第13話 他都市の視察2
13-1
四月十四日。志手津のビジネスホテルを早朝に出て、公用車を数時間走らせた。
志手津の無骨な煙突群と黒い排気ガスの世界が遠ざかり、代わりに車窓の左右を覆い始めたのは、鮮やかな緑と透き通るような青い海、そしていかにも観光地らしく綺麗に舗装されたバイパス道路だった。
「ここからが縦ヶ崎の市域よ」
助手席——ではなく、今日も当然のように後部座席に鎮座している工藤が、冷ややかな声で告げた。バックミラー越しに見ると、工藤は膝の上に端末を広げ、縦ヶ崎の最新データをスクロールしている。昨日、志手津で長徳から冷たくあしらわれた疲労や不快感など、最初から存在しなかったかのような完璧な立ち姿だった。
「縦ヶ崎か。志手津とは打って変わって明るい街並みだな」
「表面上はね」
工藤は短い鼻鳴らしとともに言った。
「先日のサバキネコによるGPCIスコア発表で、縦ヶ崎の数値は妙な偏りを見せていたわ。覚えているかしら、桜律くん?」
「……ああ。確か、文化・居住・環境の3項目のスコアが著しく減量していたはずだ」
「その通りよ。志手津が現場の力で産業・インフラのスコアを死守していたのとは対照的に、縦ヶ崎は街の『居住性』や『住環境』、そして『文化価値』が大きく損なわれている。……ただ、少しおかしな点があるの」
「おかしな点?」
「ええ。居住や環境のスコアが落ちるのは理解できるわ。過度な観光地化や開発が進めば、住環境の悪化や騒音、ゴミ問題で住民の満足度が下がるのは典型的なパターンだからね。でも……文化の数値がここまで大きく下落している理由が説明つかないのよ」
工藤は画面を指先でトントンと叩いた。
「縦ヶ崎は古くからの歴史的建造物や伝統芸能、そして美しい景観で売ってきた観光都市よ。文化スコアこそがこの街の生命線のはずだわ。それがなぜ、これほど削られているのか……まずはその現場を確認するわよ」
「了解。で、まずは縦ヶ崎のどこに向かう?」
「中心部にある歴史保存地区と、有名な観光スポットである『鏡ヶ浦公園』よ。私が学生時代に一度訪れたことがあるけれど、当時は美しい自然と歴史的景観が調和した素晴らしい場所だったわ。まずはそこへ——」
工藤が指示を言い終わる前に、オレの目の前の道路でブレーキランプの赤い光が一斉に点灯した。
「……」
まだ目的地の数キロ手前だというのに、道路はピタリと動きを止めていた。前方も後方も、ギッシリと乗用車や大型の観光バスが車列をなしている。ナンバープレートを見れば、全国各地の地名がずらりと並んでいた。
「すごい渋滞だな……進む気配が全くないぞ」
「……時間を無駄にするわけにはいかないわね」
工藤が窓の外を見やりながら眉をひそめた。
「桜律くん。すぐそこにパーキングエリアの案内標識が見えるわ。あそこに公用車を放り込んで、そこからは徒歩で回りましょう」
「徒歩か? ここから中心部までかなりの距離があるぞ」
「車の中でノロノロと排気ガスを吸い続けるよりは100倍マシよ。車を入れなさい」
言われるがままに、オレは誘導路に従ってパーキングエリアへと車を滑り込ませた。
パーキングエリアもほぼ満車に近い状態だったが、運良く端のスペースが一台分空いていた。そこに公用車を停め、オレと工藤は外へ出た。春の暖かな日差しと海風が吹き抜けている。だが、パーキングエリアの中に一歩足を踏み入れた瞬間、オレは強い違和感を覚えた。
(……なんだ、この混雑は)
