第11話 終わりの始まり
11-1
サバキネコが窓の外へ跳躍し、春の冷たい空気に消えていったあの日。執務室に設置された数十台の固定電話を一斉に鳴らし始めた耳を刺すようなベル音は、すべての終わりの合図ではなく、果てしない地獄の幕開けに過ぎなかった。
最初の三日間、オレたちの時間は完全に停止していた。いや、正確に言えば「通常の業務」を行う時間など一秒たりとも存在しなかった。
ジリリリリリリリリリリリリリリン!!!!
ジリリリリリリリリリリリリリリン!!!!
耳底にこびりついて離れない金属音が、朝から晩まで、そして深夜を過ぎても無機質に部屋中に響き渡り続けていた。最初は誰も受話器を取ろうとしなかった。デスクの前で頭を抱えて泣き叫ぶ女子職員や、虚無の表情で天井を見上げる男子たち。だが、鳴りやまないベルの音はそれ自体が精神を削り取る拷問だった。耐えかねた飯田が、血走った目で受話器を引ったくるように持ち上げたのが最初だった。
「は、はい……こちら特別総合課……」
受話器から漏れ出してきたのは、人間の声とは思えないほどの怒号だった。
『どういうことだバカ野郎!! 今ニュースで見たぞ! 予算94%カットだと!? 来月から着工予定だった商業施設の資材発注はどうすんだ!! 契約金は払われるんだろうな!? おい責任者を出せ!!』
「あ、あの……それはですね、新年度の予算ルールが……」
『理由なんか聞いてねえんだよ!! 払うのか払わないのか聞いてんだ!! 会社が潰れるんだよ!!』
ガチャンと叩きつけられるように切られた直後、その受話器を置く暇もなく、キャッチホンと隣の電話が再びけたたましく鳴り響く。
「ひっ……! 助けて、誰か代わって!!」
飯田が悲鳴を上げて受話器を放り投げた。電話の相手は、特総課と契約や取引を交わしていた民間事業者、工事請負会社、イベント運営会社、さらには関係する他の行政機関からだった。「来週からの事業はどうなる」「請求書の振込口座が凍結されていると銀行から連絡が来たがどういうことだ」「契約違反で訴えてやる」「損害賠償を払え」――。
あらゆる怒号と悲鳴が、数十本の回線を通じて怒涛のように殺到していた。
それだけではなかった。二日目の朝、執務室の重い扉がドカンと突き破るような勢いで開け放たれた。
「責任者は誰だ!! 小林を出せ!! 三河はどうした!!」
入ってきたのは、土木課や財務課、都市計画課といった、他の部署のベテラン職員たちだった。顔を真っ赤にし、書類の束を鷲掴みにした中年職員たちが、怒気を含んだ足取りで執務室になだれ込んでくる。
「おい!! お前ら新人ども! 先輩たちはどこへ行った!!」
「あ、あの……先輩方は、その……」
山彦が怯えながら後ずさる。
「ふざけるな! 先週まで『予算の執行手続きは特総課で一括して処理するから任せてくれ』と言っていた案件が、何一つ財務システムに入力されていないぞ!! おかげでうちの部署の帳簿まで全部赤点滅だ!! 支払いが止まってるんだよ!!」
「うちの都市整備課もだ! 道路のバリアフリー化事業、特総課の予算から補填される手はずだったのに、未払いのまま業者が作業をストップして道路が掘り返された状態で放置されてるぞ!! どう落とし前つけるつもりだ!!」
胸ぐらを掴まれんばかりの勢いで詰め寄られ、同期たちは青ざめて首を振るしかなかった。オレは自分のデスクに座ったまま、その光景を冷静に観察していた。
(……なるほど。そういうことか)
今までも他部署の職員が怒鳴り込んでくるような気配は微かに存在していた。だが、オレたちがその事実を知らなかったのは、消えた小林たち先輩職員五名が、オレたち新人を隔離し、表にクレームが出ないよう全て陰で処理――あるいは「隠蔽」していたからだ。他部署との交渉も、外部からの問い合わせも、すべて先輩たちが「新人の手を煩わせない親切な配慮」という顔をして抱え込んでいた。そして、赤字が爆発し、自分たちだけが500億円の負債枠を設定して他都市へ逃げ切った瞬間、その隠されていた全ての爆弾が一気にオレたち40人の頭上に降り注いできたのだ。
「お前ら全員、バカにしてるのか!! 何とか言ったらどうなんだ!!」
