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第27話 駿河屋礼衣の記録2

27-1


 4月23日、午前8時50分。澪標市役所本庁舎の正面エントランス。重厚な大型強化ガラスで構成された自動ドアが、低いモーターの駆動音をシャーーッと微かに響かせながら、滑らかに左右へ開いた。そのわずかな隙間から一気に侵入してきたのは、4月下旬とはいえ未だ春の温もりを含みきれていない、早朝特有のしめやかな冷気だった。その鋭い冷風は、薄手の制服の生地をやすやすと突き抜け、オレの肌を容赦なく刺してくる。オレは足を止めず、制服の襟元を片手で微調整して正すと、胸の奥深く一口の冷気を吸い込んで腹を固めた。そして、特別総合課の執務室へと続く不気味なほど静まり返ったメイン廊下へと、一歩一歩踏み出していった。

 磨き上げられたリノリウムの床。その無機質な表面を、オレが履く革靴の硬い踵が規則的に叩く。


 カツン、カツン――。


 不揃いに響くオレの足音だけが、天井の高い吹き抜けフロアに乾いた虚ろな反響を残していく。昨日の、あの酷惨としか言いようのない乱闘劇。そして、特別総合課という組織の決定的な崩壊と不可逆な分裂をまざまざと見せつけられた、あの不快極まりない激論の果てに迎えた朝だ。この庁舎全体を支配する空気が昨夜を境に一変していることなど、正面玄関のガラス扉をくぐり抜け、吹き抜ける冷気を肌に受けたその最初の1秒から、理屈や頭の理解を超えて、本能的な嫌悪感とともに痛いほど理解できていた。

 『特別総合課執務室』のプレートが掲げられたその扉の前に立ち、オレは完全に足を止めた。真鍮製のドアノブへ右手を伸ばすと、手のひらに直接伝わってくる金属の表面は、まるで氷の塊に触れたかのように冷たかった。オレは肺の底に溜まった澱んだ空気を外へ吐き出すようにしてゆっくりと深呼吸を繰り返し、腹の奥底で静かに覚悟を固めた。ガチャリ、と小さく乾いた金属ラッチ音を響かせ、扉をゆっくりと内側へ押し開ける。

 執務室内に一歩足を踏み入れた途端、背筋の毛がことごとく逆立つような、強烈で不吉な悪寒が全身の皮膚を駆け巡った。部屋の圧倒的な広さに比べて、まだ半分も席が埋まっていないスカスカの空間。出勤している職員の絶対数自体は、平常時の朝と何ら変わりないはずだった。だが、そこに充満している空気の密度と質量は、物理的な人数の少なさとは正反対に、鉛のように粘り強く重く、そして異様な殺気と緊張感で張り詰めていた。室内全体の酸素濃度が極限まで低下しているのではないかと本気で疑うほど、粘着質な息苦しさが鼻腔を突いてくる。開いたドアの隙間から滑り込んだオレの影に対し、すでに登庁して自席についていた面々の視線が、まるで示し合わせたかのように一斉に向けられた。

 その視線は、朝の挨拶を交わす同僚に向けられるようなものでは到底なかった。まるで警察の取調室で容疑者を監視するかのような、冷徹で、かつ品定めをするような鋭利で露骨な敵意。デスク越しに眉間へシワを寄せ、鋭い眼光でこちらを射抜く志葉。そのすぐ隣で、オレの姿を視界に捉えた瞬間にあからさまに視線を逸らし、わざとらしく不快感を剥き出しにしながら分厚いクリアファイルをバサリと叩きつけるように手元で捲る酒井。面と向かった直接的な罵声や怒号こそ飛ばしてこないものの、室内のあらゆる角度から、言語化されない密度の高い圧力が波のように絶え間なく押し寄せてきていた。まだ半分すら埋まっていないスカスカの執務室だというのに、まとわりついてくる強い場違い感と居心地の悪さが、一歩足を進めるごとにオレの革靴を床へ強力に貼り付けようとしていた。


 (……こうなることは昨日の時点で嫌というほど分かりきっていたことだが……)


 心の中で冷めた溜息を激しく噛み殺しながら、オレは自分のデスクがある一角へと視線を滑らせた。だが、踏み出しかけた右足が不意にピタリと止まる。いつもなら、誰よりも早く出勤し、誰よりも早く自分のデスクで無機質な書類の山と格闘しているはずの工藤の姿が、そこにはなかったのだ。工藤のデスクは、昨夜から誰も触れていないかのように完璧に整頓された状態のまま、主を失ってぽっかりと空間に空白を作っていた。卓上のペン立ての角度、液晶モニターの位置、端に整然と積み重ねられたクリアファイルの山――そのすべてが隙なく整いすぎているがゆえに、かえって周囲の異様な殺気立った空気の中でひどく浮き上がって見えた。


 (珍しいな。工藤が遅刻か? ……いや、工藤に限ってそんなことあるか? だとしたら、もうオレのあずかり知らぬところで独自に動き始めているのだろうか……)


 首をわずかに傾げ、胸の中に生じた不穏な違和感を拭いきれないまま自分の席へ向かって歩き出そうとした、その時だった。ドシドシと、不器用に、しかしどこか重く躊躇いがちな足取りで床を踏みしめる音が近づいてきた。正面から歩み寄ってきたのは日向坂だった。彼はいつも通りの真っ直ぐで不器用な表情を酷く硬くこわばらせ、眉間に深い不快感のシワを寄せながら、胸の奥につかえた重圧を隠しきれない様子でオレの目の前に立ち塞がった。日向坂の顔つきには、露骨で真っ直ぐな申し訳なささが隠しようもなく滲み出ている。自分の意志に反して厄介な交渉事の矢面に立たされている時の、歪で痛々しい表情そのものだった。日向坂はオレの前で足を止めると、開口一番、どこか低く掠れた声で言った。


 「……おはよう、桜律」


 オレは日向坂の顔を正面から見据え、淡々と応じた。


 「……ああ、おはよう。朝から随分と重たい顔をしてるな、日向坂」


 日向坂は頭の後ろをガシガシと荒っぽく掻きむしり、逃げることなくまっすぐにオレの目を見つめてきた。その瞳の奥には、彼特有の愚直な正義感と、課内が完全に分裂してしまったことに対する苦渋の葛藤が入り混じり、酷く揺れていた。彼は深く、胸の底から重い息を吐き出すと、周囲に聞こえないよう意図的に声を潜めて語りかけてきた。


 「朝っぱらから、本当にすまん……。その、お前もこの部屋に入ってきた瞬間から、空気を感じてりゃ嫌でも分かると思うんだが……一応、この5日間はみんなピリピリしてると思うだろうから、お互いの領域は守り合わないか?」


