第5話 特別総合課の仕事
5-1
六月の半ばを過ぎた頃、執務室の空気はどこかソワソワとした浮足立った熱気に包まれていた。 その理由は、午前に開催された特総課全体への緊急ミーティングにあった。
「――というわけでだね。君たち特総課の第一期生には、この夏、特別に約三週間の夏季休暇と、破格の夏のボーナスを支給することが決定した!」
上司である課長が壇上でそう告げた瞬間、執務室には割れんばかりの歓声と拍手が巻き起こった。
「マジかよ!? 三週間休み!? しかもボーナスまで!?」 「うそ、やばい! 海外旅行行けちゃうじゃん!」
歓喜に沸く同期たちに対し、課長は満足そうに何度も頷きながら、白い歯をこぼして言葉を続けた。
「さらにだ。今回、人事部および上層部との協議の結果、君たち特総課の給与体系について新しい提案がある。本来であれば、個人の成果に応じた歩合や評価査定によって月給や賞与が変動するシステムなのだが……君たちは特総課という、組織の未来を担う特別な存在だ。個人の成果競争によって同期同士がギスギスするのを防ぎ、チームワークを最優先してもらうため、『四十人一律の固定高水準給与モデル』への移行を提示したい」
課長は手元の資料を掲げながら、朗らかに説明を付け加えた。
「この固定モデルを選択した場合、個人の毎月の査定に頭を悩ませる必要は一切なくなる。どれだけ大きなプロジェクトを動かしても、あるいは地道な業務に専念しても、四十人全員に均等に極めて高い基本給と賞与が保証される。さらに、今回の三週間の夏季休暇のように、福利厚生面での特別な恩恵や予算の優先配分が恒常的に受けられるようになるんだ。どうだね?」
「最高じゃないですか!!」「面倒な社内競争がないとか神すぎる!」「全員で協力して成果出せばいいってことでしょ? 異論なんてあるわけないです!」
田辺や飯田をはじめ、佐川や駿河屋、さらには女子グループの面々までが目を輝かせて即座に賛同の声を上げた。 個人の成果を問われず、居るだけで高い給与と潤沢なボーナス、そして長期休暇が保障される。新人たちにとって、それは願ってもない「特権」にしか見えなかった。誰一人として手を挙げて疑問を呈する者はおらず、全会一致でその場で契約書類へのサインが行われていった。
課長や同席していた先輩職員たちは、ニコニコと温かい眼差しで新人たちの喜びようを見守っていた。「みんなが納得してくれて良かったよ」「君たちの未来に期待しているからね」と口々に温かい言葉をかけながら、手際よく書類を回収していく。
その穏やかで恵まれた光景の裏に、どのような意味が含まれているのか――この場にいた新人たちで気づく者は一人としていなかった。ただなんとなく、提出された書類をファイルに収める先輩職員の指先が、わずかに軽やかであったことくらいしか、違和感らしい違和感は存在しなかった。
そして。 この特総課全体の命運を左右する重要なミーティングの場に、オレと工藤の二人の姿はなかった。
5-2
同じ頃。オレと工藤は、庁舎から公用車で一時間ほど離れた郊外の丘陵地にいた。 特総課が主導する大型プロジェクト――「アミューズメント施設建設予定地」の現場視察のためだ。
見渡す限りの小高い山と雑木林。初夏の強い日差しが照りつける中、視界の先では既に何台もの大型重機やショベルカーがエンジン音を響かせ、黄色いヘルメットをかぶった作業員たちが慌ただしく行き交っていた。
「見ろよ、これだけ人里離れていると騒音の心配もないみたいだ。……それにしても大規模だな」
オレがポツリと呟くと、隣で日傘を差し、資料を挟んだバインダーを抱えた工藤が、いつも通りの冷淡な声で応じた。
「事務手続きおよび土地の買収、各建設業者との協定交渉は、すべて上層部と先輩職員の手によって既に完了しているわ。私たちは本日、着工初期段階の現場進行状況を記録し、行政側の視察記録として取りまとめるのがタスクよ」
