第26話 駿河屋礼衣の記録
26-1
執務室の重い防音扉が、カチャリと頼りない金属音を立てて内側へ開いた。真っ先に入ってきたのは田辺だった。怒りと焦燥で肩を大きく上下させ、荒い息を吐き出している。そのすぐ後ろから、長時間の見張りと極度の緊張で疲弊しきった顔の雪森と佐川が、まるで重りを引きずるかのような重い足取りで続いて入ってきた。オレと工藤は、彼らとすれ違うタイミングを見計らい、無言のまま執務室をあとにした。目的地は一階のエントランスホールだ。静まり返った廊下へ踏み出し、深く沈むような静けさが支配するエレベーターホールへと静かに足を進める。
部屋を出る直前、オレたちはあらかじめ定めておいた役割分担の最終確認を済ませていた。執務室に戻ってきた田辺たちへの状況説明は、室内に留まる日向坂の口から行わせる。一方で、一階で待機させている駿河屋への状況説明は、工藤の口から直接伝える。どのような議論を経て、どういう着地点で話がまとまったのか――感情的になりやすい面々を分断し、個別に納得させるこの分担こそが、現状で最も無駄がなくリスクの低い選択だった。
背後、ゆっくりと閉じかけていく扉のわずかな隙間から、日向坂の低く抑えた声が漏れ聞こえてくる。
「――あー、田辺。さっきの件だがな、執務室でどういう結論になったか一度落ち着いて聞いてくれ」
日向坂が場を収めようと説明を始めかけた、まさにその出鼻だった。
「ああん!? 落ち着くだあ!?」
鼓膜を突き刺すような田辺の怒号が、廊下の壁に反響した。ハナから話し合いなど受け入れる気のない、粗暴で荒々しい声調だ。
「話し合うまでもねえだろ! あんなクソ野郎、グダグダ理屈こね回す前にさっさとぶっ飛ばして終わりにすりゃいいんだよ! どけ、俺が直接叩き潰してやらァ!」
怒り狂ってイキリ立つ田辺の怒号と、「待てって!」「暴れるな田辺!」と必死で彼の上半身を抑え込もうとする残りの面々の罵声や押し問答が、バタンとドアが完全に閉まるまで途切れ途切れに届いていた。エレベーターの呼び出しボタンを押した工藤は、右手の指先で眉間を強く押しつけながら、深く重い吐息を漏らした。
「……あの威勢だけは一人前な猛獣を宥めるのも一苦労でしょうけれど」
工藤は鏡のように自分たちの姿を映し出すステンレス製の扉を見つめたまま、げんなりとした声を零す。
「今から向かう駿河屋くんも、同等か……あるいはそれ以上に話が通じなさそうね」
「だろうな」
オレが短く応じると、到着を告げる電子音が静かに鳴り、エレベーターの箱が滑らかに開いた。オレたちはそのまま無機質な箱へと乗り込み、一階のボタンを押す。扉が閉まり、足元にわずかな重力を感じさせながら静かな下降線を描き始めた。一階に到着し、扉が滑るように左右へ開くと、エントランスホール特有のザワザワとした人鳴りと、吹き抜ける冷気の気配が押し寄せてきた。男を探す手間すら不要だった。ホールの真ん中に据えられた待合用ソファ。そこに深く身体を沈め、膝を劇的に上下させながら激しい貧乏ゆすりを繰り返している男――駿河屋だ。全身から隠そうともしない苛立ちを撒き散らしていて、今にも目の前のローテーブルを叩き割るか蹴り飛ばしそうな物々しい雰囲気を漂わせている。そのすぐ左右では、飯田と山彦が青ざめた顔で立ち、「おい駿河屋、落ち着けって」「ここ役所だぞ」と腰の引けた調子で必死に宥めていた。
当然、そんな異様な一角を周囲が放置するはずもない。受付窓口の奥に並ぶ職員たちは露骨に不快そうな冷ややかな視線を送っているし、手続きや相談で役所を利用しに来ている一般市民たちも、不審そうにチラチラと視線を向けながら遠回りをして距離を取っていた。オレと工藤が通路から歩み寄ってくる姿を目に留めると、宥めていた二人が救われたような顔で声を張り上げた。
「おお、工藤! ……と、桜律!」
飯田がやれやれと言わんばかりに胸を撫で下ろしながら近寄ってくる。
「助かったぜマジで……。駿河屋の奴がいつここで暴れ出すかと思ってヒヤヒヤしてたんだよ~」
その言葉が導火線となった。ソファから弾丸のような勢いで駿河屋が立ち上がる。
「ああん!? 誰がこんなところで暴れるかバカ! テメえ俺をなんだと思ってんだよ! バカにしてんのかお前!」
顔を真っ赤にしてキレ散らかす駿河屋に対し、山彦が呆れたように肩をすくめた。
「いやいや……お前にそんな信頼ねーよ。普段の行い考えろって」
「なんだとコラぁ!」
掴みかからんばかりの勢いで身を乗り出す駿河屋の前に、工藤が冷ややかな一言を叩きつけた。