他部署の職員の怒声に対し、柊が前に出た。
「申し訳ありません! 申し訳ありません! ですが、僕たちも今朝この状況を知らされたばかりで、先輩方がどこへ行ったのかも把握できていないんです!」
頭を下げ、必死に深々と謝罪する柊。だが、いくら柊が誠実な顔で謝罪したところで、消えた数百億円、数千億円の穴が埋まるわけではない。
「言い訳になるか!! お前らも特総課の職員だろうが!!」
他部署からの怒号は、日が暮れても止むことはなかった。
11-2
三日目になると、爆弾は庁舎内だけに留まらなくなった。市民からの電話である。
『おい!! ニュース見たぞ! 澪標のGPCIスコアが60ってどういうことだ!!』
『治牧は1,400超えてんだろ!? なんでうちの街だけこんなに落ち込んでんだよ! 私たちの税金を何に使ってたんだ!!』
『特総課の職員の顔写真と名前、ネットに全部載ってるぞ! こいつらだろ、税金食いつぶして街を狂わせた害虫どもは!!』
市民からの苦情電話が、事業者の怒号に混じって殺到し始めた。さらには、庁舎の代表電話をスルーして、直接執務室のデスクの電話番号へ無差別にかかってくるようになった。受話器を取れば、「死ね」「街から出ていけ」「税金泥棒」という罵詈雑言が吐き捨てられ、無言電話が延々と続く。
パソコンを開けば、メールボックスは数万件の嫌がらせメールと脅迫文でパンクしていた。
新法に基づき、オレたち40人のプロフィールがネット上の公的データベースに全開示された影響は絶大だった。SNSを開けば、オレたちの顔写真、出身大学、担当部署が拡散され、トレンドには「#澪標特総課」「#5600億の戦犯」というワードが躍っていた。
「嫌……もう嫌ぁぁぁっ!!」
女子職員のひとりが頭を抱えて叫び、デスクの上に伏して激しく泣き出した。かつて有給消化や海外旅行、高級マンションの購入で浮かれていた同期たちの面影は、そこには微塵もなかった。全員が目の下に濃いクマを作り、血の引いた顔で、次々と鳴り響く電話のベルに怯えて震えている。
「おい、桜律……どうすんだよこれ……」
隣のデスクで、飯田が魂の抜けたような声でオレに囁いてきた。飯田のキーボードを打つ手はガタガタと震えている。
「どうするもこうするもない。かかってきた電話に出て、事実を伝えるだけだ」
「伝えられるかよ!! 殺すぞって言われたんだぞ!? なんで俺たちがこんな目に遭わなきゃいけないんだよ!!」
「文句なら、逃げた先輩たちか、140億の負債を背負わせた国会に言うんだな」
オレは冷ややかに返し、手元の受話器を持ち上げた。
「はい、特別総合課です。……ええ、現在の進捗につきましては、予算凍結に伴いすべて停止しております。はい、担当者が不在のためお答えできません。……ええ、申し訳ございません」
機械的に感情を殺し、決まりきった謝罪と事実の伝達を繰り返す。オレの隣では、工藤が凄まじい速度でキーボードを叩きながら、同じように冷酷な声で電話を処理していた。
『だから! うちの会社への支払いはどうなるんだと聞いているんだ!!』
「恐れ入りますが、現在当課の執行予算は全額凍結されております。法的な手続きにつきましては、財務課の公表資料をご確認ください」
『ふざけるな! 法律なんて知るか! 今すぐ金を払え!』
「支払う原資が存在しません。これ以上の口頭でのやり取りは不可能ですので失礼いたします」
ガチャリ。工藤は迷うことなく受話器を置いた。感情を挟めば心が潰れる。それが分かっているのは、この無間地獄の中で一部の職員だけだった。
連日、休日など存在しなかった。終電などとっくに過ぎ、執務室の床にダンボールを敷いて仮眠を取り、数時間後に電話のベル音で飛び起きる。風呂にも入れず、コンビニの冷え切った弁当を流し込み、ただひたすら電話対応と怒号の矢表に立ち続ける。
四日目、五日目。
電話の対応だけでなく、物理的な謝罪回りが始まった。
「桜律、田辺、山彦。お前らちょっと来い」
呼び出されたのは、かつて田辺たちが「後先考えずに大風呂敷を広げたプロジェクト」の現場だった。
公用車に乗り込み、現地へ向かう。
