第28話 駿河屋礼衣の記録3
28-1
冷え切った本庁舎の長大な廊下。規則正しく敷き詰められた無機質なリノリウムの床に、私の履くヒールの高らかな打擲音が一定の周期で静かに反響していた。
カツン、カツン――。
左右に整然と並ぶ他部署の木製ドアや、擦りガラス越しに薄っすらと見える他課の職員たちの忙しない影を視界の端で淡々と受け流しながら、私は思考の整理を続けていた。昨日から続く各種データの検証、そしてサバキネコ経由で集められた無数のログの照合。それらのパズルを脳内で組み合わせる中で、どうしても辻褄の合わない空白の数時間が浮き彫りになっていたのだ。隣を歩く柊くんの、どこか遠慮がちで不揃いな靴音を小耳に挟みつつ、私は視線を前方の直線上に固定したまま、先ほどからずっと胸の奥に引っかかっていた不可解な整合性の欠如について切り出すことにした。
「……ねえ、柊くん。少し確認させてほしいのだけれど」
「うん? どうしたの、工藤さん?」
私の呼びかけに応じ、柊くんは歩調を少し緩めてこちらに視線を向けてきた。彼の瞳には、連日の検証作業による疲労の色と、依然として解き明かされない不祥事の全貌に対する不安が微かに揺れていた。私は胸元に抱えたクリアファイルの重みを微調整して抱え直し、感情を一切挟まない冷淡な声調で尋ねた。
「あなたと駿河屋くん、そして今回のログから完全に足取りが消えている曽賀先輩についてよ。……そもそも、あなたたちは一体なんのために、あの旧企業本社に足を向けることになったのかしら? 個人で向かうには不自然だし、課の正式な業務記録にもその訪問自体が一切残されていない。何か裏の事情があったと考えるのが自然だわ」
私の問いかけに対し、柊くんはどこかすまなそうな苦笑いを浮かべ、困惑混じりに目元を緩めながら口を開いた。彼の表情には、当時の身内の不始末を思い出したことによる申し訳なさがあからさまに滲み出ている。
「ああ……そのこと。……実はね、本社に向かった日のちょうど3日前に、駿河屋くんが建築の職人さんと飲み会に行っていたんだよ。……でも、酒が回って気が大きくなった駿河屋くんが、職人さんの言葉に我慢できずに手を出してしまってね……」
柊くんの一連の説明を耳にしながら、私は内心で冷めた独白を漏らしていた。
(……気が大きいのは今に始まったことではないでしょう。酒の勢いであろうとなかろうと、自分の感情すら制御できずに手を出してしまう粗暴さこそが、彼の根本的な欠陥であり、今回こうして敵の格好の標的にされた最大の要因ね)
喉の途中で固まった小言をあえて口には出さず、私は歩みを止めることなく、彼の言葉の先を促すように淡々と問いを重ねた。
「……それで、そのあと3人で謝罪に向かって、話は丸く収まったのかしら?」
柊くんは少し考えてから、当時の苦々しい現場の空気を思い返すように言葉を紡いだ。
「最初は駿河屋くんが謝罪をしたんだけど、向こうの方たちもカンカンに怒っていたから、どうにもならないのかと思ったんだ。職人さんたちの怒号が飛び交っていて、いつまた殴り合いになってもおかしくないような険悪な状況でね。僕もどう止めればいいのか冷や汗をかいていたんだよ。ポイントは、曽賀先輩が一度僕と駿河屋くんを部屋から出してからなんだ。部屋の中で曽賀先輩と企業の人たち面々で折り合いをつけてくれてね。僕たちが呼び戻された時には、あれほど激怒していた相手が信じられないくらい落ち着いていて、無事にまとまったんだよ」
柊くんの説明を聞き終えた瞬間、私の脳内でバラバラだった情報が急速に結びつき、明確な構造を作り上げた。
(……なるほどね。『市立医療センター・旧市民病院跡地売却および新施設整備基本協定』の件――あの契約は、まさにその時に曽賀先輩の手によって裏で結ばれたものね。相手の企業の怒りを収めるための『裏の手打ち条件』としてその場で締結され、そしてその場で、何も知らない駿河屋くんの名前が勝手に代表者として使われたというわけか)
辻褄が完璧に合致する。駿河屋くんの無知と短気が、恐ろしいほどの不気味な手際で利用されていたのだ。自分の不始末を庇ってトラブルを解決してくれた上司という強い刷り込みがあれば、後からどれほど怪しい書類や契約内容を見せられ、判を押させられても一切疑うはずがない。心理的隙を突いた実に見事な罠だと言わざるを得ない。私は歩調を緩めることなく、制服のポケットからスマートフォンを取り出した。液晶画面を素早いフリック操作で叩く。
「……桜律くんに明日アポを取れるように連絡するわ」
『指定された建築現場企業へ明日赴けるようアポを取りなさい』と簡潔な指示を作成し、桜律くん宛てに送信した。余計な前置きや丁寧な挨拶など書かなくても、あの男ならこの指示の裏にある意図を即座に汲み取り、先方との交渉を滞りなく完了させるはずだ。スマートフォンをポケットに仕舞い直しながら、私は再び隣の柊くんに視線を向けた。
「それにしても……本当に曽賀先輩と3人で移動したのかしら? 途中で別行動をとったり、怪しい時間に離脱した形跡はなかったの?」
「勿論だよ」
柊くんは迷いのない真摯な口調で即答したが、すぐに申し訳なさそうに表情を曇らせ、視線を足元へ落とした。
「僕たち2人だけで頭を下げるとなると心配だからってついてきてくれたんだ。……結局、先輩たちは僕たちを最初から徹底的に騙していたわけだけどね」
言葉の裏に滲む切なさや失望を感じ取りつつも、私は一切の感情論を介入させることなく、淡々と次の行動へ頭を切り替えた。階段を滑るように下り、3階に位置する広大なカフェテリアへと向かう。昼休み前の閑散としたカフェテリアの入口付近に差し掛かった時、私の目ざとい視界の端に目指す『対象』が捉えられた。調理員の配膳口付近で、厨房の職員からちゃっかりもらっていた香ばしい焼き魚の切れ端を前に、今にも舌鼓を打とうとウキウキで口を開けている一匹の毛玉――サバキネコだ。私は靴音を完全に殺して背後から接近すると、サバキネコが魚を口に放り込む直前のコンマ数秒のタイミングで、その首根っこを躊躇なくガシッと掴み上げた。