工藤の言う通り、現場の仮設事務所には、すでにいくつもの建設会社やゼネコンのロゴが入った看板が並んでいた。 オレたちが事務所に入ると、作業着を着た建設業者の現場責任者たちが、恐縮したような、どこか過剰なほど丁寧な態度で出迎えてくれた。
「やあやあ、特総課の職員さん! 遠いところをご苦労様です! いやあ、今回の予算規模には本当に感謝しておりますよ。何しろ、これほど潤沢な資金が一括で降りる現場なんて、近頃じゃ滅多にありませんからね!」
現場責任者の男は、手揉みをしながら満面の笑みで冷たいお茶を出してきた。
「土地を切り開くスケジュールも、特総課さんからいただいた『費用はいくらかかっても構わないから最短で』というご指示通り、人員と重機を三倍投入して進めております! 来月には基礎工事に入れますよ!」
「費用はいくらかかっても構わない、ですか」
工藤がバインダーにペンを走らせながら、眉を微かにひそめた。
「事前提出された見積もりから、人件費および重機リース料が三〇%増額されていますが、この根拠は?」
「ハハハ! それは上層部の事務方のご担当者様……ええと、特総課の先輩職員の皆様と協議済みですよ! 『予算はたっぷりあるから、納期優先でどんどん突っ込んでくれ』とおっしゃっていただきましてね! 契約書にもしっかり判が押してあります!」
現場責任者は嬉しそうに書類のコピーを提示した。確かにそこには、特総課の上司や先輩たちの承認印が押されていた。工藤はそれ以上何も言わず、無感情な顔でノートに事実だけを記録していく。オレは仮設事務所の窓から、次々と山を削り、木々をなぎ倒していく重機群を眺めていた。 事務方がすべて終わっているため、現場はただ機械的に、莫大な資金を消費しながら動いている。赤字リスクや将来の収支計画など、誰も考えていないようだった。
「工藤。この施設の完成後の運営コストや、集客見込みについての資料はあるのか?」
オレが尋ねると、工藤は短く首を振った。
「今回の視察対象に含まれないわ。ただ……事前資料を見る限り、年間維持費に対する来場者数の予測値は極めて楽観的であり、論理的な根拠を欠いているわ。……それでも、上層部が承認した以上、私たちの仕事は現場の記録のみよ」
「そうか。楽なのか、先延ばしにしてるのかわからなくなるな。」
視察を終え、オレたちが庁舎へと戻った時には、すでに昼休みを大幅に過ぎていた。 執務室に戻ると、なぜか同期たちの雰囲気が朝とは一変していた。誰も彼もがハイテンションで、海外旅行のパンフレットを広げたり、スマートフォンの画面を覗き込んで大騒ぎしている。
「あ、桜律くん、工藤さん! お帰りなさい!」
国宮がパッと華やかな笑顔で駆け寄ってきた。
「二人とも視察お疲れ様! 大変だったでしょ? でもね、すごく良いニュースがあるんだよ!」
「良いニュースね。いったい何かしら。」
工藤が冷ややかに問う。
「うん! 今年の夏、私たち三週間も休みがもらえることになったの! それにボーナスもすごくたくさん出るんだって! あとね、給与も全員一律で高くなる特別な制度に決まったの!」
国宮は心底嬉しそうに胸を躍らせていた。 工藤はその説明を聞くと、微かに目を細めた。
「……給与体系の一律化? 個人の評価査定を破棄し、全体固定にするというの?」
「うん! だからみんなで協力して頑張ろうねって話になったんだよ! 二人がいない間に決まっちゃったけど、すごく良い話でしょ?」
工藤はそれ以上追求せず、「信じられない」とだけ言って自席に着いた。 オレも自分の席に腰を下ろす。
(三週間の休みと、一律の高給か……)
みんながそれほど喜んでいるなら、きっと良いことなのだろう。オレは深く考えず、デスクの上の書類整理を再開した。
