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第29話 駿河屋礼衣の不正審議

半月ぶりの更新です。駿河屋礼衣の不正審議はかなりボリュームがあるので、区切って読むことを推奨します。

片手で収められる話数に落とし込むと、文字数が合計11万文字近くになりました。なので、本当に区切って読むのがいいと思います。


29-1


 数日間にわたって全身の神経をすり減らし、頭蓋の奥が常に微熱を帯びたような疲弊感に苛まれていた連日から一転、この一日の完全な休息は、私の肉体と精神に驚くほどクリアな回復をもたらしてくれた。まとまった睡眠と、余計な思考を一切排除した静謐な時間は、細胞の隅々にまで溜まっていた倦怠感をきれいに洗い流している。朝の目覚めから、視界は冴え渡り、思考の回転速度もかつての水準へと完全に復帰していた。

 腕時計の文字盤に視線を落とす。針は午前7時56分を示していた。始業のチャイムが鳴るまでにはまだ余裕があるが、本日の審議に向けた最終調整と、膨大な資料の配置を考えれば、これ以上無為に時間をロスするわけにはいかない。私は足早に庁舎のエントランスを抜け、磨き上げられたリノリウムの床を鳴らして歩みを進めた。私は今日の審議に備え、あらかじめ確保しておいた空き会議室を臨時の拠点に向かう。

 ドアを押し開けて室内へと足を踏み入れる。部屋の中は、まだひんやりとした朝の空気に包まれており、人の気配は一切なかった。当然といえば当然だ。私が一番乗りなのだろう。ふと、昨夜の遅くまで残って作業をしていたはずの桜律くんの姿がどこかにあるのではないかと、部屋の隅に視線を巡らせたが、そこにあるのは無機質な長机とパイプ椅子が無造作に並べられている光景だけだった。


 「……まったく、鍵すら閉めずに開けっぱなしにしておくなんて、不用心極まりないわね」


 誰もいない空間に向けて小さく呟きながら、私は自分の荷物をまとめたブリーフケースを一番手前の机の上にドンと置いた。治安がどうこうという以前に、組織の機密に関わる資料を一時的にでも保管する場所なのだ。セキュリティ意識の欠片もないその杜撰さに、微かな苛立ちを覚える。

 その時、私の視界の隅に、机の上にポツンと置かれた一通の封筒が飛び込んできた。近寄って手に取ってみれば、それは手書きのメモが貼り付けられた置き手紙だった。乱雑でありながら、どこか特徴的な線の細い文字で、こう綴られている。


 『残って資料の最終整理とデータ化を終わらせておいた。目を通しておいてくれ。桜律』


 手紙の内容を脳内で反芻しながら、私は微かに眉をひそめた。だが、驚きや新しい情報はそこには一切ない。なぜなら、この手紙に書かれている内容は、すでに私の手元へと到達していたからだ。私が目を覚まし、枕元のスマートフォンを確認した時には、すでに桜律くんからのメッセージとともに、該当するPDFファイルがデータとして送信されていたのだ。彼は深夜の静寂の中で、アナログな手紙という物理的な痕跡を残すだけでなく、デジタルの即時性をも利用して、私に対して抜かりなく情報を共有していたわけだ。相変わらず、無駄に手際が良いというか、余計なところで有能さを発揮する男である。


 「……もう確認済みよ。今さら紙の束を見返すまでもないけれど」


 そう独りごちながらも、念のため机の上に積まれていたファイルを開き、中身に目を通す。そこには、昨夜彼が徹夜でまとめ上げたはずの詳細なデータと、私自身の記憶にあるデジタルデータの数値が完璧に一致していることが記されていた。形式的なクロスチェックを終え、私はパタンと音を立ててファイルを閉じた。

 その瞬間、会議室のドアがガチャリと軽い音を立てて開いた。


 「あっ、おはよう、工藤さん!」


 顔を上げると、そこにいたのは柊くんだった。相変わらず周囲に気を配るような柔らかい笑みを浮かべているが、彼の顔色にも昨日までの疲労の色がうっすらと残っている。


 「おはよう、柊くん。早い出勤ね」

 「いや、準備しなきゃいけないことも多いしね。会議室の設営、手伝うよ」

 「助かるわ。それじゃあ、さっそく確認資料を各机に仕分けしましょう」


 私たちは言葉を交わしながら、手際よく資料の束を持ち上げ、室内のレイアウト変更に取り掛かった。静まり返った部屋に、紙をめくる音と足音が乾いた反響を立てる。それから数分もしないうちに、また一段とガチャリとドアが開いた。


 「お、やっと着いたか。ダル……」


 気だるげに気のない声を零しながら入ってきたのは駿河屋くんだ。その手には、コンビニのロゴが入ったレジ袋がぶら下がっている。そして、そのすぐ後ろに、無表情でスマホを眺めながらノロノロと歩いてくる桜律くんの姿があった。


 「あ、桜律くん、駿河屋くん、おはよう!」


 柊くんが手を止め、爽やかなトーンで声をかける。私も手を動かしたまま、二人に視線を向けた。


 「おはよう……」

 「……あぁ、おはよ」


 桜律くんは相変わらず覇気のない声で返し、駿河屋くんは面倒くさそうに頭を掻きむしりながら壁際に寄りかかった。私は容赦なく、その弛緩した空気を切り裂くように告げた。


 「二人とも、突っ立っていないで早く手を動かしなさい。これから今日の審議に使う資料の搬入と最終のセッティングがあるのよ。あなたたちの席だけ用意してあるわけじゃないでしょう。手伝いなさい」


 私の言葉を聞くやいなや、駿河屋くんは「うわ、マジかよ……」と露骨に顔を歪め、自分のカバンを机の上に乱暴に放り投げると、嫌々ながらも作業の輪に加わろうと腰を上げた。だが、問題はもう一人だ。桜律くんは、レジ袋をぶら下げたまま、まるで重力を忘れたかのような虚ろな目で一点を見つめたまま、微動だにしていなかった。


 「……桜律くん? 聞こえなかったかしら。早く荷物を置いて手伝いなさい」


 声をかけても、彼はその場から一歩も動こうとせず、やれやれと言った面持ちでゆっくりと首を振った。


 「いや、待ってくれ工藤。オレは今から、非常に重大なライフワーク……すなわち『朝食の摂取』という不可避の生理的プロセスを執り行おうとしているところなんだが」

 「……は?」


 私は思わず作業の手を止め、彼を冷徹な視線で見据えた。


 「何を寝ぼけたことを言っているのかしら。時間がないのは見ればわかるでしょう。そんな私的な営みは、すべての業務が完了してからにしなさい。どうしてもというなら、お昼休みにでも勝手に食べることね」

 「いや、そう言うなよ。昨日の夜から一粒たりとも固形物を口にしていないんだ。オレの胃袋は今、強烈な空腹感のシグナルを脳髄に向けて絶叫レベルで発信し続けている。これは生物としての防衛本能だ。無視することは許されない」

 「論理のすり替えね。あなたが夜中に何を食べていようが私の知ったことではないわ。今はこの部屋にいる全員が総出で準備にあたっているのよ。あなた一人だけが優雅に朝食をとる時間的正当性なんてどこにもないわ」

 「いや、正当性とかそういう問題じゃなくてだな……純粋にエネルギーが枯渇しているんだ。このままでは脳がフリーズして、今日の尋問や審議で的確なツッコミを入れることができなくなる。つまり、これは課全体の利益にかかわる重大な問題なんだぞ」