売店やトイレの前には長い行列ができ、あちこちで外国語や聞き慣れない方言が飛び交っている。だが、それだけならただの賑わう観光地だ。違和感の正体は、その「空気の重さ」と「価格設定」だった。
「……工藤、あそこの券売機を見ろよ」
オレはパーキングエリア内の簡易食堂のメニュー看板を指差した。ただのきつねそばが1,500円。ごく普通のカレーライスが2,200円。パーキングエリアの自動販売機で売られているペットボトルの茶すら、250円という値段が貼られていた。
「……高いわね」
工藤も冷ややかな目をメニューに向けた。
「いくら観光地のSAやPAだとしても、相場から逸脱しているわ。露骨なインフレ……ううん、インバウンドや観光客を狙い撃ちした価格釣り上げね」
オレたちはパーキングエリアを出て、整備された歩道を歩いて『鏡ヶ浦公園』へと向かった。徒歩で三十分ほど歩くと、目的地である観光エリアに到着した。そこは確かに、遠目から見れば絵画のように美しい場所だった。海に面した断崖絶壁と、そこに立ち並ぶ古い木造の歴史的建築群。
だが、近づくにつれて、その美しさは無残なまでの「狂気」に上書きされていった。
「……これが、工藤の言っていた景観か?」
オレは思わず工藤に尋ねた。工藤は無言のまま、険しい表情で周囲を見回している。
かつて静謐な美しさを誇っていたであろう歴史的建造物の壁面には、派手で巨大な英語と中国語のネオン看板がこれでもかと設置されていた。伝統的な和風建築の中に、外資系のファーストフード店や、怪しげな土産物屋、高級外車レンタカーの店舗が無理やり押し込められている。通りは人、人、人で埋め尽くされ、自撮り棒を掲げた観光客たちが私有地や歴史的建造物の柵を平然と乗り越えて写真を撮影していた。路上にはポイ捨てされたプラスチックカップや食べ残しのゴミが散乱し、強い腐敗臭を放っている。
「……ひどいわね」
工藤の口から、吐き捨てるような言葉が漏れた。
「学生時代に来た頃の名所や景観は、確かに残っているわ。それどころか、テーマパークのように派手に改修されて見た目の魅力だけは上がっているように見える。でも……これはただの消費よ。歴史や文化に対する敬意も保護もない」
昼食を取るため、オレたちは比較的空いている路地裏の小さな定食屋に入った。 だが、メニューを開いたオレと工藤は、思わず顔を見合わせた。
ただの金目鯛の煮付け定食が6,800円。海鮮丼に至っては12,000円。
「……観光地料金というレベルを超えているな」
オレは溜め息をついた。
「地元の人間が昼飯を食うような価格じゃない。完全に観光客の財布を根こそぎ絞り取るための値段設定だ」
「ええ……。そして、この街の住人がどこにも見当たらないわね」
工藤は温かいお茶を一口すすり、冷めた目で店外を通る人々を見つめた。
「居住環境の数値が暴落している理由は一目瞭然よ。物価の異常な高騰、交通渋滞、ゴミと騒音。地元住民は生活を破壊され、街から追い出されているのね。……でも、だからこそ分からないわ」
工藤はコンコン、と人差し指でテーブルを叩いた。
「これだけ観光地として大盛況で、お金を稼ぎまくっているはずなのに、なぜ『文化』のスコアがここまで激減しているの? 表面上の景観を塗り替えて観光客を呼んでいるだけなら、GPCIの評価基準では『文化の発信』として一定のスコアが残るはずよ。何か……決定的な『破壊』が、この街の裏で行われている」
工藤は立ち上がり、伝票を手にした。
「行くわよ、桜律くん。縦ヶ崎の本庁舎へ向かうわ。この街の特総課が何をやっているのか、直接確かめる必要があるわね」
13-2
