第10話 砂状の楽園
10-1
三月三十一日。新年度を明日に控えた年度末の最終出勤日。
いつものように庁舎へ出勤し、執務室の重いドアを開けたオレは、入った瞬間に妙な違和感を覚えた。
「……なんだ?」
部屋の奥、先輩職員たちが席を並べていたエリアが、ぽっかりと空洞になっていた。デスクや椅子、パソコンはもちろん、パーテーションや資料棚に至るまで、綺麗さっぱり消え去っていたのだ。
「あれ〜? 先輩たちのデスク、なくなってないか?」
後ろから入ってきた飯田が、首をかしげながら呑気な声を上げた。
「なんだよ、新年度に合わせてレイアウト変更の掃除でもしてんじゃねえの? 業者が夜のうちに持っていったんだろ」
田辺がカバンを自分のデスクに放り投げ、欠伸をしながら言った。山彦は「夜逃げかもな」とふざけている。
先輩たち五人の姿はどこにもなかったが、いつものように適当な理由で納得した同期たちは、気にする風もなく自分の席に着いて作業を始めようとしていた。
その時だった。
カタッ……
執務室の大きな窓ガラスの向こうから、かすかな音が聞こえた。 誰からともなく一斉に窓の方へ視線が向かう。
高層階にある執務室の窓枠の外側、わずかな出っ張りに、一匹の猫がちょこんと座っていた。灰色の毛並みに綺麗なサバ模様が入った、どこにでもいそうな小柄な野良猫だった。
「うわ、猫だ!」「マジで? なんでこんな高いところにいるの!?」 「やばい、超かわいい! 窓開けてみようよ!」
女子職員たちが一斉に歓声を上げ、前屈みになった。 山彦が嬉しそうに顔を綻ばせながら、窓の鍵を解除してサッシをスライドさせた。
「おーい、おいでー! 落ちたら危ないぞ〜」
山彦が身を乗り出して手を伸ばそうとした、その瞬間だった。
猫の小さな口が、すっと開いた。
『初めまして、特別総合課のみなさん』
――人間にそっくりの、低く淡々とした男の声が、窓から吹き込む風に乗って執務室全体に響き渡った。
「…………え?」
山彦の動きがピタリと止まった。 それまで賑やかだった執務室から、一瞬で一切の音が消え去った。
猫は黄色い瞳でオレたちをじっと見回すと、喉を鳴らすこともなく言葉を続けた。
『ワタシはサバキネコと申します。以後お見知りおきを』
次の瞬間――。
「ギャハハハハ! やばい! なにこれ!!」 「マイクか何かが仕込まれてんの!? 先輩たちのエイプリルフール前日ドッキリでしょこれ!?」
田辺や飯田たちが腹を抱えて爆笑し始めた。女子たちも「なんだ〜、びっくりした〜! クオリティ高い〜!」と笑顔を取り戻し、拍手を送り始める。
「おいおいサバキネコちゃん、どこに仕込みカメラがあんの?」
山彦が笑いながら、窓枠の猫の頭を撫でようと再び手を伸ばした。
その時、猫――サバキネコは、残像が残るほどの驚異的な軽やかさで跳躍した。
山彦の手を軽々とすり抜け、執務室の中央に立つ巨大な資料用スチールラックの最上段へと着地した。部屋全体を見下ろせる、最も高い場所だ。
『ふむ。ドッキリだと思われているなら話が早い。早速ですが、四月一日からの新しい決定事項をお伝えに参りました』
サバキネコは前脚を揃えて座り直し、機械のような無感情な声で言った。
『ワタシは本日付で、ここ澪標における特別総合課の「監督者」に就任いたしました。まずは、昨年度の収支結果報告からです。……昨年度、我が澪標の特総課が出した財政赤字は、5000億円に達しました』
「……は?」
田辺の笑い声が途切れた。
『そして、国会で成立いたしましたGPCI連動式予算ルールに基づき、今年度――つまり明日からの我が特総課の年間予算は、前年の一律1兆円から94%カットの、600億円に決定いたしました』
執務室の温度が、一気に数度下がったような錯覚を覚えた。
『ちなみに、この澪標の都市財政および特総課の最低限の維持・事業運営に必要な年間コストは、最低でも1200億円です。つまり、今年度は何もしなくても、毎年600億円の赤字が自動的に確定いたします。昨年度の赤字と合わせますと、現在合計5600億円の赤字を抱えている状態となります』
淡々と告げられる数字の羅列。
さっきまでヘラヘラと笑っていた男子たちの顔から、みるみるうちに血の気が引いていった。可愛いとニコニコしていた女子職員たちも、口を開けたまま血相を変えている。
「ちょ、ちょっと待てよ! なんだよそれ! 冗談だろ!?」
山彦が叫んだ。
『冗談ではありません。すべて公式な行政決定事項です』
「六百億ってなんだよ! 去年一兆円あったんだぞ!? それじゃ俺たちのテーマパークも、サーキットも、新規の事業も全部ストップじゃねえか!!」
田辺がデスクを叩いて身を乗り出す。
