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第15話 他都市の視察4

15-1


 公用車のアッパーグリルが叩きつける夜風を切り裂き、黒塗りの車体が高速道路の車線を静かに滑っていく。目的地は治牧。かつて西部地域に等しく1兆円の初期予算が投じられ、共にメガロポリス計画のスタートラインに立ったはずの5都市の一つ。だが、1年という歳月が過ぎた今、そこは絶大な一強体制を誇る「大都市」へと変貌を遂げていた。

 フロントガラス越しに見える夜の闇の向こう側、はるか遠方の地平線が、異常な明度の群青色に染まっている。あれは都市から漏れ出す夜間照明の光害だ。まだ治牧の市境まで数十キロメートルはあるというのに、空の背景だけがまるで昼間の名残を残しているかのように明るい。ハンドルを握るオレの背後、後部座席では、工藤と高山の二人が、治牧の最新公開データを端末で確認しながら静かな会話を交わしていた。


 「……改めて見ても、異常な数字ね」


 工藤の冷ややかな声が、シートの隙間を縫って運転席へ届く。端末の液晶画面が発する青白い光が、彼女の横顔を硬質に照らし出している。


 「治牧の最新GPCIスコアは1,430。初期の590から比べると、840ポイントも跳ね上がっているわ。経済スコアは120から450へ、4倍近くの伸び。交通も350、R&Dも280と、それぞれ3倍以上に急成長を見せている。文化スコアにしても180と、2倍以上の数値を出しているわね」

 「うん……本当に異様だね」


 高山が静かな、けれど隠しきれない困惑の混じった声で同意する。膝の上に置いた彼女の端末にも、色鮮やかな棒グラフと折れ線グラフが表示されている。


 「1年前まで、治牧は行政機関や中央銀行の出先機関が集まる『政治と金融の街』だったよね。直接的なモノづくりや先端技術の開発、あるいは華やかな文化創造をするような独自の強みなら九井や縦ヶ崎も負けてなかったよ。どうしてたった1年でこれほどの急成長を遂げられたんだろう……」


 工藤のトーンが一段と低くなる。


 「とはいえ、直接見ることでなにか手がかりが掴めるかもしれない。」


 オレはバックミラー越しに二人の様子を伺いつつ、黙ってハンドルを握り続けた。夜間高速道路の照明が、等間隔で車内をオレンジ色に照らしては過ぎ去っていく。車窓の外の風景が、荒涼とした郊外の田園地帯や小高い山並みから、次第に異様な密度の建造物群へと変化していく。高架橋の眼下に広がる街並みは、深夜近くであるにもかかわらず、煌々と輝くネオンとビル群の明かりで満たされていた。


 数時間の連続運転の末、公用車は高速道路のインターチェンジを降り、治牧の市街地へと足を踏み入れた。


 (……なにもかも、違いすぎるな)


 オレは内心で呟いた。昨年末、5都市合同のGPCI成果報告会で訪れた時も活気のある街だという印象はあった。だが、今の治牧はあの時とはまるで別物だ。街全体の空気の密度のようなものが、決定的に異なっている。


 「……なに、これ……」


 後部座席で工藤が絶句したような息を漏らした。高山もまた、車窓に張り付くように外を見つめたまま言葉を失っている。目に入る街並みは、西部の他の都市はおろか、発展しているとされる東部地域の主要都市すら遥かに凌駕していた。規模だけで言えば、もはや首都圏の超一等地と変わらないレベルの超高層ビル群が、見渡す限り空を突いている。ビル群の外壁全面を覆う巨大なLEDビジョンには、最新のコマーシャルや治牧市の発展を誇る広報映像が延々と流れていた。

 赤信号で車が停止した際、街道沿いのカフェやアパレルショップが目に入った。看板に書かれた商品の価格を見て、思わず目が留まる。コーヒー1杯、あるいはテイクアウトの軽食一つをとっても、澪標の物価とは比べ物にならないほど高額だ。縦ヶ崎のような狂気的なバブルインフレとは異なり、ここではごく普通の学生らしい若者たちや家族連れが笑顔で長蛇の列を作り、その高い価格の品を当たり前のように買い求めている。