「こんなところで醜態を晒すのはやめなさい」
氷点下の威圧感が空間を支配し、駿河屋はウッと声を詰まらせて踏みとどまった。工藤は周囲の冷視を一瞥すると、何事もなかったかのような凛とした態度で言葉を継いだ。
「ホールで落ち着いて話もできないでしょ。一度場所を変えるわ。空いている会議室に向かうからついてきなさい」
工藤の静かな先導で、オレたちはホールをあとにし、奥の廊下に位置する空き会議室へと移動した。会議室の厚い扉が閉まり、外からの雑音が遮断されるや否や、山彦が耐えかねたように尋ねてきた。
「で? 上でどんな話し合いだったんだよ」
飯田も、どこか悪い結果を察しているような冷めた様子で耳を傾ける。
「まあ、どうせ結果は見えてるけどな」
市民の目がなくなったことで苛立ちを隠す必要がなくなったのか、駿河屋の感情が限界を迎えて爆発した。
「どうせ俺が悪者にされてんだろ! わかってんだよそんなこと!!」
激昂した駿河屋は、目の前に置かれていたスチール製のパイプ椅子を思い切り蹴り飛ばした。ガシャン!!と甲高い金属音が壁に反響し、椅子が滑りながら床を転がる。暴れる駿河屋に対し、工藤は怒るでも呆れるでもなく、ただ静かにオレへ無言の視線を送ってきた。
(……なんでオレが)
内心で溜息を吐き捨てながらも、オレは無言で転がったパイプ椅子に歩み寄り、拾い上げた。倒れた椅子を起こし、乱れた机と椅子の配置を淡々と整え直す。その作業の合間に、工藤は入り口付近に立っていた飯田と山彦に向き直った。
「飯田くん、山彦くん。あなたたちは執務室に戻りなさい」
「は……?」
飯田は口をぽかんと開けた。
「え、なんでだよ。教えてくれるんじゃねーのかよ?」
山彦も後頭部をガシガシと掻きむしりながら、不満そうに声を漏らす。
「なんだよ、またお預けかよ。つまんねーの」
引き止める余地を微塵も与えない工藤の確固たる態度に諦めたのか、飯田は後ろに腕を組みながら、山彦は首を鳴らしながら、だるそうに会議室を出ていった。
二人の足音が遠のき、扉が完全に閉まったのを確認すると、工藤は駿河屋へ視線を向けた。
「まずは席につきなさい」
依然として肩を怒らせて荒い息を吐いていた駿河屋だったが、工藤の眼力に押されて渋々パイプ椅子を引き、ドカッと勢いよく腰を下ろした。オレも整え直した机の向かい側の席に着く。それを見届けてから、工藤はオレの隣の席へ滑らかに腰を下ろした。
「簡潔に結論から話すわ」
工藤は卓上で細い指を組み、まっすぐに駿河屋を見据えた。
「端的に言えば――私達があなたの『弁護人』のようなことをすることになったわ」
「……あ?」
駿河屋が毒気を抜かれたような間抜けな声を漏らす。工藤はその反応を一切流し、執務室での話し合いで決定した経緯について語り始めた。特別総合課の中でどういう取り決めがなされ、どういう形式で「裁判」が行われることになったのか。説明の途中で、駿河屋は「ふざけんな!」「誰がそんなことに合意したんだよ!」と何度も身を乗り出しては暴言を吐き捨てた。しかし、その度に工藤の冷徹な一言によって遮られた。
「最後まで話を聞きなさい」
冷たく突っぱねられ、駿河屋は悔しそうに歯噛みしながら黙り込む。工藤の説明は淀みなく続いた。一通りの全体像を説明し終えると、工藤は具体的な日時の話へと移行した。
「先ほど言ったように、30日がタイムリミットとして設けられているわ。そして、実際の裁判の日は4月27日――つまり、五日後よ」
それを聞いた駿河屋が、再び凶暴に眉をひそめて身を乗り出した。
「なんで三日早いんだよ! 30日ギリギリまで使わせろよ!」
噛みつく駿河屋に対し、工藤はそれがタイムリミットでしかないということを、順を追って噛み砕くように説明していた。余裕を持った日程でなければサバキネコの対応も追いつかないという、極めて当然の理屈だ。オレは横から補足を挟んだ。
「仮に27日に結論が出なかった場合は、再審が30日にある」
「再審……?」
駿河屋がオレの言葉に怪心そうな視線を向ける。すかさず工藤が追撃するように言葉を重ねた。
「その時は全会一致ではなく『多数決』になるけれど……あなた、その意味をちゃんと理解しているのかしら?」
「……っ、わかってんだよ!」
駿河屋は吐き捨てるように言い放ち、背もたれに激しく背中を打ち付けた。
26-2
会議室を覆う静寂のなか、工藤がゆっくりと指を組み替え、背筋をピシッと伸ばした。蛍光灯の白光を浴びるその厳かな佇まいは、まるで取り調べを行う検事か、あるいは裁判の開廷を告げる裁判官のようだ。