パーキングエリアに戻り、公用車を回収した。 精算機に駐車券を通したオレは、表示された金額を見て思わず目を疑った。
「……三時間足らずで4,500円かよ。パーキングエリアの料金までも高騰してるな」
オレは財布から千円札を数枚引っ張り出し、機械に放り込んだ。
縦ヶ崎市役所の本庁舎へと車を走らせる。中心部の狂乱のような観光地から少し離れた場所に、縦ヶ崎の庁舎は立っていた。モダンで洗練されたガラス張りの巨大なビルだ。観光収入で潤っていることが一目で分かる豪華な建造物だった。
庁舎の前のコインパーキングに車を停めると、後部座席の工藤が立ち上がった。
「桜律くん。あなたは車内で待機していなさい」
「は? オレも行かないのか?」
「あなたを連れて行っても、受付で時間を取られるだけよ。私が直接、縦ヶ崎の特総課の執務室へ乗り込んで、決裁データとGPCIの項目別内訳の開示を要求してくるわ。その間に、今日泊まるホテルを探しておきなさい」
「ホテル……? まだ決めてなかったのか?」
「志手津の件があったから、縦ヶ崎の滞在時間が読めなかったのよ。ビジネスホテルで構わないわ。公費の範囲内で適当な部屋を二部屋、確保しておきなさい。いいわね?」
工藤はそう言い捨てると、ビシッと整えられたスーツの裾を軽く払い、一人で庁舎の巨大な自動ドアの中へと消えていった。
(……やれやれ、相変わらず人使いが荒い)
オレは溜め息をつき、運転席のシートを倒してスマートフォンを取り出した。 縦ヶ崎市内のビジネスホテルを検索し始める。
だが——検索結果画面をスクロールしていくうちに、オレの顔から余裕が消えていった。
「……おいおい、ウソだろ?」
画面に表示される宿泊料金が、あまりにも狂っていた。 ごく普通の、どこにでもあるチェーン系のビジネスホテル。素泊まり、シングル一泊。
『42,000円』 『58,000円』 『65,000円(残り1室)』
「……は」
思わず声が出た。 高級リゾートホテルの価格ではない。駅から徒歩十五分もかかるような、狭いビジネスホテルのシングルルームの値段だ。 公務員の出張旅費規程で定められている一泊の宿泊費上限は、確か8,000円から10,000円程度だったはずだ。完全に話にならない。
「どこもかしこも価格が釣り上がりすぎている……。観光需要に便乗して、ビジネスホテルまで強気のインバウンド価格に設定してるのか」
条件を緩め、駅から離れた郊外や、築年数の古いカプセルホテルまで検索範囲を広げてみたが、どこも満室か、あるいは信じられないような高額な値段がつけられていた。予算内で泊まれる場所など、画面のどこを探しても存在しなかった。
頭を抱えながら画面と睨めっこすること、およそ一時間。パタン、と公用車のドアが開く音がした。
「……」
戻ってきた工藤が、助手席のドアを開けて乗り込んできた。 後部座席ではなく助手席に乗ってきた時点で、様子がおかしいことはすぐに察しがついた。バックミラー越しではなく、間近で見る工藤の顔は、今まで見たことがないほど不機嫌そうに強張っていた。アイロンの効いたジャケットの袖がかすかに震えており、美しく整えられた眉間に深いシワが刻まれている。
「……工藤? どうした、成果はあったのか?」
オレが尋ねると、工藤は前を見据えたまま、地獄の底から響くような低い声で言った。
「……車を出しなさい。今すぐここを離れるわ」
「え……? ああ、分かった」
オレは急いでエンジンをかけ、パーキングを出て公道へと車を走らせた。
(……何があったんだ?)
