第14話 他都市の視察3
14-1
四月十五日。縦ヶ崎にひっそりと佇むレジャーホテルの駐車場で、オレは公用車の運転席に座り、暖気をしながら工藤が戻ってくるのを待っていた。
昨夜のあの異様な空間と、巨大なベッドを二つに割った境界線の記憶が、寝不足の重い頭にまだ不快に残っている。朝の澄んだ空気を吸い込んでも、脳の奥にこびりついた疲労感はなかなか消えてくれなかった。
助手席のドアが開き、工藤が乗り込んできた。すでにフロントでの精算を済ませてきたらしく、手には領収書と自分の荷物を抱えている。目元には隠しきれない隈がうっすらと浮かんでいたが、その背筋は相変わらず定規を当てたようにピンと伸びていた。
「待たせたわね、桜律くん。精算は完了したわ。領収書は『宿泊代』名義で発行させたから、旅費精算上の問題は一切ないわ」
「……そりゃよかった。ところで工藤……オレの仕事が溜まってるみたいなんだが……」
工藤は助手席に腰を下ろすと、眉間にシワを寄せた。彼女に手元にある端末を見せる。
「山彦からだ。「早く戻らないと仕事が溜まる一方だぞ」ってな。話が違うんだが。」
「……? 何か問題でもあるのかしら?」
「ある、大アリだ。そもそもオレは出張に無理やり引っ張り出されたんだぞ。お前も柊たちがこなしてくれるって……」
「そうね、こなしてくれるみたいだわ。私の分を」
「は?」
オレは思わず片眉を跳ね上げた。
「……あなたの分は彼らの請負リストに無かったのだから。仕方ないでしょう。」
「ふざけるな。騙し討ちだ。」
「ちゃんと確認しないあなたが悪いわ」
オレは内心で溜め息をついた。柊や国宮は工藤に調査依頼を出してはいたがオレには出していない。オレはあくまで工藤に引っ張り出されただけだからな。だから、そんなやつを面倒見る余裕はないと。世知辛い話だ。
「……それより桜律くん、何か他に調べていたの?」
「ん? ああ。少しな」
オレは端末の画面をスワイプし、公表されているデータテーブルを工藤に見せた。
「縦ヶ崎のデータと併せて治牧の公開職員プロフィールを閲覧してたんだ。治牧が擁する四十名の特総課職員のデータだ」
「治牧の四十人……。確かサバキネコが言っていた、他都市から大量に移籍したっていう」
「それだ。データを見る限り……志手津、九井、縦ヶ崎、そして我が澪標。今年度、これらの都市の特総課に配置された職員は、オレや工藤を含めてほぼ例外なく『二十四歳の代』……つまり去年新卒で採用された、行政実務の経験が浅い若手ばかりだった。」
指先が、治牧のリストを辿る。
「ところが、治牧の四十名は違う。全員が社会人経験を持ち、年齢層も二十代後半から四十代までバラつきがある。完全な『即戦力集団』だ。そして……」
オレは画面の一部を拡大した。そこには、見覚えのある名前が数行にわたって並んでいた。
「小林……三河……曽賀……他にも。間違いなく、ウチの特総課から消えた5人全員の名前がある。」
「本当ね……」
オレは呟いた。浦部から聞いた噂や、サバキネコの告発は紛れもない事実だったのだ。澪標をはじめとする周辺都市から人を、利権を、技術を吸い上げ、治牧だけが歪な形で肥大化している。
「ええ。サバキネコの配信は単なる煽りではなく、極めて正確な内部情報に基づいているということよ。……さて、行きましょうか、桜律くん。次の目的地へ」
14-2
縦ヶ崎を出て、高速道路と幹線道路を乗り継ぎ、数時間車を走らせた。車窓の風景は、観光地の賑やかな装いから一変し、近未来的な整然とした都市景観へと姿を変えていった。
「ここが……九井か」