 (……間違いない。街全体が、健全かつ圧倒的な『成長型のインフレ』の波に乗っている)


 オレはその光景から、治牧の経済がどれほど爆発的な購買力に支えられているかを直感的に読み取っていた。金が回っている。それも、淀むことなく超高速で循環しているのだ。工藤と高山もまた、オレとは別の場所に目を奪われていたようだ。


 「……バスの数が尋常じゃないわね。それにタクシーも……」


 工藤が呟く。 通りを行き交う公共交通機関の密度が狂っている。数分おきどころか、数十秒おきに大型の路線バスが停留所に滑り込んでくる。駅のロータリー周辺には無数の人々が行列を作っており、通り過ぎざまに見えたバス停の電光掲示板には、秒単位で到着する無数の運行予定が絶え間なくスクロールされていた。


 「テレビのニュースとかで『治牧の発展が著しい』とは聞いてたけど……生で目にすると、言葉が無くなるね」


 高山が引きつった笑みを浮かべる。


 「かつての治牧は、もっと落ち着いた行政都市だったはずよ。それが今や、街の至る所に巨大なデジタル広告が躍り、最新のエンタメIPが溢れかえっている……。治牧が自前で得意としていた分野では、絶対にあり得ない光景だわ」


 工藤の指摘通りだった。 かつて縦ヶ崎が誇っていた文化ブランディングや、九井が誇っていた先端テクノロジーの成果が、この街の至る所で「治牧の成果」として絢爛豪華にディスプレイされていた。都市の皮をかぶった巨大なキメラ。それが今の治牧の正体だった。


15-2


 オレたちはまず、治牧の新たなシンボルとして今年から貸出が開始されたという超高層オフィスビルへ向かった。目的は明確だった。九井を去る際に高山が確認していた、九井から突然移転・流出した多数の企業の登記住所が、すべてこのビルの番地になっていたからだ。

 公用車を地下駐車場に止め、エレベーターで巨大なエントランスホールへ上がる。ガラス張りの広大な天井からは明るい太陽光が降り注ぎ、ホールの中心には巨大な噴水と最新のホログラム案内板が設置されていた。スーツを着たビジネスマンや海外からの視察団と思われる人々が、休むことなく行き交っている。3人でフロアガイドのタッチパネル式の巨大ディスプレイの前に立った。


 「……やっぱりね」


 高山が画面を指差した。声には静かな悲哀が混ざっている。そこには、彼女が事前にリストアップしていた九井の主要研究機関やベンチャー企業の名が、ズラリと居並んでいた。さらに工藤が手元の端末でその場で検索をかけ、法人登記データベースと突き合わせると、呆れるほどの情報がヒットした。


 「出るわ出るわ……。今年の2月頃まで志手津や縦ヶ崎に拠点を置いていたはずの有力企業や関連法人が、ごっそりこのビルのフロアに登記を移しているわね」


 他都市の頭脳と経済の根幹が、物理的にこのビルへと集約されていた。他都市で長年かけて育て上げられた研究成果や企業群が、「治牧での優遇税制」や「無制限の補助金」という甘い蜜に誘われ、そっくりそのまま根こそぎ引き抜かれたのだ。


 次に向かったのは、そこから少し離れた副都心エリア。工藤が向かいたがっていた場所だ。 地下鉄のホームに降り立ったものの、工藤が一向に到着した電車に乗ろうとしないため、オレは尋ねた。


 「工藤、さっきから何をしてるんだ? もう3本見送ってるぞ」


 ホームのベンチの端でスマホを構え、電車が滑り込んでくるたびに車両側面のシリアルナンバーや銘板を食い入るように見つめている工藤に、オレは呆れ半分で声をかけた。工藤は心底呆れたような視線をオレに向けてきた。