『その通りです。予算が足りないのですから、未着手の新規事業はすべて凍結、継続中の事業も大幅縮小となります』
サバキネコはスチールラックから滑らかに飛び降りると、壁際のホワイトボードの前へと移動した。設置されていたマーカーを口で咥え、見事な器用さでホワイトボードに図と文字を書き始めていく。
『こちらをご覧ください。メガロポリス計画における5都市のGPCI推移、および評価六項目――【経済】【交通】【R&D】【文化】【居住】【環境】の内訳です』
ホワイトボードに描かれたのは、昨日のラジオニュースや前回の報告会で提示された通りの絶望的なグラフだった。
『他都市……特に治牧が圧倒的なスコアを叩き出している一方で、我が澪標はすべての項目において数値を下落させました。GPCI連動型予算とは、成果を上げた都市に集中して資金を投下する仕組みです。成果を出せなかった都市の予算が削られるのは、当然の理屈と言えます』
「ふざけんなよ!!」
駿河屋が椅子を蹴り飛ばして立ち上がった。
「俺たちがどんだけ毎日残業して、プロジェクトの企画出してたと思ってんだよ! 成果を出してないだと!? 評価基準がおかしいんだよバカ野郎!」
『文句は国会、および法案を通した新与党へどうぞ。ワタシはただ、現行のルールを適用・執行する立場に過ぎませんので』
サバキネコは一切動じることなく、マーカーを床に置くと、とどめとばかりに言葉を付け加えた。
『ああ、それと。赤字期間中、特総課の予算は他の一般公務員の人件費や都市の基礎財政補填へ優先的に充当されます。したがって――明日以降、特別総合課の職員に対する給与およびボーナスの支払いは全額凍結されます』
「「「「は……?????」」」」
執務室の全員の時が止まった。
『予算を繰り出して赤字を解消するか、あるいは事業で黒字を出せば、そこから給与を出すことも、以前のように自分たちで好きに設定することも可能です。ですが、現状の赤字状態が続く限り、皆様の口座に給与が振り込まれることはありません』
「給料が……出ない……?」
飯田が膝から崩れ落ちるように床にへたり込んだ。
「ウソ……ウソでしょ……!? 私、先月高級マンション契約したばかりなのに……! ローンどうすんのよ!?」
女子職員の一人が悲鳴を上げた。
「払えるわけないじゃん! 給料出ないとか生きていけないよ!!」 「詐欺だ! こんなの公務員の労働条件じゃない!!」
阿鼻叫喚。 執務室は一瞬にして、この世の終わりを迎えたかのような地獄絵図へと変貌した。叫び出す者、頭を抱えて泣き崩れる女子、デスクを殴りつける男子。
そんな狂乱の光景を、サバキネコは実に面倒くさそうな、鬱陶しそうな半目で眺めていた。
『やれやれ……静かにしてください。耳が痛みます』
『ふざけるな!! 静かにできるか!!』
山彦が目を血走らせてサバキネコへと詰め寄った。
「こんな狂った部署、やってられるかよ! 俺は辞める! 今すぐ辞表出してこんな街出ていってやる!!」
山彦がドアに向かって走り出そうとした。
しかし、サバキネコの声がその背中に冷たく突き刺さった。
『辞めるのは自由ですが……お勧めはいたしませんよ』
「あぁ!? なんでだよ!」
『年末に成立いたしました『自治破綻処理特例法』をご存知ですね?』
サバキネコは毛繕いをしながら言った。
『特総課が抱えた赤字は、組織および職員への連帯債務となります。現在、我が特総課の赤字は5600億円。職員数は40名。……今あなたが辞職された場合、その時点で確定している赤字の四十分の一――お一人あたり「140億円」の個人負債が自動的に確定し、あなたの資産および将来の収入すべてに差し押さえが発生いたします』
「ひっ…………ひ、140億…………!?」
山彦の足がガクガクと震え、ドアの手前で倒れ込んだ。
『ついでに申し上げますと、特総課職員四十名全員の氏名、顔写真、経歴、出身校などのプロフィールは、新法に基づきすでに全自動でインターネット上の公的データベースへ開示・掲載されております。……国中どこへ逃げても、自己破産すら適用されず、140億円の債務から逃れる術はありませんよ』
「プロフィールが……ネットに……!?」
国宮が青ざめた顔で自分のスマホを取り出し、検索画面を操作した。数秒後、彼女の手からスマホがポロリと床へ落ちた。事実だったのだ。
誰も逃げられない。 辞めることも、退職してバックれることも許されない。残された道は、ここで無給で働き続け、5600億円という途方もない赤字を返済する以外に存在しなかった。
その時、青ざめた顔の世良が静かに手を挙げ、震える声でサバキネコに問い詰めた。
「……一つ、確認させてくれ」