ハンドルを握りながら、オレは周囲の光景に圧倒されていた。立ち並ぶ建造物の大半が、流線型のガラスと白い鉄骨でデザインされた最先端の研究ビルや研究開発センターだ。路上を走る車も電気自動車や自動運転の実験車両が多く、歩道を歩く人々もIDカードを首から下げた研究者や、タブレットを手に歩く学生らしき若者ばかりだった。
「九井は国家級の最先端研究所、国立大学、大手AI・バイオ企業の研究機関が集積する、国内最高峰の知性都市よ」
後部座席から工藤が解説する。
「住民の過半数が研究者、エンジニア、学生で構成されているわ。九井大学を中核にして、未来技術の発信地として君臨してきた街よ。……それにもかかわらず」
工藤は端末をタップした。
「今年のGPCI発表で、九井はR&D項目のスコアが前年比で著しく減少しているの。都市の根幹であるはずの研究開発能力が、なぜこれほど急激に失われているのか……志手津や縦ヶ崎とはまた異なる歪みが、ここにはあるわ」
「で、具体的にどこへ向かうんだ? 特総課の執務室か?」
「いいえ。縦ヶ崎の二の舞を避けるためにも、まずは現場の研究関係者から直接話を聞くわ。私の母校でもある九井大学へ向かいなさい」
「母校……? 工藤って九井大の出身なのか?」
オレが驚いてバックミラーを見ると、工藤は心底心外だと言わんばかりに冷ややかな目を向けてきた。
「何かおかしいかしら、桜律くん? 私の学歴を教えていなかったかしらね。私は九井大学法学部の出身よ」
「いや、すごいなと思ってさ。九井大といえば国内屈指の難関だろ。やっぱり頭いいんだな」
「……ハッ」
工藤は短く鼻を鳴らした。
「世間一般の浅薄な学歴信奉は唾棄すべきものね。単純な入試偏差値や大学のネームバリューなど、個人の実務能力や論理的思考力の証明には何の足しにもならないわ。第一、単に『大学の偏差値』という指標だけで語るなら、うちの課には東の首都圏にある国内最高峰の大学を出ている世良くんがいるでしょう。学歴のラベルだけで人間を評価するなんて、ナンセンス極まりないわ」
(……相変わらず容赦のない正論だな)
世良の出身大学を引き合いに出してオレの世間一般論を完璧に切り捨て、二重に反論の隙を潰してくるあたり、実に工藤らしかった。オレは「そうだな」とだけ返して、ナビに九井大学のキャンパスを設定した。
大学の広大なキャンパスに入り、指定された法学部の研究棟へと向かった。 工藤に連れられて訪れたのは、とある老教授の執務室だった。
「失礼します、教授」
「おお、工藤君か。久しぶりだね」
部屋の中から現れたのは、白髪交じりの髪に眼鏡をかけた、温和そうな教授だった。工藤が事前に連絡を入れていたらしく、訪問はスムーズに進んだ。オレは工藤の隣で「澪標市特総課の桜律です」と短く挨拶を済ませ、手帳を取り出した。
工藤は無駄な雑談を一切省き、本題を切り出した。
「教授、単刀直入にお伺いします。今年のGPCIにおいて、九井のR&Dスコアが異常な下落を見せています。大学や民間の研究機関から、多数の理系・デジタル系研究者が他都市……特に治牧へ移籍していると聞きましたが、現場で何が起きているのですか?」
教授は深く溜め息をつき、眼鏡を外して眉間を揉んだ。
「……工藤君、君の耳にも入っていたか。実は私も詳しい内部事情まで把握しているわけではないのだが……酷い状況だよ」
「酷い状況、とは?」
「数ヶ月前だ。市の特総課の人間を名乗る者が、我々の研究室や連携している先端技術機関にやってきてね。『本市の財政再建および重点事業見直しのため、国家級AI育成プロジェクトを含む主要R&D予算の打ち切りが決定した』と通告してきたのだよ」
「予算の打ち切り……」
オレは思わず声を漏らした。九井の生命線であるはずの研究予算を、行政自らが打ち切るなどあり得ない。「ええ」と教授は頷いた。