到着したのは、市街地から少し離れた郊外の山あいのエリアだった。
「……なんだこれ」
車を降りたオレは、目の前に広がる光景に絶句した。
かつて豊かな森林だったはずの山肌が、無残に削り取られ、赤土が広大に剥き出しになっていた。重機が数台、ポツンと放置されており、作業員の姿は一人もない。工事は途中で完全にストップしていた。
「ここ……田辺たちが提案してた『最先端VRアミューズメントパーク』の建設予定地じゃねえか……?」
山彦が引きつった声で呟く。
「そ、そうだけど……俺たちはただ、企画書を出して『いいじゃんいいじゃん!』って盛り上がってただけで……こんなに山を削ってるなんて知らなかったぞ……」
田辺が青ざめた顔で弁明する。彼らは「予算がいくらでもある」という言葉に甘え、後先考えずにアイディアを投げ、先輩たちに「よし、じゃあ土地の買収と造成工事を進めておこう」と言われて調子に乗っていたのだ。だが、途中で収拾がつかなくなって放置し、今回の予算94%カットによって、事業は途中で永久凍結。 広大な山肌が削り取られたまま放棄され、赤土がむき出しになった無惨な廃墟だけが取り残されていた。
そこへ、地元の自治会長や地主と思われる老人たちが、カンカンに怒った表情で詰め寄ってきた。
「お前たちが特総課か!! どうしてくれるんだこの山を!!」
「先祖代々の土地を『メガロポリス計画で素晴らしいテーマパークができる』って騙されて売ったのに、途中で放り出すとはどういうことだ!!」
「大雨が降ったら土砂崩れが起きるぞ! 補強工事はどうするんだ!!」
「あ……あの、それはですね……」
田辺が言葉を詰まらせ、地面に膝をついた。
「す、すみません……すみません……!」
頭を地面に擦り付けて泣き叫ぶ田辺。だが、削られた山が元に戻るわけでも、補強工事の予算が出るわけでもない。 オレたちはただ、彼らの怒号を浴びながら、頭を下げ続けることしかできなかった。
このような「大風呂敷の残骸」は、この場所だけではなかった。山彦が提案していた「サーキット建設予定地」は、広大な農地が途中で買収されたままアスファルトが中途半端に敷かれて放置され、周囲の農業用水路を分断して近隣農家に甚大な被害を与えていた。飯田が関わっていた「会員制高級リゾート」の現場は、沿岸部の防風林が勝手に伐採され、塩害の被害が周辺の住宅街に広がり始めていた。
自分たちが後先考えずに散らかしたアイディアのツケ。そして、それを煽って勝手に工事を着工させ、予算を使い込ませた末に逃亡した先輩たちの悪意。それらが全て、圧倒的な不条理となってオレたちの全身に重くのしかかっていた。
11-3
一週間が過ぎ、ようやく怒号の電話と謝罪回りのピークが去り始めた。去ったというよりは、相手側も「特総課に何を言っても金も出なければ対応もできない」という絶望的な事実を理解し、諦めと法的措置の手続きへと移行したからに過ぎない。
ようやく、オレたちは執務室のデスクに向かい、本来の事務作業——「通常業務」へ戻ることができるようになった。だが、パソコンの画面を開いた瞬間、オレは思わず薄い溜め息を漏らした。
未処理タスクの件数:4,820件。
この一週間、電話対応と怒号の嵐に忙殺されていた間に、日々の申請書類、決裁文書、報告書の山が、留まることなく積み上がり続けていたのだ。本来なら一日数百件ペースで処理していかなければならない日常業務が、一週間完全にストップしていた。 普通の消化ペースで追いつくはずがないのは、火を見るより明らかだった。
「う……嘘だろ……こんなの、いつ終わるんだよ……」
山彦が画面を見つめたまま、ガタガタと震える手でマウスを握りしめている。だが、本当の地獄は、積もり上がった通常業務の量などではなかった。
午後になり、各部署から回ってきた「最新の状況報告資料」が、オレたちのデスクに配られた。そこに書かれていたのは、オレたち40人の知らぬ間に進行していた、澪標という都市の「完全な崩壊のシナリオ」だった。
資料のページをめくる手が、自然と止まる。
【項目1:公共交通機関の売却について】