「じゃあ、具体的に捜査を始める前に――」
工藤は前置きし、眼前の駿河屋を逃がさないと言わんばかりの鋭い目つきで見つめる。
「これから5日間、私達以外の人達が話を聞きに来ても、何も話してはだめよ。黙秘しなさい」
駿河屋は不機嫌そうに喉の奥を鳴らした。額に深い皺を寄せ、鼻から荒い息を抜く。
「……ッ。あれか? 黙秘するってやつか?」
「『黙秘する』と言うこと自体も禁止するわ」
ピシャリと言い切る工藤の言葉に、駿河屋は「はぁ!?」と目を丸くして身を乗り出した。だが工藤はその反論すら手のひらで制する。
「どれだけ挑発されるようなことがあっても、徹底的に無視すること。強く念押ししておくわ」
まるで子供に言い聞かせるような物言いに、駿河屋は不満を隠そうともせず、乱雑に頭髪を掻きむしった。
「そこまで言われなくてもわかってんだよ。俺もバカじゃねえんだから」
その言葉が耳に届いた瞬間、隣に座る工藤がふっと視線を逸らし、誰にも聞こえないような極小の声で呟いた。
「……本当に意味があるのか甚だ疑問だわ」
オレのすぐ隣だったからかろうじて聞こえたが、その声には一切の信頼が込められていなかった。オレは特に口を挟まず、腕を組んだまま二人を見守る。
「一応伝え終えたわね」
工藤は小さく息を吐くと、机の上に置いた手帳をペン先でトントンと叩いた。会議室の空気が一段と張り詰める。
「……で、根本的なところについての聞き込みを始めるけれど。実際のところ……あなた、本当に不正には加担していないのね?」
その問いが投げかけられた瞬間だった。駿河屋の顔から一瞬で余裕が消え去り、血が上ったように皮膚が赤黒く染まっていく。
「やってねえよそんなこと!!」
叫び声とともに、駿河屋は両手で机を激しく叩いた。バァン! と高い衝撃音が狭い会議室内に響き渡る。さっきまで執務室で一方的に疑われていた記憶が鮮明に蘇ったのだろう。肩を大きく上下させ、全身を怒りと屈辱で震わせている。だが、その激しい動揺と怒りを正面から受け止めた工藤の表情は、拍子抜けするほど淡々としていた。彼女は駿河屋の荒い息遣いをまじまじと観察したあと、あっさりと肩の力を抜いた。
「嘘をつけるとも思えないし……まあ、そうなんでしょうね」
「……あ?」
あまりにも呆気なく自分の言葉が受け入れられたことで、毒気を抜かれた駿河屋はポカンと口を開けた。拳を握りしめたまま、信じられないといった顔で工藤を見つめ返す。
「お前……アイツらみたいに疑わねえのかよ?」
「怪しいのは間違いないわ」
工藤は冷ややかな声調のまま、書類の束を滑らかにめくった。
「けれど、不自然な点が多くあるのも事実よ。逆に、そういった不自然な点に目をつぶって一面的な部分だけを切り抜き、喚いている連中の思考回路が理解できないわ」
淀みのない理詰めの言葉。そこに自分を陥れようとする意図も、軽蔑もないことを悟ったのか、駿河屋はそのまま言葉を失って立ち尽くした。さっき怒りに任せて身を乗り出した姿勢のまま、固まっている。
「早く座りなさい。時間が勿体ないわ」
「……あ、ああ、わりぃ」
怒りの行き場を失った駿河屋は、バツが悪そうに毒気を抜かれた顔をして、再びドカッと椅子に腰を下ろした。オレは隣の工藤の横顔を見やった。彼女の表情には迷いがない。
「ちなみに、駿河屋が本当はやってたと言ってたらどうするつもりだったんだ?」
オレの問いかけに、工藤は視線を正面に向けたまま答えた。
「本来なら厳しく糾弾するところだけれど……今回は弁護人の立場にあるのだから、自白したことを材料に情状酌量の余地があるという方向で進めるつもりだったわ」
徹底してドライで論理的だ。一歩間違えれば足元をすくわれる状況において、最もリスクの低い判断を選択している。
「妥当な方針だな」
オレが頷くと、工藤は正面の駿河屋に視線を戻した。
「そして――駿河屋くんが容疑を否認している以上、私達は彼の完全無罪を主張するわ」
「か、完全無罪……!?」
駿河屋の目が飛び出さんばかりに見開かれた。さっきまでの怒りは完全に吹き飛び、驚愕で声をひっくり返している。
「本当にそんなことできるのかよ!?」
「そうするために、あなたも少しは冷静になって協力的になりなさい」
取り乱す駿河屋を冷たくあしらい、工藤は淡々と話を整理していく。オレは手元でスマートフォンを取り出し、画面にメモアプリを立ち上げながら尋ねた。
「具体的になにから始めるんだ?」
「現状の戦力整理からね」