 日向坂の口調は決して要領を得たものではなく、言葉を慎重に選びながらの回りくどいものだったが、その拙い言葉の裏に隠された意味合いは、あまりにも明確だった。駿河屋を容疑者として弾劾し、数々の不祥事の全責任を背負わせて追放しようと息巻く『有罪派』の連中は、このメインの執務室を拠点として活動する。だから、駿河屋の無罪を証明するために独自調査を進めている『無罪派』であるオレたちがここに長居すると、有罪派の連中が余計に熱くなって不要な摩擦や不毛な争いを引き起こす――直接的に「出ていけ」と罵倒しないまでも、「無罪派のお前がここに居座ると周囲の空気が荒れるから長居されては困る」という事実上の排斥命令であることが、その不器用な気遣いの裏から痛いほど透けて見えていた。

 オレは冷静に、目の前で申し訳なさそうに視線を泳がせる日向坂の顔を観察し、先ほどから頭の片隅に引っかかっていた疑問を静かに口にした。


 「……もしかして、工藤も朝に来たのか?」


 日向坂は一瞬だけ丸く目を見開き、それから「……ああ」と重々しく首肯した。


 「桜律は察しがいいな。……そうだな、工藤は朝早くに来てたぞ」


 日向坂は申し訳なささに耐かねたように拳を強く握り締め、わずかに視線を足元へ落としながら、今朝の状況を語り始めた。


 「俺が出勤して部屋のドアを開けたらさ、待ち構えてたみたいに工藤がスッと歩み寄ってきてな。『昨日私たちが使った空き会議室を私たちの活動拠点にしたいから、悪いけれどしばらくの立ち入りを禁止させてもらうわ』って言われたんだよ」


 (……なんでそんな重要な決定を、オレに一言も連絡してくれないんだよ)


 内心で盛大にボヤきつつ、工藤の独断専行ぶりに半ば呆れながらも、オレは表向きには顔に出さず「なるほど」とだけ短く返した。昨日の喧嘩腰の議論の時点で、この執務室内の対立構造は不可逆なものになっていた。工藤の判断は、感情論を徹底して排した極めて実利的な最適解だ。同じ部屋の空気の中で互いに腹を探り合い、不快な視線を交わしながら作業を進めることなど、双方の作業効率を著しく低下させるだけでしかない。彼女はそれを誰よりも早く見抜き、朝一番で先手を打って陣地を確保したというわけだ。オレは日向坂の表情を見つめ返すと、静かに言葉を返した。


 「なるほどな。適当な私物だけ手短に回収して行く」


 そう告げると、日向坂は顔をくしゃくしゃにして眉間を寄せ、心底申し訳なさそうな表情で、潰れた声を漏らした。


 「悪いな、気を遣わせて。……ありがとう」


 日向坂はそう言い残し、申し訳なさそうな顔を拭えぬまま深々と息を吐いて己のデスクへと戻っていった。その背中に、特別総合課という組織全体の歪んだ不協和音が重くのしかかっているように見えた。志葉や酒井たちからは、相変わらず針のむしろのような刺す視線が絶え間なく注がれていたが、オレは一切それらを視界に入れないよう努めた。己のデスクの引き出しから必要な書類の束を抜き取り、ノートパソコンと最小限の筆記用具だけをパパッと抱え込むと、長居することなく部屋を出て、昨日使ったあの空き会議室へと向かった。背後でパタンと閉まったドアの音とともに、あの息苦しい圧力からようやく解放されたのだった。


27-2


 冷え切った廊下を早足で進み、奥にあるあの空き会議室へと足を進める。長大な廊下の曲がり角を過ぎると、突き当たりにポツンと佇む目的のドアが見えてきた。真鍮製のドアノブに手をかけ、カチリと静かな音を立てて内側へ押し開ける。室内に一歩足を踏み入れた瞬間、オレは思わず息を飲んだ。そこは、昨夜オレたちが撤収した時点とは比べ物にならないほど本格的、かつ殺気立った『無罪派の作戦本部』へと鮮やかに変貌を遂げていたのだ。部屋の中央に配置された長机の上には、昨夜サバキネコから引き出した莫大なデータファイルのプリントアウトや、鮮やかな蛍光色の付箋がびっしりと貼られた厚みのある関係資料が、幾つもの山となってうずたかく積み上げられている。壁際に設置された大型ホワイトボードには、不正事件別の詳細な時系列や関係者の複雑な相関図、疑わしい資金の流れを示す矢印や注釈が、黒と赤のマーカーを使って隙間なく几帳面に書き込まれていた。時系列の端にはタイムスタンプの齟齬を示す赤字の二重線がひかれ、検証済みの項目にはチェックマークが打たれている。

 さらに部屋の角の床には、今回の数ある不祥事の中では比較的重要度の低そうな雑多な案件をまとめた小さな段ボール箱が、縦横の角を綺麗に揃えて整然と積み上げられていた。

 そして、その作戦本部の中心に一人で陣取り、タブレット端末の液晶画面と手元の分厚い紙面を交互に、鋭く厳しい目つきで睨みつけていたのが、工藤だった。工藤はオレが入ってきた足音と扉の開閉音に素早く反応し、手元の端末からパッと視線を上げると、一切の感情を削ぎ落とした冷淡な口調で手短に挨拶をしてきた。


 「……来たわね。おはよう、桜律くん」

 「ああ、おはよう」


 オレもその淡々とした挨拶に短く応じ、腕に抱えた書類の束を落とさないよう抱え直しながら、彼女が一体朝早くから何をしているのか尋ねた。


 「こんな朝早くから、一人で何を黙々と精査しているんだ?」


 工藤は視線をすぐに手元の画面へと戻し、倍速で高速再生される防犯カメラの映像を目で追いながら、淀みのない声で淡々と答える。


 「サバキネコに昨日帰宅前に頼んでおいた、抽出映像の確認作業を倍速で行っているところよ」

 「映像の確認か。サバキネコの出してきたログの裏取りだな」

 「ええ。タイムスタンプと実際の監視映像に矛盾や不自然なカット、編集の痕跡がないか、念には念を入れて一つずつ検証しているの」


 工藤の視線は画面から一切逸れない。その横顔には、完璧な証拠固めを成し遂げようとする氷のような冷酷な集中力が宿っていた。オレは抱えてきたノートパソコンと書類の束を卓上へ置こうと、長机の比較的空いている手前のスペースへと手を伸ばした。しかし、その瞬間、工藤から刃物のように鋭い制止の声が飛ぶ。


