第12話 他都市の視察
12-1
四月十三日。外の空気は春の暖かさを帯び始めているはずだったが、特別総合課の執務室の中は依然として冷たく湿った死気と、鳴りやまない電話のノイズに支配されていた。
「……ふぅ」
オレは自分のデスクで、湯気の消えかけた苦い缶コーヒーを口に含んだ。キーボードを叩く指先がかすかに痺れている。ここ数日、まともに布団で寝た記憶がない。未処理タスクの数は依然として四千件を超えており、画面をスクロールするたびに新しいエラーや問い合わせの赤文字が画面を埋め尽くしていく。
周りを見渡せば、同期たちの疲弊はピークに達していた。かつてブランド物の服を着て自慢話に花を咲かせていた飯田や山彦たちは、髪はボサボサのまま、焦点の定まらない目で画面を凝視してカタカタと不規則なタイピング音を響かせている。柊や国宮が甲斐甲斐しくお茶を配ったり声をかけたりして回っているが、その柊の顔すらげっそりとやつれていた。
そんな中、オレの視線の端を、場違いなほど整った影が横切った。
「……?」
一瞬、目を疑った。やってきたのは工藤だった。この連日の超過勤務とクレーム対応の嵐の中で、誰もが泥のように汚れ、服にシワを寄せているというのに、工藤はビシッとアイロンの効いたパンツスーツを身にまとい、髪も後ろでスキなく綺麗にまとめられていた。衿元一つ歪んでいない。最近は多忙を極めていたため、流石の工藤でもこんな完璧な姿を見るのは久しぶりだった。
一瞥したあと、オレは興味を失って青白いモニター画面へ視線を戻した。だが、その完璧な立ち姿の同僚は、一直線にオレのデスクの前まで歩いてくると、オレの首根っこを引っ張り無理やり立たせると人差し指でオレの机を叩いた。
「立ちなさい、桜律くん」
冷徹で、微塵の揺らぎもない声だった。
「今お前が無理やり立たせたんだが……なんだ、工藤。今、この大量の未処理決裁をこなしてる最中なんだが」
「荷物をまとめなさい。車を出すわ」
「は?」
オレは眉をひそめて工藤を見上げた。
「どこに行くつもりだ。今、外に出られるような状況じゃないのはお前も分かってるだろ」
「出張よ。他の自治体の特総課の情報を集めに行くの」
「出張……?」
唐突すぎる言葉に、周囲で電話に出ていた山彦や飯田がちらりとこちらを振り返ったが、関わりたくないと言わんばかりにすぐ視線を逸らした。
「なんでそんなことを今やるんだ。目の前の処理でパンクしてるのに、外の情報を集めてどうする」
「柊くんからの頼みなのよ」
工藤は短く答えた。
「このまま澪標の課内に閉じこもって目の前の後始末だけに追われていても、状況は打開できないわ。他都市の特総課が現在どういう運用をしていて、GPCIのスコアをどう維持・上昇させているのか、現場の生のデータを収集して分析する必要があるの。そう柊くんに頼まれたわ」
「柊が……?」
ちらりと部屋の奥を見ると、ちょうど他の職員に書類を渡していた柊がこちらに気づき、申し訳なさそうにペコリと頭を下げてきた。その隣には、静かな表情でオレたちを見つめる国宮の姿もあった。
柊の考えそうなことだ。真面目で正義感の強い柊のことだから、「このままでは全員が潰れてしまう、何か新しい打開策を見つけなければ」と焦って工藤に頼み込んだのだろう。だが、オレがそれに付き合う理由はない。
「理由はどうあれ、オレが行く必要はないだろ。工藤、お前一人で十分だ。分析も調査も、お前以上の適任はいない」
「一人じゃ効率が悪すぎるわ。助手兼ドライバーが必要なのよ」
「ドライバーなら田辺や飯田に頼め。オレは自分のデスクのタスクを減らしたい」
「彼らは現在のメンタル状態から見て、長距離運転に向かないわ。道中で事故を起こされるリスクが高すぎるの。それに、彼らにこの作業を任せてもデータ収集の役に立たないわね」