 「時刻表と車両番号を確認しているのよ。……ほら、来たわ。乗り込むわよ」


 指示されるまま3人でステンレス製のきれいな車両に乗り込む。空いていた座席に腰を下ろしたところで、工藤が車内の路線図を見上げながら言った。


 「今乗ったこのダイヤと車両、今年から治牧で追加されたものだけど……つい先月まで、我が澪標の市営地下鉄を走っていた車両そのものよ」

 「……」

 「サバキネコが言っていた『公共交通機関の治牧への格安売却』。書類上のデータとしては知っていたけれど、こうして実際に自分たちが使っていた車両に乗せられると、本当に奪われたのだという実感が湧いてくるわね。つり革の傷の形まで、見覚えがあるわ」


 工藤の拳が、膝の上でぎゅっと握りしめられていた。自分たちの暮らす街のインフラが、自分たちの知らないところで切り売りされ、こうして見知らぬ街の快適さを支えるために消費されている。その理不尽さが、重く胸にのしかかる。

 電車が到着したのは、広大な敷地を持つ治牧の市立美術館だった。館内に入り、照明が落とされた静謐な展示エリアを巡る。高山が眉をひそめながら、展示された美術品や歴史的資料の解説プレートを一つ一つ丁寧に確認していった。


 「……はぁ」


 一通り巡り終えた高山が、壁際のベンチの前で深いため息をついた。


 「この美術館だけで、3月まで志手津、九井、縦ヶ崎、そして澪標に収蔵されていたはずの貴重な美術品や文化財が、確認できただけでも合計62点も展示されてるよ。我が九井の研究資料だけでなく、各都市の『文化の象徴』まで、維持費の補填という名目で根こそぎ貸し出させ、ここに飾っているんだよ」


 街を見渡せば、最新のデジタルIPを活用した観光プロモーションが花盛りだった。本来、治牧が得意とするはずのないソフトパワーやカルチャーの分野までもが、他都市からの強奪によって完璧に補強されていた。各都市の長所だけを集めて組み上げられた不気味なモンスター。

 それがこの治牧の真の姿だった。


15-3


 どこを開いても違和感と強奪の痕跡しか出てこない現状に顔を曇らせつつ、オレたちは本命である治牧の本庁舎へと向かった。

 治牧市役所の本庁舎は、街の中心部に鎮座する巨大なツインタワーだった。全面ガラス張りの圧倒的な存在感を見上げるだけでも、澪標の年暮れた市役所校舎とは雲泥の差がある。

 庁舎の1階ロビーに足を踏み入れた瞬間、その狂乱ぶりに圧倒された。 人、人、人。見渡す限り、見上げるほどの吹き抜けロビーがごった返している。戸籍を治牧へ移そうと長蛇の列を作る転入者、新規の法人登録や金融支援を求める事業者、莫大な予算が投じられる公共事業の入札や許認可を求めて群がる業者たち。総合案内窓口の前には案内整理券を発行する機械が設置され、表示されている待ち人数は「300人待ち」を超えていた。


 (……澪標の市役所に連日押し寄せてきていた、怒号を上げる市民や取り立て屋とは、毛色も目的も違いすぎるな)


 あちらが「沈みゆく船からの悲鳴」なら、こちらは「膨張する大都市に群がる利権の亡者たち」だ。熱気と欲望が、広いロビーの空気を重く湿らせている。


 「桜律くん、高山さん、行くわよ。事前にアポは取ってあるわ」


 工藤と高山は、人込みを押し分けるようにしてエレベーターへと進んでいく。特総課の執務エリアがある高層階のフロアへ到着し、応接スペースへと通された。だが、用意されていたパイプ椅子はふたつだけだった。部屋の端に置かれた応接セットの前に、取って付けたように置かれたチープな折りたたみ椅子だ。明らかにこちらを格下の訪問者として扱っている証拠だった。