 「そこはダメよ。そこは柊くんが集めてくる情報をまとめるために、少し広めにとっであるスペースだから、別の場所にして頂戴」

 「……相変わらず自分の決めたレイアウトには厳しいな。オレの確保できるスペースはどこにあるんだ」

 「そのあたりの空いている場所を見つけて勝手に使いなさい。整頓した配置を崩されたくないの」


 工藤に言い返したところで無駄な労力を消費するだけだと悟り、仕方なくオレは長机への配置を諦めた。そして、近くに置かれていた折りたたみ式のパイプ椅子の上面へ、抱えてきた重い荷物をドサリと下ろした。パイプ椅子の座面が軋む音が静かな室内に響く。荷物を下ろすと、先ほどメインの執務室で直面した理不尽な空気と、自分だけ何も知らされずに敵陣の真っ只中へ飛び込んで肩身の狭い思いをした不満がふつふつと込み上げてきた。オレは工藤に向き直し、その不満を口にした。


 「おい工藤。今さっき執務室で酷い目に遭ってきたんだが。日向坂から実質的な立ち入り禁止を言い渡されたぞ」


 工藤は無言のままタブレットの画面を操作し続け、端末をタップする指を一切止めようとしない。オレの言葉などまるで背景の雑音であるかのような扱いだ。オレは呆れを交えながら、さらに続けて愚痴をこぼした。


 「……拠点を会議室に移すなら、そういう重要な決定は事前にオレにも伝えておいてもよかったんじゃないのか? おかげで有罪派のメンツが揃ってる真っ只中に無防備に飛び込んで、無駄に肩身が狭い思いをすることになったんだが」


 愚痴を溢すオレに対し、工藤はパタリと作業していた指を止めると、ゆっくりと首を横へ向けた。そして、こちらへ凍てつくような氷の視線をストレートに向けてきた。


 「だったら――同じ被害者を出さないためにも、今すぐ庁舎前まで行くことを命じるわ」

 「はぁ? なんでオレがそんなところで立番をしなきゃならないんだよ」


 唐突で理不尽な命令に文句を言うオレに対し、工藤は表情ひとつ変えず、論理的で冷淡な声調でと言い放つ。


 「今、あなた自身が言ったでしょう? 事前に伝えておいてほしかった、と。このままでは事情を何も知らない柊くんと駿河屋くんは、あなたと同じように何も知らずに執務室へ顔を出して、有罪派のみんなに囲まれて酷い目に遭うわ。少しでも彼らの被害を回避させてあげようという気があるのなら、今すぐ出勤してきた彼らに直接伝えてあげることね」


 そう淡々と理屈を叩きつけると、工藤はそれ以上の反論を受け付けないという徹底した拒絶の態度で、すぐさまタブレット画面の検証作業へと意識を完全に戻してしまった。


 「……普通に端末からメールで一斉送信して伝えれば済む話だろ。なんでわざわざオレが足を使って出向く必要があるんだ」


 オレがなおも食い下がって反論すると、工藤は画面を作業させたまま、呆れを含んだ冷ややさで言い返してきた。


 「柊くんならまだしも、駿河屋くんがメールを今送ってすぐに確認すると本気で思っているのかしら?」

 「……」


 ぐうの音も出ない完璧な正論に、オレは完全に言葉を失った。駿河屋が朝の登庁時にスマホの通知など細かく確認するはずもない。通知音など無視してそのまま執務室へ直行し、待ち構えていた田辺や志葉あたりと朝から怒号を飛ばし合って大喧嘩を始める光景が、嫌になるほど鮮明に脳裏に浮かんでしまったからだ。


 (仕事用の連絡ですら、通知を切ってる可能性もある)


 ここでオレが動かなければ、朝一番から余計な流血沙汰や無駄な揉め事が生じるのは明白だった。オレは溜息を呑み込み、渋々この空き会議室を出ることにした。


 「……わかった。エントランスで張っていればいいんだな?」


 工藤からの返事はなく、ただ端末をタップする規則的な音だけが返ってきた。廊下に出ると、オレは制服のポケットからスマートフォンを取り出した。そして柊の連絡先を開き、「執務室には向かわず、直接奥の空き会議室へ来てくれ。拠点はそちらに移した」と簡潔な注意メールを作成して送信した。柊ならこれで問題なくメッセージに気づき、余計なトラブルを避けて会議室へ直行してくれるはずだ。そして問題の駿河屋については、工藤の言う通りメールを送っても無駄だと割り切り、一階のエントランスで直接捕まえて待つしかないと覚悟を決めた。階段を下り、ひんやりとした一階の広いエントランスホールへと向かう。ホール内に設置された自動販売機へ向かい、コインを投入して缶のブラックコーヒーを一つ買った。取り出し口から取り出した缶は程よい温かさを持っていたが、プルタブを引き抜くと、香ばしい苦味とともに湯気が立ち上る。

 昇ってきた朝日が吹き抜けの大型ガラス窓を通り抜け、広々としたロビーの床を白く明るく照らし出していた。外のロータリーには、出勤してくる市役所職員や市民の姿がちらほらと見え始めている。オレは柱の陰に身を寄せ、ガラス越しに日が登っていく景色をぼんやりと眺めながら、半分ほどコーヒーをゆっくりと飲み進めた。朝の澄んだ光の中で、カカシのように立ったまま駿河屋の出勤を待つこととなったのだった。


27-3


 温かいブラックコーヒーを半分ほど飲み終えた頃、ガラス窓の向こうのロータリーに、ようやく目当ての男、駿河屋の姿が見えた。ポケットに両手を突っ込み、だらだらと肩を揺らしながら怠惰な足取りで歩いてくる。だが、彼がセキュリティゲートに辿り着くまでの間の待ち時間も、オレにとっては散々なものだった。



 朝からロボットのようにエントランスの太い柱脇で立ち尽くすオレに対し、登庁してきた佐川は怪しい不審者でも見るようなあからさまな蔑みの目を向け、関わりたくないと言わんばかりに早足で通り過ぎていった。続いて姿を現した雪森は、オレの姿を視界に収めるなり一瞬だけ困惑したように眉をひそめたが、すぐに気まずさを隠すように「あ、おはよう……お前もご苦労様だな。また工藤絡みか?」と、引きつった作り笑顔で快活さを装いながら会釈して去っていった。

 さらにタチが悪いことに、少し遅れて飯田と田辺が肩を並べて連っ立ってやってきた。二人はエントランスの柱の陰に立つオレの姿を視界に捉えると、ニヤニヤとした不快な薄笑いを浮かべ、わざと歩調を緩めて正面から近づいてきた。