『みゃあああ!? い、いきなり何するんですか工藤さん! ワタシの私腹を肥やす至福の時間を奪うようなことはなさらないでくださいよッ!』
空中で四肢を惨めにバタつかせ、必死で抗議の声をあげるサバキネコ。だが、私は表情ひとつ変えず、氷のように冷淡な声調で言い放った。
「くだらないことを言っている暇があるなら働きなさい。今すぐに地下の情報処理室で調べてほしいことがあるわ」
私は焼き魚を未練がましく見つめるサバキネコを首根っこごと吊り下げたまま、一切の容赦なく地下へと続く階段へ向かって足を進めた。
『わ、わかりました! わかりましたから降ろしてください! ワタシの尊厳に関わります! 自力で歩きますからッ!』
掌の中で暴れる毛玉を見下ろし、私は一言だけ呟いた。
「最初からそう言いなさい」
サバキネコを床に降ろすと、私と柊くん、そして文句をブツブツと呟き続けるサバキネコの一匹は、地下の静まり返った情報処理室の前に到着した。サバキネコが『ちょっと待っててください』と重厚な鉄製ドアの向こうへ消えてから、私と柊くんは部屋の前で20分ほどの待機を余儀なくされた。ひんやりとした地下廊下の壁に背をもたれさせ、刻一刻と迫る27日の審議へ向けた思考を重ねていると、やがてドアがカチャリと開き、中から疲れ切った表情のサバキネコがプリントアウト用紙を抱えて出てきた。
『はいどうぞ……。11月6日の『柊優』と『曽賀幹彦』の公共交通機関利用履歴ですよ。特総課名義の共通ICカードを使って乗ったという決済履歴が、サーバーの奥底からしっかりと引っ張り出せました』
差し出された紙面をスキャンするように鋭い視線で追う。確かに二人分の乗車区間とタイムスタンプが明確に記録されていた。
「……なぜ駿河屋くんのものがないのかしら? 彼だけ別の交通手段を使ったというの?」
私が即座に疑問を口にすると、隣の柊くんが「あ、それなんだけど」と説明を挟んだ。
「駿河屋くんは、実はあの時、車を借りてたんだよ」
サバキネコも『そういうことです』と疲れた声で頷き、公用車を借りていた証拠の管理控えを私に差し出してきた。柊くんが続けて説明を補足する。
「駿河屋くんはドライバーだったんだ。一人で謝罪に向かった駿河屋くんを慌てて僕と曽賀先輩で追いかけて、電車で向かって先回りして現地で合流してね。そこから駿河屋くんの借りた公用車に乗って、職人さんたちに謝罪しに行ったんだよ」
紙面に記された公用車の貸出履歴と電車のタイムスタンプ。それらを脳内で重ね合わせると、全ての動きが寸分の狂いもなく噛み合っていくのを感じた。
(……駿河屋くんはなぜそんな重要な移動の経緯や事実関係を事前に私へ説明しないのかしら。本当に自分の行動に対する客観性が欠如していて手がかかる男ね)
内心で猛烈な毒づきと悪態を吐きつつも、私はそれを一切表に出すことなく、冷淡な表情のまま手元の資料をクリアファイルへ収めた。
「……これで、この件に関しても一歩前進ね」
地下の薄暗く冷え切った廊下に、私の静かな声が冷たく反響したのだった。
28-2
手元のクリアファイルを一度小脇に抱え直し、私は足元にたたずむサバキネコへ冷徹な視線を滑らせた。サバキネコは毛並みを逆立てて疲労感を隠そうともせず、あからさまな不満顔でこちらを見上げている。だが、私はその不機嫌な様子を気にとめることもなく、そのまま淡々とした口調で追撃の指示を口にした。
「ついでだから、もう一つ調べてほしいことがあるわ」
『みゃあ……!? つ、ついでって何ですか工藤さん、ワタシはもうヘトヘトなんですが……! 労働基準法という概念を一度じっくり学習し直されてはいかがですかッ!』
サバキネコが情けない声をあげて後ずさりしようとしたが、私は逃がさぬよう冷ややかな眼光でその動きをピタリと牽制した。
「今年の6月下旬から7月上旬にかけて、駿河屋くんが申請した経費申請履歴と、それに付随するホテルおよび飲食店の領収書データの追跡をお願いしたいの。不祥事の発生時期と不自然に重なる箇所の精査が必要なのよ」
『はぁ〜……』
サバキネコは重々しい溜息を漏らし、猫背をさらに丸めながら、嫌々に首を縦に振った。
『分かりましたよ、分かりました……。明日の昼までにはデータをまとめて、工藤さんたちが使っているあの会議室へ直接届けておきますから。それでいいでしょう……? これ以上ワタシのHPを削らないでくださいよ』
「結構よ。期待しているわ」
私はその回答に短く満足の意を示すと、これ以上の長居は無用とばかりに踵を返した。柊くんとともに地下の廊下をあとにし、階段を上って再び3階のカフェテリアへと足を向ける。カフェテリア内に足を踏み入れると、昼下がりのまばらな席の奥、日当たりの良い窓際のテーブル席に、見覚えのある不快な二人組の姿が目に入った。昼食をすでに終えたのか、空になったトレーや紙コップを卓上に放置したまま、背もたれに深々と体重を預けてうだうだとくだらない雑談に興じている山彦くんと飯田くんだ。
「ちょうどいい場所にいるわね」
私は迷うことなく歩調を速め、二人の座るテーブルへと一直線に向かった。背後からついてくる柊くんが、微かに緊張した面持ちで息を呑む気配が伝わってくる。二人のテーブルの真横で足を止め、見下ろすように影を落とすと、山彦くんと飯田くんは心底鬱陶しそうな、あからさまに嫌悪感を剥き出しにした顔で私を見上げてきた。
「……なんだよ工藤。昼飯の邪魔か?」
山彦くんが胸の前で腕を組み、鼻を鳴らしながら口を開く。隣の飯田くんも、ニヤニヤとした不躾な笑みを浮かべながら背後の柊くんに視線を送った。