「当然、研究者たちは大パニックになった。研究を継続できなくなれば、彼らのキャリアも研究成果も台無しになる。……そして、まさにその予算打ち切りが告げられた直後だよ。治牧市の関係者や関連研究機関から、タイミングを見計らったかのように凄まじい条件でのヘッドハンティングが届いたのだ」
「……」
「潤沢な研究費、最新の設備、そして破格の待遇。研究を奪われかけた若い研究者やエンジニアたちが、こぞって治牧へ移籍していったよ。それだけじゃない。九井に本社や開発拠点を置いていた先進技術企業までもが、相次いで治牧へ本社機能を移転させてしまったんだ。街から知性が根こそぎ買い叩かれているようなものだよ……」
教授の話を聞き終えたオレと工藤は、重い沈黙とともに研究棟を後にした。
「……完全に繋がったわね」
キャンパスを歩きながら、工藤が冷徹な声で言った。
「特総課による予算打ち切りの通告と、治牧からの間髪入れぬヘッドハンティング。偶然で片付けられる話ではないわ。九井の特総課内部で、意図的な暴言と誘導……あるいは何らかの自爆工作が行われている。縦ヶ崎のような腐敗とも違う、より組織的で悪質な手が使われているわ」
「……ああ。本庁舎へ行こう、工藤。九井の特総課が何を考えているのか、確かめる必要がある」
14-3
九井市役所の本庁舎は、都市のシンボルにふさわしい、白を基調とした巨大なハイテクビルだった。縦ヶ崎の時は車内待機を命じられたオレだったが、今回は工藤も何も言わず、当たり前のようにオレを伴って正面玄関をくぐった。縦ヶ崎での門前払いや暴言の件があり、一人で乗り込むリスクを避けたのか、あるいはオレをただの「壁」として側に置いておきたかったのか。真意は分からないが、同行を拒否されなかったのは好都合だった。
1階の総合受付へと向かい、オレたちは職員証を提示した。
「澪標市特総課の工藤と桜律です。九井市特総課の責任者、またはGPCI担当者への面会を要求します」
受付の女性スタッフは、オレたちの提出した身分証と「澪標」という都市名を見た瞬間、あからさまに困惑の表情を浮かべた。ネットに晒されている澪標からの訪問者に対し、どう対応すべきか決めあぐねている様子だった。
「あ、あの……特総課へのお取次ぎにつきましては、事前にアポイントメントをいただいていないと……」
受付がタジタジになっていると、後ろの自動ドアから一人の男が歩み寄ってきた。
シャープなスーツを着こなし、短く整えられた髪に、尖ったような鋭い視線をたたえた男だった。男はオレたちの前に立ち、警戒心と不信感を丸出しにした厳しい目つきで、上から下まで舐めるように観察してきた。
「……何事だ?」
男は受付に問いかけつつ、視線はオレたちから一切外さなかった。
「あ、明治さん……。こちら、澪標市の特総課の方々が、担当者への面会を求めておられまして……」
「澪標……?」
明治と呼ばれた男の眉根が、不快そうに歪んだ。
「破綻寸前の澪標が、我が九井の特総課に何の用だ? 受付の前で職員を困らせるな。怪しい連中の相手をしている暇は、今の九井にはない。お引き取り願おうか」
最初から完全な拒絶のスタンスだった。 だが、相手が対話拒否で来ようとも、工藤が引くはずもなかった。
「不躾な対応ね、九井市の職員さん」
工藤は一歩前に出ると、冷ややかな笑顔を浮かべて明治を見つめ返した。
「私たちは行政間の正式な情報交換および現地調査として訪れているわ。門前払いをするというのなら、明確な法令上の根拠と拒絶理由を書面で提示してちょうだい。拒絶の正当性が証明できない場合、九井市特総課の不誠実な対応として記録に残させていただきますけれど?」
「言いがかりをつけるな!」
明治の声が跳ね上がった。