 「おいおいおい、見ろよ田辺。あんなところで立たされてる奴がいるぞ」


 飯田がわざとらしい大声で隣の田辺に振ると、田辺は鼻で笑いながら、煽るような視線をオレの全身に滑らせた。


 「本当だな、飯田。桜律、お前今度はどんな酷い理由で工藤を怒らせて執務室から追い出されたんだよ? 朝一からエントランスで門番の嫌がらせかよ?」


 田辺の問いかけに対し、オレは缶コーヒーを手に持ったまま、視線も合わせずに冷ややかに言い返した。


 「別に追い出されたわけじゃないぞ」

 「ハッ! 強がり言っちゃってさあ!」


 飯田が腹を抱えるようにして大袈裟に笑い声をあげた。


 「執務室に自分の席すらなくなったんだろ? 桜律。工藤の召使やってるからそうやって見捨てられるんだよ」

 「……日向坂が中で待ってるぞ」


 オレが淡々と受け流すと、田辺はつまらなさそうに眉をひそめ、捨て台詞を吐いた。


 「ちっ、まあいいや、せいぜい朝の冷たい風に当たって頭冷やしとけよ」


 二人は満足そうにくすくす笑い合いながら、セキュリティゲートを抜けて奥へと消えていった。極めつけは、その直後に一人でやってきた山彦だ。山彦は遠くからオレの姿を見つけると、わざと足を止めてポケットに両手を突っ込み、見下すような嫌味たっぷりの薄笑いを浮かべてじりじりと近づいてきた。


 「朝から立ちんぼかよ、桜律。ここは真面目な市役所の庁舎だぞ? 取り締まる側の役所人間が、朝から入り口で取り締まられるような怪しい立ち回りしてどうするんだよ!」

 「別に怪しいことなどしていない。ただ人を待っているだけだ」


 オレが返すと、山彦はオレの手に握られた缶コーヒーを指差し、鼻で笑うように嘲笑を深めた。


 「人を待ってるねえ? ま、俺と違ってお前を買う女なんてこの世に一人もいないだろうから、立ちんぼしてても警察に買春疑われる杞憂だけはないだろうけどな! ガハハ!」


 山彦は周囲の視線も気にせず下劣な暴言を一人で大声で吐き捨てると、反論を待つこともなく、そのまま鼻で笑いながらゲートをくぐり抜けて去っていった。いちいちその言葉に言い返すのもバカバカしい。オレはただ冷ややかな視線で山彦の去りゆく背中を見送り、静かに冷えた溜息を吐き出すしかなかった。

 そんな不快な待ち時間を過ごしている最中、スマートフォンが微かに震えた。画面を開くと、柊からすぐにメールの既読がついており、「メールありがとう。事情は分かったよ、そのまま会議室に向かうね」と返信が入っていた。それから間もなくして、エントランスに姿を見せた柊は、セキュリティゲートにICカードをかざし、スムーズに潜り抜けて何事もない爽やかな顔で奥の会議室へと直行していったのだった。嫌なやり取りと待ち時間をようやく乗り越えた頃、あくびを噛み殺しながらゲートを抜けてきた駿河屋に、オレは手に持った缶コーヒーを握り直し、歩み寄って声をかけた。


 「ふぁ〜ぁ、ぅ。……あ。おい、駿河屋」


 駿河屋は不機嫌そうに眉をひそめ、眠そうな目を向けた。


 「あぁ? なんだよ桜律、朝っぱらからこんなところで何やってんだ? お前、門番のバイトでも始めたのかよ」

 「そんなわけないだろ。軽く挨拶を済ませておいてなんだが……今日から5日間、オレたちは執務室への立ち入りが出禁になった」

 「はあ!? なんで俺たちが執務室を出禁にならなきゃならねえんだよ! 意味分かんねえぞ!」


 案の定、駿河屋は一瞬で頭に血が上り、エントランスの真ん中で大声を張り上げた。登庁してくる他の部署の職員たちが何事かと振り返る。オレは駿河屋の肩を軽く叩いて落ち着かせながら、今朝の日向坂とのやり取りと、工藤から聞かされた話をそのまま噛み砕いて説明した。


 「有罪派がたむろしてるメインの執務室にお前が顔を出してみろ。朝一番から田辺や志葉と怒号の飛ばし合いになって、最終的に昨日のように殴り合いの喧嘩になるだけだろ。工藤が余計な摩擦とトラブルを避けるために、昨日使った空き会議室を作戦本部として指定したんだよ」


 それを通じて今朝の殺伐とした状況と工藤の合理的な意図を理解すると、駿河屋は不満そうに首をガシガシと掻きむしり、舌打ちを漏らした。


 「ちっ……朝から胸糞悪い連中だぜ。まあいいや、あいつらの腐ったツラ拝みながら作業するよりは、会議室に籠もってる方が100倍マシだからな」


 ようやく納得したように重い足取りで歩き出した駿河屋とともに、オレは奥の廊下へと足を進めた。二人で空き会議室へと向かう道中、廊下の少し先にある応接スペースの近くで、酷く困ったような表情で民間人の対応をしている国宮の姿が視界に入った。対応していた相手はビシッとスーツを着こなした男で、手元のクリアファイルを抱えながら、国宮に対して最後に何かを一言伝え終えると、深く頭を下げてササッと庁舎の出口に向かって立ち去っていったところだった。相手の男が去ったのを確認し、オレは足を止めて国宮に声をかけた。


 「国宮、どうしたんだ? 朝から大変そうだな」


 国宮は疲労の色が滲む苦笑いを浮かべ、オレと駿河屋の顔を見上げて教えてくれた。


 「あ、桜律くん、駿河屋くん……。今の人ね、特総課を正式に訴えようとしていた民間企業の法務部の人なんだよ。でも、向こうの会社自体が別件で大きなトラブルに追われそうになっちゃったらしくてね。特総課に対応している余裕がなくなったから、訴訟の手続きを急に取り下げにきたんだって」

 「へえ……問題だらけの特総課にしては珍しい吉報だな。敵が勝手に引いてくれたわけだ」


 オレが皮肉交じりに呟くと、国宮は複雑そうな表情で息を吐き出し、首を横に振った。


 「吉報っていうかさ……なんだか最近、この澪標市全体が混乱の最中にあるというか、どこも自分の会社のことで手一杯で余裕がなくなってきている感じなんだよね。他所を攻撃する余裕すらなくなってるっていうか……」


 国宮の言葉を聞きながら、オレは脳内で冷徹に状況を分析していた。


 (……要するに、特総課が潔白だから許されたわけじゃない。周囲の混乱に紛れて延命しただけか。根本的な解決には何一つ至っていない。首の皮一枚繋がっただけの、相変わらず綱渡りの状況だな)


