第6話 特別総合課の仕事2
6-1
十月に入り、肌を刺す風に秋の深まりを感じるようになった頃。特総課の執務室は、どこか手持ち無沙汰で緩みきった空気が漂っていた。
「――それじゃあ、僕たちはこれより治牧へ向かう。秋の成果報告会議で三日間ほど留守にするけれど、何かあれば連絡するように」
朝の短いミーティングで、先輩職員のリーダー格である男性が爽やかな笑みを浮かべて告げた。
治牧。ここ澪標と同じく、大規模な都市再開発を目指す『メガロポリス計画』に組み込まれている五つの広域都市の一つだ。先輩職員たち五人は、その治牧で開催される他都市との合同成果報告会に出席するため、揃って出張に出かけることになっていた。
「先輩方、お気をつけてー!」 「お土産よろしくお願いしまーす!」
田辺や飯田をはじめとする新人たちは、手を振って能天気に先輩たちを見送った。上司や先輩たちの目が三日間もなくなる。それは彼らにとって、実質的な「追加の羽伸ばし期間」と同義だった。
先輩たちが去って数時間後、昼過ぎの執務室に突如として異変が起きた。
「……え? うそ……マジで……!?」
部屋の隅のデスクで、青ざめた顔で頭を抱えている男がいた。同僚の曽根崎和仁だ。彼の周りには、未処理の書類が山のように積み上がっていた。あまりの動揺ぶりに、近くにいた同期たちが不審そうに声をかける。
「どうしたんだよ曽根崎。そんな顔して」
「……やばい。先輩から『これ、今週末までに処理して提出しといてね』って頼まれていた書類整理……納期のカウント、丸一日間違えてた……」
「は? 丸一日?」
曽根崎のガタガタと震える声に、周りの数人が顔をしかめた。
「今日がその締め切り当日だった……! しかもこれ、ただの整理じゃなくて、各業者からの請求書と突き合わせて承認印をもらうやつで……俺、何一つ手をつけてねぇ……!」
「おいおい、冗談だろ!?」 「何してんだよお前!」
一気にざわめき立つ執務室。曽根崎自身が何も手をつけていないため、具体的に何をどこから処理すればいいのかすら、誰一人として見当がついていなかった。 当然、面倒なトラブルの尻拭いなど誰もしたくない。
「いや……俺、自分の仕事あるし」 「俺も俺も。他人のミスまで面倒見切れないって」
田辺や飯田、山彦たちはあからさまに目を逸らし、さっさと自分のデスクへと戻っていった。自分たちの仕事すらまともに進んでいない彼らに、他人の巨大なミスを肩代わりする気などサラサラなかった。途方に暮れて泣きそうになっている曽根崎の元へ、ゆっくりと歩み寄る人物が二人いた。柊と国宮だ。
「曽根崎くん、大丈夫? かなり量があるみたいだけど……私、手伝えるよ」
国宮が柔らかい笑みを浮かべ、ファイルの一端を持ち上げた。
「僕も手を貸すよ。先輩たちがいない時に特総課全体の業務が止まってしまったら、困るからね」
柊もいつも通りの温厚な態度で、書類の山を引き受ける。
「柊……国宮ちゃん……! ありがとう、助かるよ……!」
半泣きの曽根崎は二人に何度も頭を下げた。その様子を、帰宅の準備をしながら冷ややかに眺めていた工藤だったが、作業に取りかかった曽根崎が漏らした独白に、ぴたりと手を止めた。
「……あーもう、なんなんだよこの金額! アミューズメント施設の建設費用、当初の見積もりからどんどん膨れ上がり続けてんじゃねぇか……! 人件費の特別手当だの、資材の特急搬入費だの、なんでこんなに予算が跳ね上がってんだよ! 処理すんのが面倒くさすぎる……!」
曽根崎が愚痴として吐き捨てた「アミューズメント施設の建設費用の膨張」というワード。それを耳にした瞬間、工藤の目が鋭く光った。
工藤は鞄にしまいかけていた資料を即座にデスクへと戻し、そのまま一直線に曽根崎のデスクへと歩み寄った。
「曽根崎くん。その書類、私にも見せなさい」
「え? あ、うん……工藤さん?」
工藤は曽根崎から引ったくるようにして書類の束を受け取ると、猛烈な速度でページをめくり始めた。数値の列、増額された予算の項目、承認印の有無――そのすべてを目で精査していくにつれ、彼女の表情はどんどん険しくなっていく。
