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第16話 私の知らない一冊の帳簿....!?

 翌日から、わたしの日常は少しだけ変わった。


 表向きには何も変わらない。


 朝食を食べ、屋敷で仕事をし、午後にはヴィンセントと紅茶を飲む。


 時には庭を散歩し、くだらない話で笑う。


 けれど、その穏やかな時間の隙間に、必ず一つだけ「白百合」の存在が入り込むようになった。


 商会から届く書類。


 市場の価格。


 街道を通る荷馬車。


 倉庫の登記記録。


 どれも一見すれば何の変哲もない。


 けれど、ヴィンセントはそれらを一つずつ繋ぎ合わせていた。


 その姿を見ていると、改めて思う。


 この人は、本当に優秀なのだ。


 ただ頭が切れるだけではない。


 目の前にある数字の裏側にいる人間まで想像し、その人間が何を考えているのかを読み取ろうとする。


 そして何より――。


 わたしが見落としている小さな違和感を、決して見逃さない。


「エヴァンジェリン嬢」


「はい?」


「これを見てください」


 午後の執務室。


 ヴィンセントが一冊の古びた帳簿を机の上へ置いた。


「これは?」


「昨日、調査を頼んでいた商人の屋敷から見つかったものです」


「勝手に押収したのですか?」


「まさか。正式な許可を得ていますよ」


「……そこだけ聞くと、少し怖いですわ」


「私が犯罪者のように聞こえますね」


「言い方の問題です」


 苦笑しながら帳簿を開く。


 最初の数ページには、普通の取引記録が並んでいた。


 小麦。


 大麦。


 豆。


 保存食。


 どれも王都で扱われる一般的な商品だ。けれど、途中から記録の形式が変わっていた。


「……数量が多すぎますわ」


「ええ」


 ヴィンセントが指で示した数字を見て、わたしは眉を寄せた。


「この量、一つの商会が保有するには多すぎません?」


「だから問題なんです」


 しかも、奇妙なことに購入先の名前がほとんど残されていない。


 代わりに、ページの隅に小さな印が押されていた。


 白百合。


 胸がざわついた。


「これ……」


「ええ」


「やはり、この印が関係している」


「少なくとも、偶然ではないでしょう」


 ページをめくる。


 すると、最後のほうに妙な記述があった。


 日付。


 数量。


 そして、その横に短い一文。


『王都三日分を確保』


 その下には、さらに別の日付と数字。


『第二倉庫へ移送』


 わたしは息を呑んだ。


「……これ」


「ええ」


「王都の食料を意図的に減らしていた?」


「正確には、減らす準備をしていた可能性があります」


 ヴィンセントは帳簿を閉じなかった。


「まだ市場から完全に消えてはいません。ですが、これだけの量が流通から外されれば、何か一つ大きな出来事が起きた瞬間、王都の食料価格は一気に跳ね上がるでしょう」


「つまり、事件そのものを起こすのではなく、事件が起きたときに混乱が拡大するよう準備している」


「その可能性が高いです」


 胸の奥が冷たくなった。


 そして同時に、別の疑問が浮かぶ。


「でも、なぜそこまでして食料を?」


 ヴィンセントはしばらく考え込んだ。


「人間は、空腹になると冷静さを失います」


 静かな声だった。


「税金を上げられても我慢する人間はいます。仕事を失っても耐える人間もいる。でも、自分や家族が食べられないとなれば話は別です。だから食料は、政治よりも人間の感情に直接触れる」


 その言葉を聞いて、わたしは思わず帳簿を見つめた。


「……つまり、この帳簿は食料の記録ではなく、人の感情を動かすための計画書なのですね」


「そう考えると、かなり筋が通ります」


 ヴィンセントはそこで一度言葉を止めた。


「ただし、まだ一つ分からないことがあります」


「何ですの?」


「誰が、この計画を立てているのか」


 その瞬間、部屋の外からノックが響いた。


「失礼いたします」


 入ってきたのはヴィンセントの部下だった。


「新しい報告が入りました」


「聞こう」


「例の西側の倉庫ですが、昨日の夜に複数の荷馬車が出入りしていたことが確認されました」


「中身は?」


「確認できていません。ただ――」


 男が一枚の紙を差し出す。


「荷馬車の一台に、この印があったそうです」


 紙に描かれていたのは。


 白百合。


 そして、その下に見慣れない数字が一つ。


「……数字?」


 わたしが首を傾げると、ヴィンセントが紙を受け取った。


「これは、おそらく日付ではありません」


「では?」


「合図でしょう」


 彼の目が鋭くなる。


「この数字が、帳簿の中に何度も出ています」


 帳簿を開き直す。


 確かに。


 同じ数字が、複数のページに記されていた。


 白百合の印と一緒に。


「この数字を追えば、誰が指示を出しているのか分かるかもしれません」


「……では、次はそこを調べるのですね」


「ええ」


 ヴィンセントは頷いた。


 けれど、次の瞬間、彼は帳簿を閉じた。


「ただし、今日はここまでです」


「え?」


「あなたはもう十分働きました」


「今、この流れで?」


「この流れだからこそです」


「せっかく手がかりが見つかったのに?」


「だからこそ、頭を休ませてください」


 あまりにも真剣な顔で言うものだから、わたしは呆れてしまった。


「あなた、本当にわたくしを仕事から遠ざけたいのですね」


「ええ」


「事件の解決よりも?」


「あなたが倒れることを防ぐほうが、私にとっては優先順位が高いです」


 迷いのない言葉だった。


 思わず笑ってしまう。


「……本当に、スパダリという言葉をそのまま人間にしたような方ですわね」


「何ですか、それ?」


「気にしないでください」


「気になります」


「秘密です」


 わたしが笑うと、ヴィンセントも笑った。


 事件はまだ終わっていない。むしろ、ようやく入口に立ったところなのだろう。


 白百合の印。


 謎の数字。


 流通から消えた大量の食料。


 そして、その背後にいる誰か。


 けれど、不思議と焦りはなかった。


 以前のわたしなら、「未来を知っている自分が何とかしなければ」と考えていただろう。


 今は違う。


 知らないからこそ、調べればいい。


 一人では分からないなら、誰かと考えればいい。未来は、最初から答えが書かれているものではない。自分たちで一つずつ選びながら、辿り着いていくものなのだから。


「ヴィンセント」


「はい?」


「この事件、必ず解決しましょう」


 彼は一瞬だけ驚いたように目を見開き、それから柔らかく笑った。


「もちろんです」


 そして、ほんの少しだけ声を落とす。


「あなたが隣にいてくださるなら、私は何度でも未知の未来へ進めますよ」


 胸の奥が温かくなる。


 事件の謎は、まだ何一つ解けていない。


 それでも――。


 わたしにはもう、未来を恐れる理由が一つ減っていた。


 分からない未来なら、二人で探せばいい。


 その答えを見つけるまで、手を離さなければいいのだから。

 最後まで読んでいただき、ありがとうございます!


 もし少しでもスカッとしたり、ニヤッとしたりしていただけましたら、評価ポイントとブックマークをいただけると、次の話を書く一番の励みになります!

 

 まだまだ書きたいことがございますので、よろしければ作者フォローもしていただけると幸いです!


 それでは、また次のお話でお会いしましょう!

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