「柊もこんな冷血女に連れ回されて大変だなあ。桜律の代わりと見たぜ! ドンマイドンマイ、お前も苦労するよな。こんな女の言いなりになってると骨までしゃぶられるぞ」
二人でヘラヘラと軽い調子で茶化してくるが、私が眉ひとつ動かさずに氷のように冷たい眼光をじっと注ぎ続けると、二人は次第に引きつった表情を浮かべ、居住まいを正して気まずそうに口をつぐんだ。私から発せられる圧迫感に耐えかねたのだろう。室内を流れる空気が一気に冷ややかさを増すのを確認し、私は前置きを一切削ぎ落として直球を投げかけた。
「駿河屋くんの件で、あなたたちに話を聞きたいの」
予想通りの単語が飛び出した瞬間、二人は分かりやすく露骨に顔を歪め、重苦しい溜息を吐き出した。
「ハァ……やっぱそれかよ」
飯田くんが不機嫌そうに頭の後ろをガシガシと掻きむしりながら、吐き捨てるように言った。
「それってさあ、俺たちが工藤たちにわざわざ教えてやる必要あるわけ? 俺たちは『有罪派』で、お前らは敵側なんだからさ。黙ってて何も教えないのが普通だろ。何でわざわざ自分の首を絞めるような真似しなきゃいけないんだよ」
「だよな〜」
山彦くんも同意するように肩をすくめ、ヘラヘラとした態度を取り戻しながら言った。
「下手に余計なこと喋ってさ、あとから日向坂や志葉に怒られたりしたら勘弁だしな〜。俺たちだって立ち回りってものがあるんだよ、お二人さん」
二人が事もなげに口を閉ざそうとするのを見て、私の背後にいた柊くんが静かに一歩前へ踏み出し、切実な眼差しで二人を見つめた。
「そこをなんとか……答えられる範囲で構わないから、教えてもらえたら嬉しいな。僕たちもただ感情で争いたいわけじゃないんだ。本当の真相を知りたいだけなんだよ」
柊くんの懇願に対しても、私は一切の動揺や感謝を示すことなく、二人のやり取りなど初めから存在しなかったかのように冷徹な声調で次の質問をかぶせた。
「『アミューズメントプロジェクトに関する受任・代理権限委任状および秘密保持約定書』に関する話を聞き出したいのよ」
「……あ?」
山彦くんと飯田くんの動きがピタリと止まった。
「駿河屋くんは、この件における実質的な代表者は田辺くんだったと言っているけれど……それは本当なの?」
私の問いかけを受けた瞬間、二人は一瞬だけ鳩が豆鉄砲を食ったような、抜け作のような呆け顔を晒した。嵐のような追及が来るかと身構えていたのだろう。だが、私の投げかけた質問の意味を脳内で噛み砕き、咀嚼し終えると、途端に緊張感を吹き飛ばしたように「ハッ」と大袈裟な失笑を漏らし始めた。
「なんだよ……そんなことかよ! 構えて損したぜ!」
山彦くんが呆れたように肩をすくめ、背もたれにドサリと背中を預け直しながら話し始めた。
「確かに田辺が代表者って形にはなったけどさ。それは峰崎パイセンが『書類の形式上、代表者を誰か一人決めろ』って言ったから、仕方がなく田辺に決めただけだぜ?」
「そーそー」
飯田くんも身を乗り出し、さも当然だと言わんばかりの口調で言葉を重ねる。
「別に田辺一人で抱え込んでたわけじゃねえし、みんなで手分けしてやってたことだろ。プロジェクト全体を動かしてたのは組織的なものだし、誰が代表だろうが書類上の名義合わせみたいなもんだ。それがなんか問題でもあるわけ?」
(……駿河屋くんの主張していた通りだわ)
二人の証言により、駿河屋くんが単独でプロジェクトを推進して勝手に不祥事を起こしたわけではなく、組織的な作業の一環として名義が処理されていたという実態が完全に裏付けられた。
「ありがとう。聞きたいことは十分聞けたから、あなたたちはもう退いてもらって構わないわよ」
私が用済みとばかりに短く告げると、飯田くんが眉間にシワを寄せて「な、なんだよその上から目線な言い方は……! 聞くだけ聞いてそれかよ!」と即座に怒りを露わにした。山彦くんは「いやいや、工藤ちゃんは昔からずっとあんな感じだろ」となだめつつも、やはり面白くなさそうな不満の色を隠そうともしていなかった。私は二人の不満を一切意に介さず、視線をカフェテリアのさらに奥へと移動させた。目指すべき次の『標的』の姿を捉えたからだ。迷いのない足取りでまっすぐ歩き出す私に対し、柊くんが焦った様子で背後から追いかけてくる。
「工藤さん、一体どこへ行くの?」
「あそこにいる人物に、直接話を聞くわ」
私は歩みを止めないまま、指先でカフェテリアの窓際近くの席をまっすぐに示してみせた。指し示した先に座っていたのは――田辺くん本人だった。一人で遅めの昼食をとっていた田辺くんは、私が一直線に近づいてくる気配に気づくと、箸を止めて不審そうに眉をひそめた。私がそのテーブルの正面に立ち、言葉を切り出そうとしたまさにその瞬間だった。
「――黙秘する!!」
田辺くんは突如として椅子から立ち上がり、カフェテリア全体に響き渡るような凄まじい大声で叫んだ。突如として静まり返るカフェテリア内。周囲で食事や談笑を楽しんでいた他部署の職員や同僚たちが、一斉に驚愕の視線をこちらへと向けてくる。箸を止める者、飲み物を詰まらせそうになる者、引きつった苦笑いを浮かべる者――視線が集中的に刺さる。私は眉をひそめ、静かながらも圧を含んだ声で制した。
「ちょっと……静かにしなさい。周りの人がみんな見ているでしょう。私はただ、当時の事実関係について話を――」
「黙秘する! 黙秘する! 黙秘する!!」
私の言葉を完全に遮り、田辺くんは顔を真っ赤にしながら、狂ったように「黙秘」の二文字を連呼し続けた。一切の対話や質問の隙を与えないという、徹底的かつ滑稽なまでの拒絶態度だ。大きな身振りを交え、まるで演説でもするかのように大音量を張り上げている。遠巻きに見ていた周囲の職員たちから、「また特総課の田辺が騒いでるのか?」「朝から晩まで何やってんだあいつらは……」「本当に近所迷惑だな」といった、呆れと嫌悪の混じった囁き声がザワザワと広がり始める。だが、私はこの程度の子供じみた抵抗で簡単に引き下がるつもりはなかった。ここで引けば、彼の思惑通りになってしまう。