 「なるほどな。状況は分かったよ、教えてくれて助かった。ありがとな、国宮」


 国宮と適当に言葉を交わして別れた後、オレと駿河屋はそのまま静まり返った廊下を歩き、工藤と柊が待つ奥の空き会議室へと戻っていったのだった。


27-4


 廊下の冷気が背筋を撫でる中、オレと駿河屋は重々しい手つきで空き会議室の金属ドアノブを回した。カチリと静かな音が部屋の中に響き、扉を押し開けて室内へと戻る。部屋の中では、柊がホワイトボードの脇に一人で立ち、手元に持った数枚の分厚い書類を穴が開くほど真剣な目つきで見つめていた。オレたちが足音を立てて入ってきた気配に気づくと、柊はパッと顔を上げ、穏やかだがどこかピンと張り詰めた緊張感を孕んだ声をかけてきた。


 「おはよう、二人とも。ちょうどよかった、今僕が追っていた情報の整理がようやくついたところなんだ」


 長机の最深部に陣取っている工藤は、オレたちが戻ってきたことに対して短く冷ややかな視線を一瞬だけ送ってきたものの、何も言葉を発することはなかった。彼女はそのまま手に持ったタブレットの画面に視線を引き戻し、防犯カメラの抽出映像を倍速で確認する作業を規則的な手つきで淡々と続けている。彼女の意識はすでに、次の検証段階へと完全に移行しているようだった。オレと駿河屋が長机の前まで歩み寄ると、柊は手元にあった書類の中から、特に重要と思われる一枚の契約書面をオレたちの目の前へ差し出してきた。表題の部分には、重々しい明朝体で『債務保証および資金調達に関する承諾書』と印字されている。昨日、彼が単独で追跡していた2,500億円という膨大な金額の借り入れ契約に関する正式な書類だった。


 「これを見てほしいんだ」


 柊は真剣な眼差しを崩さず、指先で契約書本文に記載された数字と、それに付随する財務データの数値を順番に指し示した。


 「この2,500億円の借り入れ契約が成立した直後の資金動向を追ってみたんだけど……特総課の専用口座から、ちょうど2,500億円という丸ごとの金額が、国に対して直接支払われている形跡があったんだよ」

 「……国に直で支払われただと?」


 オレは眉間に深いシワを寄せ、その数字の意味するところを脳内で高速に反芻しながら問い返した。柊は重々しく首肯し、言葉を続ける。


 「うん。そして、この2,500億という数値なんだけど……以前、特総課から他市へ高跳びした、あの5人の先輩たちの移籍金――一人あたり500億円×5人分という金額に完璧に符合するんだよ」


 その言葉が柊の口から発せられた瞬間、オレの隣に立っていた駿河屋の全身が、まるで電流が走ったかのように固く強張った。柊はオレと駿河屋の顔を交互に見比べながら、自身の導き出した推論を落ち着いた声で言葉にしていく。


 「つまり……駿河屋くんの名義が裏で勝手に使われて澪標市に巨額の借金が作られ、その資金を使って、逃げ出した先輩たちは治牧市の特総課へ自分たちの移籍金を支払い、首尾よく移籍を果たしたんじゃないかな」

 「……なんだと……?」


 駿河屋の喉の奥から、低く地を這うような凶暴な殺気を孕んだ声が漏れ出た。次の瞬間、駿河屋の中で抑え込まれていた怒りの感情が一気に決壊した。彼は顔を真っ赤に沸騰させ、極度の怒りと侮辱感から拳を血が滲むほど激しく握り締めると、今にも目の前の長机やパイプ椅子を叩き割りそうな勢いで荒々しく暴れ出そうとした。


 「あのクソ野郎どもがよぉッ! 俺の名前勝手に使って巨額の借金作っといて、自分らはその金で高飛びして移籍しただと!? ふざけんじゃねえぞボケが! 殺してやる! あいつら全員、今すぐブチ殺してやる!!」


 粗暴な怒号と暴言を狭い会議室内に響かせ、荒い息を吹き出しながら床を激しく踏み鳴らす駿河屋。その巨体が理性を失って暴走しかけたのを察し、柊は素早く駿河屋の懐に潜り込むと、両手を大きく広げて宥めるように必死で声を張り上げた。


 「落ち着いて、駿河屋くん! 気持ちはすごくよく分かるけれど、ここで暴れても何も解決しないよ! でもね、よく考えてみてほしいんだ。この事実が証明できれば、君がみんなを困らせるために勝手に契約を作ったんじゃないって、有罪派の全員を客観的に納得させられる明確な証拠になるんだから!」


 柊の切実な説得と、身体を張った制止。それを受けた駿河屋は「チッ……!」と激しい舌打ちを打つと、悔しそうに歯の根をガチガチと鳴らしながら、どうにか踏みとどまって暴れるのを思いとどまった。胸を激しく上下させ、粗い息を吐きながらも、彼はどうにか踏みとどまったのだ。その一連の騒々しいやり取りに対し、部屋の奥にいた工藤が呆れ果てたように深く重い溜息を吐いた。彼女が冷徹な口調で何か小言を言い放とうと椅子から腰を上げかけた、まさにその時だった。

 コン、コン、と規則的で硬いノックの音が会議室のドアを叩いた。室内を一瞬にして静寂が包み込む。工藤の動きがピタリと止まり、駿河屋の荒い息遣いだけが部屋に残る。工藤は一度オレたちに対して「静かにしなさい」と言わんばかりの鋭い牽制の視線を向けると、足音を殺してスタスタとドアの前まで歩み寄った。そして、鍵を解錠すると扉をほんの数センチだけ開け、顔だけを外へ出した。


 (誰だ……? 有罪派の連中が文句でも言いに乗り込んできたのか?)


 オレが警戒しながら思考を巡らせていると、ドアの隙間越しに廊下でのやり取りが微かに聞こえてきた。相手の声には聞き覚えがあった。世良だ。世良は静かな声調で、工藤に向かって淡々と用件を切り出していた。今月27日に行われる予定の審議会で議論されることが正式決定した、確定議題の告知に来たのだという。


 「議題は以下の7件だよ」


 世良の抑え込まれた声が、静まり返った廊下に淡々と響き渡る。


 「第一に、『市営バス特定路線網および関連施設の事業譲渡・権利移管契約書』。第二に、『澪標市指定ごみ処理・廃棄物再資源化事業の一括民間委託契約』。第三に、『アミューズメントプロジェクトに関する受任・代理権限委任状および秘密保持約定書』。第四に、『市立医療センター・旧市民病院跡地売却および新施設整備基本協定』。第五に、『水道事業の広域一斉点検基本合意書』第六に、『地方創生特定事業における顧問受諾契約書』、『海外銀行口座の開設・口座振替同意書』そして最後、……『債務保証および資金調達に関する承諾書』。以上の7件だよ」