 「詭弁よ。早くその袋を置きなさい。あなたがモタモタしているせいで、全体のスケジュールが押しているのよ」

 「待て待て、落ち着けって。ほら、見てみろこのおにぎりを……ツナマヨだぞ。これを一口噛み締めるだけで、オレの生産性は倍増する」

 「却下よ。今すぐそれをカバンの奥にしまいなさい。仕事が先、食事は後。社会人の基本よ」

 「鬼かお前は……。生理的欲求の人権を完全に踏みにじる気だな……」


 私たちは、たかが朝食のタイミングをめぐって、くだらない、しかしお互いに一歩も譲らない不毛な口論を数分間にわたって繰り広げた。駿河屋くんが呆れたように「お前ら、こんな朝っぱらから何やってんだよ……」と呟き、柊くんが苦笑しながら「まあまあ、桜律くんも落ち着いて……」となだめに入る。だが、私の論理的な畳みかけの前に、最終的に桜律くんは精神的なエネルギーを使い果たしたのか、ふっと肩の力を抜いた。


 「……分かった。……このツナマヨおにぎりは、お預けというわけか……」


 彼はまるで処刑台に向かう罪人のような絶望的な顔をしながら、持っていたコンビニのレジ袋を机の端に置き、観念したように資料の束へと手を伸ばしたのだった。やれやれ、と心の中で小さく息を吐く。こうして無駄な押し問答を制圧し、全員がようやく同じ方向を向いて作業を再開したその時だった。


 コン、コン、コン——。


 規則正しい、しかしどこか緊張感を帯びたノックの音が、会議室のドアを叩いた。室内の空気が一瞬で凍りつく。

 作業をしていた私たちの手が、ぴたりと止まった。柊くんは動きを止めたまま、私をじっと見つめて無言で首肯した。駿河屋くんは伸びをしたままの不自然な体勢で固まり、 そして桜律くんは、レジ袋の中から取り出し損ねたおにぎりを握りしめたまま、完全にフリーズしていた。全員の視線が、一斉に私に集まる。私は小さく息を吸い込むと、自ら頷き返し、足音を立てないようにしてドアノブに手をかけた。慎重に鍵を開け、数センチだけ隙間を作って外の様子を窺う。

 廊下の薄暗い光の中に立っていたのは意外な人物だった。


 「……世良くん?」


 そこにいたのは世良くんだ。そして、その少し後ろの影に、まるで従者のようにぴたりと張り付いて控えている日向坂くんの姿があった。世良くんは私の顔を見るなり、いつもの涼しげでスマートな笑みを浮かべ、軽く会釈をした。日向坂くんも、それに倣うようにして小さく顎を引く。


 「おはよう、工藤さん。会議の準備、ご苦労様」

 「おはよう、世良くん、日向坂くんも。……一体、こんな朝早くに何の用かしら? 私たちに何か不備でもあったかしら?」


 警戒心を解かないまま、私は低いトーンで問いかけた。すると、世良くんは柔らかな物腰のまま、手元のタブレットに目を落として言った。


 「いや、不備なんてとんでもない。ただ、今日の審議の開始時間について、最終的な調整がついたからそれを伝えに来たんだ。予定通り、午前10時45分からの開廷ということで確定したよ」

 「10時45分ね……分かったわ。そちらのスケジュール通りに進めるわ」

 「ありがとう。それじゃあ、僕はまだ他の確認があるからこれで失礼するよ」


 世良くんはそれだけ言い残すと、くるりと踵を返してエレベーターホールの方へと歩き出した。私はその背中を見送りながら、ふと違和感を覚えて足を止めた。世良くんの後を追うように歩いているはずの日向坂くんが、なぜかその場から動いていなかったのだ。

 彼は廊下の冷たいタイルの上に立ち尽くしたまま、ガッチリと硬く口の端を結び、何か言いづらそうにその場で足を踏み出せずにいた。


 「……日向坂くん?」


 私が不審に思って声をかけると、日向坂くんはビクッと肩を揺らし、意を決したように顔を上げた。その瞳には、重い責任感と、言いようのない葛藤の色が深く宿っていた。

 彼は周囲を気にするように一度視線を泳がせ、それから私を真っ直ぐに見据えて、絞り出すような低い声で言った。


 「……工藤。ちょっといいか」

 「……何よ。話なら手短にしてちょうだい。こっちは忙しいのよ」


 私の冷淡な返しにもひるまず、日向坂くんは慎重に、一言一言の言葉を選ぶようにして話し始めた。


 「……誤解しないでほしい。俺は別に、駿河屋を心から疑っているわけじゃないんだ。ただ……寒川や田辺たちの感情的な声を、課の代表として代弁している手前、俺たちも中途半端な真似はできない。だから……ちゃんと真正面から、お前たちの提示する論理とぶつかるつもりだ」


 彼はそこまで言うと、自分の胸元を軽く拳で叩いた。


 「他の連中も、ただ感情だけで喚いているわけじゃない。全員を納得させるだけの客観的な事実が欲しいんだ。だから……頼むから、お前たちの主張で、徹底的に論破してくれ。俺たちの甘えを、全部木端微塵に打ち砕いてくれよ」


 その言葉は、彼なりの誠実さと、この混沌とした組織の中で必死に筋を通そうとする不器用な決意の表れだった。私は彼の真摯な眼差しを真正面から受け止め、静かに頷いた。


 「……当然よ。最初からそのつもりで証拠を集めているわ。中途半端な温情なんて、かえって彼のためにならないもの」


 私の答えを聞いた日向坂くんは、肺の奥底に溜まっていた空気をすべて吐き出すかのように、長く、深い溜息をついた。


 「……そうか。だよな。なら、任せたぞ」


 それだけを言い残すと、彼はどこか疲れ切ったような重い足取りで、先ほど歩いていった世良くんの背中を追うように歩き出した。少し離れた場所で待っていた世良くんは、日向坂くんが追いつくのを確認すると、エレベーターの呼び出しボタンを押し、滑らかに開いた金属の扉へと二人で姿を消していった。チーンという控えめな電子音が響き、完全に扉が閉ざされるのを確認してから、私は再び会議室の中に身を戻した。


 「……さて、と」


 ドアを静かに閉め、私は室内の様子を見渡した。柊くんはすでに荷物の運搬作業に戻り、テキパキと段ボール箱を動かしている。一方の駿河屋くんはといえば、いざ本番が間近に迫ってきたという現実を突きつけられたのか、先ほどまでの気だるげな態度が嘘のように消え失せ、顔面を青ざめさせながら両手をワナワナと震わせていた。


 「おい、おいマジかよ……本当に出るのかよ、あの場に……。俺、やっぱり腹が痛くなってきたぞ……」

 「今更何を言っているのよ。あなた自身が被告人席に座るのよ。覚悟を決めなさい」


 私は彼の動揺には特に驚かなかった。形式的とはいえ、これは組織内における裁判のようなものだ。これから自らの潔白を証明するためにリングへ上がろうという人間が、直前になって恐怖や緊張で縮み上がるのは、人間の心理としてはむしろ正常な反応と言える。ただ、なぜもっと早い段階で危機感を抱かなかったのかという呆れはあったが。

 そして、その傍らでは——。


 「……おい、工藤」


 桜律くんが、先ほど没収されかけたツナマヨおにぎりを片手に持ち、その透明なパッケージの端をじっと見つめていた。まさに、今からそれを開封しようという絶妙なタイミングだった。私は思わず深く、盛大な溜息をついた。


 「……桜律くん。あなたが何をしようとしているのか、そのおにぎりをどうしたいのかは分からないけれど、今すぐそれを元のレジ袋に戻しなさい」

 「いや、しかしだな工藤。命の危機は脱したものの、血糖値の低下による思考力の減衰は依然として——」

 「問答無用よ。袋に戻しなさい」


 私の冷徹な一喝に、桜律くんはトボトボと肩を落とし、未開封のおにぎりを再びコンビニのレジ袋の中へと投げ入れたのだった。

いよいよ、時間は午前8時を回った。私たちが築き上げてきた論理と証拠が、あの狂騒的な執務室の群衆をどこまで沈黙させられるか——その前哨戦が、まもなく始まろうとしていた。