「ちょっと質問に答えてもらえれば済む話よ。なぜそこまで過剰に反応するの? やましいことがないなら、堂々と答えればいいでしょう」
私が一歩踏み込んで問い詰めようと口を開くたびに、田辺くんは耳を塞ぐような勢いで「黙秘する!! 一切答えん!!」と怒号を重ね、対話を完全に不成立にさせようと目くじらを立てた。
「田辺くん、落ち着いて話を聞いてくれれば――」と柊くんが助け船を出そうとしても、「黙秘する!!」の一点張りだ。何合かのやりとりを重ねようと試みたものの、すべて田辺くんの大音量の叫び声によって木端微塵に掻き消されてしまう。カフェテリア内に漂う刺すような周囲の視線、田辺くんの一貫した頑なすぎる狂態、知識も分別もある大人の振る舞いとは思えないその態度にうんざりしつつ、横から柊くんが困り果てた表情で私の袖をそっと引っ張ってきた。
「工藤さん……ここでこれ以上騒ぐと、きっと他部署のみんなの迷惑になっちゃうよ。周りの目もかなり厳しいし……ここは一旦引き上げよう……?」
柊くんの切実な制止の言葉と、この場でこれ以上不毛な押し問答を続けても無駄な体力と時間を消費するだけだという合理的な判断に基づき、私はフッと冷めた溜息を吐き出すと、渋々引き下がることにしたのだった。
28-3
翌日の朝、朝もやのまだ晴れない澪標市役所の正面ロータリー。私は停車している公用車の後部座席にスライドドアを開けて乗り込み、シートに腰を下ろしながら、運転席に陣取る桜律くんへと視線を向けた。彼はすでにエンジンを始動させ、サイドミラーの位置や計器類を確認しているところだった。スーツの着こなしに乱れはないが、連日の激務による疲労の色は隠しようもなく、その横顔には特有の冷徹な静けさが漂っていた。
今日これから向かうのは、駿河屋くんが勝手に契約の代表者に祭り上げられていたとされる、建築業者『馬場組』の新築事務所だ。車を走らせる前に、私はふと、庁舎の奥に残してきた二人のことが頭をよぎり、微かに眉をひそめた。
(……役所に柊くんと駿河屋くんを二人きりで置いてきたけれど、果たして大丈夫かしらね)
駿河屋くんがまた何か無駄な癇癪を起こしたり、有罪派の連中と不要な小競り合いを始めたりしないかという不安が、心の隅に冷たい棘のように引っかかっていた。だが、すぐに私は首をわずかに振ってその雑念を打ち消した。
(――まあ、いいわ。出発の直前に柊くんに対して『駿河屋くんをしっかり見張っていてちょうだい』と念入りに釘を刺しておいたのだし、あの手堅い柊くんなら、彼が単独で勝手な動きをするのをうまく抑え込んでくれるはずよ。無用な心配はよしましょう。私の意識を、今から赴く現場の検証に完全に集中させましょう)
思考を切り替えた私は、手元に抱えていたクリアファイルの留め金を指先で軽く確認し、前方を向いて桜律くんに声をかけた。
「出発しなさい」
呪縛から解き放たれたように、公用車は静かにロータリーを滑り出し、目的地である馬場組の新築事務所へ向けて走り出した。朝の市街地を抜け、車が工業地帯の一角にある馬場組の真新しい社屋の前に到着したのは、午前九時を少し回った頃だった。コンクリート打ちっぱなしの近代的な外観を持つその事務所の前に公用車を停め、私と桜律くんは車を降りてエントランスの自動ドアをくぐった。ロビーの空調は過剰なほどよく効いており、消毒液と新しい建材特有の匂いが鼻腔を突く。
昨日の夕方、桜律くんが事前の根回しとアポイントの調整を済ませておいてくれたおかげで、受付での無駄な押し問答や足止めを食らうこともなく、私たちはすんなりと奥の応接室へと通されることになった。案内された応接室は、重厚な木製の長テーブルと革張りの椅子が整然と並べられた無機質な空間だった。だが、そこに漂う空気は、来客を歓迎するものでは決してなかった。部屋の奥に控えていた馬場組の担当職員――中年の男性は、私たちが特別総合課の人間であると知るやいなや、あからさまに嫌な顔を隠しようともせず、険しい警戒心を全身から発散させていた。5000億の赤字を澪標市役所に作った特総課のことはこの街の民間企業の間にも十分に嫌な記憶として浸透しているらしい。私たちは歓迎されるどころか、厄介払いしたい「触らぬ神に祟りなし」の存在として扱われているのがありありと伝わってきた。
「……おかけください」
男は冷淡な一言だけを告げると、自分も席に腰を下ろした。桜律くんは私の隣の席に静かに座ると、迷いのない手つきで鞄からノートを取り出し、用件を切り出した。
「お忙しいところお時間をいただきありがとうございます。本日は、市を代表して確認させていただきたい件があり参りました」
桜律くんはあらかじめ準備していた要点を淀みなく話し始めると、不意に視線を相手の男性に向け、淡々とした口調で要求を突きつけた。
「事前の連絡通り、『市立医療センター・旧市民病院跡地売却および新施設整備基本協定』に関して、市として貴社に直接尋ねたい事項がございます。つきましては、当時の契約に関する『副本』をご用意いただいているはずですので、そちらを確認のために拝見させていただけますか?」
桜律くんがこの交渉のために、前もって馬場組側へ「当日の協議用に副本を用意しておいてほしい」と周到に頼み込んでおいてくれたおかげで、男は不満そうな顔をしながらも、手元に用意していた一冊の分厚いクリアファイルを乱暴に私たちの前へと差し出した。
「……お望みの品ですよ。間違いなく、当時の正式な書類の副本です」
私は一礼してそのファイルを受け取り、ページをパタリと開いた。そこに記載されている詳細な条文や数字を、私は冷徹な眼光で上から順に舐めるようにスキャンしていった。だが、契約当事者の名前が記載されている条項の一行に差し掛かった瞬間、私の動きが完全に凍りついた。
(……は……?)