 ドアの隙間から見えている工藤の横顔をじっと観察してみたが、彼女の表情には微かな動揺や驚きすら浮かんでいなかった。まぶた一つ動かさず、淡々と世良からの連絡メモをノートに手際よく記録している様子が見える。


 (……ほぼほぼ工藤の読み通りの案件ばかりだな。ここまでの議題を事前にすべて正確に予測していたのか……)


 一通りの事務的な伝達事項を終えたのか、「では、失礼します」という世良の短い足音が遠ざかり、廊下から完全に気配が去っていった。それを慎重に確認してから、工藤は静かにドアを閉め、ガチャリと鍵を掛け直した。振り返った工藤は、オレたち3人を氷のように冷徹な眼差しで見つめ、手短に言い放った。


 「……議題が確定したわ」


 そう言うと、彼女は自分が位置取っていた長机のスペースから該当する書類を無駄のない動作で回収し、さらに柊が手に持っていた『債務保証および資金調達に関する承諾書』も受け取ると、ホワイトボードの前へ移動して磁石でパチパチと手際よく貼り付けていった。


 「これら7件以外の無関係な書類に関しては、今回の審議では扱わないでしょうから、作業の邪魔にならないよう部屋の隅に片付けるように」


 誰がやれ、と名前を挙げて明確に指示が出されたわけではなかった。だが、こうした雑務や力仕事が誰の役割であるかなど、言葉にするまでもなかった。オレと駿河屋の仕事だ。昨日の夜、二人でクタクタになりながら庁舎内からかき集めてきた膨大な資料の束。オレと駿河屋は無言で顔を見合わせると、言われた部屋の隅のスペースへと、黙々とその段ボール箱やファイルの山を運び始めるのだった。


27-5


 段ボール箱を部屋の隅へ運び終え、膝の汚れを軽く払った昼前。長机の奥から、異様なほど呆れ果てた様子の工藤の声が飛んできた。


 「……駿河屋くん。ちょっとこちらへ来なさい」

 「あぁ? なんだよ急に」


 作業の手を止めた駿河屋が不機嫌そうに顔を上げる。何事かと気になったオレも、ホワイトボード横の資料整理の手を止めてそちらへ視線を向けた。工藤は隣に座る柊に一度短い視線を送り、次いでオレにも「あなたも聞きなさい」と言わんばかりに顎をしゃくった。3人が長机の前へ集まると、工藤は卓上に置いたタブレット端末の液晶画面をオレたちに向かってスッと提示した。画面にはタイムスタンプが刻まれた防犯カメラの映像が停止した状態で表示されている。


 「サバキネコから抽出して用意してもらった映像の確認が終わったわ」


 工藤はそう告げると、一度駿河屋の顔を苦々しげに睨みつけ、心底鬱陶しそうに小言を漏らした。


 「……はっきり言って、あなたの顔を倍速で何時間も直視し続ける作業は、苦痛以外の何物でもなかったわ」

 「んだとゴラぁ! 頼んでもねえのに勝手に見といて文句言ってんじゃねえぞ!」


 即座に噛みつく駿河屋の横から、柊が苦笑いを浮かべながら「まあまあ」と両手を広げて間に分け入った。


 「駿河屋くん、落ち着いて。工藤さんも、せっかく調べてくれたんだから先に内容を確認しようか」


 柊が宥めて場を収めると、工藤は不快そうに鼻を鳴らし、タブレットの再生ボタンをタップした。


 「今から二つの映像を見せるわ。それぞれ、不祥事の発生日時として記録されている6月20日と1月26日の、駿河屋くんの動向が捉えられている防犯カメラの映像よ」


 画面に再生されたのは、6月20日の特別総合課執務室の映像だった。画面右下のタイムスタンプが目まぐるしい速さで刻まれていく。倍速で流れる画面の中で、駿河屋は自分のデスクにどっかと腰を下ろし、珍しく一日中勤務時間中に席を離れることなく、猛烈な勢いでパソコンのキーボードを叩き、画面と格闘していた。昼休みにカフェテリアへ赴いてメシを食ったり、途中で数分ほどトイレに向かったりする程度の移動はあるものの、庁舎を出て外へサボりに行ったり、怪しい動きを見せたりした様子は一切残っていない。倍速再生が終わると、柊が心底ほっとしたような表情を浮かべ、駿河屋に向かって語りかけた。


 「ね? この映像証拠があれば、6月20日の不祥事に関して駿河屋くんが無実であることは、客観的に見ても確実じゃないかな」

 「お、おい……嘘だろ……?」


 駿河屋は目を丸くし、画面を凝視したまま呆然と呟いた。まさかドンピシャで自分が真面目に仕事をしていた瞬間の証拠が完璧に残っているとは思ってもいなかったらしい。次の瞬間、駿河屋の顔に下品な笑みが浮かび上がり、胸を張って勢いよく吠えた。


 「ハッ! 見たか見たか! 俺がちゃんと仕事してた証拠が完璧に出てきたじゃねえか! 勝手に俺の名前使って不正しやがったクソ野郎、ザマぁ見やがれってんだ!!」


 自分の無実が証明されたと大騒ぎして喜ぶ駿河屋。だが、工藤はそんな彼を凍てつくような冷ややかな目で見つめ、氷のように冷たい声を投げかけた。


 「明確な証拠が出てきて喜んでいるところ申し訳ないのだけれど――次の映像を見てから喜んでもらえるかしら?」

 「あぁ? なんだよ次の映像って」


 不機嫌そうに眉をひそめる駿河屋に対し、柊が「駿河屋くん、ちょっと落ち着いてね」と宥めながら、工藤と駿河屋の不毛な言い合いが始まらないよう間に入って映像の再生を促した。工藤が画面を切り替え、再生ボタンを押す。そこに映し出されたのは、1月26日の執務室の映像だった。画面の中の駿河屋は、自分のデスクの上で腕枕を作り、勤務時間中にもかかわらず微動だにせず爆睡していた。タイムスタンプが何時間も進んでも、彼はピクリとも動かない。途中、画面の中で作業に飽きた飯田と田辺が近づいてきて、寝ている駿河屋の背中に紙くずを投げつけたり、頭の上に消しゴムを乗せたりといった低レベルないたずらをしている瞬間もバッチリ捉えられていたが、駿河屋はまったく起きる気配すらなかった。


 「……おい待ちやがれ! 飯田と田辺の野郎、俺が寝てる隙にふざけた真似してやがったな!? ぶっ殺す!」


 自分の失態よりも、いたずらされていた事実に対して真っ赤になってブチギレる駿河屋。柊が必死になって「落ち着いて、そこじゃないから!」と彼の肩を揺らして宥める。工藤は腕を組み、心底呆れ果てた表情で溜息をついた。