工藤は一本ずつ指を立てながら、オレと駿河屋に見せる。
「現状、味方と呼べる戦力は私を含めて、桜律くん、柊くん、そして容疑者位置の駿河屋くんの4人だけよ」
「はぁ!? なんでそんなに少ないんだよ!」
即座に噛みつく駿河屋に、工藤は溜息混じりに正論を突きつけた。
「中立的な人間が軒並み審判枠に収まったのだから当然でしょう。普段の素行不良もあって誰も味方してくれていないのよ。むしろ柊くんのように先入観なく接してくれる人がいることに驚きなさい」
駿河屋は「グッ……」と唸り、ぐうの音も出ないといった様子で口を噤んだ。反論したいが、自分の日頃の素行に思い当たる節がありすぎるのだろう。顔を歪めて視線を逸らす。
「一応、駿河屋くんを除く5人がどちらにつくかはわからないけれど……火を見るより明らかでしょうね。圧倒的アウェイよ。その前提を踏まえた上で動くわ」
工藤は一切の甘えを排除した声で続けた。
「……それと、既に柊くんには別で頼み事をしてあるわ。だから私達の仕事は――駿河屋くんの一年間の勤務記録を確認して、潔白を証明するための証拠集めをすることよ」
「一年分か。気の遠くなるような作業だな」
オレがぼやくと、工藤は頷いた。
「ええ。不正書類は多すぎるから最も重大な案件だけを世良くんが絞って明日に両陣営に通達、議論での争点とする手はずになっているわ。私達はその想定される重大案件に対して確実な反証を用意しなければならないの」
26-3
「勤務記録については、既にサバキネコに開示してもらうように申請してあるわ」
工藤がその言葉を口にし、卓上の手帳を開いたその瞬間だった。会議室の重厚な防音扉が、カチリと硬い金属製のロック音を解除し、滑らかな駆動音を立てて静かに横へ滑り開いた。室内に侵入してきたのは、サバキネコだった。人間特有の熱気や躊躇い、焦燥といった情念を微塵も感じさせない、研ぎ澄まされた無機質な佇まいのまま、音もなく卓上へと歩み寄ってくる。その細くしなやかな腕には、台車が取り付けられており、鈍い銀色の光を反射する最新型の金属フレームタブレット端末と、厚さ数センチはあろうかという膨大な量のプリントアウト用紙の束が運ばれてきた。
『要請に基づき、特別総合課所属・駿河屋くんの過年度全業務ログおよび庁舎内行動履歴データを抽出しておきましたよ。結構めんどくさかったですから、感謝してくださいね?』
平坦で抑揚のない声が、無機質に室内の冷えた空気を振るわせる。サバキネコは洗練された一切の無駄がない動作で、それらの資料を長机の長辺の中央へと滑らせるようにして静かに並べた。紙の束が卓上に触れた際、バサリという重厚な音が室内に響く。オレは手元へ引き寄せたタブレット端末の画面に触れ、表示された暗号化ファイルを指先で軽くタップした。光る高精細液晶画面の上にスライド表示されたのは、駿河屋がこの役所の重い門をくぐった初日の打刻記録に始まり、特別総合課の公的サーバーへ保存された全業務履歴、不自然な出張ログ、さらには彼が去年、予算獲得の段階で派手に立ち回り、途中で凍結するしかなかった各種プロジェクトの仕様書に至るまでの、恐ろしい密度のログ群だった。画面を滑らせる指を止め、オレはそこに刻まれた時間のタイムスタンプを注視する。スクロールしてもスクロールしても、中空を彷徨うような不自然な空白時間が幾つも浮き彫りになっていた。オレは思わず眉間を深く寄せ、ため息混じりに正面の男を見た。
「……駿河屋。お前、いくらなんでも外出が多すぎないか? これ、1年のうち半分近くまともに席に座ってないことになっているんだが」
オレが画面上のスカスカな打刻データを指先でトントンと叩きながら淡々と問いかけると、向かいの駿河屋はカッとなったように顔を真っ赤にし、パイプ椅子から身を乗り出して噛みついてきた。
「ああん!? なんか文句あるのかよ! 俺だって外回りっつー立派な仕事してんだよ! ずっと机にへばりついて書類いじくってるお前らと一緒にすんじゃねえ!」
「文句以前の基礎的な問題でしょう!」
噛みついた駿河屋の言葉が終わるか終わらないかのうちに、工藤の鋭利な怒声が室内へ打ち鳴らされた。彼女は開いていた手帳を机にバシッと叩きつけ、氷のように鋭い眼光で駿河屋の顔面を射抜く。
「アリバイが存在しない時間帯に不正書類が作成されたという証拠を提示されたら、あなたはどうやって反論するつもりなの!? 『外回りでした』という口先だけの主張で、法的な疑いや厳密な疑惑を突っぱねられると本気で思っているの!?」