工藤の雰囲気が尋常ではない。 工藤という人間は、己の知性や観察力に絶対のプライドを持っている。その彼女が、ここまで苛立ちを隠しきれずに剥き出しにしているということは——相当な「屈辱」を味わわされたということだ。
「……門前払い、か?」
オレが静かに尋ねると、工藤の身体がピクッと跳ねた。
「……余計な口を挟まないでちょうだい、桜律くん」
工藤は窓の外を凝視したまま、硬い声で言い放った。
「縦ヶ崎の特総課は……どうかしてるわ。組織としての体をなしていない。情報開示の請求すら『外部の敗北都市の人間に見せる資料など存在しない』『お前たち澪標の泥船に付き合っている暇はない』と……笑い飛ばされたわ」
工藤の手が、膝の上で固く握りしめられていた。
「挙句の果てには、私に向かって『データが欲しいなら、澪標の残った土地の利権でも持って出直してこい』よ……? 到底、行政職員の言葉とは思えない暴言の数々よ。あの街の特総課は、観光利権で肥え太った業者と完全に癒着し、腐敗し切っているわ」
言葉の端々に、猛烈な怒りと挫折感が滲み出ていた。 志手津の長徳のように「正論で拒絶された」のではなく、縦ヶ崎では「品性のカケラもない侮辱と嘲笑で追い払われた」のだろう。自分のプライドを根底から踏みにじられた工藤の胸中を察すると、声の掛けようもなかった。
「……チッ」
工藤は激しく舌打ちをすると、強引に話題を切り替えた。
「もういいわ。縦ヶ崎の庁舎に期待した私が愚かだった。……それで、桜律くん。私が命じておいたホテルの件はどうなったの? さっさと案内しなさい」
「ああ、それなんだが……」
オレは困り果てた顔で、ハンドルを握り直した。
「一応、努力はしたんだ。だが……どこも予算オーバーだ。ビジネスホテルのシングルで一泊4万から5万が相場になっている。公費の上限じゃ、カプセルホテルすら取れない状態だ」
「……は?」
工藤が冷ややかな目でオレを睨みつけてきた。先ほどの庁舎でのストレスを、そのままオレにぶつけようとしているのが目に見えて分かった。
「何言っているの、あなた? 調べ方が甘いんじゃないかしら? 検索の条件設定や、エリアの絞り込みを正しく行えば、いくらでも空き部屋や適正価格のプランは見つかるはずよ。……これだから、能力が中の中の人間は困るのよ。事務処理能力も情報検索能力も、すべてにおいて詰めが甘いわ。私に貸しなさい!」
工藤はそう捲し立てると、オレの手元にあったスマートフォンを強引にひったくった。ほとんど人格否定に近い暴言だったが、今の工藤に反論しても火に油を注ぐだけだ。オレは無言でハンドルを握り続けた。工藤は端末の画面を勢いよくタップし、自分が探して見せると言わんばかりに高速でスワイプし始めた。
「全く、こんな基本的な検索すらまともにできないなんて……条件を直して、と……」
数秒後。
工藤の指が、ピタリと止まった。
「……っ!?」
助手席から、かすかな息を飲んだような声が聞こえた。オレがちらりと横目で見ると、工藤は画面に表示された金額の数字を穴が開くほど見つめ、目を見開いていた。
「なっ……何よ、この価格は……!? シングルで58,000円……!? 10,000円以下の物件が……ゼロ……!?」
「言ったろ。観光需要で跳ね上がってるんだ。どこも異常なインフレを起こしてる」
工藤は顔を真っ赤にし、必死になって画面を何度も何度もスワイプし始めた。プライドにかけて、安価な部屋を探し出そうとしているのが伝わってくる。だが、現実は非情だった。どれだけ条件を広げても、画面に出てくるのは満室か数万円台の超高プランだけだった。
「くっ……! こんな……こんな馬鹿げたことがあってたまるかしら……!」
端末と格闘すること十分。 不意に、工藤の指が動きを止め、画面を固視した。
「……見つけたわ」
工藤がどこかぎこちない声で言った。