29-2


 本日の審議に向けた最初の実務的障害は、予想通り「動く時限爆弾」である駿河屋くんの処遇だった。彼を今この瞬間に、他の職員たちが待ち構えている本陣たる執務室へと放り込めば、審議の開始を待つまでもなく、物理的な流血沙汰や感情の爆発による全面戦争に発展することは火を見るより明らかだった。

 したがって、役割分担は自ずと決定される。


 「桜律くん、駿河屋くん。あなたたちは、会議室にある残りの資料を台車に積み、執務室の入り口の手前まで運搬しなさい。それより先へ足を踏み入れることは厳禁よ。入り口のドアの前で一旦荷物を下ろし、そこで待機していなさい」


 私の指示に対し、駿河屋くんは「ちっ、下働きかよ……」と不満そうに舌打ちをしたが、自分が置かれている立場の危うさを本能的に理解しているのか、それ以上の異議は唱えなかった。桜律くんは「了解した」とだけ淡々と答え、面倒臭そうにポケットに手を突っ込んだまま頷いた。


 「それじゃあ、私たちは先に執務室へ入って設営を進めるわ。柊くん、行きましょう」


 私は自分用の資料の束を抱え直すと、柊くんを伴って会議室を後にした。廊下の静けさを切り裂きながら、私たちは足早に特別総合課の執務室へと向かう。重い防音扉の前に立ち、私はノックもせず、そのまま押し開けるようにして中へと足を踏み入れた。

 私たちが姿を現した瞬間、室内に充満していた重苦しい空気が一気にピクリと波立った。数十対の視線が、一斉に私たちの身体へと突き刺さる。そこには好奇心、敵意、警戒、そしてどこか冷ややかな冷笑など、ありとあらゆる感情の色が混ざり合っていた。


 「あ、工藤さん、柊くん! お疲れ様〜!」


 そんな殺伐とした空気の中、真っ直ぐに私たちのもとへ歩み寄ってきたのは国宮さんだった。彼女はいつもの、誰に対しても曇りのない完璧な笑顔を張り巡らせていたが、その瞳の奥にはわずかな緊張の影が揺らめいている。彼女は慣れた手つきで私たちを誘導し、あらかじめ部屋の隅に確保されていた、本日の審議のための専用スペースへと案内してくれた。


 「ここに資料を置いてね。……ふふ、二人とも準備大変だったでしょ?」

 「ええ、おかげさまでね。場所の確保、ありがとう国宮さん」


 私は軽く礼を言いながら、抱えていた段ボール箱を机の上に丁寧に下ろした。その作業をしながら、私は自然と周囲の様子を視界の端で観察する。少し離れた席では、寒川さんや酒井さんたちを中心とした女子グループが、腕を組んで冷ややかな目をこちらに向けている。その一方で、飯田くん、山彦くん、そして田辺くんの三人組は、あえて私たちを意識させまいとするかのように、必要以上に大げさなジェスチャーを交えながら無駄話を繰り返していた。世良くんは自分のデスクに深く腰掛け、手元の書類に目を落としたまま、周囲の喧騒などまるで存在しないかのように微動だにしていない。そして、その少し離れた場所には、緊張に顔を引きつらせたままガチガチに固まっている日向坂くんの姿があった。その日向坂くんの様子を横目で見ながら、なぜか彼に密着するようにして快活に声をかけている真智さんの姿が目に入る。私は思わず眉をひそめた。彼女は何がそんなに楽しいのか、私と目が合った瞬間に、フッと片目をつぶって可愛らしいウィンクを寄越し、さらに薄気味の悪い笑みを向けたのだ。


 (……いったい真智さんは何を考えているのかしら。相変わらず脈絡の読めない行動ばかりね)


 内心で小さく舌打ちをしながらも、私は表情に出さないよう努め、国宮さんに向き直った。


 「国宮さん、案内ありがとう。まだ会議室の方に運搬しきれていない資料が残っているから、私は一度戻るわね。柊くん、行きましょう」


 私はまだ仕事が残っていることを理由に、この居心地の悪い空間から早々に立ち去ろうとした。しかし、その私の動きを予測していたかのように、部屋の別の場所から別の影がスルスルと近づいてきた。


 「あ、柊くん、ちょっといいかな?」


 声をかけたのは、水谷さんだった。彼女が柊くんに話しかけた瞬間、室内にいた志葉さんや笹坂さんたちの刺すような視線が、一斉に柊くんへと集まった。


 (……面倒なタイミングで声をかけてくれたものだわ)


 今、柊くんを私と一緒に連れ出せば、あの女子グループの好奇の目にさらされ、また無駄な詮索の的になることは確実だった。かといって、ここで柊くんが彼女の相手をするとなれば、私たちのスケジュールはさらに遅れることになる。柊くんは困ったような、申し訳なさそうな顔を浮かべながら、私と水谷さんの間で気まずそうに視線を泳がせていた。


 (仕方ない。ここは戦術を少し変えるべきね)


 私は柊くんの肩にそっと手を置き、あえて周囲に聞こえる程度の明確なトーンで告げた。


 「柊くん、あなたはここに残っていなさい」

 「えっ……? 工藤さん、でもまだ荷物が――」

 「いいから。私たちが集めたこの膨大な資料が、勝手に持ち出されたり、誰かに改ざんされたりしないように監視しておく人間が、この部屋に最低でも一人は必要なのよ。私は戻って残りの荷物を回収してくるから、あなたはここで留守番をしてちょうだい」


 私のその合理的、かつ少し棘のある言い回しに、柊くんは状況を察したのか「……分かったよ。ありがとう、工藤さん」と静かに頷いた。

 だが、その私の言葉に、敏感に反応して噛みついてきた男がいた。


 「おいおいおい! ちょっと待てよ工藤! なんだよそれ!」


 大きな声とともに立ち上がったのは田辺くんだった。彼は顔を真っ赤にし、指をさしながら声を荒げる。


 「俺たちが、お前らの集めたきたねえ資料を勝手にカンニングするって言いてえのか!? 馬鹿にするなよ! 駿河屋じゃねえんだから、そんなセコい真似するわけねえだろ!」

 「……誰もあなたがカンニングするとは一言も言っていないわ、田辺くん。ただ、セキュリティの観点から物理的な管理を徹底しているだけよ。過剰に反応するということは、何かやましい心算でもあるのかしら?」

 「なっ……! なんだとこのアマ……!」


 田辺くんがさらに怒鳴り声を上げようとしたその時、隣に座っていた山彦くんが慌てて彼の腕を掴み、その体を引っペがすようにして引き戻した。


 「まあまあ田辺、落ち着けって! 挑発に乗るなよ、見苦しいぞ!」

 「放せ山彦! こいつ、いつも上から目線で……!」


 山彦くんに宥められながら、田辺くんは不満そうに席へと押し戻された。そのドタバタ劇を冷徹な視線で見下ろしながら、私は内心で、やはりこの男の思考回路は予測可能すぎて逆に楽ねと切り捨てた。


 「それじゃあ、柊くん。あとはよろしく頼むわね」


 私は周囲の視線を背中に受けながら、挨拶を交わし始めた柊くんをその場に残し、足早に執務室の重い扉を抜けて廊下へと出た。

 扉が完全に閉まり、室内の喧騒が遮断される。私はふぅと一つ、小さく息を吐き出して肩の力を抜いた。エレベーターホールへと続く廊下に差し掛かった時だった。


 「あ、工藤さん!」


 後ろから、少し跳ねるような、しかしどこか所在なげな足音が近づいてきた。振り返ると、そこに立っていたのは南野さんだった。彼女は私の姿を見るなり、ほっとしたような、しかし何かを必死に隠そうとしているような、おどおどとした笑みを浮かべていた。


 「……南野さん? どうかしたのかしら。そんな慌てた様子で」


 私は足を止め、不審な目を向けながら問いかけた。すると南野さんは、両手を体の前でモジモジと合わせながら、気まずそうに視線を彷徨わせた。


 「えっとね、その……工藤さんに、ちょっと聞きたいことがあってさ。あの、桜律くんって……今、どこにいるか知らないかな?」


 (……桜律くん?)