バッサリと同期を切捨てる工藤。正論すぎて返す言葉もないが、オレも引き下がる気はなかった。
「だとしても、オレがここを抜け出したら、オレの分のタスクが溜まる。戻ってきた時に地獄を見るのはオレだ」
「それについても手配済みよ。私たちが不在の間の急ぎのタスクは、柊くんと国宮さん、そして手の空いたメンバーで分散して処理すると約束を取りつけてあるわ」
「……な」
工藤は間髪入れずにオレの反論を潰してくる。
「逃げ場はないわよ、桜律くん。澪標の特総課は自堕落な人が多いみたいだけれど、その中でも腐らずにやるべきことができる数少ない人間。とりわけ能力は中の中。世良くんや駅的くんのように抜ければ大問題というほどの戦力でもないでしょう? 今回の情報収集において、最も私にとっても部署にとってもダメージの少ない同行者なの。文句があるなら車の中で聞くわ」
工藤はそう言い捨てると、ジャケットのポケットから公用車の鍵を取り出し、オレのデスクの上にチリンと音を立てて置いた。完璧な準備と論破。最初からオレを断らせない外堀をすべて埋めていたらしい。
オレは重い溜め息をつき、温くなった缶コーヒーを飲み干すと、渋々立ち上がった。
12-2
公用車のハンドルを握り、澪標の市街地を抜けて高速道路に乗った。
助手席ではなく、なぜか後部座席に収まった工藤は、車が走り出して5分も経たないうちに静かに目を閉じ、そのまま規則正しい寝息を立て始めた。身なりこそ完璧に整えていたが、連日の超過勤務で体力が限界に近かったのは工藤も同じだったらしい。バックミラー越しに見える工藤の横顔は、どこか痛々しいほど白かった。
「……やれやれ」
オレは静かにアクセルを踏み込んだ。
今回の最初の目的地は志手津だった。先日のサバキネコによるスコア発表において、「治牧」を除けば、他の自治体が壊滅的なスコア下落に見舞われる中で、最もダメージを軽微に抑え、安定した数字を維持していた都市だ。
高速道路を二時間ほど走り、志手津の市域に入ると、窓の外の景色は澪標とは明らかに異なる相貌を見せ始めた。
空を覆うような巨大な高架橋、果てしなく続く大型トラックの列、そして遠くに見える湾岸沿いの無機質な煙突群。志手津は古くから物流と重工業で発展してきた都市だ。巨大な港湾設備と臨海工業地帯を抱え、国の産業の「骨組み」を支えているという自負が、街全体の無骨な空気から伝わってくる。澪標のように華やかな商業施設や観光資源で取り繕った街とは違い、どこまでも泥臭く、実効性だけを追求したような街並みだった。
「……ん」
インターチェンジを降りてしばらく走ったところで、後部座席から衣擦れの音が聞こえた。工藤が目を覚まし、ゆっくりと体を起こしたところだった。
「起きたか、工藤。志手津の臨海エリアに入ったぞ」
「……ええ。予定通りの時間ね」
工藤はシートの背もたれに体を預けたまま、窓の外の工場群を冷たい目で見つめた。寝起き特有の弛緩した様子は一切なく、一瞬で鋭い観察者の目に戻っている。
「見なさい、桜律くん。大型車両の交通量が、澪標の昨年度のピーク時よりもかなり多いわ。港湾のクレーンの稼働率も高い。インフラの維持に一定の予算が継続して投じられている証拠ね」
「なるほどな。で、具体的に志手津の特総課の庁舎はどこだ? ナビに入れるが」
「庁舎には行かないわ」
「は?」
工藤は短く言った。
「庁舎で聞ける話なんて、公表されているプレスリリースと変わらないわ。現場を見るの。まずは臨海部の第3工業区へ向かいなさい」
指示された通り、オレは大型トラックが排気ガスを撒き散らしながら行き交う臨海道路へ車を走らせた。左右には見上げるような化学プラントや、巨大な倉庫群が延々と続いている。作業服を着たヘルメット姿の作業員たちが、忙しくトラックの誘導や資材の搬入を行っていた。
「……車を止めなさい」
突然、工藤が言った。
「ここにか?」