「……これは、想像以上に酷いわね。単なる計算ミスや記載漏れにとどまっていない」
工藤は即座に自分のデスクへと戻り、ノートパソコンを立ち上げると、手際よく計算シートを構築し始めた。そして、自分の日課の作業を終えて「お疲れ様です」と静かに席を立とうとしていたオレの腕を、ガシッと掴んだ。
「……工藤? なんだ」
「桜律くん。あなたも手伝いなさい。今すぐに」
「いや、オレの今日の分の業務は終わったんだが」
「個人の業務の終わりなど関係ないわ。それにこの書類の処理を今日中に終わらせ、承認フローを通さなければ、特総課の全体予算の透明性が完全に崩壊する。……いいから座りなさい」
「お、おう……」
工藤の尋常ではない圧に押され、オレは自分の席へと引き戻された。
「あなたはここの数字と送状の照合をしなさい。エラーが出たらすぐに私に報告すること」
「……了解」
かくして、工藤の猛烈な指揮のもと、突発的な超突貫作業が始まった。 国宮と柊が手作業で書類の分類と捺印を進め、工藤とオレがデータの突合と異常値のチェックを急ピッチで進める。曽根崎はただ二人の指示通りに書類を運ぶだけのロボットと化していた。定刻を大幅に過ぎ、外がすっかり暗くなった頃。なんとか提出用の報告書類が一式、完成した。
「ハァ……ハァ……終わった……助かったぁ……」
デスクに突っ伏して号泣する曽根崎。工藤は整えられた書類の束をバインダーに収めると、小さく息を吐いた。 「……ギリギリね。でもこれで、納期に間に合うわね」
オレは疲労で少し重くなった肩を回した。
「工藤。なんでお前、他人のミスなのにあそこまで必死になってたんだ?」
工藤は冷たい瞳でオレを一瞥すると、声を潜めて答えた。
「あの書類の中に記載されていたアミューズメント施設の建設費用の『膨張分』……その多くが、正規の手続きを経ずに特別予算から自動引き落としされるような契約構造になっていたわ。もし今日、あの書類が未処理のまま放置されていれば、明日以降、出処不明の巨額の穴が帳簿上に浮き彫りになっていたはずよ」
「出処不明の穴……?」
「……まあ、あなたに言っても理解できないでしょうけれど。帰るわよ」
工藤はそう言い捨てると、鞄を手に取り、一人でさっさと執務室を後にした。 オレは残された書類の山を見つめながら、工藤の言っていた言葉の意味をぼんやりと考えていたが、すぐに考えるのをやめてコートを羽織った。
6-2
十一月に入り、街には冬の気配が漂い始めていた。今年最後の大きな業務の節目を控え、オレは自分の担当するルーティンワークの最終確認を行っていた。基本的に提示された手順通りに処理を進めれば、オレの仕事は滞りなく終わる。ふと、給湯室の近くを通った際、物陰から低く切迫した話し声が聞こえてきた。 見ると、飯田、山彦、田辺の三人が、缶コーヒーを手に身を寄せ合って話していた。
「……なぁ、マジでどうすんだよ? 俺の担当分の計画書、半分も終わってねぇぞ……」
飯田が頭を抱えながら呟いていた。
「俺だってだよ! 『サーキット計画』の環境影響評価とか、意味不明な書類が山ほど届いてて手付けられねぇよ!」
田辺が苛立ちを隠さずに吐き捨てる。
「だ、大丈夫だって……! この前、先輩に『進捗が厳しそうです』って相談したら、『大丈夫、僕たちが最後になんとかしてあげるから、君たちはできる範囲でいいよ』って言ってくれたし……!」
山彦が必死に自分を安心させるように言った。
「でもよ……今のペースだと年内どころか、来年になっても終わらないぞ? 掲示板の進捗表見たか? 俺たちだけじゃなくて、同期の半数近くが終わる目処すら立ってねぇじゃんか……」
「……先輩がそう言ってるんだから、大丈夫だろ。下手に焦って失敗するより、放置しといた方がマシだって」
三人はそう言い合い、慰め合うように缶コーヒーを飲み干していた。
(半数近くが終わる目処が立っていない……?)