 私は彼女のその予想外の質問に、わずかに思考を停止させた。南野さんと桜律くんといえば、普段から特別親しくしている様子は見たことがない。なぜ彼女が、わざわざ私に彼の居場所を尋ねてくるのか。その意図がまったく読めなかった。


 「桜律くんなら、今頃は会議室からこちらへ向けて荷物を運搬しているはずよ。確か、廊下のエレベーター前あたりで作業しているか、あるいは下の階から上がってくるところじゃないかしら」

 「そ、そうなんだ……」


 南野さんは私の答えを聞いて、なぜかホッとしたような、それでいてさらに居心地が悪そうに目を泳がせた。そのあからさまで不器用な反応に、私のなかの観察者としてのアンテナがピクリと反応した。


 「……南野さん。もしかして、彼に何か用でもあるのかしら?」


 私が少しトーンを落として尋ねると、南野さんはビクッと肩を跳ねさせ、顔を真っ赤にして両手を激しく横に振った。


 「べ、べべ別に! 何でもないよ!? ただ、ちょっと……ほんのちょっと、聞きたいことがあるだけっていうかさ! そう、業務上の、ちょっとした確認って言うか!」


 その、あまりにも分かりやすすぎる挙動不審ぶりに、私の疑念は確信へと変わりつつあった。だが、彼女と桜律くんに恋愛感情や不穏な結びつきがあるとはどうしても想像できない。おそらく、仕事のことで何か聞き流せない疑問でも生じたのだろうと、私は脳内で無理やり結論を急いだ。


 「……そう。急ぎの用事のようかしら?」


 私が重ねて尋ねると、南野さんは「えっ? あー……急ぎかな? うーん、どうだろ、そんなに急ぎではないかも……?」と、歯切れの悪すぎる返答を繰り返した。


 (――いったい、彼女は何がしたいのかしらね)


 私はますます首をかしげたが、他人のプライベートや、彼女の個人的なモヤモヤに深入りするほど私は暇ではない。これ以上詮索するのは野暮というものだと思い、ちょうどエレベーターの到着を告げるランプが点灯したのを機に、この場から足早に逃げ出そうと決意した。

 だが、私のその思考を遮るように、さらなる人物が背後から声をかけてきた。


 「あれ、純恋さん? それに、工藤さんもいらっしゃるんですね」


 振り返ると、そこには湯井さんの姿があった。彼女は先ほどまで執務室の隅にいたはずだが、いつの間にやら私たちの後を追ってくるようにして廊下に現れていた。湯井さんは南野さんに軽く会釈をした後、私の方へと視線を向け、不思議そうな顔をした。


 「工藤さん、先ほどから純恋さんとどのようなお話をされていたんですか? 何か真剣なご様子でしたけど」


 その質問に対し、私は隠し立てする必要もないため、ありのままを淡々と答えた。


 「別に、大したことじゃないわよ。彼女が『桜律くんの居場所』を尋ねてきたから、私が知っている範囲で推測を伝えていただけよ」


 私のその素直な返答を聞くと、湯井さんは「なーんだ、そういうことだったんですね」と納得したように微笑んだ。そして、ターゲットを南野さんへと切り替えるように、クルリと体を向けた。


 「ねえ、純恋さん。私、実は今朝ちょっと寝坊しちゃいまして。朝ごはんを何も食べてこないまま来ちゃったんです。お昼までこのままじゃ体力がもつか不安で……どうしようって思ってたところなんですぅ」


 湯井さんは少し大げさに、自分の小さなお腹を押さえながら弱音を吐いてみせた。私はそれを横目で聞きながら、「まったく、今日は朝から食に関する話題ばかりね」と内心で冷ややかに呆れていた。

 すると、その湯井さんの弱音を聞いた南野さんは、パッと顔を輝かせ、自分が手に持っていた小さな袋をポンと叩いて言った。


 「あっ、本当!? よかったらさ、ボク、実は今朝サンドイッチを作ってきたんだ! 時間がなくて自分もまだ食べてなかったんだけど……よかったら、審議が始まるまでに、一緒にここで食べない!?」

 「えっ、本当ですか!? とても、嬉しいです! それじゃあ、あそこの休憩スペースで食べましょうか!」


 南野さんと湯井さんは、まるで先ほどまでのピリピリした職場の空気などどこ吹く風といった様子で、急に仲睦まじい女子高生のようなトーンで盛り上がり始めた。私はその、あまりにも呑気で対照的な二人のやり取りを冷めた目で見つめながら、静かに到着したエレベーターの金属の箱へと足を踏み入れた。

 シュウッ、と音を立ててエレベーターの扉が閉まりゆく。その隙間から、仲良く連れ立って歩いていく南野さんと湯井さんの後ろ姿が見えた。


 (……まあ、彼女たちがどう過ごそうと私の知ったことではないわね)


 私は心の中でそう切り捨てると、これから回収しなければならない膨大な資料の山と、待ち受ける午前の本番に向けて、再び冷徹な思考を研ぎ澄ませながら、静かに階下へと下りていったのだった。


29-3


 時計の針が正確に午前10時40分を指し示したその瞬間、私たちが待機していた空き会議室の重い扉が、控えめな三回のノック音とともに叩かれた。

 室内の空気が、ピリリと引き締まる。それまで椅子の背もたれに深く体を預け、どこか気だるげにダラダラと過ごしていた駿河屋くんは、その音を合図にしたかのようにピクリと全身の筋肉をこわばらせ、背筋を真っ直ぐに硬直させた。その隣の席に座っていた桜律くんも、それまで半分閉じかけていた瞼をスッと開き、冷ややかな瞳を入口の扉へと向けた。なお、柊くんはこの場にいない。彼は今、本陣である執務室側で私たちの集めた資料の管理と見張りを任されている。この会議室に残っているのは、私と駿河屋くん、そして桜律くんの三人だけだ。

 私は机の上に整頓していた資料の束を一瞥し、肺の奥までしっかりと空気を吸い込んでから、ゆっくりと椅子から立ち上がった。


 「……開けるわよ」


 短く声を告げると、私は会議室のドアノブに手をかけ、手前に引くようにして扉を開け放った。そこに立っていたのは、大上さんだった。彼女はいつもの穏やかで、どこか包み込むような優しい笑みを湛えながら、私に向かって朗らかに声をかけてくれた。


 「おはよう、花菜ちゃん。……そろそろ時間だし、これから駿河屋くんの『裁判』が始まるからって、世良くんから言付けがあって、ちあが呼び出しに来たんだよ」

 「わざわざ呼びに来てくれてありがとう、大上さん。すぐに向かうわ」


 私は大上さんのその落ち着いた物言いに軽く会釈を返すと、背後に控えている駿河屋くんと桜律くんに視線で合図を送った。


 「行くわよ。覚悟を決めなさい、駿河屋くん」

 「……あぁ、分かってるよ。クソ……なんだか急に体が重くなってきたけどな」


 駿河屋くんは顔を引きつらせ、脂汗を滲ませながらも立ち上がった。その後ろから、桜律くんが相変わらず面倒臭そうにポケットに片手を突っ込んだまま、ノロノロと足を進めて続く。こうして私たちは、大上さんに先導される形で、臨時の拠点として使っていた会議室を後にした。