 「勤務態度としては擁護のしようもない最低最悪な代物だけれど……この酷すぎる勤務態度の『おかげ』で、あなたが物理的に不正に関与できる状態になかったという無実が証明されるわね。呆れて物も言えないわ」


 (……寝落ちしていたおかげでアリバイが証明されるとはな。呆れるが、無罪を立証する根拠としてはこれ以上なく頑丈か)


 オレが内心で冷ややかな分析を下していると、柊が画面のタイムスタンプを巻き戻し、ふと疑問を口にした。


 「……ねえ、駿河屋くん。この日の最後、退勤直前の22:42から23:13までの約30分間、君はどうして災害対策本部室に向かったの?」

 「……え?」


 工藤も視線を向け、「そこについては私も気になっていたのよ」と追究を重ねる。防犯カメラの映像には、22:42にようやく目を覚ました駿河屋が、誰もいなくなった9階の執務室からエレベーターに乗り込み、7階の災害対策本部室の扉を開けて中に入っていく姿がしっかりと収められていた。室内のカメラ映像はないものの、23:13になってから彼が思いっきり猛烈な勢いで扉を閉め、苛立った様子で部屋から出ていく姿が廊下の映像に残されている。二人の追及に対し、駿河屋は「あぁ? 災害対策本部ぅ?」と首を傾げ、倍速で再生される自分の行動画面を食い入るように見つめた。


 「そんな昔のこと覚えてねえよ! 俺がそんな部屋行くわけねえだろ!」


 最初はキレまくっていた駿河屋だったが、画面の中で起きた直後の自分がスマホを眺め、頭をガシガシと掻きながらエレベーターに乗る姿、そして23:13に怒り心頭で扉を叩きつけるように出ていく光景をじっと見つめるうちに、ハッとしたように目を見開いた。


 「……あ! 思い出したぞ!」


 駿河屋はポンと手を叩き、記憶の糸を手繰り寄せるように話し出した。


 「あの時だ! 起きてスマホ見たら、通知が山ほど溜まっててさ。何かと思ったら、峰崎から大量の呼び出し通知が来てたんだよ。『今すぐ7階の災害対策本部室に来い』ってな。勤務時間終了後の時間帯だったから、説教の類だと思ってイライラしながら向かったんだ」

 「で、部屋に行ったらどうだったんだ?」


 オレが尋ねると、駿河屋は苦々しい顔で吐き捨てた。


 「どれだけ待っても峰崎の野郎は来ねえんだよ! 30分近く待たされてブチギレてさ、届いてた通知をタップして『遅いぞふざけんな』ってメッセージを送ろうとしたら、なんか通知もメッセージも画面から消えてやがったんだ。イライラがピークに達して、部屋を飛び出して帰ったんだよ。で、次の日『昨日何だったんだよ』って怒られるかと思って出勤したら、峰崎の奴、何事もなかったかのようにいつもみてーに『おはよう』とか挨拶してきやがってさ。だから俺も、自分が寝ぼけて勘違いしてただけなのかと思って、そのまま忘れてたんだよ」

 「……22時なんてとっくに定時は過ぎてるし、誰一人としてお前を起こしてくれなかったのか?」


 オレが呆れ交じりに呟くと、工藤が冷淡な調子で割り込んできた。


 「駿河屋くんの普段の粗暴さを知っているなら、誰も彼を起こしたがらないのは当然の帰結ね。関われば逆ギレされるのが目に見えているもの」

 「チッ……」


 工藤の容赦ない正論に、駿河屋はムカつきながらも文句を返せず、悔しそうに引き下がった。工藤は一瞬思考を巡らせると、冷静な声調で駿河屋に指示を出した。


 「寝ぼけていたのなら困るわ。今すぐあなたのスマートフォンを開いて、アプリの履歴に『メッセージが削除されました』という痕跡が残っていないか確認しなさい」

 「言われなくても見てやらぁ!」


 駿河屋は急いでポケットから端末を取り出し、画面を高速でフリックした。数十秒後、「あった! ほら見ろ! 『送信者によってメッセージが削除されました』って残ってんぞ!」と大声で騒ぎ立てた。柊がすぐさまその端末を覗き込み、手際よく画面を操作する。


 「よし、このスクリーンショットとログは重要な証拠になる。しっかりと保存しておこう」


27-6


 「……よし、削除ログの保存とタイムスタンプの紐付けはこれで完了だね」


 スクリーンショットの保存作業を終えた柊が、スマートフォンの画面を閉じながら安堵の息を漏らした。すると、それまで黙々とタブレットの操作を続けていた工藤が、意を決したように静かに立ち上がった。彼女はパイプ椅子の背もたれにかけてあった薄手のジャケットを羽織り、手に持っていたクリアファイルを鞄へ手際よく収めると、隣の柊に向かって小さく目配せをした。二人揃って会議室のドアの前へと歩み寄り、ドアノブに手をかける。そして、部屋に残されるオレと駿河屋の方へと振り返った。


 「ちょっと外に出て、調べ物をしてくるわ」


 工藤は氷のように冷静な声調で告げると、オレたち二人を射抜くような厳しい視線を向け、寸分の隙もない口調で釘を刺してきた。


 「私たちが戻るまでに、さっき指示した書類の整理と27日の審議に向けた答弁の下書きを進めておくこと。……いいかしら、余計な動きは一切しないこと。執務室の連中と接触して無駄な争いを起こさないよう、大人しくここに留まっていなさい」


 容赦のない念押しと威圧感。それを受けた駿河屋が、不満そうに太い眉を跳ね上げて速攻で噛みついた。


 「あぁ!? なんだよその言いぐさは! どんだけ俺らのこと舐めてんだよ、おい!」


 駿河屋が荒々しい声を張り上げたが、工藤は駿河屋の反論などまるで蚊の鳴く声であるかのように完全に無視した。視線を一切交わすことなく、彼女はオレの方へと冷たい眼光を向けてきた。


 (……やれやれ、オレに手綱を握っておけということか)


 オレは工藤の視線を真っ向から受け止め、静かに首肯して応えた。


 「了解だ。誰かがこの部屋を訪ねてきても、応対はすべてオレがやる。駿河屋には余計な口を挟ませないし、部屋の外にも出させない」


 オレの言葉を聞くと、工藤はほんの微かに満足げな眉の揺らぎを見せ、短く言い放った。


 「自分のすべき役割を正確に理解しているみたいで助かるわ。……用件は以上よ」


 それだけ吐き捨てると、工藤は手短にドアを開け、柊を伴って躊躇いなく廊下へと出て行った。パタンと重い音を立てて扉が閉まり、静まり返った会議室には、オレと駿河屋の二人だけが取り残されたのだった。