「っ……わ、わりぃ……」
工藤の放つ氷点下の威圧感と隙のない詰問に、駿河屋の威勢は一瞬で萎んだ。彼は気まずそうに肩をすぼめると、じっとりと冷や汗の浮かんだ額を太い腕の袖で拭い、視線を卓上の端へと逸らしながら、喉の奥でモゴモゴと白状し始めた。
「……タバコ……吸ってたか……パチンコか競馬に行くだの……そういうので執務室にいなかったかもしれねえ……」
「……そんなことだろうと思ったわよ」
工藤は深く長々と息を吐き出すと、右手の細い指先でこめかみを強く揉み解した。重苦しい溜息が会議室の冷えた空気をさらに一段と沈ませていく。彼女の瞳には、怒りを通り越した深い呆れの色が濃く差していた。
「桜律くん。本来の勤務時間中に在室していなければならないのに、アリバイのない時間帯を片っ端からピックアップしなさい」
「はあ? そんなのAIに丸投げしろよ。手作業でこの莫大なログを洗うのか?」
オレが呆れ顔で画面の莫大なデータ量を示すと、工藤は間髪を容れずに首を横に振った。
「AIが弾き出した解析結果をそのまま証拠として提出するつもり? 向こうにデータの抽出アルゴリズムの不備や検証の甘さを突かれたら一たまりもないわ。私達の手でログと現物を完全に照合しなさい」
これ以上の論争は時間の無駄だと悟り、オレは「ハァ……」と短く息を吐いて端末の操作へと戻った。液晶から放たれる青白い光の中に並ぶ、途方もない数のタイムスタンプを根気強く指先で弾いていく。
(……それにしても、想像以上に酷いな。4月の初頭を除けば、勤務時間の3分の1近く執務室にいた記録が存在しないんだが)
呆れを通り越して感心すら覚えるサボり癖だった。オレが黙々と手作業でログの抜き出しを進める横で、工藤がプリントアウトされた書類の束から一枚の紙を引き抜いた。紙が擦れるカサリという乾いた音だけが室内に響く。
「……じゃあ、個別の不正書類について順を追って確認していくわよ」
工藤の細い指先が、書類の最上部に印字されたタイトルをトントンと叩いた。
「『市営バス特定路線網および関連施設の事業譲渡・権利移管契約書』……これは何かしら?」
対面で腕を組み、不機嫌そうにパイプ椅子をギシギシ鳴らしていた駿河屋は、粗暴に顔を歪めて吐き捨てるように言った。
「知らねえよ! バスがどうのなんて見覚えもねえ!」
「契約日時は?」
オレが画面から目を離さずに問うと、工藤が書類の末尾に押された小さなタイムスタンプを目で追って答える。
「去年の6月20日となっているわ」
オレは端末の出勤ログをその日付まで一気に遡らせた。画面に表示されたタイムスタンプと庁舎の入退出ログを注意深く確認する。
「……6月20日か。この日は珍しく朝から一日中、庁舎内に留まっていた履歴がある。無断外出のログはないな」
駿河屋は何の数字が出ているのかよく理解していない様子でポカーンと口を開けていたが、工藤は小さく頷いて手帳にペンを走らせた。
「少なくとも、その日に外部で密かに契約を交わしたという疑いに対するアリバイはあるのね。この時期なら庁舎内の監視カメラも稼働していたでしょうから、あとでサバキネコに映像抽出を申請するために時間をメモしておきなさい」
工藤は手帳からメモ用紙を一枚破り取り、ボールペンと共に駿河屋の前へすっと滑らせた。駿河屋は太い指で不器用にペンを握り締め、眉間に深いシワを寄せながら『監視カメラ確認 6月20日』と汚い文字で紙に書き留めた。
「次は『水道事業の広域一斉点検基本合意書』。これに心当たりはあるかしら?」
工藤が次の書類を卓上へ突きつけると、駿河屋は苛立ちを隠さず頭をガシガシと叩いた。
「だから知らねえって! 水道だの点検だの、俺の担当じゃねえよ! なんで俺がそんな専門的な合意書書くんだよ!」
「締結日は?」
「12月30日よ」
オレは端末の操作パネルをスライドさせたが、該当する日付の範囲で画面のスクロールがピタリと止まった。
「……流石に年末のその時期はログが存在しないな。役所のシステム自体が完全に停止している」
「でしょうね」
工藤は冷ややかな眼差しを駿河屋に向けた。
「どうせその時期は、納め仕事もせずにどこかで遊び呆けていたんでしょうけれど」
グサリと容赦なく突き刺さる言葉に、駿河屋はカッとなって「ああん!?」と言い返そうとした――が、何かを思い出したらしく、ハッと目を見開いて口を開ぐぐっと開けたまま固まった。
「あ! 思い出した! そういやその時期、小林が急にメールを送ってきたんだよ!」
「小林先輩が?」