『なんでしょう?』
「今朝出勤したら、先輩たち五人のデスクがなくなっていた。……あの人たちはどこへ行ったんだ?」
サバキネコは「ああ」と小さく頷いた。
『澪標にいた五名……あなた方の言う先輩方は、先週末に移籍手続きを完了させました』
「移籍……?」
『制度上、他都市の特総課へ移籍する権利が認められております。移籍金として「一人当たり500億円」の負債負担枠を設定すれば、他都市へ籍を移すことが可能です。彼らはその権利を行使し、赤字が膨らむ前にここを脱出いたしました。同様の移籍は、治牧を除く他の三都市でも一斉に行われたようですね』
サバキネコは他人事のように、ケロッとした口調で付け加えた。
「先輩たちが……俺たちを見捨てて……逃げただと……!?」
田辺が呆然と呟く。
雑務を自分たちから奪い取り、親切にしてくれていたあの先輩たち。彼らは「親切」で雑務をやっていたのではない。自分たちだけがいち早く逃げ出すための準備を進め、新人たちをこの泥舟に縛り付けるために、外の情報を遮断していたのだ。
『ああ、そうそう。忘れるところでした』
サバキネコは思い出したように前脚を叩いた。
『現在の各都市の最新GPCIスコアもお伝えしておきますね。治牧が1,430。志手津が600。九井が350。縦ヶ崎が260。……そして我が澪標は、60です』
「60…………」
あまりにも絶望的な数字の差に、もはや叫ぶ気力すら失った職員たちが、ポツポツと床に座り込んで泣き出し始めた。
「無理だよ……こんなの返せるわけないじゃん……」
「なんで……なんでこんなことになったの……」
執務室は、完全に絶望と涙と呻き声に支配された。
その時、限界を迎えた駿河屋が、顔を真っ赤にして怒号を上げた。
「ふざけるなあああぁぁぁっ!! 猫の分際でナメたこと言ってんじゃねえぞオラァッ!!」
駿河屋が凄まじい勢いで床のパイプ椅子を拾い上げ、スチールラックの上にいるサバキネコに向かって振りかざした。暴走だった。物理的な暴力で、この現実を叩き潰そうとしていた。
「駿河屋くん、やめるんだ!!」
横から割り込んだのは柊だった。 柊は必死の形相で駿河屋の胴体に抱きつき、力任せに彼を押さえつけた。
「放せ柊! こいつをぶっ殺してやる! ぶっ殺せばこんな話は無かったことになるんだよ!!」
「落ち着くんだ駿河屋くん! 今暴れても何も解決しない!」
柊が声を張り上げて説得する。普段の爽やかな聖人のような面影はなく、柊の顔にも焦りと脂汗が滲んでいた。
取り押さえられた駿河屋を冷ややかに見下ろしながら、世良がボソリとサバキネコに尋ねた。
「……サバキネコ。もし、僕たちが力任せに暴れたり、お前を破壊しようとしたら、どうなるんだ?」
サバキネコは首を少し傾げ、不敵な、どこか冷酷な光を瞳に宿して答えた。
『さあ? さて、どうなるんでしょうねぇ。……やってみたら分かるんじゃないですか? ワタシとしては、お勧めいたしませんが』
その言葉に含まれた底知れぬ不気味さに、駿河屋の威勢も一気に萎み、パイプ椅子がカチャンと床に転がった。
『――さて。他に何か質疑応答はありますか?』
サバキネコが最後のお決まりの確認をするように見回した。
返ってきたのは、言葉ではない。 四十人の職員たちからの、地獄の底から響くような怒号と悲鳴、そして嗚咽の嵐だった。
『……質問はないようですね。それでは、明日からの新年度、皆様の死力に満ちたご活躍を期待しております。失礼いたしました』
サバキネコはそれだけ言い残すと、窓の隙間からすっと外へ飛び出し、春の冷たい風の中に姿を消した。
直後――。
ジリリリリリリリリリリリリリリリン!!!!
プルルルルルルルルルルルルルルリン!!!!
執務室に設置された何十台もの固定電話が一斉に、耳を刺すような爆音で鳴り響き始めた。
新年度の予算削減に伴う事業の中止、外部業者からの問い合わせ、市民からの苦情、怒号。あらゆる悲鳴が、電話のベルとなって特総課に殺到していた。
「ひっ……! 電話が……!」 「出たくない! 出たくないよおぉぉ!!」
誰も電話を取ろうとしない。ただけたたましいベルの音だけが、絶望のBGMのように部屋中に響き渡っていた。
オレは自分のデスクの前に立ち、完成したこの地獄を、静かに眺めていた。
5600億円の赤字。 給与全額凍結。 逃げ場のない140億円の個人負債。
周りで頭を抱えて泣き叫ぶ同僚たちや、受話器を睨みつけて震えている工藤の姿が視界に入る。
「……なるほどな」
オレは短く呟いた。
明日から、本当の意味での「仕事」が始まるらしい。
オレは鳴り止まない電話のベルを聞きながら、淡々と自分の席の椅子を引き、静かに腰を下ろした。