心臓の鼓動が、一瞬だけ音を立てて停止したような錯覚に陥る。私の手元にある特総課の保管データや、これまでの調査で把握していた情報では、あの契約書の契約者欄には、紛れもなく『駿河屋礼衣』の名前が記されていたはずだった。
だが、今、私の目の前にある馬場組の正式な副本に記されている文字は、それとは全く異なっていた。
『治牧市特別総合課 渡辺有美』
――駿河屋くんの名前など、どこにも存在しない。そこに記載されていたのは、まったく別の名前だったのだ。それだけではない。私の視線はさらに下へ、日付が記された欄へと釘付けになった。契約日――元のデータでは「11月6日」と記録されていたはずの日付が、この副本の上では「11月7日」に書き換えられていた。日付までが一日ずれてズレ込んでいる。背筋に冷たいものが走るような、奇妙な違和感と混乱が脳内を駆け巡った。
(……どういうこと? 一体これが何を意味しているというの……?)
私は一瞬、馬場組側が私を陥れるために、この書類をわざわざ改竄して偽の副本を見せているのではないかと疑った。私を混乱させ、誤った方向へミスリードするための悪質な罠なのだろうかと。だが、その思考は数秒で私の論理的な理性によって打ち消された。
(……待ちなさい。もしこれが私を貶めるための改竄だとしたら、わざわざ『治牧市』の人間の名前を出し、駿河屋くんは無関係だと証明するような内容にする必要性がどこにあるというのかしら? 駿河屋くんを追放したい、あるいは貶めたいのであれば、彼の名前が記載されている方が彼らにとって都合が良いはずよ。それなのに、わざわざ駿河屋くんの名前を消して治牧市の別の人物の名前を浮き上がらせるような改竄なんて……そんな支離滅裂な工作をする理由が微塵も見当たらないわ。自分の勘繰りは下衆の勘繰りだったわね……)
思考を急速にまとめ直すと、私はすっと居住まいを正した。正面に座っている馬場組の職員は不審そうな顔を隠そうともしていなかったが、私がこの副本をもらうことができるのかと尋ねると、男は迷惑そうに答えた。
「もとより、そのように仰せつかって参られたと聞き及んでおりますのでね。どうぞお持ち帰りください」
「……感謝します」
私はその副本を受け取るとファイルに丁寧に収め、二人は事務所を後にした。公用車に乗り、澪標の市役所に戻ることに。車内で、私は呆れを含んだ声で呟いた。
「……本当に、調べれば調べるほど……駿河屋くんは勝手に名前を使われまくっているのね」
桜律くんは運転席から前方を向いたまま、「そうだな」と返し、続けて言った。
「ここまで利用されていると、普通に考えて本人が気がつきそうなものだけどな」
私は車窓の外を流れる景色を冷ややかに見つめながら、論理的に答えを提示した。
「駿河屋くんは普段からまともに仕事をしていないのだから、これだけの異常でも気が付かないと思われたのでしょうね。実際、こうして表になるまで全く知らなかったみたいだもの。……本当に、手のかかる男だわ」
公用車は朝の街並みを走り抜け、再び澪標市役所の庁舎へと戻っていくのだった。
28-4
馬場組での調査を終え、公用車で本庁舎へと戻ってきたのは、正午を回る少し前のことだった。地下駐車場に車を滑り込ませると、私と桜律くんはエレベーターへと直行した。昨日の今日だ。有罪派の面々がたむろするメインの執務室の近くを通るのは不毛な摩擦を生むだけなので、私たちは無言のまま奥の会議室――現在の私たちの作業拠点へと一直線に足を向ける。
(……私たちが不在の間、あの二人は指示通りの精査を進めているかしらね)
重々しい会議室のドアの前で立ち止め、ドアノブに手をかける。鍵が解錠されているのを確認し、静かにドアを押し開けて室内へと足を踏み入れた。一歩足を踏み入れた瞬間の光景に、私は思わず眉根を猛烈に寄せた。長机の片隅では、柊くんがノートパソコンと分厚い資料を広げ、真剣な眼差しで答弁書の下書き作業を進めていた。しかし、そのすぐ隣――パイプ椅子に深く体重を預け、長机に両肘をついて頭を伏せている男の姿が目に入った。駿河屋くんだ。彼は自分の置かれている極限のピンチなど露ほども感じていない様子で、規則的な高いイビキをかきながら完全に爆睡していた。
(……なぜこの男は、自分の進退と人生がかかっているというのに、これほどまでに呑気でいられるのかしら)
頭の奥でフツフツと理不尽な煮え湯が滾るような怒りが湧き上がってきた。だが、感情に任せて怒鳴り散らしても時間とエネルギーの無駄だ。私は小さく首を横に振って雑念を打ち消すと、足音を荒々しく立てながら彼の座る椅子の背もたれへと歩み寄り、その肩を容赦なくバンと叩いた。
「駿河屋くん。起きなさい」
「うあッ!? ……な、なんだよッ!?」
跳ね起きるように目を覚ました駿河屋くんは、目をこすりながら大欠伸を漏らし、両腕を頭上に突き出して派手に背伸びをした。
「ふあぁぁ〜……。なんだよ工藤、帰ってきたのかよ。人が気持ちよく寝てたのによぉ……」
ブツブツと不満を垂れ流す男を氷のような冷たい眼光で一刺しし、私は手にしていたクリアファイルから、先ほど馬場組で手に入れてきた契約書の副本を取り出した。そして、それを長机の上にパサリと置き、柊くんと駿河屋くんの二人に提示した。
「馬場組からもらってきた書類の副本よ。内容を説明するわね」
私は副本のページを開き、指先で契約者欄と日付の記載箇所を指し示した。
「私たちが把握していた特総課側の保管書類では、契約者名は『澪標市特別総合課 駿河屋礼衣』で日付は『11月6日』となっていたわ。けれど、先方から提示された正式な副本に記載されていたのは――『治牧市特別総合課 渡辺有美』、そして日付は『11月7日』よ。つまり、あなたはこの契約に一切関与しておらず、完全に名前を勝手に使われていただけという事実が客観的に証明されたの」