工藤の手がピタリと止まる。駿河屋は興奮した面持ちで言葉を捲し立てた。
「おう。年越し前に治牧に行く用事ができたから車を貸してくれって言ってきたんだ。俺はその時、東皇都の実家に帰る予定があったから無理だって断ったんだけどよ。『お年玉をやるから』って言われて……仕方ねえから自宅の住所と車庫の鍵の場所教えて、車貸してやったんだよ」
駿河屋はさも自分が有能な交渉でもしたかのように胸を張り、鼻を鳴らした。
「お年玉は20万も振り込まれてたな。すぐにスニーカー3足買ったからもう残ってねえけどな!」
その自慢げな告白を聞いた瞬間、工藤の表情から一切の温かみが消え去った。目が完全に死んでいる。
「……あなた、本物のバカなの?」
氷点下の呆れが会議室に満ちる。部屋の温度が数度下がったのではないかと錯覚するほどの冷気だ。しかし、工藤はすぐにこめかみを指で強く押さえ、長い深呼吸と共に思考を強引に切り替えた。
「……ただ、これもあなたが利用されていたという決定的な証拠になるわね」
「あ? どういうことだ?」
駿河屋が首をかしげる。工藤は身を乗り出し、言葉を畳みかけた。
「銀行口座に振り込まれた20万円の履歴と、小林先輩とのメールのやり取りがそのままアリバイと工作の証拠になるのよ! あなたが東皇都に帰省していた証拠と合わせれば、12月30日に車を小林先輩に貸し出し、自身は別の場所にいたことが完全に証明できる! 今すぐスマートフォンを出して、その口座明細とメールのスクショを撮りなさい!」
「お、おう! 今やる!」
工藤の一声に押された駿河屋は、ポケットからスマートフォンを引っぱり出し、焦りまくった手つきで画面を連打し始めた。太い指先が液晶を叩く音がパチパチと室内に響く。
「これでいいか!? 撮ったぞ!」
突き出されたスマートフォンの画面を確認した工藤は、小さく首肯した。そして間髪を容れずに次の紙面を開く。
「次よ。内容は『アミューズメントプロジェクトに関する受任・代理権限委任状および秘密保持約定書』」
オレも画面から視線を外し、書類の右下に押されたタイムスタンプを確かめた。『9月12日』の文字。すぐに端末のログと照会する。
「……ログはないな。この日のアリバイが証明されているわけじゃない」
書類のタイトルを目にした駿河屋が、ハッと顔を跳ね上げた。
「あ! それ、田辺が代表やるって言ってたやつじゃねえか!」
「田辺が?」
駿河屋は吐き捨てるように語り始めた。駿河屋を含めた数人で進めていたアミューズメントプロジェクトだが、最初から明確なリーダーはおらず、全員が横並びの対等な立場でだらだらと話し合いを進めていたらしい。しかし、当時産業振興・企業誘致係長を務めていた峰崎から「書類上の代表者は立ててくれないと困るな」と指示された。そのため、「じゃあ適当に田辺でいいだろ」というノリで決まったはずだという。
「だったら、この書類の最終的な責任者も田辺になっているはずだな」
オレが淡々と指摘すると、駿河屋は勢いよく立ち上がり、机を叩いた。
「あいつが犯人じゃねえか!! 俺をハメやがったな!」
「静かにしなさい」
工藤が鋭い声で一蹴する。
「他に誰がそのプロジェクトに関わっていたの?」
「え? ……そりゃあ、飯田とか山彦もいたぞ。あいつらも一緒に打ち合わせに出てたたぜ」
「……なら、あとでその二人にも個別に確認を取るわ」
工藤は手帳にペンで手早くメモを書き加えると、冷淡な動作で次の書類へと移った。
「次は『特総課備品業務用タブレット・ICカードの損壊・紛失届』についてよ。何か心当たりはあるかしら?」
「あー……」
駿河屋は苦いものを噛み潰したような顔になり、乱雑に頭を掻いた。
「そういやそんなこともあったな……。ICカードでの認証と顔認証が合致しねえって何度もエラーが出るから、イライラしてカードをその場で叩き割ったんだよ。そしたら実は、柊のICカードを間違えて使ってたみたいでさ。アイツに文句言われるかと思ってたんだけどよ、柊は特に責めもせずに『自分の不手際だから』って自分で再発行の届出書を出してたぞ。だからそもそも、届出人に俺の名前が載ってること自体がおかしいんだよ!」
「時期はいつだ?」
オレが問うと、駿河屋は「確か5月だったはずだ」と答える。
「書類には5月26日と記載されているわね」
工藤が付け加える。
「柊くんにもあとで本当に自分のICカードだったのか、当時の届出書の控えが残っているか確認する必要があるわね」