 廊下を数歩進み、特別総合課の防音扉の前に到着する。大上さんが「それじゃあ、ちあはこれでね」と穏やかに微笑んで持ち場へと戻っていくのを見送り、私は迷うことなくその重厚な扉を押し開けて中へと足を踏み入れた。

 私たちが姿を現した瞬間、執務室内の空気は一瞬にして最高潮の緊張と、ドス黒い敵意の渦へと変貌した。


 「おい、駿河屋ァッ!!」


 獣のような怒号とともに、真っ直ぐに飛び出してきたのは田辺くんだった。彼は理性を完全に飛ばした野獣のような形相で、駿河屋くんに掴みかかろうと猛烈な勢いで突進してきた。


 「待て田辺、バカヤロウ! 今からここでちゃんとした話し合いの場を持つって、何遍言わせんだよ!」


 だが、その田辺くんの暴力的な突進を予測していたかのように、雪森くんが素早く横から割り込み、彼の両腕をガッチリと掴み上げて強引に引き剥がした。さらに、その背後から日向坂くんが慌てて飛び出してきて、田辺くんの身体を後ろから力任せに羽交い締めにとらえ、血走った目で中央に立っている世良くんに向かって声を張り上げた。


 「すまん世良! こいつがまた暴れ出す前に、早く始めてくれ……!」


 一連のドタバタ劇を、世良くんは冷徹かつ冷静な瞳で見下ろしていた。彼は現状の混乱を瞬時に把握すると、これ以上の前置きや無駄なやり取りは不要だと判断したのだろう。私へと一度だけ鋭い視線を向け、無言のまま合図を送ってきた。

 私もまた、わずかに頷くことで「準備はできている、始めなさい」という意思を伝えた。そのアイコンタクトを確認すると、世良くんは一歩前へ進み出て、執務室全体に響き渡るよく通る声で宣言した。


 「――それでは、これより『駿河屋礼衣の不正』に関する特別総合課の公式審議を開廷する」


 その宣言が下された瞬間、私の胸の奥で微かな緊張の波が広がった。目の前に広がるのは、敵意や好奇心を剥き出しにした33名もの同僚たちの群れだ。物理的にも心理的にも押しつぶされそうなほどのプレッシャーが私の肩に重くのしかかる。だが、私は心の中で自分を強く鼓舞した。私たちがこれまで集め、精査し、論理的に積み上げてきたデータと証拠の数々がある。駿河屋くんの無実は客観的な事実として必ず証明できるはずだ——。


 「話はいいだろそんなもん! そんなクソ野郎、今すぐここでブッ飛ばして終いにしろ!」


 再び田辺くんが雪森くんの腕の中で暴れながら怒号を飛ばしたが、今度は別の方向から冷ややかな声が飛んできた。


 「ちょっと田辺くん。本当に人の話聞いてるの? 今からきちんと話し合いをするって言ってるでしょ」


 声を飛ばしたのは志葉さんだった。彼女は呆れ返ったような顔で田辺くんを睨みつけている。その志葉さんの冷たい態度に、田辺くんはさらに逆上した。


 「はあ!? なんだよお前は! 俺はずっとバカスカ殴られて、被害者なんだぞ! なんでお前はそっちの味方みたいな口利いてんだよ!」

 「……あんた、数日前女子トイレに不法侵入して大暴れしたんだから、殴られて当然の自業自得でしょ。被害者面しないでよ」


 今度は寒川さんが冷酷に言い放つ。それに乗っかるように、酒井さんや下北沢さんたち他の女子職員からも「そうよ、恥を知りなさいよ」「本当よね、気持ち悪いわ」と容赦ない同意の波が押し寄せた。周囲からの集中砲火を浴びた田辺くんは、「ぐっ……」と気圧されたように一瞬で勢いを失い、小さく尻すぼみになって黙り込んだ。

 私はすかさず、隣に控えている駿河屋くんの様子を盗み見た。彼は強く拳を握りしめ、爪が手の平に食い込みそうなほどに震わせていたが、それでも必死に耐えていた。事前に私が「田辺くんは間違いなく高い確率であなたに噛みついてくるから、絶対にその挑発には乗らないこと。相手の土俵に立った時点で私たちの負けよ」と厳重に釘を刺しておいた効果が、しっかりと出ていたらしい。彼は怒りの感情を歯を食いしばって飲み込み、その場で踏みとどまっていた。

 駿河屋くんが余計な暴発を起こしていないことを確認し、私は小さく息を吐いた。その様子を見届けると、世良くんは粛々としたトーンで審議の進行を再開させた。


 「……周囲の静粛を求める。それでは、これより本件に関する7つの主要な議題について、対象となった契約日の時系列順に一つずつ審議を行う」


 世良くんの指示を受け、書記役を務める伏里くんが手元のファイルを開き、少し緊張の混じった声で読み上げ始めた。


 「……最初の議題は、『市営バス特定路線網および関連施設の事業譲渡・権利移管契約書』に関する案件だ。……被告、駿河屋礼衣は、昨年の6月20日において――」


 伏里くんは淡々と起訴状の文面を読み進めていく。契約の不自然な点、駿河屋くん名義で押印された署名の状況、そして最終的に「もって、組織の財産を危険にさらしたものである」という厳しい結びの言葉でその起訴状を締めくくった。

 読み上げが終わると、世良くんは再び被告人席にいる駿河屋くんに向かって、厳かな口調で告げた。


 「……なお、これより行う7つの審議のすべてにおいて、被告人である君には『終始沈黙していてもよい権利』があり、また『発言した内容が自分に不利な証拠として扱われる可能性があること』が保障されている。それを踏まえた上で尋ねるが……起訴された内容を認めるか、あるいは認めないか」


 その問いかけが終わるやいなや、駿河屋くんはガバッと勢いよく立ち上がり、血走った目で叫んだ。


 「ふざけんな! 俺は何もやってねえよ!! こんな身に覚えのない濡れ衣、認めるわけがねえだろ!」


 駿河屋くんのその必死の叫びに対し、伏里くんは数秒間だけ困惑したように目を瞬かせ、それから手元の書類に目を落としてボソリと言った。


 「……あー、駿河屋。……ってことは、つまり『無罪の主張』ってことでいいのか?」

 「それ以外に何があるんだよ! ボケが!」


 駿河屋くんがさらに怒鳴り声を上げようとしたその時、私は彼の袖を軽く引っ張り、代わるようにして一歩前へ出た。


 「私から補足するわ。弁護人を代表して明確に宣言しておく。——公訴事実はすべて否認する。私たちは、被告人の完全なる無罪を主張するわ」


 私のその毅然とした宣言に、執務室内の空気がわずかにピリリと張り詰めた。


 (……ここまでは、私たちの想定通りのスケジュールで進んでいるわ。事前の準備とリハーサル通りの展開よ)


 私は内心でそう呟き、自分を落ち着かせようとした。しかし、この一癖も二癖もある職員たちの集団が、おとなしく論理的な裁判の枠組みに従い続けると本気で信じられるほど、私はお人好しではなかった。いつ、どこから、どんな予測不能な暴論や突飛な茶々が飛んでくるか分からない。常に最悪の事態を想定して神経を尖らせておく必要がある。そして、その私の予感は、ほんの数秒後に最悪の形で的中することになった。


 「ふざけんな、ふざ、ふざけんじゃねえぞ……!」


 私の発言を聞き終えるやいなや、先ほどまで黙り込んでいた田辺くんが再びガタッと椅子を蹴飛ばすようにして立ち上がり、私たちの方へと力強く人差し指を突きつけて絶叫した。