 「……オレの席はないみたいだな」


 オレが呟くと、工藤が事務的に言った。


 「あなたはどうせ、難しい行政手続きの議論には興味がないでしょう。外で待っていなさい」

 「了解だ」


 オレはあっさりと引き下がり、二人が応接室へ入っていくのを見送った後、一人で廊下へと出た。応接室の重い扉が閉まる音を聞き届け、工藤は深く息を吐きながら用意されたパイプ椅子へと腰を下ろした。

 向かい側の重厚な革張りソファには、治牧市役所特別総合課のネームプレートを胸に挿した男二人が、余裕に満ちた笑みを浮かべて座っている。二人とも三十代半ば、仕立ての良いスーツを崩さず着こなし、隙のない雰囲気を纏っていた。テーブルの上に置かれた名刺には、それぞれ「治牧市特総課 課長補佐」「同 主査」の肩書が躍っている。


 (……私たちの知っている、澪標から消えた小林先輩たち5人ではないわね)


 工藤は視線だけで隣の高山に問いかけた。高山もまた、微かに首を横に振る。九井から消えたという5人の特徴にも合致しない。計算上、周辺4都市から5人ずつ、計20人の裏切り者が治牧へ移籍・合流しているはずだった。確率的には4分の1で元いた街の人間と当たるはずだったが、単に運が悪かったのか、あるいは意図的にこちらの面談対応から外されたのか。


 「それで……澪標市と九井市のお若い職員さんが、一体どのようなご用件でしょうか?」


 向かって左側の男――課長補佐の肩書を持つ男が、極めて丁寧だが、その奥に薄い蔑みを隠しきれていない口調で切り出した。差し出されたお茶すら出されないまま、会話が始まる。工藤は手元の端末を開き、余計な前置きを削ぎ落として本題を叩きつけた。


 「今年度から施行されたGPCI連動型予算における、治牧市のスコア急上昇の根拠についてです。特に、他都市からのインフラ譲渡および知財・文化資産の移管手続きにおいて、極めて不透明なプロセスが存在する点について説明を求めます」

 「ハハハ、不透明ですか」


 男は肩をすくめ、隣の同僚と顔を見合わせた。口元に浮かんだ笑みは、幼い子供の駄々を聞いているかのような冷ややかなものだった。


 「すべては新政府が採決した『GPCI連動型予算ルール』および『自治破綻処理特例法』に則った正規の手続きですよ。我が治牧が提示した合法的な再生・移管プランに対し、そちらの都市の当時の幹部の方々が合意し、契約書にサインされた。何の違法性もありませんよ」


 のらりくらり。言葉こそ行政的な正論で装っているが、要するに「お前たちの街の先輩が売ったのだから、今更文句を言うな」という言外の拒絶だった。工藤と高山は、質問の角度を変えながら追及を続けた。未処理タスクの隠蔽、偽情報の流布による研究者の誘導、市有資産の格安売却……。だが相手は、曖昧な表現と「当時の担当者が不在」「守秘義務」という言葉の壁を巧みに組み合わせて煙に巻き続ける。


 「契約文書の開示をお願いできますか?」

 「申し訳ありませんが、相手方との守秘義務契約が含まれておりますので、第三者への開示は不可能です」

 「私たちは当事者都市の職員です。第三者ではありません」

 「ですが、現時点で正式な代理人としての公文書をお持ちではありませんよね? であれば法的には第三者と同等です」


 まるで濡れたスポンジを殴っているかのような、不毛な押し問答が続いた。だがその時、高山が静かに口を開いた。その声には、冷徹なまでの計算が含まれていた。


 「――なるほど。では、契約時の手続きにおける『人員配置の正当性』についてお伺いします。治牧市特総課は、昨年度の段階で20名体制でしたね?」

 「ええ、まあ……政治と金融の調整業務がメインでしたからね」

 「ですが、今年度4月1日時点での貴課の職員数は40名に倍増しています。これは、我が九井市や澪標市を含む周辺4都市から、ちょうど5名ずつ、計20名の経験豊富な職員が年度末に一斉に移籍されたタイミングと完全に合致するのですが」