5-3
そして訪れた、約束の「夏の長期休暇」。特総課の新人たちに振り込まれた夏のボーナスの額は、一期生の想像を遥かに超える大金だった。潤沢な予算の恩恵をダイレクトに受け取った彼らは、羽を伸ばし、思い思いの豪遊へと繰り出していった。
ある者は、ブランドショップが立ち並ぶ都心の繁華街へと繰り出し、両手に抱えきれないほどの高級ブランドバッグや腕時計を買い漁った。 ある者は、SNSに写真をアップするためだけに、一晩で数十万もする高級ホテルのスイートルームに泊まり込み、ドン・ペリニヨンで乾杯した。 またある者は、三週間の休みをフルに使い、ファーストクラスで海外の高級リゾート地へと飛び立ち、プライベートビーチでプライベートヴィラを借り切って過ごした。
田辺や飯田、山彦たちは、連日夜の街へと繰り出し、キャバクラや高級居酒屋で「俺たち特総課だから」と大金をばら撒いてはイキり倒していた。 女子グループもまた、高級エステや星付きレストランを梯子し、自分たちの「特別な立場」を噛み締めるように贅沢を尽くした。「俺たちは選ばれた存在だ」 「特総課にいれば、金なんて使っても使っても減らない」大金を手にしたことで膨れ上がった無敵感と万能感。 三週間という長い休みは、新人たちの金銭感覚と職業倫理を完全に麻痺させるのに十分すぎる時間だった。
ちなみにオレはというと、三週間の休みの間、特に旅行に行く当てもなく、自室で静かに過ごしていた。たまに近所のスーパーで安い食材を買い、淡々と日々のルーティンをこなす。ボーナスとして銀行口座に振り込まれた大きな数字を見ても、特に買いたいものも思い浮かばず、放置していた。
一度だけ、田辺から「桜律! 金はあるんだから飲みに行くぞ!」と電話がかかってきたが、「予定がある」とだけ言って断った。予定というのは、部屋の掃除と洗濯だった。
5-4
三週間の夢のような夏季休暇が明け、特総課の執務室に新人たちが戻ってきた。だが、そこに「休日明けの引き締まった空気」など存在しなかった。 日焼けした肌、派手なブランド物のアクセサリー、自慢話の応酬。執務室全体に漂っているのは、休み気分の抜けきらないダラけきった熱気だった。
「あーあ、ハワイ最高だったなー。ずっとあっちにいたかったわ」
「本当よね。明日からまた仕事とか信じられない。ねえ、今週末またどっか行かない?」
デスクに足を投げ出したり、お土産のお菓子をつまみながら、仕事とは何の関係もない雑談が各所ではじまる。 本来なら注意すべき先輩職員や上司たちも、「休み明けだからね」「ゆっくり身体を鳴らしていってね」と優しく微笑むだけで、一切咎めようとしない。
そんな中、豪遊によって膨れ上がった欲望と「自分たちは何でもできる」という万能感を抑えきれなくなった男たちが、動き始めた。
「おいみんな! 聞いてくれよ!」
執務室の中央で大声を上げたのは田辺だった。隣には飯田と山彦がドヤ顔で並んでいる。
「俺たち特総課には、まだまだ使い切れてない予算が山ほどあるだろ!? 休み中に思ったんだけどさ、この街って遊ぶ場所が少なすぎるんだよ! だから俺たちの手で、もっとビッグな大型計画を立案しようぜ!」
「おおーっ! いいぞ田辺!」 「どんな計画なんだよ!?」
周囲の男たちが囃し立てると、田辺はホワイトボードに下手くそな文字で『特総課・超大型開発プロジェクト』と書き殴った。
「まず第一弾! 庁舎のすぐ近くに、俺たちがいつでも遊べるサーキット場と高級スポーツカーのガレージを作る! これでいつでも走らせ放題だ!」
山彦が嬉しそうに「そうだそうだ! 俺のスポーツカーもそこに置く!」と存在しない車のために相槌を打つ。
「さらに第二弾! 夜中まで遊べる巨大な会員制クラブとカジノ風アミューズメント施設! 特総課の職員なら全部無料で遊べるようにするんだ!」
