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第9話 学生気分

9-1


 治牧での成果報告会から戻り、新しい週を迎えた月曜日の朝。

 出勤して執務室の自分のデスクの前に立ったオレは、その場に立ち尽くすことになった。


 「……なんだ、これは」


 デスクの上には、見たこともないクリアファイルや書類の山が、まるで不吉なタワーのように整然と並べられていた。どれもこれも、オレが先週治牧へ出張する前には影も形もなかった代物だ。もちろん、自分が抱えているタスクのどれとも一致しない。

 呆然とそれを見つめていると、後ろから足音が近づいてきた。 給湯室から湯気を立てるマグカップを手にした工藤が歩いてきて、自分の席に腰を下ろすと、冷ややかに横目を出してきた。


 「おはよう、桜律くん」

 「……おはよう、工藤。……この書類の山は一体なんなんだ?」

 「あなたが治牧へ出張している間に、飯田くんたちが『桜律は出張で暇そうだから、帰ってきたらこれくらいやってくれるだろ』と言って、あなたのデスクへ丸投げしていったものよ」


 工藤は淡々とコーヒーを一口すすると、キーボードに手を置いた。


 (ふざけるなよ……マジかよ)


 出張前のくじ引きの際、工藤が「あなたが留守にしている間に未処理タスクが溜まっても、手伝わないから」と言っていたのはこういうことだったのかと合点がいった。不在の席に勝手に自分の仕事を押し付けるのは、去年の夏にも発生したこの部署の伝統芸能みたいなものだ。胸の奥で湧き上がる苛立ちを抑え込みながら、オレは執務室を見回した。 部屋の反対側では、飯田、田辺、山彦たちが輪になって、楽しそうに爆笑しながら週末の遊びの話で盛り上がっている。


 「……おい、飯田」


 オレはいつもの淡々とした口調を保ったまま、彼らの方へ足を進めようとした。


 ――その時だった。


 ッバァン!!!!


 執務室の静寂を切り裂くように、重く鋭い打撃音が響き渡った。

 驚いて音のした方へ目をやると、部屋の角にあるデスクで寒川が猛烈な勢いでノートパソコンのエンターキーを叩きつけたところだった。寒川の肩は怒りで激しく上下しており、その周りに漂う空気は目に見えて刺々しい。


 その瞬間、あれほど賑やかだった執務室が一瞬で静まり返り、凍りついた。 飯田たちの能天気な笑い声もピタリと止まり、全員が引きつった顔で寒川の様子を伺っている。


 「……」


 工藤だけは、その音など最初から聞こえていなかったかのように、無表情のまま画面に向かって規則的なタイピング音を打ち続けていた。

 同期たちは居心地の悪そうな顔でお互いに目配せをし合うと、コソコソと声のトーンを落とし、慌てて自分の席へと戻ってそれぞれの作業をするフリを始め出した。

 オレは飯田たちを問い詰めるタイミングを完全に逃し、一度自分の席へと引き返すしかなかった。デスクの上に積まれた見に覚えのない書類の山を一度睨みつけ、深くため息をついた。


9-2


 昼休みになり、オレは書類の整理を一度中断して、一人で庁舎のカフェテリアへ向かおうと執務室を出た。

 渡り廊下を歩いていると、後ろから軽やかな足音が追いかけてきた。


 「あ、桜律君! ちょっと待って!」


 振り向くと、国宮がパッと華やかな笑顔を浮かべて立っていた。


 「これからお昼? もしよかったら、一緒にカフェテリアで食べない?」

 「国宮か。……ああ、構わないが」

 「やった! じゃあ行こ!」


 国宮と並んで廊下を歩き始めると、背後からじっと刺さる視線を感じた。ちらりと振り返ると、執務室のドアの陰から田辺と飯田がこちらを覗き込んでおり、睨みつけてきていた。


 (……なんなんだよ、あいつらは)


 出張中の仕事を押し付けておいて、この言い知れぬウザさは何なのだろう。オレが若干肩身の狭そうな視線を向けていると、隣を歩いていた国宮がその視線に気づいたのか、クルリと後ろを振り返った。