 「駿河屋はずっと前から執務室でサボってばっかだっただろ! いつだって机に突っ伏して寝るか、スマホいじって遊んでたんだ! そんな奴が、裏でコソコソとこんな巨大な不正契約の裏工作を働いてたなんて決まりきってんだよ! 有罪だ! そんなのもうギルティで終わりでいいだろ!」


 田辺くんのその感情論剥き出しの暴言に同調するように、すぐ隣に座っていた飯田くんも立ち上がり、声を荒げた。


 「そうだそうだ! そういやお前、去年の出勤履歴とかログをみんなで確認したときも、異常なほどサボりすぎてただろ! あれだけの穴が開いてるんだから、絶対に裏で何か良からぬことを企んでたに決まってるだろ!」


 さらに、別の席から志葉さんも加勢するように声を張り上げた。


 「それに、勤務時間の半分近く庁舎内にいないことになってた時期だってあったじゃない! 一体その間のタイムスタンプの穴だらけな状態を、どうやって説明するのよ!」

 「…………っ!」


 私は内心で盛大に頭を抱えたい衝動に駆られた。これだ。私が最も懸念し、恐れていた展開が、まさに今、最悪のタイミングで始まってしまったのだ。客観的な証拠や法的根拠の検証に入る前に、ただの感情的な「過去の素行の悪さ」を根拠にして、すべての疑惑を一つの結論へと強引に結びつけようとする悪質な群集心理。

 駿河屋くんも、そのあまりの言いがかりに我慢の限界を超えたらしく、身を乗り出して両拳を激しく机に叩きつけながら声を張り上げた。


 「ふざけんなテメえら! 俺がサボってたからって、勝手に市の利権横流しの犯人に仕立て上げんじゃねえよ! 証拠を出せ証拠をよ!」


 だが、彼のその反論も、完全に感情に支配された叫びでしかないため、周囲の怒号にかき消されてまったく説得力を持たない。


 「ほら見ろ! 何もまともな言い訳ができないじゃねえか!」


 田辺くんはさらに調子に乗り、唾を飛ばしながらまくし立てた。


 「何が『無罪を主張する』だ! 悪いことしてるから後ろめたくてまともな言葉も出ねえんだろ! もうこっちにはお前がクロだっていうネタは十分に上がってんだよ!」


 まだ始まったばかりの、最初の議題の導入だというのに、すでに議論は制御不能な泥沼の罵倒合戦へと足を踏み入れ始めていた。私は冷徹に息を吸い込み、この混沌とした空間を力づくで沈黙させるための次の手札を脳内で猛烈に計算し始めたのだった。


29-4


 「——静粛に」


 執務室の空気が沸点に達しかけたその瞬間、世良くんが一切の感情を削ぎ落とした、低く澄んだ声でピシャリと場を制止した。その静かだがよく通る声に、それまで我先にと喚き散らしていた職員たちの声が、潮が引くようにスッと静まった。世良くんは進行役として淡々と場をコントロールしており、無駄な感情や私見を挟むような真似は一切しない。ただ静かに状況を見極め、審議を正しく進めることに集中している。

 しかし、感情のコントロールが利かない田辺くんだけは、顔を真っ赤に腫れ上がらせながら、なおも怒り心頭といった様子で叫び声を上げ続けていた。


 「あ、ああ!? なんだよ世良ぁ、ふざけんな! 俺は間違ったこと言ってねえだろ!」


 そのすぐ横に控えていた日向坂くんが、彼の肩を荒々しく掴み、文字通り引きずり下ろすようにして「おい、いい加減にしろバカ! 座れってんだよ!」と力任せに抑え込み、無理やり椅子へと押し倒した。ようやく、執務室全体に重苦しい沈黙が戻った。世良くんは手元の資料に目を落とし、静かに尋ねた。


 「……周囲の静粛を確認した。それでは、田辺くんたちから出された『勤務時間中における不在の記録』について、被告人側に説明を求める。駿河屋くん、君はその時間帯、どこで何をしていたんだい?」


 進行役に徹した世良くんの淡々とした問いかけに、駿河屋くんは「うっ……」と言葉を詰まらせ、気まずそうに視線を泳がせた。周囲からの冷ややかな視線が一極集中しているプレッシャーに耐えかねたのか、彼は居心地悪そうにモゾモゾと身じろぎした後、ボソリと呟いた。


 「……別に、サボってたわけじゃねえよ……。その、タバコ吸いに行ったり、外の喫煙所でダベったり、あとは……ちょっと近くのパチ屋とか競馬の場外馬券場に足を伸ばして……その、適当に時間を潰してたんだよ……!」


 その告白が飛び出した瞬間、すぐ近くの席に座っていた酒井さんが、文字通りイスから飛び跳ねるようにして叫んだ。


 「はあぁっ!? ちょっと待ってよ! 駿河屋くん、あんた仕事中にそんなところで遊んでたわけ!? 信じられないんだけど、社会人として終わってない!?」

 「そうだそうだ! ふざけんなよ! 俺たちが死ぬ気でデスクにかじりついて働いてる裏で、お前はパチスロ打って馬券買ってやがったのかよ!」


 他の職員たちからも、次々と怒りと軽蔑の入り混じった罵声や嘲笑が容赦なく浴びせかけられた。私はその様子を冷徹な視線で見つめながら、内心で冷静に分析していた。


 (……まったく。あまりにも真っ当で、かつ自業自得すぎる批判の嵐ね。これでは、弁護しようにも弁護のしようがないわ。駿河屋くんが何も言い返せずに縮みこむのも、無理もないことね……)


 それを絶好の好機と見たのか、田辺くんは再びガバッと立ち上がり、日向坂くんの制止を振り払うようにして叫んだ。


 「ほらなァッ!! 今、自分の口で『遊んでた』って自白しただろ! こいつは普段からそうやってサボりまくってたんだよ! だから、今回の大規模な不正契約の時だって、そのサボりの延長線上で裏でコソコソと悪事を働いて、それを隠すために『遊んでた』なんていう情けねぇ言い訳を盾にして逃げようとしてるだけだろ!」

 「そうだ、その通りだ!」

 「ふざけた野郎だな、徹底的に洗いざらい吐かせろ!」


 有罪派の男子たちが、ここぞとばかりに気勢を上げて同調する。山彦くんなんて、面白半分といった様子でニヤニヤしながら、「おい駿河屋〜、田辺に完全に論破されてるぞ〜? このまま言い返さなくていいのかよ〜、男の見せ所だろ〜」と、わざわざ挑発的な言葉を投げかけていた。

 駿河屋くんが顔を真っ赤にして激昂し、殴りかからんばかりの勢いで立ち上がろうとしたその時——私はすかさず手を伸ばし、彼の肩をピタリと押さえて制止した。


 「……落ち着きなさい、駿河屋くん。彼らの挑発に乗ったら、それこそ向こうの思うツボよ」


 私は静かに声をかけると、自分の椅子の背から立ち上がり、一歩前へ出て全員の視線を引きつけた。


 「そこまでにしてちょうだい。あなたたちの言う『勤務時間の不審な空白』や『素行の悪さ』は、確かに褒められたものではないわ。けれど、だからといってそれが、この『市営バス特定路線網および関連施設の事業譲渡・権利移管契約書』の不正における犯人であるという直接的な証拠には絶対に結びつかない。なぜなら……」


 私は一拍置き、鋭い眼光を周囲に走らせた。


 「——被告人である駿河屋くんには、問題の契約締結日である『6月20日』において、この不正な犯行を行うことが物理的に絶対に不可能であるという、動かぬ『アリバイ』が存在しているからよ」