「そうよ。あの倉庫の脇に引きつけなさい」
オレは路肩に車を寄せ、ハザードランプを点灯させた。
「どうした、工藤。何か見つけたのか?」
「あそこにいる男を見なさい」
工藤が窓越しに指差した先を見た。そこは、資材が積まれた巨大なプレハブ倉庫の陰だった。何十人もの作業服姿の労働者たちが汗を流して荷揚げ作業を行っている中で、一人だけ明らかに浮いている人物がいた。
しっかりとプレスされたスーツを着て、革靴を履いた男だ。 男は手にクリップボードを持ち、汗を拭いながら、積み降ろされる資材の型番や作業員の動きを、食い入るように凝視してメモを取っていた。
「……工場地帯に似合わないスーツ姿だな。見学の営業マンか?」
「違うわ」
工藤はドアノブに手をかけた。
「靴の汚れ方と立ち姿を見なさい。一朝一夕の見学者の立ち位置ではないわ。そして、あのスーツの生地と胸のバッジ……行政関係者ね。おそらく、志手津の職員よ」
「行政の人間が、なんでこんな港の倉庫でメモを取ってるんだ?」
「それを今から聞くの。降りるわよ」
工藤は迷いのない足取りで車を降り、排気音と金属音が激しく響き渡る作業現場へと歩き出した。オレも慌てて車を降り、その後に続いた。
12-3
「すみません。少々よろしいかしら」
工藤は、クリップボードに夢中になっていたスーツの男へ声をかけた。 男は驚いたように跳ね上がり、メガネの位置を直しながらこちらを振り返った。
「え……? あ、はい! なんでしょうか、僕に何か……?」
二十代手前ほどの、少し頼りなさげな印象を受ける男だった。スーツには港湾の塩風と薄汚れがついていたが、表情には妙な熱っぽさがある。
オレは横で立ち尽くしながら、工藤のことだから、何か適当な取材の体裁でも装って遠回しに探るんだろうなと考えていた。しかし、工藤の口から飛び出した言葉は、オレの予想を遥かに超えてストレートだった。
「突然の訪問を失礼するわ。私たちは澪標市役所、特別総合課の職員よ。他都市の特総課の業務状況について情報収集を行っており、お話を伺いにまいりました」
「……」
オレは内心で頭を抱えた。ストレートすぎる。いくらなんでも直球が過ぎるだろ。 案の定、男の顔から笑顔が消えた。
「み……澪標……の、特総課……?」
男の目が露骨に泳ぎ、引きつったような嫌そうな表情に変わった。当然だ。今やネットでもニュースでも、「GPCIスコア暴落」「5600億円の赤字」で大炎上している戦犯組織の人間が、突然目の前に現れたのだ。不審がられないわけがない。
男はあからさまに身構え、警戒感を剥き出しにしながら、喉をゴクリと鳴らした。
「……あー、なるほど。ニュースで見ましたよ、澪標さん。大変なことになっているみたいですね……。僕は志手津市役所、特別総合課の浦部春樹といいます」
嫌がりつつも、一応の礼儀として自己紹介をしてくれた。やはり志手津の特総課の職員だった。
「浦部さん」
工藤は相手の警戒心など意に介さず、淡々と問いかけた。
「志手津の特総課職員であるあなたが、なぜこのような重工業・物流の現場でスーツを着て立っていらっしゃるの? 本庁舎での執務時間中のはずだと思うのだけれど」
その質問を受けた瞬間だった。 さっきまで引きつっていた浦部の表情が、一変した。
警戒感は一瞬で消え去り、代わりに何か「待ち望んでいた質問をされた」と言わんばかりの、自信と誇りに満ち溢れたギラギラとした笑顔がその顔に浮かび上がった。
「ふふ……」
浦部は胸を張り、手にしたクリップボードをバシッと叩いた。
「僕はね、遊んでいるわけじゃないんです! 仕事の合間を縫って、こうして現場に足を運び、労働者のみなさんと一緒に汗を流し、その業務内容を観察・記録しているんですよ!」
「……労働者と一緒に、かしら?」
工藤が微かに首をかしげる。浦部はますます誇らしげに身を乗り出してくる。