私の説明を聞いた瞬間、二人の反応は対極的だった。駿河屋くんは頭をガシガシと掻きむしり、「あぁ……? 渡辺……誰だそれ? なんかよく分かんねえけど、俺じゃねえってことか?」とイマイチ内容がピンときていない様子で首を傾げている。一方で、柊くんは「……! 本当かい!?」と瞳を輝かせ、即座にあからさまな喜びを全身から溢れさせた。
「すごいよ工藤さん! これで駿河屋くんの無実を証明するための決定的な材料がまた一つ増えたね!」
「ええ。でも、喜ぶのはまだ早いわ」
私は二人の歓喜と困惑をよそに、冷淡なトーンで言葉を打ち切った。そして、部屋を出る前に二人に命じておいた作業成果物へと視線を滑らせた。
「……ところで。私たちが留守にしている間、頼んでおいた作業はちゃんと進めていたのでしょうね?」
私が圧をかけて問い詰めると、柊くんは手元の綺麗に整頓されたノートをすっと差し出してきた。そこには、過去の答弁例と今回の不祥事を比較した箇条書きのメモが、読みやすい文字で論理的にまとめられていた。
問題は、その隣だ。
駿河屋くんに割り振っていた方の用紙を取り上げ、内容に目を通した瞬間、私の顔から一切の温度が消え去った。杜撰。その一言に尽きる。提出された下書きは、文字の乱雑さもさることながら、主観に満ち溢れた感情論の羅列であり、審議で答弁として使用できるレベルには到底達していなかった。箇条書きの体裁すら整っておらず、要点がどこにあるのかすら判別不能な惨状だ。私はその用紙を長机の上にパサリと叩きつけると、静かながらも逃れられない威圧感を込めて彼の名を呼んだ。
「……駿河屋くん」
「あぁ? なんだよ」
「なぜこんな下書きにも関わらず、要点すらまともにまとめられないのかしら?」
私の詰問に対し、駿河屋くんは不満そうに太い眉を跳ね上げ、腕を組みながら反論してきた。
「んだよ! 俺なりにちゃんとまとめたろ! 俺が無実だって主張を分かりやすく書いてやったじゃねえか!」
「……あなたのその『主張』とやらは、客観的な事実に基づいた論理ではなく、ただのあなたの個人的な主観と感情が色濃く反映され過ぎているわ」
私は提出された用紙の数行を指先でトントンと叩きながら、容赦なく内容を切り捨てていった。
「たとえばここ。『俺は絶対にやっていないから冤罪だ』――こんなものはただの主観的な主張であって、第三者を納得させる根拠には一切ならないわ。さらにここ、『あいつらが勝手にやったに決まっている』――具体的な証拠の裏付けもない推測を答弁書に記載してどうするつもり? 審議の場でこんなものを提出したら、一瞬で有罪派の連中に隙を突かれて叩き潰されるわよ」
ひとつひとつ具体的に欠陥を指摘し、徹底的に論破していくと、駿河屋くんは「ぐっ……」と絶句し、悔しそうに歯の根を鳴らして黙り込んだ。私は本来なら「今すぐすべてやり直しなさい」と一蹴して叫びかけるところだった。しかし、振り上げた拳を放つ直前で、私の脳内の合理的思考がブレーキをかけた。
(……待ちなさい。ここでこの男にどれほど怒声を浴びせ、最初からやり直させたところで、どうせまた似たような質の低い焼き直しの文章が返ってくるだけだわ。そんな不毛なやり取りに時間を費やすのは、今の私たちにとって最大の損失よ)
無駄なリソースの消費を避けるため、私は即座に頭を切り替えた。ふと視線を扉の方へと動かす。そこには、部屋の入り口付近で荷物を抱えたまま、私たちのやり取りをボケーっとした呆れ顔で見つめていた桜律くんの姿があった。壁に背をもたれさせ、どこか他人事のような泥船の観察者といった体で佇んでいる。私は迷うことなく、その真っ直ぐで強い視線を桜律くんへと注ぎ直した。
桜律くんは一瞬、「……なんでオレを見ているんだ?」と言いたげな不審そうな目を向けたが、私の視線が微動だにせず自分を捉え続けていることに気づくと、恐る恐る自分の人差し指で胸元を指差した。
「……オレか?」
「そうよ、桜律くん」
私は寸分の躊躇もなく、冷徹な指示を言い渡した。
「駿河屋くんの作った下書きを私に提出させる前に、あなたがすべて目を通して添削しなさい」
「……は?」
桜律くんの顔が見る見るうちに嫌そうな歪みを帯びていった。彼は抱えていた資料を抱え直し、あからさまに不服そうな声をあげて食ってかかってきた。
「おい、なんでオレがそんな面倒なことまでしなきゃならないんだよ。オレは中間管理職か何かか?」
「そうよ。今のあなたの立ち位置は、まさにその中間管理職よ」
私は顔色ひとつ変えず、短く即答した。
「な……中間管理職……。おい待て、少しは躊躇うか、否定してくれよ。せめてそのような表現も可能かもしれないとか」
納得がいかない様子で、なおも食い下がろうと反論を試みる桜律くん。
「冗談じゃないぞ。オレにはオレに割り振られた膨大な資料の精査と答弁案の作成があるんだ。これ以上、人の手がかかる下書きの面倒まで見られるか」
「あなたが彼の文章をまともな形に修正して私に提出する方が、私が直接彼に何度もやり直させて時間を浪費するよりも、チーム全体として遥かに効率的だという単純な計算よ。何か文句でもあるのかしら?」
「大ありだ。責任と業務量だけ押し付けられて、手当も出ない中間管理職なんて冗談じゃない」
「審議を乗り切れば、いくらでも評価してあげるわ。……いいかしら、用件は以上よ」
冷徹な論理の弾丸を何合か叩きつけると、桜律くんは観念したように深々と重い溜息を吐き出し、肩を落として折れたのだった。こうして、彼は己に課された本来の作業と、駿河屋くんの不完全な下書きの添削という二重の重荷を背負わされることになった。その押し問答が一段落したのを見計らっていたのだろう。長机の席についた私の元へ、柊くんが静かな足取りで近づいてきた。
