第4話 交友を築く時間3
4-1
入庁から三ヶ月目を迎えようとしていたある日の昼休み。執務室の空気は、特定の場所だけが異質な不協和音を奏でていた。
「ねえ工藤さん、今日のランチ、よかったら一緒に庁舎のカフェテリアに行かない? 新しく出来たパスタのセット、すごく美味しいって評判なんだよ!」
工藤花菜のデスクの脇に立ち、とびきり眩しい笑顔を振りまいていたのは国宮莉緒だった。首を少し傾げ、パッと花が咲くような愛らしさを押し出した完璧なポーズ。同期の男子職員ならイチコロで鼻の下を伸ばすであろうその態度に、当の工藤はPCの画面から視線すら外さなかった。
キーボードを叩く規則的なタイピング音だけがカタカタと響く。
「拒否するわ」
「えっ……? あ、もしかして今日はお弁当持ってきちゃった感じ?」
「いいえ。私は決まった時間に一人で必要な栄養分を摂取するだけで結構なの。あなたと食事を共にする合理的理由が存在しないわ。むしろ、無意味な雑談に付き合うエネルギーが必要になる。」
工藤の徹底して無感情な声が、執務室の空気を氷点下まで凍りつかせる。
「そんなに硬く考えなくてもいいのに〜! ほら、私たちって同期だし、もっと仲良くなりたいなって思ってさ。普段あまり話す機会もないでしょ? 一緒に食事しながら世間話でもしようよ!」
国宮は引きつりそうになる表情を完璧な笑顔で押し隠し、粘り強く言葉を重ねた。
「世間話、ね。その会話から得られる情報が、私の今後の業務効率や自己研鑽においてどのような利益をもたらすのかしら? 単なる感情の共有や群れることへの安心感をお望みなら、他の職員を探してちょうだい。時間の無駄よ」
「……っ」
一切の容赦がない、氷の大砲のような言葉。国宮の笑顔がぴくりと強張り、一瞬だけ瞳の奥に冷ややかな不快感が走ったのを、隣の席のオレは見逃さなかった。
(……不毛だな)
目の前で延々と繰り広げられる、全く噛み合わない平行線のキャッチボール。工藤のナチュラルトラッシュと国宮の善意が正面衝突している現場にこれ以上居合わせるのは、心が保たない。
オレはデスクの上の缶烏龍茶を一口飲み干すと、静かに立ち上がり、執務室のドアに向かって歩き出した。とりあえず、トイレにでも行って時間を潰すとしよう。
廊下に出て静かな男子トイレへと足を踏み入れ、洗面台で手を洗っていた時のことだ。
「おい田辺、マジでやるのかよ……?」
「当たり前だろ! あいつだけ初任給で超高級スポーツカー買ってイキがりやがって……! 許せるわけねえだろ!」
個室のドアが開き、ひそひそと悪だくみを囁き合いながら出てきたのは、飯田博之と田辺電治郎だった。
女好きなものの女子から気味悪がられている飯田が、ニヤニヤと不快な笑みを浮かべて田辺の肩を叩いた。
「で、作戦はなんだよ?」
「今日の夜、山彦のマンションの駐車場に忍び込むんだよ。あいつのあのイキった外国製スポーツカーのボディをさ、釘でボコボコにして、タイヤも切り裂いて廃車にしてやるんだ! ザマァ見ろってんだよ!」
鼻息を荒くして息巻く田辺。 オレは蛇口を止め、ペーパータオルで手を拭きながら静かに二人のやり取りを聞いていた。
昨日の昼休み、山彦が語っていた「4輪同時パンクして整備工場にある」という苦しい嘘。山彦がついた「買ってもいない存在しないスポーツカー」という見栄の虚飾。
そもそも車自体がこの世に存在しないのだから、駐車場に行っても何も無いはずなのだが……それをわざわざ夜中に忍び込んで確かめに行こうとする田辺の頭の悪さも、相当なものだった。山彦のハッタリを見抜く頭脳すら持ち合わせていない。
オレと目が合った二人は、ビクッと肩を揺らした。