 「っ……」


 男たちの微笑みが、一瞬だけぴくりと固まった。高山は逃さなかった。相手が「他都市からの移籍組」の存在を隠そうとしていた文脈を利用し、あえて「移籍の事実そのもの」を前提とした誘導尋問を仕掛けたのだ。


 「つまり、契約を交わした『相手方の幹部』とは、現在そちらのデスクに座っている元他都市の5名×4都市=20名の方々なのですね? 自分たちが移籍する直前に、元いた都市の資産を治牧へ売却する契約を結び、手土産として持参した。これを『自己取引』あるいは『利害相反』と言わずして何と言うのですか?」


 圧倒的な論理展開。工藤は隣で聞いていて、高山の対話誘導の精度の高さに戦々恐々とした。同時に、彼女が味方にいてくれたことの心強さを強く実感する。

 しかし、完全に矛盾を突かれた男たちは、露骨に不機嫌な顔を作ると、手元の資料をバタンと叩きつけるように閉じた。


 「……これ以上の失礼な推測にはお答えできません。我々は公務で多忙なのです。お引き取りを」


 もはや議論を成立させる気すらない。男たちは立ち上がり、二人を追い出すように応接室の扉を開けたのだった。


15-4


 廊下で待たされていたオレは、溢れかえる人混みの中で、ふと見覚えのある背中を目にとめた。


 (……ん? あの背格好は……)


 小林先輩だった。澪標の特総課で「優しく頼もしい先輩」だった男だ。


 「小林先輩」


 挨拶でもしようかと声をかけたが、周りの雑踏と人の波の雑音にかき消されたらしく、小林は振り向きもしない。小林の隣には、もう一人男がいた。高山から聞いていた「九井から消えた元先輩職員」の特徴に合致する男だ。二人は親しげに肩を並べ、ヒソヒソと話し合いながら廊下の奥にある「非常階段」の重い扉を開けて中へ入っていった。

 オレは人混みを押し分け、静かにその扉を押し開けて階段室へと滑り込んだ。扉が閉まると、外の喧騒が一瞬で遮断され、ひんやりとしたコンクリートの冷気が漂っている。上の踊り場から、二人の話し声が階段室特有の反響を伴って聞こえてくる。


 「――ククッ、予定通り過ぎて笑いが止まらんよ。あの新卒のバカども、揃いも揃って何も疑わずにハンコ捺してくれたおかげで、何の障害もなく計画が完了した」


 小林の楽しそうな声だった。


 「本当ですよ。ネットじゃ『治牧の優秀な行政手腕!』なんて俺たちを称賛する書き込みで溢れてるし、逆に澪標や九井を『無能な税金泥棒』って叩いてる奴らばっかりだ。どいつもこいつも揃ってバカばかりで助かるな」

 「さっき突撃してきたとかいう3人も、今頃は応接室で適当にあしらわれて、手がかり一つ得られないまま泣き寝入りで帰るだけだろ。それより小林さん、今年度の潤沢な黒字――8,300億円をどう運用していくか、これからが楽しみすぎますね」

 「ああ、いくらでも身内で回せるからな。元いた街のバカどもに5,000億の負債を押し付けてやった甲斐があったというものだ」


 えげつない会話だった。最初は普通に声をかけて「お久しぶりです」とでも言うつもりだったが、これを聞いてしまった以上、オレの存在がバレたら確実に面倒なことになる。オレは足音を殺し、そっと後ずさって扉から出ようとした。


 ガチャン。


 その時、オレの背後の扉が急に開いた。 入ってきたのは、仕立ての良いスーツを着た、見るからに身なりのいい中年男性だった。治牧の市議会議員か何からしいが、オレには知る由もない。


 「ん? なんだ君は」


 男性の声に、上の踊り場の会話がピタリと止まった。小林と九井の元先輩が、階段の隙間から顔を覗かせる。オレと、後から入ってきた男性の姿が彼らの視界に入った。

 「……あ、なんだ、桜律か! ビックリさせるなよ」


 小林は一瞬でいつもの「頼もしい先輩」の顔を作り、階段を下りてきた。


 「隣の先生ともお知り合いかい? どうしたんだい、こんなところで」


 小林はオレだけでなく、身なりのいい男にも親しげに会釈した。オレはこの状況を利用して逃げ切ろうと考えた。


 (この身なりのいい男とたった今一緒にここへ入ってきたという体にすれば、盗み聞きはしていなかったことにできる……)