「工藤さん、お疲れ様。……これ、二人が戻ってくる少し前に、サバキネコが持ってきてくれたファイルだよ」
柊くんが差し出してきたのは、一冊の綺麗にファイリングされた書類の束だった。
「今年の6月下旬から7月上旬にかけて、駿河屋くんが申請した経費の領収書と、その主な申請理由だよ。一応分かりやすくまとめておいたんだ」
私は受け取ったファイルを開き、綺麗に分類されたデータとタイムラインに目を通した。サバキネコが抽出してきた生の領収書データが、視認性の高い一覧表へと完璧に整理し直されている。私は柊くんに視線を向け、素直な疑問を口にした。
「……あなたがこれを取りまとめてくれたの?」
柊くんは「うん」と頷いたものの、私の反応を気にしたのか、少し控えめで自信なさそうに尋ね返してきた。
「……もしかして、見にくかったかい?」
「いいえ。……駿河屋くんのあの酷い下書きを見た後だというのを抜きにしても、あなたがまとめてくれた情報は極めて論理的で分かりやすく、助かるわ。ありがとう、柊くん」
私の感謝の言葉を聞くと、柊くんはホッとしたように笑みをこぼした。サバキネコが地下からデータを持ってきた時間を考えれば、柊くんは自分の本来の作業の手を止め、私たちが戻ってくるまでの短時間で、優先してこの整理を行ってくれたのだと容易に理解できた。
(……相変わらず手際が良く、配慮が行き届いているわね)
ふと横目に視線を移すと、がっくりと肩を落として自分のデスクで作業を始めようとしている桜律くんに対し、柊くんが優しく声をかけている姿が見えた。
「桜律くん、大丈夫? さっき押し付けられた駿河屋くんの下書きのチェック、僕も半分手伝うよ」
「……助かる」
正直何を考えているかはわからないが、面倒見の良さと、チーム全体の空気感を和らげる彼の高い能力に、私は内心で深い感銘を受けつつも、すぐに気持ちを切り替えた。
「さて……作業を再開するわよ」
手元の資料へと意識を集中させ、私は審議前の膨大な作業へと静かに没頭していったのだった。
28-5
4月26日、審議会前日の夜。時針はとっくに深夜の領域へと滑り込んでいた。外に広がる市役所の敷地は黒々とした闇に飲み込まれ、街の喧騒も途絶えて久しい。私たちが仮拠点として使用している奥の空き会議室には、卓上ライトの白い光と、液晶画面の発する青白い冷光だけが重々しく落ちていた。室内に充満しているのは、長時間の密室作業特有の澱んだ熱気と、極限まで磨り減った精神の摩擦音だ。
ふと視線を手元から巡らせると、この部屋に集う面々の惨状が目に入った。長机の端でキーボードを叩いている桜律くんは、連日の不眠と不休の精査作業の疲労からか、いつも結ばれているネクタイのノットが締められておらず緩められ、襟元が微かに崩れていた。無表情な横顔には濃い影が落ち、その瞳には冷徹な集中力と引き換えの深い疲弊が宿っている。その隣では、普段は誰よりも手堅く穏やかな柊くんが、目の下に目立つ黒いクマを作りながら、掠れた息を漏らして書類のチェックを続けていた。そして部屋の隅のパイプ椅子では――駿河屋くんが、もはや骨を抜き取られたかのようにぐにゃりと背もたれへ身体を預け、まるで液状化したかのように床へとずり落ちかけていた。
(……惨憺たる有様ね)
私自身、胸の奥を重い鉛で押さえつけられているかのような、拭い去れない濃厚な疲労感に苛まれていた。まぶたの裏側がジリジリと熱を帯び、指先がかすかに痺れるような感覚がある。だが、私は一度深く息を吸い込み、脊椎を真っ直ぐに伸ばして姿勢を正した。数の上では、私たちは『有罪派』に圧倒的な大差をつけられている。メインの執務室を拠点に、感情論と排斥の空気を形成しているあちら側の勢力に対し、こちらの『無罪派』はたったの4人だ。人員と物理的な数の力で圧倒的に劣っている以上、明日の審議という土俵において、提出するロジックと証拠の『質』で圧倒的な優位に立たなければ、突破口など開けるはずもない。だからこそ、これまで有罪派の面々が帰宅していっても残り続け、私たちはこの冷え切った会議室に残り続け、手に入れた莫大な資料とログを寸分の隙もなくまとめ上げてきたのだ。
手元の答弁資料の文字を追い、ペンを走らせていると、不意に視界の横から影が伸びてきた。いつの間にか私の真隣まで来ていた桜律くんが、無言のまま、卓上に小さな紙パックの温かい飲料をそっと置いた。自販機で買ってきたホットミルクの差し入れだ。
「差し入れだ」
短く掠れた声で告げる桜律くんに、私は手短に礼を言った。
「……ありがとう」
パックのストローを挿し、一口飲む。まろやかな甘みと温もりが、冷え切っていた胃腑へとじんわりと染み渡っていく。温かい液体を喉に通しながら、私は脳内でこれまでの検証作業の全体像を冷徹に再構築していた。
(……結局のところ、私たちがどれだけ真犯人を見つけようと躍起になって調査を進めたところで、真犯人の手によって完全に証拠が隠滅されてしまっているわ)
私たちがここ数日で拾い集めることができたのは、タイムスタンプの齟齬や公用車の貸出ログ、名義貸しの不自然さといった『怪しい部分』の点と線に過ぎない。拾えた怪しい部分だけでは駿河屋くんの犯行が不可能だという『推定無罪』が限界だろう。
(その事実に私が完璧に気がついたのは――昨日の昼だったわね)
もっと早い段階で真犯人の特定という不可能な泥沼を捨て、この『推定無罪の確立』という一点に絞って力を入れられていれば、より強固な構築ができていたはずだ。悔やんでも時間は戻らない。
しかし、有罪派の、特に感情的な人間たちが真犯人を出さないと納得しないというのは想像に容易い。彼らは誰か明確な「悪者」が叩き潰され、追放されるドラマを欲している。
(……だからこそ、審議に『審判枠』を設けた私の判断は正解だったわ)
