第19話 未来よりも大切なものを知った日
事件の手がかりが一つに繋がったのは、その三日後だ。きっかけは、とても小さなものだった。
商会から提出された請求書。
そこに押された白百合の印。
その横に書かれた数字。
そして、古い帳簿に記された同じ数字。
どれも、それだけなら意味のないものだ。けれど、ヴィンセントは数字を日付としてではなく、倉庫番号として読み替えた。
「つまり、この数字は『どこへ運ぶか』を示していたのです」
執務室の机いっぱいに広げられた地図を見ながら、わたしは息を呑んだ。
「では、白百合は?」
「取引そのものを示す印でしょう」
「誰が命令したのかは?」
「まだ分かりません」
そこだけは、まだ霧の中だった。
けれど、少なくとも一つ分かったことがある。
食料を買い集めている商会は、それぞれ別々に動いているように見えて、実際には一つの指示系統で繋がっている。
しかも、運ばれた食料は王都の西側にある古い倉庫へ集められていた。
「ここですわね」
地図上の一点を指差す。
「ええ」
「この倉庫……以前は王家の管理下にあったのでは?」
「その通りです」
「では、なぜ今は商人が所有しているのです?」
ヴィンセントが一枚の書類を取り出した。
「数年前、王家が不要な土地を整理した際に売却されたようです」
「購入者は?」
「当時は小さな商人でした」
「今は?」
「大商会の代理人になっています」
わたしは思わず黙り込んだ。
ーー偶然ではない。
何年も前に土地を手に入れ、その場所を今になって使い始めた。
準備期間が長すぎる。
「……これは、単なる食料買い占めではありませんわ」
「ええ」
「もっと大きな何かの準備です」
「私もそう考えています」
ヴィンセントはそこで一度、言葉を止めた。
「ですが、今の段階で動けば相手に警戒される可能性があります」
「では、どうします?」
「もう少し泳がせます」
「危険では?」
「危険です」
即答だった。
「ですが、ここで焦って動けば、証拠を隠されるかもしれない。あなたも言っていたでしょう?」
「『答えを急がない』?」
「ええ」
ヴィンセントは微笑んだ。
「あなたは最近、随分と我慢強くなりましたね」
「誰のせいだと思っていますの?」
「私でしょうか」
「そうですわ」
思わず二人で笑う。事件の話をしているのに、不思議と苦しくなかった。以前なら、未知の未来を前にすれば、焦りばかりが募っていた。
今は違う。
分からないことを、分からないまま認められる。そして、誰かと一緒に考えられる。
それだけで、心はずっと軽かった。
「エヴァンジェリン」
「はい?」
ヴィンセントが、ふいにわたしの名前を呼んだ。
「この事件が終わったら、少し遠出をしませんか?」
「遠出?」
「ええ。王都を離れて、静かな場所へ」
「急にどうしましたの?」
「事件が終わったあと、あなたと何も考えずに過ごす時間が欲しくなったんです」
胸が温かくなる。
「……いいですわ」
「本当ですか?」
「ええ」
「では、どこへ行きましょうか」
「あなたが決めてください」
「分かりました」
彼は嬉しそうに笑った。
「では、私があなたに似合う場所を探します」
「どうして『似合う』という発想になるのです?」
「あなたと一緒に行く場所なら、あなたが気に入る場所であってほしいでしょう?」
その言葉が、心に残った。
場所を選ぶことさえ、彼にとっては「自分が行きたい場所」ではなく、「わたしと一緒に行くなら、わたしが喜ぶ場所」という基準になる。
そういうところが、ずるい。
「ヴィンセント........あなたは、いつもわたくしのことを優先しますわね」
「嫌ですか?」
「……いいえ」
むしろ、その逆だった。
自分を大切にしてくれる人がいる。そのことが、これほど心強いものだとは知らなかった。
「でも、あなた自身のことも大切にしてください」
「もちろんです」
「本当ですか?」
「ええ。あなたを大切にすることは、私自身を大切にすることでもありますから」
その言葉に、胸がいっぱいになった。
愛することは、自分を犠牲にすることではない。
相手を守るために、自分を消すことでもない。
互いに生きること。
互いに笑うこと。
そして、互いの未来を大切にすること。それが、本当の意味で誰かを愛するということなのかもしれない。
窓の外へ視線を向ける。
夕暮れの王都は、いつもと変わらず穏やかだった。人々が歩き、店が閉まり、家々に灯りがともっていく。
しかし、その平穏の裏側で、誰かが何かを企んでいる。けれど、わたしはもう以前ほど恐れていなかった。
未来は、決められた物語ではない。
たとえゲームに存在しなかった事件が起きても。
わたしの知らない敵が現れても。
そのたびに、自分たちで選んでいけばいい。
「……ヴィンセント」
「はい?」
「わたくし、今なら分かりますわ」
「何がです?」
「未来を知っていることが、未来を手に入れることではないのですね」
彼は黙って聞いている。
「未来を知らないからこそ、自分で選べる。誰と歩くのかも、何を守るのかも、どこへ行くのかも」
わたしは、そっと彼の手に自分の指を重ねた。
「だから――わたくしは、あなたと一緒に選びたいですわ」
ヴィンセントの表情が、ほんの一瞬だけ止まった。
そして、握り返される。
「……それは、私にとって何より嬉しい言葉です」
その声は、いつもの余裕ある声音より少しだけ低かった。
だからこそ、彼がどれほど喜んでいるのかが分かった。
事件はまだ終わっていない。
白百合の印の先に誰がいるのかも、まだ分からない。けれど、一つだけ確かなことがある。
わたしはもう、一人ではない。
そして――。
未来がどれほど予想外の形に変わっても、隣にいるこの人となら、その一つ一つを自分たちの物語に変えていける。
「ところで」
ヴィンセントが突然、真面目な顔で言った。
「遠出の日程ですが、明日から決めてもいいですか?」
「事件の調査より先に?」
「当然です」
「……あなた、本当にスパダリなのか、ただの旅行好きなのか分からなくなってきましたわ」
「あなたとの旅行なら、どちらでも構いません」
「もう……」
笑いながら呆れる。
その声が夕暮れの部屋に響いた。
白百合の謎は、まだ終わっていない。
けれど今は、それでいい。
未来は、まだ決まっていない。
だからこそ――。
わたしたちは、これから何度でも、自分たちの未来を選べるのだから。
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