 その宣言に、執務室内の空気が一瞬でピタリと止まった。私は背後に控えていた桜律くんに視線で合図を送る。


 「……桜律くん、準備しなさい」


 私の指示を受け、桜律くんは「……了解だ」と面倒臭そうに小さく息を吐くと、手元に持ち込んでいたノートパソコンを開き、器用にキーボードを叩き始めた。

 数秒の操作の後、執務室の正面の壁に設置されていたホワイトボードの脇に、プロジェクターからの光がパッと照射された。スクリーンに映し出されたのは、特別総合課の執務室内を捉えた、紛れもない防犯カメラの映像だった。

 画面の日時は、はっきりと去年の【6月20日】を示している。

 映像の中には、朝の出勤直後から自席に座る駿河屋くんの姿が克明に記録されていた。確かに、途中でお手洗いに立ったり、少し伸びをして席を外すなどの細かな動きはあるものの、基本的には終始自分のデスクの前にしっかりと貼り付き、山積みにされた書類と格闘するように真面目に仕事を行っている様子が、誰の目にも明らかな映像として映し出されていた。


 「なっ……!?」


 映像を見た瞬間、田辺くんは言葉を失い、目を見開いた。


 「おいおい……なんだこれ……」

 「駿河屋が、一日中ちゃんとデスクに座って仕事してる……だと……?」


 周囲の職員たちからも、信じられないものを見るような驚きの声が次々と漏れ出た。


 「ちょっと待てよ! そんなの、たまたま別の日の映像を適当に持ってきただけかもしれねえだろ!」


 田辺くんが慌てたように声を荒げて否定にかかるが、私は冷徹に鼻を鳴らした。


 「よく見なさい、田辺くん。映像の日付とタイムスタンプは、契約日当日である6月20日のものよ。それに、このアングルと画質を見れば、これがこの執務室に設置されている本物の防犯カメラの映像であることは、あなたたちにも分かるはずよ。この日、駿河屋くんは朝から晩まで庁舎内に留まり、自分のデスクで業務を遂行していた。……つまり、彼が外に出て、裏で勝手に巨額の不正契約の工作を働くような物理的時間は、一切存在しなかったのよ」


 私のその完璧な論理的証明に、それまで息巻いていた有罪派の一角が、ぐっと言葉に詰まった。


 「え……? ちょっと待ってよ……。駿河屋くんが、あんなに真面目に丸一日仕事してる日なんて、この世に存在したの……?」


 志葉さんが目を丸くしながら呟くと、その隣で南野さんが少し気まずそうに、しかしハッキリとした口調で手を挙げた。


 「あ、あの……。たまに、だけどさ……。駿河屋くんが、すっごく真面目にパソコン叩いて仕事してる日、ボクもたまに見たことあるよ? 本当に、ごくたまにだけど……」

 「ま、マジかよ……。おい田辺、どうすんだよこれ……完全にアリバイ成立してんじゃねえか……」


 飯田くんが焦った様子で隣の田辺くんの腕を突っついた。すると、追いつめられた田辺くんは顔を真っ青にしながら、ブンブンと激しく頭を振り乱し、大量の唾を飛ばしながら見苦しい反論を絶叫した。


 「ふ、ふざけんなよ!! そんなの、工藤が勝手に都合のいい部分だけを切り取って、いい感じに『編集』しただけの偽物に決まってるだろ!! 見え透いたインチキのタネだな! いや、そうか、この日のためにわざわざ一から撮影して用意したヤラセ動画に違いねえんだよ!!」


 そのあまりにも幼稚で無謀な言いがかりに、私はあきれ果てて大きく息を吐いた。


 「——いい加減にしなさいよ、田辺くん。そんな子供だましの言いがかりが通ると本気で思っているのかしら。これは、いかなる編集も捏造も一切されていない、この執務室のセキュリティシステムから直接抽出した本物のデータよ」


 私の言葉を裏付けるように、パーテーションの上から、無機質な声が響き渡った。


 『その点については、ワタシが完全なる保証をしましょう』


 サバキネコだった。


 『この防犯カメラの映像データは、工藤さんからの正式な要求に基づいて、ワタシの管理サーバーから直接エクスポートされたものですよ。さらに、それをこの場に提示する前に、ワタシ自身が全フレームの整合性を厳密に目視・検証しています。映像に編集や改ざんの痕跡は一切ありません。したがって、それが「本物」であることに、いささかの疑う余地もないのですよ』


 監視者であるサバキネコにまでそこまで断言されてしまい、有罪派の職員たちの間には、いよいよ隠しきれない動揺の波が広がっていった。


 「おい、どうすんだよこれ……」

 「サバキネコがここまで言うなら、ガチの本物ってことだろ……」

 「だってさ、あいつがあんだけ普段サボってるくせに、よりによって契約日だけ運良く丸一日まじめに仕事してて、完璧なアリバイができあがってるなんて……そんな奇跡みたいな確率、あり得るか……?」


 口々に不安と疑問を口にし始める職員たち。形勢が完全に私たちの側へと傾き始めている手応えを、私は肌で感じていた。だが、焦った田辺くんは、もはや理性を完全に手放し、テーブルに突っ伏すようにして喚き散らした。


 「くそっ、くそっ……! きっと、こいつらが事前にシステム部門や管理側を買収して、データを丸ごとすり替えさせたんだよ! 不正だ! そんなの認めねえからな!」

 「——そんな事実はないわ、田辺くん。仮に仮定の話として、かりそめにそうだとしても、この場でそれを客観的に立証できる物的証拠がなければ、あなたのその発言は単なる負け犬の遠吠え、ただの絵空事でしかないわ」


 私は彼の言葉を、冷酷かつ完全に叩き切った。その一言が決定打となったのか、それまで強気だった佐川くんが「おいおい……マジで、今回の件は駿河屋の犯行じゃねえのかよ……?」と、すっかり怯えた様子でワナワナと身体を震わせ始めた。しかし、寒川さんはまだ納得がいかないのか、眉間にしわを寄せながら「いや、でも……! そもそもこの契約書には、確かに駿河屋くんの名前と署名がしっかり記されてるじゃない!」と、わずかに残された疑問を口にした。室内に再びざわめきと混乱の波が満ちていく中、私はまっすぐに前を見据え、毅然とした声で言い放った。


 「その通りよ。署名が存在していることと、実際に彼がその犯行を行ったかどうかは別問題だわ。重ねて言うけれど、駿河屋くんにはこの6月20日という契約日において、自分のデスクで真面目に仕事をこなしていたという完全なるアリバイが存在している。したがって、彼にこの犯行を遂行することは物理的に不可能——よって、被告人・駿河屋礼衣の『無罪』は、この時点で完全に証明されたわ!」


 私の力強い宣言が、執務室の隅々にまで響き渡った。有罪派の面々は押し黙り、誰もそれ以上反論する言葉を見つけられずにいた。私たちの勝利は、もはや揺るぎないものに見えた——その直前までは。


29-5


 無罪のロジックが完全に構築され、流れはこちらへ完全に傾きかけていた。客観的な防犯カメラ映像と、サバキネコの保証。反論の余地など、どこにもない完璧な勝利——そう確信した、まさにその瞬間だった。


 「——ちょっと待ってくださいよ!」


 有罪派の陣取る一角から、甲高くも通る声が静寂を突き破った。声の主は真智慶花さんだった。彼女はどこから取り出したのか、片手に真鍮製のような小さな虫眼鏡を握りしめ、芝居がかった動作でそれを目に当てながら、こちらへ向けて大袈裟に歩み出てきた。私は思わず眉根を寄せた。いったい彼女は何を始めようというのだろう。

 真智さんは虫眼鏡をクルクルと指先で弄びながら、いたずらっぽい笑みを浮かべて私に向き直った。


 「工藤さん。確認のために、もう一度だけ念を押して聞かせてください。今工藤さんが提出されたあの防犯カメラの映像は、正真正銘の本物で、駿河屋くんは6月20日、一日中自分のデスクで仕事をしていた……ということで、間違いありませんね?」


 (……この期に及んで、まだ映像が捏造だと言いたいのかしら?)