中立であり、規則と論理を冷徹に重んじる世良くんをあの枠に据えたことは、この局面における最大の勝因になり得る。世良くんなら「真犯人がいないから駿河屋くんが犯人だ」というような暴論や、「推定無罪は納得できない」といった感情論を言い出さないだろうと思考する。
(世良くんの存在がある限り、私たちの組み上げた推定無罪のロジックは成立する……)
思考をまとめ終え、ふと視線を室内に戻した瞬間、桜律くんとバッチリと目が合った。彼は私と目が合うと、静かに瞼を閉じた。私はもう一度周囲を見回した。連日甲斐甲斐しく働き詰めていた柊くんや、身動き取れずに床にずり落ちそうな駿河屋くん。
(……彼らをこれ以上拘束するのもよくないわね)
明日、万全の状態で審議の場に臨むためにも、彼らの疲労はここで限界を迎える前に切り離すべきだ。私は立ち上がって二人の元へと近寄った。まず、机に伏しかけていた柊くんの肩を優しく叩く。
「……柊くん」
「ん……あ、工藤さん。ごめん、ちょっと……」
「今日までの感謝を伝えるわ。もう上がってもらって構わないわよ。今夜はゆっくり休みなさい」
私の言葉を聞いた柊くんは、自分1人で先に上がるなんてと思ったのかすぐに残ると言い出しそうな気配があったが、すぐに駿河屋くんに視線を移すと、申し訳なさそうに礼をし、言葉を返した。
「……ありがとう、工藤さん。駿河屋くんは僕が責任持って送り届けるよ」
申し訳なさそうに、だが頼もしく微笑む柊くんに対し、私は満足して桜律くんの元に向かうのだった。その間、柊くんは駿河屋くんに声をかけて帰宅する準備を促し、二人で部屋を去っていく。私は桜律くんの前に来て話しかけようとした――まさにその瞬間だった。ギリギリのところでヒールをつまづき、体勢を崩して後方に倒れかけた。
「……っ!?」
平衡感覚が一瞬で吹き飛び、世界が急速に傾く。連日の無理が祟り、踏ん張りを効かせるべき足腰の筋力が完全に悲鳴を上げていた。だが、それを桜律くんは抱き寄せて防いだ。ドサリ、という衣服の擦れる音とともに、私の腰元に力強い質量が滑り込んできたのだ。
「……大丈夫か、工藤」
頭上から降ってくる問いかけに、私は動転しそうになる胸の動悸を必死で押し殺し、すぐさま冷淡な仮面を張り直して答えた。
「……大丈夫よ、問題ないわ」
そう言い放ち、私はすぐさま彼から距離を置こうとした。しかし――桜律くんは腰に添えた左手を少しだけ引き寄せて引き留めた。
「……なっ!?」
密着した距離が保たれたまま、逃げ場が塞がれる。内心で目の前の桜律くんの行動に動転しつつ、悟られないように極力冷ややかに一体なんのつもりなのかという旨の言葉を送る。
「……一体なんのつもりかしら、桜律くん。私を放しなさい」
立て続けに、私は今こうしている時間にも明日までにやっておきたいことがあると言い張ろうとした。
「今こうしている時間にも、明日までにやっておきたいことが――」
そこまで言おうとした瞬間、桜律くんは右手を私の顎に添え、右手の親指で私の唇を押さえた。
「……っ!?」
いきなり唇に触れられて失語している私に対し、桜律くんは静かに低く語りかけてきた。
「お前、連日忙しなくしていて疲れてるだろ」
反論の言葉すら奪われたまま固まる私に対し、彼は右手を私の後頭部に回し、そのまま桜律くんの胸元に私の額が当たる。トントン、と彼の鼓動の音が額を通じて伝わってくる。桜律くんは続けて言葉を重ねた。
「今お前がここで力を使い果たして、明日100%の力を発揮できなければ駿河屋が有罪になるかもしれない。そうならないためにも、少しは役割を分担しろ。あとの事務的なことはオレに任せておけばいい。お前も真っ直ぐ帰宅して英気を養え」
私はすぐに言い返そうとした。論理の整合性をついて自分がここに残って作業を終わらせるべき理由を並べようとした。自分が残った方が効率が良いはずだし、審議の細部は私が把握しているのだと。しかし、胸元から伝わる体温と力強い言葉の前に、徐々に力が抜けていくのを感じ、抵抗するのを諦めた。
(……確かに、今の量と桜律くんの能力ならこのまま寝ずに作業すれば明日の朝までには余裕を持って終わらせられるでしょうけど……)
私はゆっくりと頭を上げて桜律くんの顔を見た。
「……いいの?」
私の問いかけに対し、桜律くんは迷いなく返した。
「無論だ。むしろ、明日の議論はお前に任せきりになるだろうし、ここがオレの踏ん張りどころだと心得ている」
憔悴しきった私は、荷物をまとめるために桜律くんからゆっくり距離を取る。離れた瞬間に少しだけ肌寒さを感じつつ、彼から離れていく。すると桜律くんは、さも当然かのように私に対して言葉を投げかけてきた。
「実はさっきタクシーを庁舎前に呼び出しているから、早く向かったほうがいいぞ」
「……」
電車で帰ろうと思っていただけに、あまりの手際の良さに若干呆れつつも、確かに今から深夜の冷気や電車の波に揉まれるのは御免だと、たまには高いお金を払ってでも楽をしようと心に誓うと、会議室を後にしたのだった。
庁舎前に待機していたタクシーに乗り込み、運転手に住所を伝える。車体が静かに動き出し、2分ほどして、暖房の効いた車内で少しうとうとしていると、桜律くんからメッセージが飛んだ。画面を開くと、そこにはこう記されていた。
『工藤のスーツのポケットにタクシー代を入れておいた』
「……っ!?」
慌ててポケットを確認すると、本当にそこに万札が3枚入れられている。彼が私を抱き寄せたあの混乱の最中に、先回りして忍ばせていたのだ。私はすぐに端末を閉じ、車窓の外の暗闇を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……嫌な人」
その呟きは、深夜の車内に静かに溶けて消えていったのだった。