 そう思い、男の方へ一歩寄ろうとした瞬間――男が不審そうに眉をひそめた。


 「小林くん。この男は……君が呼んだのかね?」


 小林が首を傾げる。


 「え? いえ、違いますが……桜律、お前一人でここに来たのか?」


 男が冷たく言った。


 「わしはこいつなど知らんぞ。わしが扉を開けた時、こいつは扉のすぐ前に立って上の様子を伺っていた」

 「……」


 空気が凍りついた。小林と九井の元先輩の顔から、一瞬で血の気が引いていくのが分かった。そして、事情を察した身なりのいい男もまた、冷酷な目つきでオレを睨みつけた。


 「……小林さん。こいつ……どこから聞いてやがった……?」

 「……クソがっ!!」


 一変した小林の怒号とともに、3人が一斉にオレへ飛びかかってきた。


 「逃がすか!!」


 オレはスルスルと体を捻り、掴みかかってくる小林の腕をぎりぎりでかわした。階段のすり鉢状の構造を利用し、相手の手が服の袖をかすめる直前で距離を取った。


 「どこから聞いていた、桜律!!」


 九井の元先輩が血走った目で叫ぶ。 オレは白々しく手を挙げ、とぼけた声を出した。


 「なんのことですか? オレはただ、小林先輩をお見かけして追いかけてきただけで……」

 「白々しい嘘をつくな!!」


 小林が恐ろしい顔でオレを指差した。もはや聞いたか聞いていないかなど、彼らにとっては関係なかった。知られた可能性が1%でもある以上、オレをそのまま帰すわけにはいかないのだ。


 「いいか、桜律……絶対に今聞いたことを他人に話すなよ」


 小林が低く、粘りつくような声で脅しをかけてきた。


 「もし少しでも余計な口を滑らせてみろ。お前を社会的にも、経済的にも完全に殺してやる。澪標が抱えている5,000億円の赤字……あれをすべて『桜律雅輝個人の不正と背任によるものだ』と罪を捏造して書類を書き換えてやる。工作した俺たちには、その履歴を改ざんするシステムアクセス権もノウハウもあるんだ。お前一人に全責任を被せて、一生刑務所から出られないようにしてやるからな」

 「……」

 「今聞いたことを黙って墓場まで持っていけば、見逃してやる。後悔したくなければ、一生ダンマリを決め込め」


 一方的に長々と脅迫を叩きつけられる。


 (……脅し文句としては強力だ)


 オレは内心で冷静に分析していた。5,000億の負債を個人に全額なすりつけるなど、法律手続き上いくら改ざんしても無理がある。だが、ここで突っ張るメリットは一切ない。


