第17話 事件の手掛かり
事件の手がかりが見つかった翌日、わたしは朝から少し落ち着かなかった。
机の上には、昨日見つかった帳簿の写しが置かれている。
白百合の印。
その隣に記された謎の数字。
そして、王都三日分の食料を確保したという記録。
どれも気になる。
気になるけれど――。
「本日は、事件について考えるのは禁止です」
朝食の席でそう宣言したヴィンセントに、わたしは思わず眉を寄せた。
「なぜですの?」
「昨日、寝る直前まで帳簿を見ていたでしょう」
「少し確認していただけですわ」
「『少し』と言いながら、同じページを三十分も眺めていましたよ」
「……見ていましたの?」
「隣にいましたから」
そう言って、ヴィンセントは涼しい顔で紅茶を飲んでいる。
「今日は王都へ出かけます」
「仕事ですか?」
「違います」
「では?」
「買い物です」
あまりにも堂々と言うものだから、わたしは一瞬返事を忘れた。
「買い物?」
「ええ。あなたが以前、気になっていた店があったでしょう」
「……覚えていたのですか?」
「もちろん」
最近、この人の「覚えています」が少し怖い。
わたしが何気なく口にしたことまで、まるで大切なもののように拾い上げてしまうのだ。
「事件の調査をするのでは?」
「調査は部下に任せています。私たちは私たちの時間を過ごしましょう」
「でも――」
「エヴァンジェリン」
名前を呼ばれただけで、言葉が止まった。
ヴィンセントは穏やかな目でこちらを見ている。
「あなたが何かを背負おうとするたびに、私はそれを取り上げたいわけではありません。ただ、あなたの人生が事件だけで埋まってしまうのは嫌なんです」
胸の奥が、静かに揺れた。
「……どうして、そこまでしてくださるのです?」
「好きな人には、できるだけ長く笑っていてほしいと思うのが普通ではありませんか?」
「そういうことを、朝食の席で平然と言わないでくださいませ」
「では、どこならいいんです?」
「そういう問題ではありません!」
わたしが頬を膨らませると、ヴィンセントは楽しそうに笑った。
結局、その日の午前中は王都の商業区を歩くことになった。
最初に立ち寄ったのは、以前訪れた菓子店だった。
店先には焼き立ての菓子が並び、甘い香りが漂っている。
「前回はこちらでしたね」
ヴィンセントが、わたしが以前選んだ菓子を指差した。
「よく覚えていますわね」
「あなたが嬉しそうに食べていたので」
「……食べているところまで覚えているのですか?」
「ええ」
「忘れてください」
「無理です」
「即答ですの?」
「あなたに関することは、忘れようと思っても難しいので」
さらりと言われ、わたしはそれ以上何も言えなくなった。
店を出たあと、次に向かったのは文具店だった。
わたしが便箋を選んでいる間、ヴィンセントは少し離れた棚を眺めていた。
そのときだった。
「……あら?」
店の奥に積まれた帳簿用紙が目に入った。
紙の端に、小さな印が押されている。
ーー白百合。
思わず足が止まった。
「ヴィンセント」
彼はすぐにこちらへ来た。
「どうしました?」
「この紙を見てください」
ヴィンセントが紙を手に取り、裏返す。
「……なるほど」
「気づきました?」
「ええ。この紙、例の商会が使っていた帳簿と同じ種類です」
「では、この店も関係しているのですか?」
「そこまでは分かりません」
彼は紙を眺めながら、少し考え込んだ。
「ですが、重要なことが分かりました」
「何ですの?」
「この白百合は、組織そのものを示す印ではなく、流通経路を示す印なのかもしれません」
「流通経路?」
「誰が誰へ商品を渡したか。それを記録するための目印です」
わたしは紙を見つめた。
もしそうなら、白百合は事件の犯人そのものを指しているわけではない。
もっと別の意味がある。
「では、あの数字は?」
「数字も同じでしょう」
ヴィンセントは紙を一枚購入すると、店を出てから小さく笑った。
「今日、ここへ来て正解でしたね」
「事件のために来たわけではありませんでしたけれど」
「ええ。だからこそ見つかったのでしょう」
わたしは首を傾げた。
「どういう意味ですの?」
「仕事として探していると、どうしても答えを急いでしまいます。けれど、何気なく歩いていると、普段なら見落とすものが見えることがある」
彼は少しだけ空を見上げた。
「答えは、必死に追いかけたときだけ見つかるとは限りません。時には立ち止まった人間のほうへ、向こうから近づいてくることもあります」
その言葉は、妙に心に残った。
「……深いことを言いますのね」
「たまには格好をつけないと、あなたにただの過保護だと思われそうなので」
「もう十分、過保護ですわ」
「それは残念です」
「褒めてはいません」
笑いながら歩いていると、ヴィンセントが突然立ち止まった。
「エヴァンジェリン」
「はい?」
「少しこちらへ」
彼の手が自然にわたしの肩へ伸び、道の端へ寄せられる。
直後、目の前を荷馬車が通り過ぎた。
「危ない……」
思わず呟くと、ヴィンセントは何でもないことのように笑った。
「大丈夫です」
「……あなたがいてくださると、本当に安心しますわ」
そう口にしてから、少し恥ずかしくなった。
けれど彼はからかわなかった。
「それなら、これからも隣にいます」
ただ、それだけを言った。
その言葉が、何より嬉しかった。
帰りの馬車の中で、わたしは買った紙を眺めていた。
白百合の印。
謎の数字。
そして、昨日の帳簿。
まだ何も解決していない。
けれど、少しずつ線が繋がり始めている。そして何より、わたしはもう焦っていなかった。
隣には、一緒に考えてくれる人がいる。
それだけで、未知の未来は以前ほど怖くなくなっていた。
「ヴィンセント」
「はい」
「次の休日も、どこかへ連れて行ってくださいな」
彼は一瞬だけ目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。
「もちろん。次はどこへ行きましょう?」
「考えておいてください」
「分かりました。では、あなたが喜びそうな場所を十個ほど――」
「十個も必要ありませんわ」
「では二十個」
「増えていますわよ!」
馬車の中に、二人の笑い声が響いた。
事件の影は、まだ遠くにある。
けれど今は、それよりも――。
次の休日を楽しみにしている自分の気持ちのほうが、ずっと大切だった。
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