オレは足を止めずに通り過ぎたが、脳裏には疑問が浮かんでいた。 オレの手元にある業務は、指示通りにこなしていれば十分年内に終わる量だ。彼らが立ち上げた「超大型計画」や、放置された日常業務がどれほど積み上がっているのか、オレには推し量ることもできなかった。
さらにその数日後、今度は廊下で女子職員たちが噂話をしているのが耳に入った。
「ねえ、聞いた? 駿河屋くんの噂……」
「あー……視察先で職人さんと揉めたってやつ?」
「そうそう! 先週、現場の視察に行った後、地元の建設業者の職人さんたちと飲みに行ったらしくてさ。お酒が入って大喧嘩になって、駿河屋くんが相手の職人さんに手をあげちゃったんだって……」
「えぇ!? 暴力!? やばくないのそれ!?」
「本当なら警察沙汰で首飛ぶレベルでしょ。でもね、話によると……柊くんが個人的に入って、相手の親方さんに頭下げまくって、示談金も自分の財布から自腹で払って揉み消してくれたらしいよ」
「えっ、柊くんが自腹で!? すごすぎる……どこまで優しいの……というか駿河屋くん小学生過ぎない?」
「ねー! 駿河屋くん、柊くんに一生頭上がらないよね。……ていうか、特総課の不祥事が表に出なくて本当良かったよ」
女子職員たちは「柊くんって本当理想の同期だよね」などと口々に称賛しながら去っていった。
オレは歩きながら、その噂について考えた。行政職員が視察先で一般人に暴力を振るう。本来なら大問題であり、組織としての調査や処分が入るはずだ。それを個人が「自腹」で金を払い、頭を下げて揉み消す。
(……なぜ、組織に報告せず、個人の自腹で揉み消すんだ?)
柊の行動は、周囲からは「仲間思いの聖人」として映っているようだったが、オレにはどこか不自然な違和感として残った。
6-3
十一月下旬、先輩職員たち電話口で「ええ、小林が確認しております」「現在調整中ですので」と穏やかに対応しているようだった。
いったいどんな話をしているのかはわからない。オレたち新人は一度も電話をとらせてもらったことがないからだ。
そんな中、事件は起きた。
ある日の午後。工藤が自分の担当している『地域インフラ整備計画』の最終承認を進めるため、上司のデスクへと向かった。
「課長。こちらの整備計画ですが、隣接する商業エリアとの接続部分に関する先行決済が必要です。この関連業務を担当しているのは誰でしょうか?」
課長は書類から目を離さず、気楽な調子で答えた。
「ん? ああ、そのエリアのとりまとめは寒川さんに任せてあるよ」
「寒川さん、ですか。分かりました」
工藤は自席に戻ると、そのまま寒川摩璃香のデスクへと向かった。 寒川は手鏡でメイクを直しつつ、スマホでSNSをチェックしていた。
「寒川さん。インフラ整備計画の接続部分に関する決済資料を提出してくれないかしら。私の担当業務の締め切りが今週末で、本日中に確認が必要なのだけれど」
工藤の無機質な声に、寒川はウザそうに手鏡を置いた。
「は? 何いきなり。今私、ブランドショップの誘致交渉で忙しいんだけど。後にしてくれない?」
「後になんてできるわけないでしょう。この決済が通らなければ、私の業務が完全にストップするのよ。資料はどこまで進んでるのかしら?」
「……どこまでって、まだ手つけてないわよ。そんな地味な接続手続きとか、後でいいでしょ」
寒川が言い放った言葉に、工藤の眉がピクリと動いた。
「手をつけていない? この手続きは二週間前にあなたに割り振られていたはず。なぜ放置しているのかしら?」
「放置してないし! 優先順位ってものがあるでしょ!? 私が進めてる外資系モールの誘致の方が、あんたの地味な道路工事より百倍大事なの! 少しは空気読みなさいよ!」
寒川が声を荒らげると、執務室の空気が一瞬で緊張に包まれた。 だが、工藤は一切怯むことなく、冷酷なまでに理路整然と追い詰めていった。
「空気を読む? 行政手続きにおける優先順位は、個人の感情や華やかさではなく、法令と締め切りによって決まるものよ。あなたが自分の趣味のような誘致計画にかまけて基礎業務を怠った結果、特総課全体の工程に遅延が生じている。これは明白な職務怠慢よ」
「はあ!? 職務怠慢!? あんた、何様のつもり!? 上から目線で偉そうに説教してんじゃないわよ!」
寒川が立ち上がり、工藤を睨みつけた。二人の激しい言い争いに、周囲の同期たちが動揺し始める。
「ちょっと二人とも、落ち着いて……!」
国宮が慌てて二人の間に割って入ろうとした。