続いて工藤がテーブルの中央へ提示したのは『地方創生特定事業における顧問受諾契約書』だった。治牧市の事業顧問に駿河屋自身が就任するという契約内容だ。さらに付随して、『海外銀行口座の開設・口座振替同意書』という怪しげな書類が添えられていた。キックバックという名目で、治牧市関係のペーパーカンパニーから資金を受け取るための海外口座開設書類らしい。
「海外口座なんて作った覚えねえぞ! 持ってもいねえ!」
駿河屋が身を乗り出して否定する。だが、オレは書類に目を落とす。
「現にこの同意書には、お前の本人確認書類として運転免許証のコピーが添付されているぞ」
オレが書類の端に印刷された顔写真を指差すと、駿河屋の顔から一気に血の気が引いた。
「身に覚えねえよ……! マジで知らねえ! ちょっと近くの銀行行って自分の口座状況確認してくる! 待ってろ!」
パニックに陥った駿河屋は、パイプ椅子を勢いよく倒しながら、脱兎のごとく会議室を飛び出していった。
26-4
ガシャン!!と凶暴な音が響き渡り、会議室の防音扉が荒々しく押し開かれ、そして重く閉まった。廊下の奥へと遠ざかっていく駿河屋の乱暴な足音が消え去ると、オレがタブレット端末の静電容量式画面をタップする無機質な音だけが虚ろに漂った。窓のない会議室の空気は冷え切り、天井の蛍光灯が発する青白い光が、散乱した書類の文字を痛々しく照らし出している。
「……駿河屋は、本当に自分の名前で何が行われ、自分の口座や身分証がどう使われているのか、何一つ把握していなさそうだな」
オレが呆れ混じりに呟くと、工藤は卓上で開いたままの手帳から目を離さず、深く沈み込むような息を吐き出した。
「のようね。己の無知と無頓着ゆえに、裏で糸を引く人間に骨の髄まで利用されつくした哀れな犠牲者ね。……でも、だからこそ救う余地があるわ。本物の悪意によって行動していたわけではないのだから」
工藤の細い指先が、ボールペンのクリップ部分をカチカチと規則正しくノックする。彼女の脳内では、駿河屋という男の短慮さと、仕掛けられた罠の複雑さが高度な天秤にかけられ、緻密な計算が弾き出されている最中なのだろう。それから十分ほどが経過した頃だった。
荒い息遣いと共に、廊下からドタバタとした足音が近づいてきた。勢いよく扉が開かれ、額に大量の汗を浮かべ、肩を狂ったように上下させた駿河屋が飛び込んできた。その顔面は蒼白であり、両目は焦躁と恐怖で酷く泳いでいる。その悲惨極まりない惨状を一瞥しただけで、工藤はすべてを察したように冷ややかに吐き捨てた。
「……本当に、あったのね」
「ま、マジで知らねえんだって!! 俺は何もやってねえ!!」
半狂乱の様相で怒鳴り散らす駿河屋は、汗ばんだ手で握りしめていたプラスチックカバー付きの通帳を、バンッ!! と激しい衝撃音を立てて長机の真ん中に叩きつけた。
「ほら見ろよ!! さっき近くの支店で行列に割り込んでまで全ページ記帳してきたんだよ! 変な億単位の金の振り込みなんてマジで一回もねえから! 見てみろよクソが!」
オレと工藤は同時に身を乗り出し、卓上に放り出された通帳の開かれた印字ページへ視線を落とした。黒いインクで刻まれていたのは、あまりにも所帯じみた金銭の動きだった。毎月の給与振込、コンビニでの少額な引き出し、パチンコ店や飲食店と思われる加盟店での数千円から数万円単位のデビット決済痕跡。直近の残高推移を見ても、数万円から多くて数十万円程度を行き来しているに過ぎない。
「……確かに、この通帳を見る限り、怪しい海外送金や億単位の裏金が流れ込んだ痕跡は一切見当たらないな」
オレが冷静に指摘すると、駿河屋は「だろ!? だろ!?」と縋りつくような眼差しを向けてきた。工藤は手帳にその事実を素早く書き留めながら、冷静に次の追及へと駒を進める。
「あなたが銀行へ走っている間に、地方創生関連の書類の契約日時を再確認したわ。日付は1月26日よ。そしてその日、あなたは1日中庁舎内にいた打刻ログが残っている」
「ホ、ホントか!? じゃあ俺のアリバイはあるんだな!?」
「ええ。だからさっき渡したメモ用紙に『1月26日、監視カメラ確認』と追加で書き込みなさい。サバキネコにあとで一括で映像抽出命令を出させるから」
駿河屋は露骨に安堵の息を吐き、机に縋りつくようにして汚い文字でメモを追記した。だが、駿河屋が胸を撫で下ろしたのも束の間、工藤は間髪を容れずに次の不祥事書類の束を容赦なく卓上へ突きつけた。