「そうです! 全ては我が志手津特総課のリーダー——長徳泰平の教えによるものです!」
「長徳……?」
オレは心の中でその名前を反芻した。 長徳泰平。名前からして固そうだが、浦部の口ぶりからすると、オレたちと同世代の同期職員らしい。
「長徳くんは凄まじい男ですよ!」
浦部は頼んでもいないのに、ものすごい熱量で喋り始めた。頼むから少し声を落としてくれと言いたくなるほどの声量だ。
「僕たち同期の中でも圧倒的なリーダーシップと見識を持っている! 彼はね、入庁直後にこう言ったんです。『僕たち特総課が守らなければならないのは、ペーパー上の数字ではない。この街を支える現場の労働者であり、ひいては国全体のモノづくりと生活そのものだ。現場を知らない者に、正しい都市経営などできるはずがない』とね!」
「……ほう」
工藤が短く相槌を打つ。浦部は完全にゾーンに入っていた。
「彼は一年前に配属されて以来、どんなに本庁の書類仕事が忙しくても、時間を作ってこうして現場に足を運んでいるんです! 現場の作業工程を誰よりも把握し、労働者の雇用を守り、物流の滞りを未然に防ぐ! 勤勉で、正確で、一切の妥協を許さない謹厳実直な男……それが長徳泰平なんです!」
オレは黙って話を聞きながら、頭の中で長徳という男の像を組み立てていた。
(……要するに、生真面目な現場主義な人間ということか)
澪標の同期たちが、予算をドブに捨てて高級ホテルやタワマンで浮かれていた裏で、志手津の同期はヘルメットを被って港湾の泥に塗れていたわけだ。この差が、そのままGPCIスコアの差となって現れたと言われればぐうの音も出ない。
だが、浦部の自慢話はそこで終わらなかった。誰一人として尋ねていないのに、彼はさらに声を潜め、誇らしげに打ち明けてきた。
「ここだけの話ですがね……昨年度、我が課の『ある先輩』が、志手津の重要な物流利権を、手違いで治牧市に売り払おうとしたことがあったんですよ」
「……利権の売却?」
工藤の目がわずかに細くなった。
「ええ! ですがね、毎日マメに過去の決裁文書と現場のデータを確認していた長徳くんが、その不審な動きを目ざとく見つけ出したんです! そして『この契約は志手津の物流基盤を破壊する』と理路整然と指摘し、公の場で先輩のミスを暴いて契約を白紙に戻したんですよ!!」
浦部は「どうだ!」と言わんばかりに鼻を鳴らした。
「さらには! 長徳くんが管轄しているこの第3エリアでは、過去一度たりとも労働者のストライキも、大きな設備トラブルも起きていない! 彼の現場管理能力は完璧なんです!」
オレは冷めた目で浦部を見ていた。
(……なるほどな)
観測できる事実から推測するに、真相はおそらくこうだ。 志手津の先輩職員たちも、澪標の先輩たちと同じように、裏で治牧に利権を売り飛ばして逃げ切ろうとしていたのだろう。だが、長徳という異常に勤勉で隙のない新人が現場と書類を完璧に監視していたため、工作を行うことができず、不発に終わったのだ。浦部は「長徳の偉大な功績」として純粋に自慢しているが、裏にあったのは逃げ損ねた先輩たちの暗闘だったのだろう。
「どうです!? 志手津の強さの秘密が分かったでしょう!!」
熱弁を振るい続ける浦部。オレと工藤は、言葉を失って呆然と立ち尽くし、その講釈を聞かされ続けていた。
12-4
「浦部。何をしている」
背後から、低く地響きのような声が響いた。
「ひっ……!?」
さっきまで偉そうに胸を張っていた浦部が、まるで氷水を浴びせられたかのように跳ね上がり、慌てて背筋を伸ばした。振り返ると、そこには一人の男が立っていた。作業服の上から蛍光の安全ベストを着用し、黄色のヘルメットをしっかりと被った男だ。ヘルメットの下から見える顔立ちは引き締まっており、瞳は鋭く冷ややかだった。全身から漂うのは、隙のない職人のような、あるいは厳格な軍人のような立ち振る舞いだった。