 「あ、田辺くんたちー! お昼〜?」


 国宮が笑顔で手を振ると、ニヤニヤとした不快な笑みを浮かべていた田辺たちはビクッと肩を跳ねさせ、慌てて陰へと隠れていった。


 「なんだか元気だね〜」


 国宮は気にした風もなくクスクスと笑うと、そのままオレと一緒にカフェテリアへ入った。それぞれトレーを受け取り、日替わり定食の食券を買って奥のテーブル席に着いた。

 箸を割り、スープを一口飲んだところで、国宮が少し声を潜めてオレに身を乗り出してきた。


 「ねえ、桜律君。さっき執務室で寒川さんがエンターキー凄く強く叩いてたでしょ? ……あの理由、知ってる?」

 「いや、治牧から帰ってきたばかりだから何も知らない。何かあったのか?」

 「実はね……桜律君たちが治牧に行ってる間に、工藤さんと寒川さんの間でちょっと一悶着あったの」


 国宮が教えてくれた内容はこうだった。

先週の昼休み、寒川や下北沢たちが外へ外食に出ていて執務室を空けていた時間帯のこと。一人でデスクでお弁当を食べていた工藤の席の近くで、固定電話が鳴り響いた。誰かが出る気配もなかったため、工藤が電話に出ると、相手は特総課が進めているプロジェクトの外部関係者だったという。


 『あの、寒川さんに何度連絡しても進捗の報告が来ないのですが、現在どこまで進んでいるか教えていただけますか?』


 そう尋ねられた工藤は、関係するプロジェクトの共有ファイルや進行状況のデータをシステムで確認し、その事実をそのまま電話の相手に伝えた。


 『データを確認しましたが、この案件は現在、何の進捗もありません。作業は一切進行していません』


 先方は『えっ!? 寒川さんからは順調に進んでいると聞いていたのですが……』と驚愕し、パニックになったそうだ。

 その後、外食から戻ってきて電話の話を知った寒川は激怒。 『なんで余計なことを外部に言うのよ! こっちの都合もあるのに!』と工藤に詰め寄ったが、工藤は『事実を正確に伝えただけよ。虚偽の報告で先方を混乱させているのはあなたの方でしょう』と氷のような声で返し、完全に一蹴した。

 プロジェクトの進捗をごまかしていた寒川は、関係者の前で完全にメンツを潰される形となったのだった。


 「……なるほどな。だからあんなにピリついていたのか」

 「そうなの。それでね、今までも寒川さんと工藤さんって冷戦状態だったじゃない? でも今回ので完全になっちゃって……寒川さん、裏で女子たちや男子たちに『工藤さんとは絶対に口をきかないように』って、完全な孤立方針を進めてるみたいなの」


 国宮は困ったように眉を下げて溜め息をついた。


 「さっきも桜律君が帰ってきた時、寒川さんたちが『桜律君にも釘を刺しておいて』って私に言ってきたんだよね。桜律君、工藤さんの隣の席だからさ」

 「オレにも関わるな、と?」

 「うん。……私としてはね、誰かをハブったり仲間外れにするのって絶対に良くないと思うの。みんなで仲良く助け合うべきだと思う。……でも、寒川さんたちを正面から突っぱねて、雰囲気を悪くするのも違う気がしてさ……」


 国宮は言葉を濁しながら苦笑いを浮かべた。


 「分かった。教えてくれてありがとう、国宮」


 オレは定食のハンバーグを口に運びながら言った。


 「オレも別にトラブルを起こしたいわけじゃないからな。寒川の前ではできる限り工藤と話さないように気をつけるよ」

 「ごめんね、面倒なこと言っちゃって。桜律君が大人で助かったよ」


 国宮はホッとしたように胸を撫で下ろした。

 ふと、オレの頭に一つの疑問が浮かんだ。


 「そういえば、柊はどうなんだ? 柊もそのことを知ってるのか?」

 「え?」

 「柊は部署のリーダー的な立ち位置だろ。寒川が工藤を孤立させようとしてることについて、何か言ったりしてないのか?」


 オレが尋ねると、国宮は一瞬だけ言葉を詰まらせ、それから少し不思議そうな顔をした。


 「……柊くんは、特に何も言ってないよ? 寒川さんも、柊くんの前では普通に優しく振る舞ってるし……」

 「そうか」


 オレはそれ以上追求しなかった。 柊がどう認知しているのか、寒川が柊の前でどう立ち回っているのか。観測できる事実以上のことを考えても意味はない。


 「よし、冷めないうちに食べよう」


 オレたちはそれ以上その話題には触れず、他愛もない会話をしながら昼食を終えた。


9-3


 三月。暦の上では春に差し掛かる時期だが、夜の空気はまだ冬の冷たさを色濃く残していた。

 深夜1時過ぎ。自分のアパートの部屋で、オレはパジャマに着替え、布団に入ってぼんやりとスマホを眺めていた。明日はせっかくの休日だ。心ゆくまで泥のように眠ろうと、部屋の電気を消したその瞬間だった。


 ピコン! ピコン! ピコン!