「お、おい桜律……! 聞いてたのかよ! 誰にも言うんじゃねえぞ!」
「……ああ。夜道には気をつけろよ」
オレが淡々とそれだけ返すと、飯田と田辺は「なんだあいつ、気味悪い奴だな」と捨て台詞を残してトイレを去っていった。存在しない車を探して夜の駐車場をウロウロする男たちの姿を想像し、オレは小さく息を吐いた。
執務室に戻ってくると、驚いたことに国宮と工藤のやり取りはまだ続いていた。
「ねえ工藤さん、一回だけでいいからさぁ! 一緒に行こうよ〜!」
「何度も同じ回答を繰り返させないでくれないかしら。あなたの聴解能力に問題があるの?」
国宮は引きつりきった笑顔で食い下がり、工藤の眼光は完全に冷め切っている。周囲の同期たちも二人の不穏な空気に気づき始め、チラチラと様子を窺いながら引きつった顔をしていた。
(……まだやっていたのか)
このまま放置していれば、国宮のメンツは完全に潰れ、工藤の孤立はさらに深まる。周囲の気まずい空気も収まらない。見かねたオレは、自席に着くと同時に、場を散らすための助け舟を出すことにした。
「国宮。確か午後一番で、他部署への共有書類のデータ照合があったはずだぞ。準備をしなくていいのか?」
不快な静寂を終わらせるための、客観的で合理的な立ち回りとしての「助け舟」だった。国宮もこれで話の切り上げどころを作れるはずだ。
だが、その舟は瞬時に砕け散ることになる。
工藤がゆっくりと首をこちらに向け、アイスピックのように鋭い視線でオレを射抜いた。
「桜律くん。私の会話に余計な介入をしないで。それにあなたの助言は論理的に的外れよ。データ照合の締め切りは14時であり、現在の時刻から考慮してもランチの時間の可否とは直接的な因果関係がないわ。不要な割り込みは業務の妨げになるけれど?」
ズドォン、と容赦ない大砲が着弾した。 せっかく出してやった助け舟は、工藤の容赦ない正論の主砲によって、跡形もなく木端微塵に沈没した。
「あ……あはは、桜律くん、気を使ってくれてありがとうね……」
国宮は苦笑いを浮かべ、どこか引きつった顔で自分のデスクへと撤退していった。 オレは工藤の鋭い視線を受け止めながら、「そうか」とだけ短く返し、静かにPCのキーボードに手を置いた。
4-2
別日の午後、庁舎の3階渡り廊下でのことだった。
「いや〜、世良くんって本当に教え方が上手だよね! 助かっちゃった!」
「はは、これくらい大したことないよ。また困ったことがあったら、いつでも声をかけてね」
廊下の先で、爽やかな笑みを振りまきながら複数人の女子職員に囲まれているのは、トップクラスのスーパーエリート・世良公司だった。スマートな立ち振る舞いで女子からの絶大な人気を誇っている。
「クソが……ッ! なんだよあのイケメン気取りはよぉ……!」
柱の陰から、今にも血の涙を流しそうな顔で世良を睨みつけていたのは田辺だった。オレの肩をガシガシと揺らしながら、理不尽な怒りをぶちまけてくる。
「おい桜律! 見ろよあの顔! 女どもに囲まれて鼻の下伸ばしやがって! 俺たちと同じ新人だぞ!? なんであいつばっかりモテるんだよ! 世の中間違ってるだろ!!」
「……落ち着け。世良は業務上の質問に答えているだけに見えるが」
オレが淡々と宥めていると、渡り廊下の向こうから、一人の女性職員が書類のファイルを持って歩いてきた。
すれ違った瞬間、柔らかな柑橘系の香りがふわっと漂う。
九井のトップクラス美少女。整った容姿と、溢れ出る上品で華やかなオーラ。まさに「高嶺の花」という言葉がそのまま形になったような存在だった。
「あ……あ……」