「お前たちのような沈む泥船の人間が、他都市の行政データを探ってどうするつもりだ? どうせ自分たちの失政を他人のせいにするためのネタ探しだろう! 対話に応じる価値すらない!」
「論理的な拒絶理由になっていないわね。感情論で対話を拒むのは、行政職員としての資質を疑うわ」
二人の押し問答が始まり、ロビーの空気が急速に緊迫していった。周囲を通る職員や市民たちが、「何事だ?」と遠巻きに足を止め始め、小さな人だかりができつつあった。
(……どうして工藤はどこでも衝突するのだろうか)
オレは工藤の肩を少し叩き、「工藤、一旦引いて出直した方が……」と尋ねようとした、その時だった。
「——明治くん」
人だかりを割って、一人の女性職員が歩み寄ってきた。
仕立ての良いネイビースーツを身にまとった女性だった。艶やかな髪をたなびかせ、整った容姿には華があり、何よりその場を包み込むような温かいオーラを纏っていた。
「明治くん。警戒する気持ちや、今の九井が置かれている状況に対する焦りは分かるよ。でも……遠くから足を運んでくださった他都市の職員の方を、受付で門前払いするのは行政として失礼じゃないかな……?」
「高山……!」
明治が苦々しい顔で振り返った。
「だが高山、こいつらは破綻寸前の澪標から来たんだぞ! どんな意図を持ってデータを探りに来ているか分かったもんじゃない!」
「だからこそ、きちんとお話を聞くべきじゃない?」
高山と呼ばれた女性は、人懐っこい、柔らかな笑みを浮かべた。
「隠すようなことがないのなら、対話の姿勢を見せるのが筋だよ。疑心暗鬼になって扉を閉ざすのは、九井の評判を自ら落とすことになっちゃうんじゃないかな」
「っ……! しかしだな……!」
明治は何度か反論を試みようとしたが、高山の筋の通った、かつ穏やかな論破の前にぐうの音も出ない様子だった。高山は明治の警戒心に理解を示しつつも、退路を完璧に絶つ形で説得を重ねていた。
「……ちっ。高山がそう言うなら……俺は何も言わん」
明治は最後にそれだけ言い残すと、不機嫌そうに背を向け、エレベーターの中へと消えていった。残された高山は、困惑する周囲の人だかりに「お騒がせしました」と優しく一礼して散らせると、オレたちに向かってくるりと振り返った。
「驚かせてしまってごめんなさいね。九井市特総課の高山陽菜です。ようこそ九井へ」
彼女の完璧な笑顔と、爽やかな挨拶に、オレは一瞬言葉を失いかけた。
「……澪標市特総課の工藤花菜よ。こちらは同行の桜律雅輝。……助かったわ、高山さん」
「いいえ、お気になさらないで。……お二人とも、ここでは立ち話もなんですもの。応接室でお茶でもいかがかしら?」
14-4
案内されたのは、本庁舎の上層階にある整然とした個室応接室だった。高山が「少々お待ちくださいね」と書類の準備のために部屋を外すと、オレと工藤はソファに腰を下ろした。
「……工藤。あの高山って人、知り合いなのか?」
オレが尋ねると、工藤は腕を組み、どこか複雑そうな表情で頷いた。
「知り合い……というほど深い接点があったわけではないわ。でも、知ってはいたわね。彼女は私と同じ、九井国立大学の出身よ。学部は経済学部だったから、法学部の私とは何一つ接点はなかったけれど……キャンパス内ではかなり有名な人だったわ」
「有名人?」
「ええ。学業成績が優秀なだけでなく、サークル活動や学生会の取りまとめ、産学連携プロジェクトのリーダーまでこなしていたわ。容姿端麗で男女問わず人気があって……名前を聞いたことがない学生はいなかったくらいよ。本人を直接見るのは、今日が初めてだけれどね」
(……なるほどな)
工藤が他人の能力や存在をここまで素直に認めるような口ぶりをするのは珍しい。あの完璧主義の工藤に一目置かせるだけの器量が、高山陽菜という人物にはあるということだ。やがて、カチャリとドアが開き、高山がお茶の載ったトレーを手に戻ってきた。