 静まり返った部屋に、スマホの通知音がけたたましく鳴り響いた。 画面を見ると、トークアプリで山彦からメッセージが連投されていた。


 『桜律!! 緊急事態発生!! 今すぐ起きてくれ!!』 『超ヤバい!! まじで助けてくれ!!』


 オレは眉をひそめ、起き上がって返信を打った。


 『どうした。パジャマ着て寝るところなんだが』

 『理由を聞いてる暇はない!! 今すぐ指定する場所に来てくれ!!』


 地図のピンが送られてくる。ここから数キロ離れた、幹線道路沿いのコインパーキングだった。


 『電車はもう終電が終わってる。無理だ、行けない』

 『頼むから徒歩で来てくれ!!! まじで頼む!!! 徒歩で!!!』


 そこから先は、連打される「祈るスタンプ」と「土下座スタンプ」の嵐だった。画面がスタンプで埋め尽くされていく。


 (……嫌な予感しかしない)


 このまま無視して寝てしまおうかとも思いた。だが、この勢いだと朝まで通知を鳴らされ続けそうな気もした。オレは重い溜め息をつき、着かけのパジャマを脱いで、防寒着を羽織った。


 暗く冷え切った夜道を、一人で黙々と歩く。 息を吐くと白い煙が夜空に消えていく。なんで休日の前日の深夜に、わざわざ歩いて呼び出されなければならないのか。苛立ちと寒さで体が震えた。

 五十分ほど歩き、指定されたコインパーキングに到着した。

 そこには、夜の街灯の下で異彩を放つ、一台の大型高級ミニバンが停まっていた。ピカピカに磨かれた黒塗りの車体が、寒空の下でギラギラと光っている。

 スマホを取り出し、『着いたぞ』とメッセージを送る。


 すると、ミニバンの後部スライドドアがウィーンと音を立てて開いた。

 中からゆらりと現れたのは、顔を真っ赤に熟れさせた飯田だった。車内から溢れ出てくる強烈な酒とタバコの臭いに、オレは思わず一歩後退した。


 「う〜い……桜律ぅ〜? お前、来るの遅いぞぉ〜」


 ろれつの回っていない、酷く酒臭い口調で飯田が言った。


 「……飯田。山彦に呼び出されてきたんだが、一体なんの用だ」


 オレが冷ややかに問うと、飯田はヘラヘラと笑いながら車の運転席を指さした。


 「いやさぁ〜……今夜、みんなで飲み会だったんだけどさぁ……駿河屋の奴がさ、この超高級ミニバン乗って集まりに来てたのを忘れててさぁ〜……調子乗って酒ガバガバ飲んで、今爆睡してんのよ〜」

 「……は?」

 (オレは呼ばれてないんだが……!?)

 「でさぁ、駿河屋が起きないし、俺たちも全員ベロベロで運転できないじゃん? だからさぁ〜、酒飲んでない桜律を呼んで、みんなの家までこの車を運転させて連れて行ってもらおうと思ってさぁ!」


 あまりにも身勝手でやりたい放題な理由に、オレは呆れを通り越して言葉を失った。

 自分たちで飲酒運転ができないからと、深夜に徒歩でわざわざ呼び出し、運転手代わりに使おうというのだ。


 (このまま放置して帰ってやろうか)


 本気で踵を返して帰路につこうとした。だが、車内を覗き込むと、さらに絶望的な光景が広がっていた。

 後部座席には呼び出した山彦、そして車の持ち主である駿河屋が爆睡している。さらにその奥には、田辺、佐川、曽根崎、そして雪森の姿があった。

 定員ギリギリまでぎゅうぎゅうに詰め込まれた同期の男子六人。そこに飯田とオレも座ることになる。全員がベロベロに酔っ払っており、車内はサウナのように酒臭い熱気が充満していた。

 ここでオレが帰れば、こいつらはこの車内で朝まで放置されるか、最悪の場合、誰かが酔った勢いでハンドルを握って事故を起こすかもしれない。そうなれば特総課全体の問題に発展し、結局自分にも火の粉が降りかかってくる。