 「……分かりました。黙っておきますので、勘弁してください」


 オレは弱々しく首を振って、脅しに屈した。3人は警戒感をマックスに高めたまま、去り際にさらに睨みつけ、「分かったなら失せろ」と言い捨てて階段の上へと消えていった。


15-5


 応接室での不毛な話し合いを終えた工藤と高山が廊下に戻ってきたとき、オレは何事もなかったかのようにベンチに座っていた。


 「お待たせ、桜律くん」


 工藤が疲れた顔でやってくる。


 「どうだった? 何か得られるものはあったか?」


 オレが尋ねると、高山が悔しそうに唇を噛んだ。

 「ダメでした……。怪しいのは100%確実なのですが、巧みにあしらわれてしまって。証拠と言えるようなものは何一つ引き出せなかったな」

 「そうか。お疲れ様」

 「あなたは? ずっとここで待たされて暇だったでしょう」


 工藤に聞かれ、オレは肩をすくめた。


 「まあな。ずっと暇をつぶしてただけだ。……そうだ、せっかく治牧まで来たんだ。オレが事前に調べておいたホテルが近くに――」

 「泊まらないわよ」


 工藤がオレの言葉を即座に遮断した。


 「え?」

 「今日は泊まらずに、そのまま澪標へ帰るわ」

 「は? おい待て、工藤! 今から帰るとなったら、オレは朝まで徹夜で車を運転することになるんだぞ?」


 オレの当然の反論に対し、工藤は冷徹なロジックで詰め寄ってきた。


 「治牧のホテルに宿泊すれば、当然ながら滞在費が発生するわ。現在の特総課の破綻した財政状況において、1円たりとも無駄な経費は使えない。それに、長居すれば治牧の特総課にこちらの動きを警戒され、余計な圧力をかけられるリスクが高まるわ。浮いた宿泊費と時間を考えれば、今すぐ撤退するのが最も合理的よ」

 「いや、運転手の労働環境はどうなるんだよ。事故ったら元も子もないだろ」

 「行きで数時間運転できたのだから、途中で適宜休憩を挟めば不可能な距離ではないわ」


 工藤はオレの反論を一つ一つ、容赦なく論理で潰していく。最初は「さすがに桜律くんが可哀想だよ……」と味方してくれていた高山も、工藤の一歩も引かない徹底的な姿勢を見て悟ったらしい。申し訳なさそうな、同情に満ちた表情でオレを見つめてくるだけになった。


 「……分かったよ。帰ればいいんだろ、帰れば」


 逃げ場がないことを悟ったオレは、重い足取りで駐車場の公用車へと向かった。復路の運転は地獄だった。まずは高山を送り届けるため、九井市へ。高山の自宅近くで彼女を降ろすと、「本当にありがとうございました。お気をつけて……」と深々と頭を下げられた。


 そこからさらに高速道路と一般道を走り続け、澪標へ戻る頃には、東の空が白み始めていた。睡眠時間を完全に返上し、フラフラになりながら公用車のハンドルを握り続けたオレの脳裏には、小林たちが階段室で漏らしていた悪魔のような言葉と、この巨大な都市「治牧」の歪んだ輝きが、焼き付いて離れなかった。

各都市のGPCI


志手津

GPCIスコア:660 ➔ 600(-60)

経済:180➔160

交通:180➔170

R&D:80➔80

文化:60➔60

居住:80➔70

環境:80➔60

財政データ

初期予算(1年前):1兆円(一律)

1年後の連動予算(歳入):6,000億円

歳出:5,200億円

収支:+800億円(黒字)


九井

GPCIスコア:520 ➔ 350(-170)

経済:110➔80

交通:80➔70

R&D:130➔60

文化:60➔40

居住:80➔60

環境:60➔40

財政データ

初期予算(1年前):1兆円(一律)

1年後の連動予算(歳入):3,500億円

歳出:3,400億円

収支:+100億円(黒字)


縦ヶ崎

GPCIスコア:450 ➔ 260(-190)

経済:90➔50

交通:50➔30

R&D:30➔20

文化:130➔80

居住:80➔50

環境:70➔30

財政データ

初期予算(1年前):1兆円(一律)

1年後の連動予算(歳入):2,600億円

歳出:2,575億円

収支:+25億円(黒字)


澪標

GPCIスコア:330 ➔ 60(-270)

経済:70➔15

交通:60➔10

R&D:40➔5

文化:70➔10

居住:50➔10

環境:40➔10

財政データ

初期予算(1年前):1兆円(一律)

1年後の連動予算(歳入):600億円

歳出:1,200億円

負債返済:5,000億円

収支:-5,600億円 (赤字)


治牧

GPCIスコア:590 ➔ 1,430(+840)

経済:120➔450

交通:100➔350

R&D:90➔280

文化:80➔180

居住:100➔120

環境:100➔50

財政データ

初期予算(1年前):1兆円(一律)

1年後の連動予算(歳入):1兆4,300億円

歳出:6,000億円

収支:+8,300億円(黒字)

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