 私は内心で彼女の愚問に呆れつつも、隙を見せないよう毅然としたトーンで言い返した。


 「ええ、間違いないわ。サバキネコの保証もある通り、あれは正真正銘、駿河屋くんのアリバイを証明する本物の映像よ」


 私の明確な肯定を聞くと、真智さんはパッと表情を輝かせ、ニコッと可愛らしく微笑んだ。


 「ふふっ、良かったですよ! それを聞けて、本当に安心しました!」


 一瞬、何を安心したのかと首をかしげた。駿河屋くんが犯行不能だと納得してくれたのかとも思考したが、直後に強烈な違和感が私の胸を撫で上げた。私の保証やサバキネコの言葉で素直に納得するようなタマなら、わざわざ念押しで二回も同じ確認を繰り返す必要などないはずだ。嫌な予感が、私の背筋を駆け上がる。真智さんは笑みを深めたまま、パンと一度手を叩いた。


 「——それじゃあ、やっぱり駿河屋くんは『有罪』ですね!」

 「……なっ!?」


 唐突すぎる結論の飛躍に、私は思わず声を漏らした。周囲の職員たちからも「は?」「どういうことだ?」と困惑の声が上がる。

 真智さんは懐から一通の茶封筒を取り出すと、その中から数枚の書類をスッと引き抜いて、提示してみせた。


 「これはですね、件の6月20日を中心に、その前後15日間……つまり約一ヶ月分における、駿河屋くんの業務履歴と提出書類のデータベース記録なんです!」


 真智さんは胸を張り、堂々と宣言した。


 「私も、駿河屋くんのアリバイを追いかけて独自に捜査を行っていました。工藤さんの仰る通り、駿河屋くんは6月20日、自分のデスクでずっと作業をしていましたよね? ……でもおかしいんですよ! 私が調べたこの一ヶ月間の記録において、駿河屋くんが作成・提出した仕事は、なんと『一件』も存在しないんです!」


 言い切ると同時に、真智さんは書類を封筒に戻し、進行役である世良くんの脇にいる大上さんへと手渡した。


 「……嘘だろッ!?」


 私のすぐ隣で、駿河屋くんが顔面を蒼白にさせながら悲鳴のような叫びを上げた。私は信じられない思いで駿河屋くんを振り仰ぎ、詰問した。


 「駿河屋くん……! あなた、一ヶ月もの間、提出書類の一つすらまともに上げられていなかったというの!?」

 「い、いや……! さすがにそんなわけねえ……! たぶん……いや、でも……」


 駿河屋くんは激しく動揺し、自信なさげに言葉を濁らせた。その頼りない態度自体が、真智さんの提示したデータの正しさを雄弁に物語ってしまっていた。大上さんから書類を受け取った世良くんが、パラパラと目を通す。やがて、彼は静かに呟いた。


 「……確かに。この期間中、駿河屋くんが完了させて提出したというタスクの履歴は、システム上に一つも見当たらないね」


 世良くんの客観的な事実確認が下された瞬間、室内は再び爆発的な大騒ぎとなった。


 「なんだってーっ!?」


 田辺くんが目を丸くして仰天し、山彦くんが爆笑しながら声を張り上げた。


 「おいおいおい! 一ヶ月間何も仕事しないで給料もらってたのかよあいつ! 凄すぎるだろ!」

 「あんた、どんだけサボってんのよ!!」


 寒川さんが心底汚いものでも見るような目で怒声を飛ばし、霞さんも「まあ……とんでもない人ですわ……呆れて開いた口が塞がりません……」と引いている。


 「そんな……そんなはずねえ……! 俺はちゃんとやってたはずだ……!」


 駿河屋くんは頭を抱えて必死に否定しているが、その顔にはあからさまな狼狽の色が浮かんでいた。


 (くっ……! まずいわ……! 流れが完全にひっくり返された……!)


 私は必死に頭をフル回転させ、真智さんのロジックを崩すための反論材料を探した。だが、私の思考をあざ笑うかのように、真智さんが追い打ちの言葉を放つ。


 「さっき工藤さんは、『自分の提出した映像は紛れもなく本物で、駿河屋くんは6月20日に自分の机で仕事をしていた』って断言しましたよね?」


 真智さんは虫眼鏡を私に向け、首をかしげて見せた。


 「だったら……駿河屋くんは、6月20日のあの丸一日、自分の机に座って『何』をしてたんですか? 提出した仕事がゼロなのに、机で作業していた振りをしていたのなら……それこそ、サボりじゃないとしたら何をやっていたんですか? 裏で不正な契約書を作成していたと考えるのが、一番自然じゃないですか?」

 「っ……!」


 完璧な詰み筋だった。真智さんの言葉にハッとしたように、雪森くんが「そうじゃん! あいつ自分の机で何やってたんだよ!?」と声を上げ、酒井さんも「正直に話しちゃいな〜?」と意地の悪い笑みを浮かべて煽り始める。


 (どうにかして、この論理のすり替えを破綻させなければ……!)


 私は猛烈な勢いに飲まれそうになる自分を必死に抑え込み、冷徹な思考を巡らせた。だが、手元にある客観的な事実データから導き出せる論破材料は——どこにもなかった。駿河屋くんが実際に仕事を完成させていなかった以上、残された主張の道筋はたった一つしかない。私は唇を噛み締め、悔しさを押し殺しながら苦しい主張を口にした。


 「……駿河屋くんの事務処理能力および作業効率は、客観的に見ても著しく低いのよ! だから……一つの単純な仕事をこなして提出に至るまでに、一ヶ月以上の膨大な時間を費やさざるを得なかっただけだわ! 不正を行っていた証拠にはならないわ!」


 それは、弁護人として出すにはあまりにも情けなく、被告人のプライドを木端微塵に砕く苦し紛れの弁明だった。世良くんが静かに駿河屋くんへと向き直る。


 「……駿河屋くん。工藤さんのこの主張に、間違いはないかい?」


 駿河屋くんは顔を真っ赤にし、プライドを傷つけられた怒りで「ふざけんな! 俺の頭が悪いみたいに言い——」と噛みつきかけた。


 「……静かにしなさい」


 私は小声で彼の言葉を鋭く遮り、耳元で低く囁いた。


 「プライドなんて今すぐに捨てなさい! ここで否定したら、あなたが不正契約の犯人に決定づけられるのよ! サボり癖と無能さを認めて、命拾いしなさい!」

 「くっ……! ぐぬぬ……っ!」


 私の冷酷な説得に、駿河屋くんは血が出るほど唇を噛み締め、全身を悔しさに震わせた。そして、消え入るような情けない声で絞り出した。


 「……あぁ……そうだよ……。俺の……俺のサボり癖と……事務能力が根本的に足りてねえせいで……その期間にやってた仕事は……期限内に提出できなかっただけだ……っ」


 執務室内に、哀愁と呆れを含んだ沈黙が流れた。こうして、第一の議題における「完全な無罪」の勝ち取りは阻まれ、私たちは思わぬ死角からの猛攻によって、苦しい泥沼の展開へと引きずり戻されることになったのだった。


一応、審議は全話まとめて用意はできておりますが、いかんせん膨大なので校正に時間がかかりそうです。よって次の投稿は2日後、あるいは3日後を予定しています。

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