「お待たせしました」
高山は人懐っこい微笑みを浮かべながら、オレたちの向かい側のソファに優雅に腰掛けた。工藤は待ってましたとばかりに、すぐに身を乗り出した。
「高山さん。さっそく本題に入らせてもらうわ。私たちは九井のGPCIスコア……特にR&D項目の激減について調査に来ているの。先ほど大学の教授からもお話を伺ってきたけれど、特総課から予算打ち切りの通告があったというのは本当かしら? 決裁データと内訳の開示をお願いしたいのだけれど」
工藤の鋭い要求に対し、高山は嫌な顔一つせず、最後まで相槌を打ちながら静かに聞き届けた。工藤の言葉が途切れると、高山は「なるほど」と深く頷いた。
「工藤さんの仰りたいこと、そしてお困りの状況はとてもよく分かりました。研究者の流出やスコアの下落について、他都市の方から見れば疑問に思われるのも当然ですね」
高山は一口お茶をすくうと、フッと柔らかく目を細めた。
「でも……工藤さん。一方的にそちらの欲しい情報だけをお出しするのは、少し不平等だと思わないかな?」
「……」
工藤の眉がピクリと跳ねた。高山は責めるようなトーンを一切混ぜず、まるで親しい友人に優しく諭すような口調で言葉を続けた。
「澪標さんも、今とても大変な状況だと伺っています。人口減少、そして特総課の職員さんの異動……。私たち九井も、自分たちの状況を正しく把握し、今後の対策を立てるために他都市の生の情報を必要としているの。お互いに持っている情報を開示し合う『情報交換』という形であれば、私も責任を持って特総課の内部データをお見せできるのだけれど……どうかな?」
完璧な立ち回りだった。 拒絶するのではなく、相手の要求に共感を示した上で、「ギブ・アンド・テイク」の土俵へ引きずり込む。断れば「こちらが不誠実である」ということになり、受け入れざるを得ないように逃げ場を一つずつ綺麗に潰していく。
(……さて、工藤はどうするんだろうか)
オレは内心で唸った。実務能力の高さと論理的思考は工藤と同等、それでいて国宮のような圧倒的なコミュ力と愛嬌を備えている。だが国宮と決定的に違うのは、工藤のようなプライドの高い人間をも不快にさせず、納得させた上でスッと距離を詰め、主導権を握ってしまう点だ。
工藤は数秒間、じっと高山の目を見つめて思考を巡らせていたが、やがて小さく溜め息をついた。
「……分かったわ。その条件を受け入れるわ」
「ありがとうございます。嬉しい!」
高山はぱっと花が咲くような笑顔を見せた。
工藤は腹を括り、澪標の悲惨な現状を包み隠さず話し始めた。
「表に出ている莫大な負債に加えて、市が進めていた主要プロジェクトがほぼお蔵入り状態になっているわ。それだけではなく、過去の文化財や重要インフラが次々と民間へ売却され、人口も過去最高ペースで流出している。……そして、表には出ていないのだけれど、先日我が特総課からも5名の職員が他都市へ移籍したわ。残された人間は、市民からの苦情電話の対応に追われ、本来の特総課としての業務すらまともに回っていないのが現状よ」
隣で聞いていたオレは、口を挟まず黙って頷いていた。工藤の話を一字一句メモしながら聞いていた高山は、「そんなに……」と痛ましそうに胸に手を当てた。
「お辛い状況ですね……。教えてくださってありがとうございます。では、約束通り、こちらの九井の状況をお話ししますね」
高山は手元のバインダーを開いた。
「九井のR&Dスコア激減についてですが……調査を進めた結果、特総課の内部で信じられないような不正が発覚したんです。過去数ヶ月の間に、本市が保有していた有望な特許関連の権利が、特定のペーパーカンパニーへ『格安』で売却されていた履歴が残っていました」
