセントの姿は、普段の柔らかな雰囲気とはまるで違っていた。冷静で、迷いがなく、何が起きても状況を見失わない。
その姿に、わたくしは思わず見惚れてしまう。
「……どうしました?」
「いえ」
「今、妙な顔をしていましたよ」
「妙な顔とは失礼ですわね」
「では、可愛い顔に訂正します」
「訂正になっていません!」
緊張していたはずなのに、思わず笑ってしまう。
ヴィンセントも少し笑った。
「そういう顔をしていてください」
「え?」
「怖いときに無理をして平気な顔をしなくていい。私がいるときくらいは、あなたの好きな顔をしていてください」
胸が、強く鳴った。
「……あなたは、そういうことを平然と言いますわね」
「あなたに安心してほしいだけですよ」
彼はそう言って、わたくしの手を握った。
そのときだった。
倉庫の奥から、別の護衛が声を上げる。
「こちらに扉があります!」
古びた床板の下から、地下へ続く階段が現れた。階段の壁にも、白百合の印が刻まれている。
ヴィンセントと顔を見合わせる。
「行きましょう」
「ええ」
階段を降りると、そこには古い地下通路が広がっていた。
壁には王家の紋章。
そして、その先には大量の木箱が並べられている。
ヴィンセントが一つを開けると、中に入っていたのは食料ではなかった。
「……武器?」
わたくしの声が震えた。
箱の中には、丁寧に布で包まれた短剣や弓、矢が収められている。さらに奥には、まだ開けられていない箱がいくつも並んでいた。
ヴィンセントの表情が変わる。
「これは、食料不足を利用した騒乱を起こす準備かもしれません」
「王都で暴動を起こして、その混乱に乗じて何かをする……?」
「おそらく」
けれど、彼はそこで言葉を止めた。
「ただ、一つだけ分からないことがあります」
「何ですの?」
「この計画には、妙なところがある」
ヴィンセントは地下通路の奥を見つめる。
「これだけ大規模な準備をしているのに、最終的な指示を出した人物の名前が一つも出てこない」
確かにそうだった。
商人。
倉庫。
資金。
食料。
武器。
それらは見つかった。けれど、その中心にいる人物だけが、どこにも存在しない。
そのとき、わたくしは理解した。
これは、ゲームの知識だけでは解決できない。この世界には、わたくしが知らない物語がある。そして、その物語の中で、わたくし自身が未来を選ばなければならない。
「……ヴィンセント」
「はい」
「少しだけ、怖いですわ」
正直に言うと、彼は何も言わずにわたくしを抱き寄せた。
強くではない。
ただ、ここにいると伝えるように。
「怖くていいんです」
「……」
「勇気というのは、怖くないことではありません。怖いままでも、大切なもののために一歩を踏み出せることだと私は思っています」
その言葉が、胸の奥に静かに落ちていく。
「だから、私はあなたの隣にいます」
わたくしは目を閉じ、彼の胸元に額を預けた。
「……では、もう一つお願いしても?」
「何でも」
「これからも、わたくしの隣にいてください」
「もちろんです」
返事は迷いなく、あまりにも早かった。
「むしろ、離れる理由が見つかりません」
わたくしは笑った。
こんな状況なのに。
こんな不穏な地下通路の中なのに。
なぜだか、心は不思議なほど穏やかだった。
事件はまだ終わっていない。
むしろ、今ようやく本当の入口に立ったばかりなのだろう。それでも、もう以前のように未来を恐れることはなかった。
未来は、誰かに決めてもらうものではない。
ましてや、知っている筋書きに従うものでもない。
誰と歩くのか。
何を守るのか。
そして、どんな未来を選ぶのか。
それを決めるのは、今ここにいるわたくしたち自身なのだから。
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