今年度4月1日付けをもって、我が澪標市が所有していた市営バスおよび市有鉄道の全路線網・車両・施設資産が、GPCI高スコア都市である「治牧」へ格安で一括譲渡・売却されることが決定いたしました。
「……は?」
思わず声が漏れた。市バスも、市民の足である市営電車も、すべて治牧に売却されたというのだ。昨年度までの赤字補填と、GPCI連動ルールに基づく資産再配分という名目だった。
さらに、ページをめくる。
【項目2:幹線道路・インフラの機能不全について】
昨年度、特総課管理のもとで進められていた市内主要道路の集中整備事業において、外注業者による施工不良および維持管理予算の未払いが発生。現在、市内12箇所の主要交差点および幹線道路において舗装の陥没・崩落危険が確認されており、一部区間で通行止めが発生しております。都市整備課より「大至急の緊急補修予算(約80億円)」の措置が求められておりますが、特総課の予算凍結に伴い対応不可能です。近いうちに市内全域の物流・交通網が完全機能不全に陥る懸念があります。
「道路が……崩れる……?」
横で資料を読んでいた世良が、目を丸くして呟いた。 先輩たちが安易に選んだ格安の粗悪業者と、中途半端な手抜き工事。予算が削られた瞬間にメンテナンスが途絶え、都市の血管である道路が物理的に腐り始めていたのだ。
崩壊はそれだけに留まらなかった。
【項目3:教育・文化資産の長期的流出について】
特総課の予算削減に伴い、市立大学および研究機関への運営交付金が最低維持ラインを下回りました。これに伴い、我が市が所有していた文化財、歴史資料、および市立美術館が収蔵する重要絵画・美術品の大半が、維持管理費の補填として、今後10年間にわたり治牧市内の美術館および研究施設へ貸し出しされることが決定いたしました。
「美術品や大学の研究予算まで……全部治牧に持っていかれてるじゃん……」
国宮が消え入りそうな声で呟く。
経済だけではない。交通、インフラ、教育、文化。都市の「骨組み」となるあらゆる資産が、オレたち新人が何も知らずに過ごしていた昨年度の裏側で、削り取られ、治牧というモンスター都市へ吸い上げられる構造が完成していたのだ。
そして、資料の最後には、最も致命的なグラフが掲載されていた。
【項目4:人口流出の推移】
インフラの低下、公共サービスの停止、およびGPCIスコア暴落に伴う将来不安により、市内からの住民票転出数が過去異常なペースで急増中。元々約80万人存在した澪標の人口は、現在猛烈な勢いで減少を続けており……。
グラフの曲線は、崖から落ちる垂直の線を描いていた。 このペースで流出が続けば、半減どころの騒ぎではない。街から人間がいなくなる。
「なんなんだよこれ……」
駿河屋が力なくデスクに肘をつき、頭を抱えた。
「俺たちが知らない間に……なんでこんなことになってんだよ……先輩たちは何をしてたんだよ……!?」
誰も答えることはできなかった。誰がどの仕事をしていたのかすら、オレたちには分からない。先輩たちのデスクは綺麗さっぱり消え去り、過去の引き継ぎ資料すら存在しないのだから。
ふと、執務室の窓の外に目をやった。暖かな春の日差しが街を照らしているはずなのに、高層階から見下ろす澪標の市街地は、どこか灰色にくすんで見えた。 ビル群の間を走る車列は疎らになり、道路のあちこちには赤い三角コーンが置かれ、通行止めを示す標識が立っている。
(……崩れていく)
オレは静かに思った。この都市は今、内側から勢いよく腐り、崩壊に向かって突き進んでいる。そしてオレたち40人は、5600億円という果てしない負債を首に括り付けられたまま、この沈みゆく泥舟の底で、終わりのない書類の山に向き合い続けるしかないのだ。
ジリリリリリリリリリリリリリリン!!!!
虚しく静まり返った執務室に、再び一台の電話が甲高いベル音を響かせた。誰も受話器を取ろうとしない中、オレは静かに手を伸ばし、黒い受話器を持ち上げた。
「はい。特別総合課です」
冷ややかな言葉を口にしながら、オレは液晶画面に並ぶ「4,820件」の未処理タスクの先頭をクリックした。絶望に浸る時間すら、この場所では与えられない。ただ淡々と、崩壊していく世界の終わりを観測しながら、手元の作業をこなすだけだった。




