第20話 私はどこかの社畜なのでしょうか......?
白百合の印が記された帳簿を見つけてから数日。
王都では相変わらず小麦の価格が不安定な状態が続いていたものの、表立った混乱が起きるほどではなかった。
だからこそ、ヴィンセントは言った。
「今日は仕事をしません」
「……突然ですね」
朝食を終えたばかりのわたくしは、思わず手にしていた紅茶のカップを置いた。
向かいに座るヴィンセントは、いつものように落ち着いた顔をしている。けれど、その手元には仕事用の書類が一枚もない。
どうやら本気らしい。
「ここ数日、あなたは毎晩遅くまで帳簿を眺めていたでしょう。昨日など、寝室へ戻ったのは日付が変わる直前でした」
「それは事件が気になって……」
「事件は逃げません」
「ですが、犯人は逃げるかもしれませんわ」
「では、逃げる前に捕まえればいいだけです」
あまりにも当然のように言われて、わたくしは言葉を失った。
「……本当に、あなたは時々すごいことを簡単に言いますわね」
「あなたの前では、格好よくありたいので」
さらりと返され、今度こそ紅茶を吹き出しそうになった。
「ヴィンセント!」
「何か?」
「そういうところです!」
彼は楽しそうに笑う。
以前のわたくしなら、こんなふうに誰かとくだらない言い合いをする時間さえ惜しいと思っていただろう。
けれど最近は違う。仕事をしない時間が、少しずつ怖くなくなってきた。
「それで、今日はどちらへ?」
「秘密です」
「……わたくしをどこへ連れていくおつもりですの?」
「あなたが好きそうな場所です」
そう言って差し出された手を見て、わたくしは小さく笑った。
「では、信用します」
「その言葉を聞けただけで、今日はもう十分ですね」
馬車で連れてこられたのは、王都の外れにある小さな庭園だった。
観光地というほど有名ではない。けれど、季節の花が丁寧に手入れされ、中央には小さな噴水があり、ベンチの周囲には木漏れ日が落ちている。
人も少なく、風の音と鳥の声がよく聞こえた。
「……素敵ですわ」
「気に入っていただけましたか?」
「ええ。どうしてここを?」
「以前、あなたが『人の少ない庭園でゆっくり本を読みたい』と言っていたのを覚えていました」
わたくしは目を瞬いた。
そんなことを言ったのは、ずいぶん前だった気がする。
「……よく覚えていますわね」
「あなたの言葉なら、大抵のことは」
胸の奥が、じんわりと熱くなった。
ヴィンセントは何気なく言ったけれど、その一言が妙に心に残った。
ベンチに並んで座り、持ってきた菓子を食べながら本を開く。
しばらくは、事件の話を一切しなかった。
それが妙に心地よかった。
「こういう時間も、必要なのですね」
「ええ」
ヴィンセントは噴水を眺めながら、静かに言った。
「人は、何かを守るために生きていると、いつの間にか自分自身を守ることを忘れてしまいます。だから私は、あなたが守るべきものの中に、あなた自身も含めてほしいと思っています」
その言葉は、派手ではなかった。
けれど、わたくしには深く響いた。
「……わたくし自身も、守るべきもの」
「そうです」
「以前のわたくしなら、そんな考え方はしなかったでしょうね」
「だからこそ、今から変えていけばいい」
ヴィンセントの手が、ベンチの上でそっとわたくしの手に重なる。
指先が触れただけなのに、不思議と安心した。
「未来を変えるというのは、大きなことをすることだけではないのかもしれませんね」
「どういう意味です?」
「こうして誰かと笑う時間を選ぶことも、未来を変えることなのだと思います」
わたくしがそう言うと、ヴィンセントは少しだけ目を細めた。
「なら、今日という日は成功ですね」
「どうして?」
「あなたが笑っているので」
まただ。
この人は、本当にこういうことを平然と言う。けれど、不思議と嫌ではなかった。むしろ、もっと聞きたいと思ってしまう自分がいる。
庭園を出る頃には、空が少し赤く染まっていた。
帰り道、ヴィンセントがふと足を止める。
「そういえば、事件の件ですが」
「……やっぱり仕事をするのですね」
「少しだけです」
彼は懐から一枚の紙を取り出した。
「西区の倉庫を調べたところ、白百合の印が付いた木箱が見つかりました」
「木箱?」
「ええ。ただし、中身は空でした」
わたくしは首を傾げる。
「空なのに、なぜ重要なのです?」
「木箱そのものではありません」
ヴィンセントは紙に記された数字を指でなぞった。
「箱に刻まれていた数字が、先日の帳簿にあった数字と一致していたのです」
わたくしは息を呑んだ。
白百合の印。
帳簿。
倉庫。
そして数字。
ばらばらだったものが、少しずつ一本の線になり始めている。けれど、ヴィンセントは紙を折りたたむと、わたくしの前から隠すように懐へ戻した。
「続きは明日にしましょう」
「……気になりますわ」
「だからこそです。今日はもう十分働きました」
「あなた、こういうときだけ本当に容赦がありませんのね」
「あなたの健康に関してだけは、私はいくらでも嫌われ役になりますよ」
そう言って笑う彼を見て、わたくしも笑った。
事件は、まだ終わっていない。
けれど今は、それでいい。
隣にいてくれる人がいるなら、未知の未来も、以前ほど怖くはなかった。
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