「工藤さんも、寒川さんも、みんな疲れてるんだよ。ね? 一旦落ち着いて話し合おう?」
「国宮さん、引っ込んでいてくれないかしら。これは感情の問題じゃないの。業務の履行責任の問題よ」
工藤は国宮の仲裁を冷たく一蹴した。
「そうよ国宮ちゃん! こいつが失礼すぎるのが悪いのよ! 自分の思い通りにならないからって、人を見下して文句言ってくるなんて最低じゃない!」
「事実を指摘しているだけよ。能力が不足していて業務を処理できないのであれば、最初から引き受けるべきではないわ」
「なッ……!! あんた、マジで許さないから!!」
寒川の顔が怒りで真っ赤に染まった。上から目線で正論を叩きつける工藤と、女子グループの女王格としてプライドを打ち砕かれた寒川。二人の衝突は完全に決定的なものとなり、執務室全体に最悪の雰囲気が残された。
その日以降、工藤と寒川の関係は完全に破綻した。 元々まともな会話などない二人だったが、挨拶すら一切交わさなくなり、視線が合うことすらない「完全な冷戦状態」へと突入したのだった。
6-4
数日後。出張や外回りから戻り、事態を把握した柊が動き出した。
柊はまず、激怒して自席で不機嫌を撒き散らしていた寒川の元へ向かい、缶の高級カフェラテを手渡しながら、極めて優しく声をかけた。
「寒川さん、大変だったね。工藤さんも言い方が少しキツいところがあるから、傷ついたんだよね。君が特総課のために頑張って誘致計画を進めてくれているのは、みんな分かっているからね」
「柊くん……! ううん、私こそ感情的になっちゃって……でも、あの言い方はひどすぎるよね!」
「そうだね。でも、業務が進まないと君の評価にも関わってしまう。よかったら、僕が少し手伝おうか? 他のみんなにも声をかけて、寒川さんの遅れている業務をチームで分担して終わらせよう」
「えっ……本当に!? ありがとう……! 工藤さんと違って柊くんは頼りになるよね〜!」
柊の言葉に、寒川は感動したように目を潤ませた。
それからというもの、柊は執務室中を駆け回った。 田辺、飯田、山彦、佐川、駿河屋、さらには女子グループの面々に至るまで、一人ひとりに頭を下げて回った。
「みんな、頼む。寒川さんの担当分が終わらないと、特総課全体の手続きが止まってしまうんだ。僕からもお願いするから、少しずつ彼女の業務を手伝ってあげてくれないか?」
「柊がそこまで言うなら……」「まあ、寒川ちゃんのためだしな!」
柊が必死に頭を下げて説得して回った結果、工藤を除く特総課のメンバーが総出で、寒川が放置していた大量の基礎業務を肩代わりすることになった。
連日、深夜まで及ぶ作業。 自分たちの仕事すら終わっていないにもかかわらず、寒川の尻拭いのために追われる同期たち。
「クソッ……なんで俺たちがこんな作業やらなきゃいけないんだよ……」「眠い……マジで終わらん……」
疲れとストレスがピークに達した時、新人たちの不満の矛先が向けられたのは――本来の元凶である寒川ではなく、工藤だった。
「……ていうかさ、そもそも工藤が寒川ちゃんにあんな言い方して追い詰めなきゃ、こんなことになってなかったよな?」
給湯室で田辺が吐き捨てた。
「マジでそれ! 工藤が正論振りかざして寒川ちゃんを怒らせたから、現場がメチャクチャになったんだろ!」
飯田も同調する。
「あいつ、自分だけ涼しい顔して定時で帰りやがってさ。周りの迷惑とか一切考えてないよな」
「本当嫌な女。正義気取ってるけど、一番特総課のチームワーク乱してんじゃん」
女子グループの間でも、工藤に対する陰湿な陰口が爆発していた。 寒川は柊や仲間たちに守られ、「工藤の被害者」として扱われていた。そして、全員で寒川の業務を無理やり終わらせたことで、工藤の担当業務もようやく次に進むことができたのだが――執務室における工藤の孤立は、決定的なものとなっていた。
「……愚かね。全員で感情論に逃げ込み、根本的な構造問題から目を背けている」
作業を進めながら、工藤がポツリと呟いた。 その声は冷ややかだったが、彼女の横顔にはどこか疲労の色が滲んでいた。
オレは自分のデスクで、書類にハンコを押し続けながら言った。
「工藤。周りからの視線がかなり痛いぞ」
「関係ないわ。正当な業務の履行を求めただけだもの。周囲の私情や評価など、私の知ったことではないわ」
工藤はキーボードを叩く速度を緩めず、淡々と答えた。
オレはそれ以上何も言わず、窓の外を眺めた。11月終わりの冷たい風が、庁舎のガラスを揺らしていた。