「安くて……しかも部屋が空いている場所があったわ」
「本当か? いくらだ?」
「一泊……8,800円よ。公費の範囲内ぴったりよ」
工藤はそう言うと、端末の画面をオレの方へ向けて見せてきた。 だが、オレは運転中だったため、画面に直接目を落とすことはせず、前方を見つめたまま尋ねた。
「……工藤。そのホテルの名前、なんて書いてある?」
「え? ええと……『ホテル・パティオ』と書かれているけれど……」
「……それ、レジャーホテルじゃないのか?」
「……っ!?」
助手席で、工藤が息を詰まらせる気配がした。
(……やっぱりか)
縦ヶ崎のような過密な観光地で、一般のビジネスホテルが5万円に跳ね上がっている中で、一泊8,000円台で空いている部屋など、そういう特殊な需要のホテルくらいしかない。オレの内心は、驚きと呆れで一杯だった。 まさか、あのプライドの塊のような、スキのない同期の女子である工藤から、出張先でレジャーホテルに泊まるという提案が出るとは夢にも思っていなかった。
(……もしこんなことが課内にバレたら、飯田や山彦、田辺たちに一生邪推されかねない……)
そんな思考が頭をよぎったが、オレは努めて平静を装い、変な空気にならないように淡々とした口調で問いかけた。
「公費で落とす以上、あとで旅費精算の書類にホテル名を記載して提出しなきゃならない。別に上司の精算チェックはないから、飯田たちがわざわざその書類を細かく読み込むような奴らじゃないとは思うが……見ようと思えば見られるぞ。いいのか?」
オレの問いかけに、工藤は露骨に動揺していた。 端末を持つ手がかすかに震え、頬がほんのりと朱に染まっているのが分かった。自分のミスと不覚を悟り、パニックになりかけているらしい。
「あ……あら、何言っているのよ、桜律くん!」
工藤は動揺を隠すように、急に声を張り上げた。
「別になんの問題もないわ! 宿泊領収書さえ出れば、行政の旅費精算上は単なる『宿泊費』として処理されるわ! 飯田くんたちが人の精算書をチェックするはずもないし、何よりこの異常な価格高騰の中で予算内に収めるための『合理的かつ緊急避難的な措置』よ! 文句を言われる筋合いはないわ!」
「いや、だがな——」
「別室で取れば何の問題もないわ! シングルを二室借りればいいだけの話でしょう! ほら、さっさと車を向けなさい!」
工藤はオレの反論を遮り、無理やりナビの目的地をそのホテルへと設定した。
13-3
ナビの指示に従って車を走らせると、観光地の喧騒から外れた、薄暗い山道の脇にそのホテルは立っていた。ピンクと紫の怪しげなネオンがぼんやりと点灯している、一目でそれと分かる建物だった。
「……ここだな」
オレはハザードを点けて車を停めた。 工藤は車から降りると、まるで戦場に殴り込むかのような悲壮感を漂わせ、早足で受付の自動ドアへと向かった。オレもその後に続いた。受付は、顔が見えないように小さな小窓だけが開いている典型的な構造だった。 工藤は小窓に向かって、食い気味に声を張り上げた。
「すみません! 部屋を二室借りたいのですけれど! 別室で! 完全な別室で二人分お願いします!!」
強調しすぎるほど「別室」を連呼する工藤。 小窓の奥から、中年女性のスタッフが顔を覗かせた。
言葉には出さなかったが、スタッフの顔にはあからさまに「怪しい奴ら」「面倒くさい客」という困惑と呆れが浮かんでいた。ビジネススーツを着た男女が夕方にやってきて、必死の形相で別室を叫んでいるのだから当然だ。
「……あー、はいはい。別室ね。ちょっと待ってくださいね……」
スタッフはパソコンの画面をパチパチと操作し始めた。 工藤は胸を撫で下ろし、オレに向かって「ほらね、問題ないでしょう」と言わんばかりのドヤ顔を向けてきた。だが、数秒後。 スタッフが申し訳なさそうに小窓から顔を出した。