 「……はぁ」


 オレは腹の底から溜め息を吐き出すと、感情を殺して運転席のドアを開けた。


 「全員、シートベルト締めろ。駿河屋の家はどこだ」

 「よっ! 頼もしい〜! 桜律サマサマだぜぇ〜!」


 飯田が能天気に叫びながら後部座席になだれ込む。 運転席に乗り込み、エンジンをかける。駿河屋のナビに自宅のアドレスを入力すると、ここからかなり離れた高級住宅街が目的地にセットされた。

 車を出発させる。 それにしても、車内の酒臭さと熱気が酷すぎた。オレはたまらず、運転席と助手席の窓を少し開けた。

 ヒュッと、真冬の冷たい夜風が車内に吹き込んでくる。


 「うおっ!? 桜律、寒いって! なんで窓開けてんだよ!」


 後ろから山彦が文句を言ってきた。


 「酒臭くて目が痛いんだよ。我慢しろ」

 「え〜? 俺たち酒で体が火照ってるからさぁ、これくらい涼しくて気持ちいいぜ〜!」


 田辺が呑気な声を上げる。


 (お前らはよくても、オレは寒くて死にそうなんだよ……)


 暖房をつけつつも、窓からの冷気でオレの手足は冷たくなり、内心でガクガクと震えそうだった。

 途中、あまりの寒さと疲労に耐えかね、オレは沿道の24時間営業のコンビニの駐車場に車を停めた。


 「ちょっと待ってろ。ホットコーヒー買ってくる」

 「お〜、買ってこい買ってこい〜」


 車を降り、暖房の効いた店内で暖かい缶コーヒーを買い、自分用に熱いブラックコーヒーを一飲みにした。少しだけ人心地がついた心地がした。

 缶コーヒーを何本か買い込んで車に戻ると――後部座席は静まり返っていた。


「……全員寝たか」


 あれほど騒がしかった飯田も山彦も田辺も、全員が限界を迎えて爆睡していた。車内には、静かに車のラジオニュースの音だけが響いている。

 オレは静かにアクセルを踏み込み、夜の幹線道路を滑るように走らせた。

 ラジオのスピーカーからは、アナウンサーの落ち着いた声が流れていた。


 『――続いてのニュースです。新政権は本日夕方、国会において注目されていた「特総課スコアボード関連法案」および来年度予算案を強行採決にて可決・成立させました。これにより、全国の特総課における業務評価および成果の可視化制度が、いよいよ来月四月一日より施行される見通しとなりました』

 『また、メガロポリス計画の各都市におけるGPCIスコアの最新状況が発表されました。独自の先進施策を進める治牧が驚異的な成長を維持する一方で、他の四都市においてはスコアの低迷が続いており、新制度導入後の予算配分に大きな影響が出るとみられています――』


 深夜の静かな車内に、淡々と流れる政治と制度のニュース。


 (スコアボード法案成立……来月四月から施行か)


 バックミラーを見ると、後ろで口を開けて間抜けな寝顔を晒している同僚たちが映っていた。

 こいつらは明日も、来月も、こうして能天気に騒ぎ、膨大な予算を使い込み、後先考えずにアイディアを散らかし続けるのだろう。そしてオレは、与えられた事務作業をこなし、毎月の給料をもらう。

 ラジオから流れるニュースの言葉は、どこか遠い世界の出来事のように思えた。


 それから一時間以上かけて、オレは寝ている六人を一人ずつ、それぞれの立派な自宅の前まで送り届けて降ろしていった。

 最後に残ったのは、車の持ち主である駿河屋だった。 彼の大邸宅の車庫に慎重にミニバンを収め、エンジンを止める。


 「おい、駿河屋。着いたぞ。起きろ」


 後部座席で爆睡している駿河屋の肩を揺さぶると、駿河屋は重い瞼をうっすらと開け、血走った目でオレを睨みつけてきた。


 「……ああん? なんだお前……誰だ俺に向かって気安く触ってんじゃねえよブチ殺すぞ……!」


 理不尽きわまりないブチギレ声を上げながら、駿河屋はふらふらと車を降り、千鳥足で自分の家の玄関へと消えていった。


 「……」


 一人取り残された静かな車庫。 オレはキーを所定の場所に置き、車庫のシャッターを静かに閉めた。

 東の空が、うっすらと白み始めていた。 あまりにも理不尽で無意味な徒労感に包まれながら、オレは冷え切った早朝の街を、自分の家に向かってトボトボと歩き始めた。

 せっかくの休日が、完全に潰れようとしていた。

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