田辺の動きが、ピタリと止まった。 通り過ぎていく女性の後ろ姿を、穴が開くほど見つめる田辺の目が、肉食動物のように血走り始めている。
「おい桜律……見たか……? 今の……めちゃくちゃ可愛くねえか……!?」
「九井の新人だな。書類の提出に来たんだろう」
「話しかけたい! 俺、あの子と話したい!! ついてこい桜律! 今すぐあの子を追いかけるぞ!!」
「なぜ俺が──」
オレの拒否権など端から存在しないかのように、田辺はオレの袖を強引に引っ張り、女性が向かったエレベーターホールへとダッシュした。
「あ、あのっ……! す、すいませんッ!!」
女性がエレベーターのボタンを押したところで、追いついた田辺が声をかけた。 あまりの勢いに女性は驚いたように振り返ったが、瞬時に完璧な笑顔を張り巡らせた。
「はい? 何かご用でしょうか?」
透き通るような声と、完璧な接客スマイル。 オーラを目の前で直撃された田辺は、完全に脳のキャパシティを超え、一瞬でパニックに陥った。
「あ、あ、あの! お、俺! 特総課の田辺電治郎って言います! あ、あの、九井の方ですよね!? お名前……な、なんて言うんですか!? 趣味は!? 好きな食べ物は!?」
顔を真っ赤にし、汗をダラダラと流しながら、目をひんむいて早口で捲し立てる田辺。両手は不気味にモジモジと動き、挙動不審という言葉すら生ぬるいほどの異常者っぷりを発揮していた。
嫌な顔一つせず、優しく柔らかい声で対応する。
「まあ、丁寧なご挨拶ありがとうございます。九井の特総課の高山陽菜と申します。……すみません、私、これから部署の会議がありまして、失礼させていただきますね?」
「あ、はいっ! た、高山さん! また話しかけてもいいですか!? えと、あの!」
「ええ、機会がありましたら。それでは」
高山は完璧な会釈を残し、すべり込んできたエレベーターの中へと滑らかに消えていった。
扉が閉まる瞬間、彼女が胸の前で小さく溜め息をついたのをオレは見逃さなかった。取り残された廊下で、田辺は自分の胸を押さえ、うっとりとした顔で天を仰いでいた。
「高山陽菜ちゃん……高山ちゃん……! 桜律、聞いたか!? 奇跡だ……これは運命の恋だぞ!! あんな可愛い子が俺に微笑んでくれたんだ……絶対俺に気があるぜ!!」
(ただの社会性による大人の対応だ……)
そう教えてあげる義理もなく、オレは「そうか、良かったな」とだけ返し、哀れな妄想に浸る田辺を置き去りにして自分の執務室へと戻っていった。
4-3
その週の金曜日の夜。 特総課のリーダー格である柊優の呼びかけにより、街の高級居酒屋の大広間にて特総課の決起集会が開催されていた。
「みんな、今週もお疲れ様! 今日は無制限のカフェテリア手当も出るし、特総課の親睦を深めるために思いっきり楽しもう!」
柊の爽やかな乾杯の音頭。豪華な刺身の盛り合わせや高級肉料理が次々と運ばれ、新人たちはタダ酒とタダ飯に歓声を上げた。最初は和気あいあいと進んでいた飲み会だったが、時間が経ち、アルコールが回るにつれて、男子職員たちのくだらないプライドが頭をもたげ始めた。
「おいおい駿河屋ぁ! お前、学生時代は飲みの席でブイブイ言わせてたとか威張ってる割に、酒はぜんぜん大したことねえな!」
「あぁん!? 誰に向かって口叩いてんだ飯田ぁ! 俺が酒で負けるわけねえだろ! 持ってこいジョッキでよぉ!」
ガラが悪くケンカっぱやい駿河屋礼衣が、飯田の煽りに乗って大盃を煽り始める。それを見た周りの男たちが、面白がって囃し立て始めた。
「いいぞ駿河屋! いけいけ!」
「誰が特総課で一番酒が強いか、ここでハッキリさせようぜ!」