「お姉さん、ごめんねぇ。今日、観光客が流れ込んできててさ。部屋、あと一室しか空いてないわ」
「……は?」
工藤の顔から血の気が引いた。
「一室……? 一室しかないのですか!?」
「ええ。一番広いVIPルームが一室だけ空いてるけど、どうする? 他のホテルはどこも満室だよ?」
絶体絶命の状況だった。 オレは工藤の顔色を伺いながら、助け舟を出すつもりで提案した。
「……工藤。最悪、オレは車中泊でもいいぞ。公用車の後部座席で寝れば——」
「却下よ!!」
工藤は間髪入れずに叫んだ。
「そんなこと認められるわけないでしょう! 同行者のあなたを車中泊させて、自分だけ部屋で寝るなんて、私の正義感と美学が許さないわ! それに、出張中の職員の健康管理と安全確保は私の責任よ! 車中泊で体調を崩されたら、明日からの調査に支障が出るわ!」
「いや、でも一室しかないんだぞ……?」
「……特別室なら、部屋もベッドも広いはずよ。問題ないわ!」
工藤は半ばやけくそ気味に財布からクレジットカードを取り出すと、受付のトレーに叩きつけた。
「その一室をお願いします!」
スタッフは「はいはい、毎度」と慣れた手つきで手続きを進めた。鍵を受け取り、エレベーターに乗って最上階の部屋へと向かう。 ドアを開けた瞬間、オレと工藤は同時に言葉を失った。
「…………」
「…………」
部屋の中は、息が詰まるほど妙に官能的な空間だった。 薄暗い赤紫色の間接照明が室内を照らし、壁には巨大な液晶モニターと本格的なカラオケ設備。アメニティコーナーには怪しげなローションやコスチュームのレンタルカタログがズラリと並んでいる。そして何より惨烈だったのはお風呂だった。 無駄に広く、バブルバス機能がついた豪華なジャグジーが付いているのだが——部屋と浴室を隔てる壁が完全な全面透明ガラス張りだった。中からでも部屋の中が丸見えであり、部屋からも浴室の中が丸見えという、地獄のような仕様だった。
「……ふ、ふん。まあ……広い部屋ね」
工藤がひくついた声で言った。視線は絶対にアメニティ棚やガラス張りの風呂に向けようとしない。
「そうだな……無駄に広いな」
オレも必死で感情を殺し、無難な返答をした。工藤は咳払いを一つすると、早口で言った。
「私……少し外で食事をしてくるわ! 桜律くん、あなたは先にシャワーでも浴びておきなさい! いいわね!?」
「あ、ああ……分かった」
工藤はオレの返事を聞くか聞かないかのうちに、逃げるように部屋を飛び出していった。
オレは溜め息をつき、スーツを脱いで脱衣所へと向かった。透明なガラス張りの風呂場に入り、シャワーを捻る。中から部屋全体が見渡せる構造に「なんて地獄みたいな空間だ」と内心で毒づきながら、カラスの行水のごとく手短に洗髪と洗体を済ませた。
服を着て部屋に戻り、ベッドの端に腰掛けた。 工藤が部屋を出て行ってから、きっちり二時間が経過していた。
カチャリ、とドアが開く音がして、工藤が戻ってきた。
「……上がったのね」
「ああ。シャワーは済ませた。……じゃあ、今度はオレが外で飯を食ってくる」
「ええ。行ってらっしゃい」
工藤と入れ替わるように、オレは部屋を出た。ホテルの近所にあるコンビニで温かい弁当と茶を買い、駐車場の隅で静かに胃の中に放り込んだ。 少し早い戻りになるか……と思い、夜の冷たい風を浴びながら適当に時間を潰そうかと考えた、その時だった。
ポケットの中でスマートフォンが震えた。 画面を見ると、工藤からメッセージが届いていた。
『事務連絡があります。至急部屋に戻りなさい』
わざわざ「事務連絡」という堅苦しい体裁を取っているが、要するに「もう戻ってきて構わない」という工藤なりの許可と配慮なのだと理解した。
オレはスマートフォンをポケットに仕舞い、エレベーターに乗って部屋へと戻った。
13-4