「格安での特許売却……!?」
工藤が目を見開いた。
「ええ。さらに、水面下で治牧市との共同開発予定として進められていた先端AIプロジェクトがあったのですが……今年の3月頃、成果物のデータと核心技術が突然システムから引き抜かれ、治牧側の新プロジェクトとして勝手に発表されてしまったんです。九井市側には莫大な開発予算の拠出履歴だけが残され、成果だけを丸ごと奪われた形です」
高山の口から語られる内容は、絶句するものばかりだった。
「そして、先ほど大学の教授からお聞きになった『予算打ち切り』の件ですが……そんな決定は、九井市の公式な決裁ルートのどこにも存在しませんでした」
「……何ですって!?」
「完全なデマです。特総課の人間を名乗る人物が、研究機関や企業を直接回り、『もうすぐ予算が切れるから、早く他所へ移った方がいい』と嘘の情報を流して焚き付けていたんです。課内で犯人を特定しようと調査したのですが……幸か不幸か、現在の九井の特総課内にはそんな指示を出した人物はいませんでした」
「……どういうことだ?」
オレは思わず尋ねた。高山はオレの方を向き、静かに答えた。
「消去法で残った結論は一つです。今年度に入る直前……3月末に、九井の特総課から他都市へ移籍していった『年上の先輩職員5名』。彼らが去り際に、偽の情報を現場に撒き散らし、研究者たちを治牧へ流すように工作していたんです。現在、九井市には使い道のない莫大な研究暫定予算だけが口座に取り残され、肝心の研究者が誰もいないという……歪な事態に陥っています」
(……やっぱりか)
オレの頭の中で、すべてのピースがカチリと噛み合わさった。志手津で浦部がペラペラと喋っていた「長徳が未遂に防いだ内部工作」。 縦ヶ崎で起きていた狂気的なインフレと庁舎の腐敗。そして、この九井での偽情報の流布と技術・予算の強奪。
治牧へ移籍した元職員たちが、移籍前の各都市で意図的に行政機能を破壊し、資源や人材を治牧へ集中させるための「自爆工作」を仕掛けていたのだ。確信へと変わった。
「……ひどい話ね」
工藤が低く恐ろしい声で言った。
「行政の信用を失墜させ、都市の未来を壊してまで、自分たちの移籍土産にしたというわけね……」
「ええ。本当に悔しいです」
高山は悲しそうに眉をひそめたが、すぐに表情をキリッと引き締めた。
「工藤さん、桜律さん。お二人は明日、どちらへ向かわれるご予定ですか?」
「明日は……これらの工作の元締めである『治牧』へ直接向かうわ」
工藤の答えを聞いた高山は、少し考え込むようにあごに手を当てた。
「……少し待っていただけますか?」
高山はそう言うと、応接室を飛び出していった。数分後、戻ってきた高山の手には、小さめのボストンバッグと外套が握られていた。
「工藤さん、桜律さん。もしよろしければ……私も明日からの治牧への調査に、同行させていただけないかしら?」
「え……?」
オレと工藤は思わず声を揃えた。
「九井の技術と成果がどのように治牧で使われているのか、この目で確かめたいの。それに、複数の都市の特総課が連携して現地に入れば、治牧側も簡単には門前払いできないはず。でしょう?」
高山の提案は極めて合理的だった。 オレは隣に座る工藤に視線を投げかけた。選択を委ねることにした。
「……そうね。私も反対する理由はないわ。同行を許可するわ、高山さん」
「ありがとうございます!」
高山は嬉しそうに微笑んだ。こうしてオレたちは互いの連絡先を交換し、その日は九井の本庁舎を後にすることになった。車に戻り、エンジンをかける。 明日はついに、すべての歪みの中心地——治牧へと足を踏み入れる。
オレと工藤、そして高山陽菜を加えた三人での調査が、始まろうとしていた。