「な、長徳くん……! いや、これはね、その……」
浦部が汗をダラダラと流しながら取り繕おうとする。 この男こそが、志手津特総課のリーダー——長徳泰平だった。
長徳は浦部を一瞥したあと、ゆっくりとオレたちに視線を向けた。その瞳には、親しみや歓迎の色は微塵もなかった。ただ静かに、オレたちのスーツの仕立て、立ち姿、そして空気感を品定めするように見つめてくる。
「……澪標の人間か」
長徳は短く言った。名刺交換すらしていないのに、一目でオレたちの正体を見抜いていた。
「初めまして、長徳さん」
工藤が一歩前に出て、完璧な角度で一礼した。
「私は澪標市役所特別総合課の工藤よ。こちらは同課の桜律。本日は他都市の運用状況について——」
「挨拶も、説明も不要だ」
長徳は工藤の言葉を途中で遮った。その声には、拒絶というよりも「無駄を排除する」という機械的な冷酷さがあった。
「浦部」
長徳は隣で縮こまっている浦部に向き直った。
「他都市の、それも現在進行形で破綻処理手続き下にある自治体の人間に、我が市の内部状況や業務プロセスをペラペラと喋るな。情報セキュリティの観点から言ってもあり得ない失態だ。後で本庁に戻ったら報告書を提出しろ」
「は、はいぃっ!! すみません!!」
浦部は悲鳴のような声を上げて頭を下げた。そして、長徳は再びオレたちに向き直った。その眼鏡の奥の目が、静かに光る。
「工藤と言ったな。そして桜律」
長徳は淡々と、しかし寸分の狂いもない理路整然とした口調で語り始めた。
「君たちがどのような意図で我が市を訪れたのかは問わない。だが、現在の澪標が抱える課題は、他都市の運用を模倣して解決できるフェーズを既に過ぎているはずだ。巨額の個人負債、インフラの維持不能、そして人口の急速な流出。君たちが今なすべきは、見物紛いの視察ではなく、自都市の瓦礫の中で死力を尽くすことではないのか?」
ぐうの音も出ない正論だった。 嫌味や悪意を含んだ言い方ではない。ただ事実と論理だけを正確に組み立てて、オレたちの存在理由そのものを否定してきているのだ。
「それに」
長徳は作業手袋を嵌め直しながら、静かに付け加えた。
「これ以上、現場の作業員たちの邪魔をしないでいただきたい。ここは君たちが観光気分で歩き回っていい場所ではない。……お引き取りを」
暗に「さっさと回れ右して消えろ」と言っているのだ。工藤は数秒間、無言で長徳の目を見つめ返していた。 相手からこれ以上の情報やデータを得ることは不可能であり、これ以上粘っても時間の無駄であると、工藤の精密な頭脳が一瞬で弾き出したのが分かった。
「……承知したわ。不躾な訪問、大変失礼いたしました」
工藤は静かに頭を下げた。オレもそれに合わせて軽く頭を下げた。
長徳は一礼することもなく、そのままくるりと背を向けると、「浦部、行くぞ。第4倉庫の検品が残っている」と言い残し、作業現場の奥へと歩み去っていった。浦部は怯えたヒヨコのように、その後を慌てて追いかけていった。残されたオレと工藤は、排気ガスの匂いが漂う路上で静かに佇んでいた。
「……どうする、工藤」
オレが尋ねると、工藤はジャケットのポケットに手を突っ込み、長徳の去っていった背中を冷ややかに見つめながら言った。
「時間もボチボチね。潮時だわ。ホテルに戻りましょう」
「ああ、そうだな。そうするか」
オレたちは車に乗り込み、エンジンをかけた。夕暮れ時の志手津の街に、巨大な工場の煙突から吐き出される黒い煙が、重々しく広がっていた。
車を走らせながら、オレはバックミラーに映る志手津の無機質な街並みを網膜に焼き付けた。澪標のように腐り落ちていく街もあれば、長徳のような異常な個人の執念によって、崩壊のフチで踏みとどまっている街もある。だが、それがどれほどの意味を持つのか。オレにはまだ、分からなかった。