部屋に戻ると、工藤はすでにバスローブ姿……ではなく、持ち込んでいた長袖のジャージとスウェットという、スキのない完璧な防寒着に身を包んでいた。髪も乾かされ、きちんと後ろで結ばれている。
「戻ったわね、桜律くん」
「ああ。事務連絡って何だ?」
オレが尋ねると、工藤は机の上の端末を指差した。
「明日の予定の確認よ。明日は縦ヶ崎を出て、隣接する九井へ向かうわ。……以上よ」
(……本当に確認しなくてもいいような連絡だな)
オレは内心で苦笑したが、口には出さなかった。工藤も、この部屋の異様な空気と気まずさを和らげるために、わざと仕事の会話を挟みたかったのだろう。
「了解した。九井だな。明日の朝一番で車を出す」
さて、最大の問題は「どこで寝るか」だった。部屋の中央に鎮座しているベッドは、当然ながら一つしかない。キングサイズほどの巨大なベッドだが、一つは一つだ。オレは部屋の隅にあるリラックススペースのソファを見やった。
「オレはあのソファで寝るよ。横になれば十分眠れる」
そう言ってソファへ向かおうとした時だった。
「……待ちなさい、桜律くん」
工藤が真顔でオレを引き止めた。
「何だ?」
「そのソファ、見た目よりも奥行きがなくて硬いわ。そんなところで寝たら明日確実に腰を痛めるわよ。ドライバーであるあなたに万が一のことがあったら、明日の九井への移動に支障が出るわ」
「だが、ベッドは一つしかないぞ」
「このベッドのサイズを見なさい」
工藤はベッドの端をポンポンと叩いた。
「横幅が2メートル以上あるわ。あなたが左端、私が右端で距離を取れば、物理的に接触する可能性はゼロよ。中央に掛け布団をもう一枚挟んで境界線を作れば、十分眠れるスペースが確保できるわ。……合理的に考えて、ソファで寝る意味がないでしょう?」
謎の説得力と、寸分の狂いもない正論?だった。
「……確かに?」
工藤の理屈っぽい攻勢に押され、疲労も限界に達していたオレは、「まあ、確かにスペースはあるか……」と無理やり自分を納得させてしまった。工藤は用意されていた予備の毛布をベッドの中央に筒状にして配置し、完璧な境界線を作り上げた。
「いいわね、桜律くん。この境界線を越えたら……承知しないわよ」
「越えるわけないだろ」
部屋の照明を落とし、常夜灯だけの薄暗い空間になった。工藤が右端の布団に入り、オレは左端の布団に入った。 距離は確かに1メートル以上離れている。だが——
(……寝れるわけがないだろ、こんな状況で)
天井を見つめながら、オレは内心で頭を抱えた。静まり返った部屋の中に、隣から聞こえる工藤のかすかな衣擦れの音や、規則正しい息遣いが嫌でも耳に届いてくる。 さらに、ここはレジャーホテルだ。ときおり廊下や壁の向こうから、かすかな重低音の音楽や謎の機械音が響いてくる。
工藤の方を盗み見ると、彼女もまた身体を硬直させ、天井をじっと見つめたまま身じろぎ一つしていなかった。工藤もまた、全く眠れていないのが丸わかりだった。
時間が永遠のように長く感じられた。目を閉じても、縦ヶ崎の街並み、門前払いされた工藤の悔しそうな顔、レジャーホテルの怪しげなネオン、そしてすぐ隣にいる同期の気配が頭の中でぐちゃぐちゃに混ざり合い、脳が覚醒し続けている。
結局、浅い眠りと覚醒を何度も繰り返すハメになった。 うとうとしては妙な音で目を覚まし、時計を確認してはまだ数分しか経っていないことに絶望する。
朝、窓の外が白み始めた頃。 オレは寝不足で重くなった頭を起こした。朝まで寝ていた時間よりも、目を覚ましていた時間の方が圧倒的に長かった。隣を見ると、工藤もすでに目を開けており、目元には薄っすらと隈ができていた。
「……おはよう、工藤」
「……おはよう、桜律くん。さっさと準備をして、九井へ向かうわよ」
工藤は何事もなかったかのように言い放ち、ベッドから立ち上がった。縦ヶ崎の歪んだ狂気と、狂った価格の夜が、ようやく明けようとしていた。




