ヴェステラへの帰路(前編)
夜風が、潮の香りを運んでくる。
港路を戻りながら、加賀谷はさっきの会談を頭の中で反芻していた。
――“婚姻”という単語を皮切りに始まった、あの帝国皇女・セレスティアの提案。
建前は婚姻。だが実態は、帝国内部の覇権争いへの「外圧」と「切り札」として、
自分と、そして自由都市ヴェステラを組み込みたいという、極めて現実的な政治取引。
(……王の器じゃない、か)
そう言われて、腹は立たなかった。むしろ痛快だった。
自分を見誤る者の多いこの世界で、的確に評価し、利用価値を見いだした上で声をかけてくる。
彼女が恐ろしいのは、知略や肩書きではなく、その“直感と即断”の鋭さだ。
(でも──あれは、毒にも薬にもなる)
表面的には軽口を交えた駆け引きだが、内包する力はまぎれもなく「帝国の地殻変動」だ。
……共栄連合の発足から、まだ数か月。
ヴェステラを起点とした新しい経済圏は、ようやく形を成しはじめたばかり。
帝国を取り巻く周辺諸国は、未だに力で領土を奪い合い、古い覇権をなぞるばかりだ。
そのなかで、「交易で富を、信用で秩序を築く」という理念が、果たしてどこまで通じるのか。
(……でも、始まっている)
投資議会は、すでに半数以上の議席を埋めていた。
レーナ連邦、砂漠のキャラバン国家、沿岸の港湾都市、古いギルド連合――
(確か、五十の都市と国家が参入を表明していたな)
昨日の別れ際、かねてより依頼していた件についてレオンから"報告"があった。
「それはそうと、合意を得た都市が五十を超えた。お前の描いた“共栄連合”構想、ちゃんと現実になってきてるぞ。あんたのとこの宰相殿にも報告済みだ。例の議場、そろそろ本格的に回す準備に入る。」
「あと、“金の話”をしに来たギルドもぼちぼち増えてる。なかには、帝国と微妙な距離感の奴らもいてな……そういう意味でも、次の一手は慎重にな。」
……いまやレオンは本業の傍ら“投資の伝道者”として各地を飛び回っている。
「五十か……上出来すぎるな」
あの男に任せて正解だった。何より、“まだ半分”とも受け取れる口ぶりが、加賀谷にとっては何より頼もしかった。
帝国の皇女に政略結婚を持ちかけられたばかりの頭には、さすがにまだモヤが残っていた。だがこの思索で、再び地に足がついた感覚を取り戻す。
「……戻るか、ヴェステラ」
そう呟いきながら宿に戻ると寝台のジルが寝返りを打ったが、まだ意識は遠いようだった。
加賀谷は静かに立ち上がり、窓を開ける。
港の夜風が、遠く自由都市から吹いてくるように感じた。
(ま、あいつのいる場は退屈しないってだけでも……助かってる)
加賀谷はベッドのそばを静かに通り抜け、部屋の隅の机に向かう。
月は高く、街は寝静まっている。
けれど、加賀谷の頭のなかでは、さっき交わされた言葉がまだ冷めていなかった。
帝国皇女・セレスティアの“提案”。
そして、彼女の背後にある、裂け始めた巨大国家の継承戦。
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★あとがき
帝国を見返すことから始まった物語。
けれどその帝国も、実のところ一枚岩ではない。
覇権を争う兄たち、軍略で王をも翻弄する異邦の勇者。
そして表舞台を避ける末弟に、静かに爪を研ぐ“姫”。
それぞれが、それぞれの“帝国”を見ている。
もはやこの大国は、誰かひとりの手に収まる器ではないのかもしれない。
──ならば、どう生き残るか。どう仕掛けるか。
生き残るのは“正義”ではなく、“冷静な現実主義”なのだから。
次節、加賀谷は再び選択を迫られる。
その手紙が、すべての引き金になる。