 ――カチカチと、壁に掛けられた時計の針が刻む乾いた音だけが室内に響く。しばしの重苦しい沈黙の中、オレたちは部屋の中央でポツンと棒立ちになっていた。


 「……ハッ、あいつ、上から目線で勝手なことばかり抜かしやがって」


 駿河屋が吐き捨てるように毒づき、不機嫌そうに頭の後ろをガシガシと荒っぽく掻きむしった。オレはそれに返事することもなく、深々と息を吐き出すと、長机の空いているパイプ椅子を引き寄せて腰を下ろした。卓上に広げたノートと手元の関係資料に目を通し、工藤から頼まれていた答弁資料の整理と、下書きの作成作業へと黙々と取りかかる。駿河屋もしばらくはイライラと不満げに部屋の中をうろついていたが、やがて諦めたように「チッ」と大きな舌打ちを漏らすと、部屋の隅に積まれた重い段ボール箱を引き寄せ、指示されていた力仕事と資料の仕分け作業を始め出した。

 箱を持ち上げ、床へ置く重いドスンという音が室内に響く。作業の合間、駿河屋が手元を動かしたまま、ポツリポツリと掠れた声を漏らし始めた。


 「……なあ、桜律」

 「なんだ」


 オレは手元を動かしたまま、視線も上げずに短く返した。


 「……今回の件さ。もし俺一人だけだったら、絶対終わってたよな」


 段ボールのガムテープをバリバリと剥がす音が響く。駿河屋の声には、普段の粗暴な勢いは影を潜め、どこか自嘲めいた不器用な響きが混ざっていた。


 「工藤がいなかったらさ……飯田とか寒川たちとの話し合いにすらならねえで、全部の不正の責任を俺ひとりに押し付けられて、そのまま警察に突き出されてムショ行き確定だった。……間違げえねえよ」


 重い荷物を移動させながらぽつりと漏らす男の背中を見つめ、オレは冷静に自分の思考を言葉にした。


 「……そうだな。お前一人だったら、寒川たちの勢いにそのまま押し切られてただろうな。感情任せに怒鳴り込んで、最悪のタイミングで相手に手を上げて暴力沙汰を起こし、無駄に罪と問題を増やして自滅していた可能性が高い」


 オレの容赦ない客観的な指摘に対し、駿河屋は手を止め、振り向くことなく苦笑交じりに反論した。


 「……流石に女子相手に手を挙げたりはしねえよ、ボケ。……だがまあ、言い返せねえのはムカつくな」


 駿河屋は短い溜息を吐き出すと、手に持ったクリアファイルを抱え直し、視線を明後日の方向へと向けながら呟くように続けた。


 「……でもさ。なんか、ちょっとずつなんとかなるんじゃねーの? っていうか……暗闇の中に、小さな光みたいなのが見えてきたっつーかさ」

 「光、か」

 「おう。工藤の奴、頭良くて俺たちのこと見下してきてるみたいで前々から大嫌いだったけどよ……。今、こうやって俺の味方をしてくれてるのがアイツだけって状況もさ……結局は、俺が今までまともに仕事もしねえで、周りに迷惑ばかりかけてきたから招いた自業自得なんだよな」


 駿河屋の口から出た、意外なまでの客観的な反省の言葉。粗暴な振る舞いの裏に隠されていた彼の素直な心情が、ポロポロと溢れ出ていた。駿河屋は照れ隠しのように鼻を鳴らすと、作業を続けながらオレの方へとチラリと視線を向けてきた。


 「……で? お前はどうなんだよ、桜律」

 「どう、とは?」

 「お前だってさ、どうせ工藤の駒使いとして無理やり手伝わされてるだけなんだろ?」


 駿河屋は自虐的な薄笑いを浮かべながら、手元の作業に視線を戻した。


 「だよな。お前も工藤みたいに頭がいいわけじゃねーし、柊みてえに無駄にお人好しな性格でもねえ。お前自身は、俺が無罪になろうが追放されようが、本当はどうせどっちでもいいと思ってんだろーな」


 彼の言葉が静かな会議室に落ちる。オレは下書きを走らせていたペンの動きをふと止め、無言のまま手元のノートを見つめた。

 胸の中でその言葉を反芻する。オレは何も言わずに静かに立ち上がると、駿河屋の方を一切見ることなく、部屋の壁際に設置されたホワイトボードの前へと歩を進めた。磁石で留められた莫大な資料の束を回収し、手元で手際よく整列させながら、背後の駿河屋に向かって淡々とした声調で問いかけた。


 「……オレは別に、どちらでもいいと思って手伝っているわけじゃない」


 駿河屋の作業する手がピタリと止まる気配が背中越しに伝わってきた。オレはホワイトボードの資料から視線を外さないまま、言葉を重ねていく。


 「工藤が言っているから、素直にそうなんだろうと思っただけだ。工藤がお前が不正によって嵌められている確率の方が圧倒的に高いと睨んでいるのなら……少なくとも、感情論で動いている他の有罪派の連中の読みよりも、はるかに正しそうだと思ったんだ」


 そこまで一気に捲し立てると、オレはようやく振り返り、戸惑ったような顔でこちらを見つめる駿河屋の瞳を真っ直ぐに見据えた。


 「……そんな単純な理由だけでお前の味方を手伝っているというのは、お前にとって不服か?」


 オレの問いかけに対し、駿河屋は一瞬だけ口ぐもり、驚いたように目を丸くした。だが次の瞬間、彼は恥ずかしそうに視線を露骨に逸らし、口元を歪めながらボソリと呟いた。


 「……いーや。今はどんな理由であれ、味方がいてくれるだけで心強えーよ」


 照れくさそうに吐き捨てた駿河屋は、二度とオレと目を合わせようとはせず、乱暴な手つきで目の前の段ボール箱を押し運ぶ作業へと戻っていった。オレもそれ以上は何も言わず、手に持った資料を抱えて自分のデスクへと戻り、再び静かにペンを走らせ始めた。殺伐とした対立と緊張が続くこの澪標市役所の中で、不器用で冷たかったオレたちの間に、確固たる結束の芽が静かに根を張り始めた瞬間だった。


こんにちは、熊太郎助です。更新遅れました。救急車に運ばれたり病院に縛り付けられたりと散々な連休でした。本調子とはいきませんが、更新頻度は高く保ちたいと思っております。これからもよろしくお願いします。

なんだかんだ今回の話も2万文字近くになってしまいましたが……セクションごとに各話数字-数字にしてるので区切りはいいと思います。

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