無茶苦茶な私利私欲の提案。しかし、休みボケと万能感に包まれた同期たちは、誰もその異常さを指摘しなかった。「それ最高じゃん!」「作ろうぜ!」と歓声が上がる。それを見ていた女子グループも、負けじと声を上げた。
「ちょっと待ってよ! 男たちの遊び場ばっかりズルいんだけど!」
寒川摩璃香が腕を組んで前に出た。
「どうせ作るなら、私たちが普段買い物できるような場所が欲しいんだけど! 超有名外資系ショッピングモールの誘致と、ハイブランドのショップをこぞって引っ張ってくればいいじゃん!」
「賛成ー! シャヌルとかクッチとか、全部この街に集めようよ!」
下北沢や笹坂たち女子勢がこぞって賛同する。
「そのためにはさ、ただ店を作るだけじゃダメよね。誘致のための話題作りと広告塔が必要じゃない?」
国宮が完璧な笑顔で、巧みに会話の主導権を握った。
「今すごく人気のある男性アイドルグループ『Z-STARS』とか、超有名モデルを特総課の予算で広告塔として専属契約して呼び寄せようよ! イベントも庁舎前で開けば、話題性も抜群だし、私たちも間近で会えるでしょ?」
「キャーッ! 国宮ちゃん天才!!」「Z-STARS呼べるの!? マジで特総課神すぎる!!」
女子たちの黄色い悲鳴が響き渡る。 私利私欲と個人的な欲望を詰め込んだ、支離滅裂な「大型計画」の数々。 本来なら、事業の採算性、地域住民への影響、法的な手続き、誘致にかかる莫大な維持費など、検討すべき課題は山積みであり、一新人の思いつきで通るはずもない代物だった。だが――。
「ふむ、素晴らしい発想だね!」
いつの間にか執務室の入口に立っていた課長が、手を叩きながら笑顔で入ってきた。
「地域の活性化と、特総課の存在感をアピールするための素晴らしいアイデアだ! いいよ、ショッピングモールの誘致計画も、アイドルの広告塔起用も、全部特総課の特別予算で進めなさい! 予算はまだまだ十分に余っているからね!」
「やったー!! 課長最高ー!!」
歓喜の渦に包まれる執務室。 自分たちの出した無茶苦茶な案がそのまま通り、潤沢な予算がいくらでも湧き出てくる。 新人たちは自分たちが「無敵」であると完全に確信した。オレは自席から、ホワイトボードに書かれた無秩序な計画の数々と、それに群がって喜ぶ同期たちの姿を冷ややかに眺めていた。隣の席では、工藤がノートパソコンの画面を見つめたまま、ペンをカチカチと規則正しく鳴らしていた。その表情は、氷のように冷たい。
「……愚かね」
工藤が小さく呟いた声は、狂乱する同期たちの歓声にかき消され、誰の耳にも届かなかった。
「ショッピングモールの誘致に伴う経済波及効果の試算もなければ、アイドルの契約金における費用対効果の説明もない。単なる個人の欲望の垂れ流し……これを『事業』と呼ぶこと自体、経済学的にも行政的にも滑稽です」
工藤は静かにパソコンを閉じ、オレの方を向いた。
「桜律くん。あなたはこの状況をどう思う?」
オレはホワイトボードを見つめ、少し考えてから答えた。
「……予算があって、上司が良いと言っているなら、問題ないんじゃないか?」
「……ハァ」
工藤は心底呆れたように、本日一番の深い溜め息をついた。
「あなたに聞いた私が間違いだったわ。あなたも彼らと同類……いえ、何も考えていない点においてはそれ以下というわけね」
「そうか……いや、結構ディスられた気がするんだが」
オレは短く返し、自分のデスクの上の書類に視線を戻した。自分たちの欲望のままに大型計画を立案し、有名アイドルを呼び寄せ、無限の予算を使って街を作り変えようとする特総課の新人たち。 誰一人として疑うことなく、誰一人として止める者もなく。 膨れ上がった無敵状態のまま、彼らの「通常業務」が盛大に再開されたのだった。