煽り合いは瞬く間に拡大し、佐川、雪森、田辺、山彦、さらには松風や盤代といったバカグループまで巻き込んだ「謎の酒飲みバトル」へと発展した。座敷の離れた場所では、寒川摩璃香、下北沢芽衣、笹坂清羅、酒井詩音、水谷千佳といった活発で容姿端麗な女子グループが、冷ややかな、しかしどこか面白がるような視線を男たちに向けていた。
「ほんとバカよね〜男って。なんで酒の強さで競い合ってんの?」
「でも面白そうじゃん。誰が最後まで残るか賭けようよ」
「国宮ちゃんも見てみなよ、すごい惨状になってるよ〜」
ニコニコと笑いながら手酌でジュースを飲む国宮。そして、なぜかその狂乱の輪の中に、オレも巻き込まれていた。
「おい桜律! お前も特総課の男だろ! 飲めよ!」
佐川が嫌がらせ半分で、強い焼酎のロックがなみなみと注がれた大盃をオレの手に押し付けてきた。隣では田辺が「高山ちゃんへの愛の力を見せてやる!」と意味不明なことを叫びながら、一気飲みを敢行している。オレは差し出された盃を見つめ、静かに息を吸った。
(断る理由もないか)
そのまま、一気に喉へと流し込む。強いアルコールの刺激が胃を焼くはずだった。
だが──何も起こらない。ただの冷たい液体を飲んでいるのと何ら変わりなかった。
「おおっ! 桜律が飲んだぞ!」
「負けてられっかよぉぉ!!」
オレが淡々と杯を空けたことで男たちの対抗心に火がつき、勝負はさらに過熱した。しかし、15分後。地獄の幕が開いた。
「う……うぷっ……! ダメだ、トイレ……!」
真っ先に顔を青くした佐川が、口を押さえて脱兎のごとくトイレへ爆走していった。
「高山ちゃぁぁぁん! 俺の愛を受け止めてくれぇぇ!!」
田辺が涙と鼻水を流しながら畳の上に崩れ落ち、そのまま自分の吐瀉物の横でピクピクと痙攣し始めた。
「ひ、ヒック……俺の超高級スポーツカーがぁ……4輪パンクがぁ……」
山彦が虚栄心の限界を迎えて膝から崩れ落ち、白目を剥いて倒れる。
「ぜってぇ負けねえ……俺は……最強……」
イキっていた駿河屋も、最後は大盃を抱え込んだままド派手に畳へ突伏し、いびきをかき始めた。雪森は熱血な空回りの末に部屋の隅で丸くなり、飯田は「女……女ぁ……」とうわ言を呟きながら撃沈。狂乱の宴からわずか30分後。 大広間の畳の上には、ピクピクと動く男子職員たちの「屍」が延々と転がる、惨々たる地獄絵図が完成していた。女子職員たちはドン引きしながらも、爆笑していた。
「うわっ、汚い! 全滅じゃん!」
「本当バカばっかり! 柊くん、後始末よろしくね〜」
「あはは……みんな、飲み過ぎだよ……」
困り果てたような苦笑いを浮かべ、介抱のために動き回る柊。そして──その地獄絵図の中心で。
「……ふう」
オレは、顔色一つ変えずに、静かに烏龍茶のグラスを傾けていた。大量の強い酒を煽りまくったにもかかわらず、肌は赤くもならず、息も乱れていない。完全なシラフ。常人を遥かに超えた身体耐性を持つ怪物が、転がる屍たちの真ん中で静かに佇んでいた。
「え……? ちょっと待って、桜律くん……?」
寒川たちが、信じられないものを見るような目でオレを注視してくる。
「あんだけ飲んで……なんで普通に座ってんの……? 化け物……?」
「桜律くん……大丈夫なの……?」
国宮も、完璧な笑顔が一瞬外れかけるほどの困惑した目を向けてきた。周囲からの引きつった視線を受けながら、オレは静かに残りの烏龍茶を飲み干した。男子たちのバカ騒ぎにつきあい、酒も最後まで付き合って最後まで場に残った。
周囲から向けられているのが、親しみなどではなく「不気味なナニカを見る恐怖と困惑の視線」であることに、オレは最後まで全く気づいていなかった。