「安心するのはまだ早いわ。次はこれよ。『澪標市指定ごみ処理・廃棄物再資源化事業の一括民間委託契約』。あなたがペーパーカンパニーと密かに締結したことになっている重大書類よ。去年の7月5日に契約されたもので、あなたのログを確認したけれど……この日は完全な無断欠勤だったわ。何をしていてどこにいたのか、誤魔化さずに話しなさい」
「は、はぁ!? そんな昔のこと覚えてるわけねえだろ!」
駿河屋は頭を抱えて叫んだ。
「てか、ごみ処理の委託のどこが問題なんだよ! 民間に任せて処理効率上げてるなんて、どこの自治体でもやってることなんじゃねーのかよ! なんで俺が怒られなきゃならないんだよ!」
「内容が極めて悪質だから言っているのよ!」
工藤が書類の文章を細い指で強く弾いた。
「特定の怪しいペーパーカンパニーに独占委託させる構造になっていて、途中で市側から解約すれば莫大な金額の違約金が発生する欠陥契約なのよ! 市に致命的な財務損害が出るわ!」
「な……なんだよそれ……そんなヤバい契約書が出てきてんのかよ……」
「あなたが自分の署名と公印で締結したことになっているのよ!?」
「だから知らねえって言ってるだろ!! なんでそんなヤバい案件ばかり俺の名前が勝手に使われてんだよ!」
「だからこそ、当時の行動を微細に至るまで思い出しなさいと言っているのよ!!」
「覚えてねえものは覚えてねえんだよ!!」
互いに感情を剥き出しにし、激しい怒号を交わし合う二人。そのやり取りを、オレは冷めた思考のまま観察していた。
(駿河屋の焦りと怒りは本物だ。だが、7月5日というピンポイントの日時を思い出せないのは無理もない。問題は、なぜこの男がその時期にそれほど頻繁に無断欠勤を繰り返していたかだ)
オレは手元のタブレット端末の画面をスライドさせ、7月のカレンダー表示に重ねられた勤怠データを見つめた。
「……駿河屋。7月はかなり無断欠勤の回数が多いみたいだが、なんでこんな極端な勤務状況になったのか、大まかな理由すら覚えていないのか?」
オレの静かな問いかけに、駿河屋は怒鳴るのをやめ、頭髪をかきむしりながら「うーん……」と深く唸り声を上げた。十数秒ほど、天井の蛍光灯を見つめて不快そうに眉間を寄せた末、ハッと何かを思い出したらしく、己の額を強く叩いた。
「……あ〜そういやあの時期だ。アミューズメント施設建設の件で売買手続きだのゼネコンとの協定交渉だのが重なっててよ。連日連夜、小林たちとか企業役員との飲み会が連発してたんだよ。……そんで終電もなくなって近くのビジネスホテルに泊まって、昼過ぎにチェックアウトしてそのまま自宅に帰る……みたいな生活がずっと続いてた気がする」
「なるほどな。かなり飛び飛びで無断欠勤が記録されているのはそういう背景があったわけか」
オレが納得を示すと、工藤も合点がいったように冷淡に付け加えた。
「だったらどうせ、その料亭やホテルの費用も公費や特総課の経費名目で落とされているのでしょうね。当時の領収書の発行元やクレジットカードの利用明細を追えば、あなたが少なくともその契約の場にはおらず、別の場所で酒を飲んでいたかホテルで寝ていたことが立証できるわ」
工藤は手帳の余白に、7月の経費申請履歴とホテル・飲食店の領収書追跡に関するメモを手早く書き留めた。そして、工藤は最後に一際厚みのある、まさに本丸と言うべき最重の不祥事書類の束を、卓上の中央へと重々しく置いた。
「そしてこれが最後――『市立医療センター・旧市民病院跡地売却および新施設整備基本協定』よ」
書類のタイトルを目にした瞬間、会議室の空気が一段と重く沈み込んだ。
「定価の数十分の一という異常な底値で民間の現場建築企業に売却され、さらに市民への事前説明や市議会の議決を完全に回避するための『緊急避難的特例条項』が、特総課の駿河屋くん名義で承認されているわ。11月6日、締結されたその日には、公用車を使って柊くんと2人で売却先の企業の旧オフィスに向かった記録があるけれど……一体現地で何があったの?」
ポカーンと書類を眺めていた駿河屋だったが、そこに印字された企業名と日付を目にした瞬間、顔を真っ赤に染め上げて激昂した。
「……思い出してきたぞ! ていうか、2人じゃねえ! 曽賀も含めた3人で向かったんだよ!」
工藤が不審そうに眉をひそめる。
「曽賀先輩……? なぜ曽賀先輩の名前が、この移動記録や承認書類に一切残っていないの?」
「そんなの俺が知るかよ! でも俺も柊も、そんな売却契約を結ぶなんて話は一切知らねえよ。現地で書類にサインなんてしてねえ!」
「……11月6日の曽賀先輩の動向ログと、公用車の使用記録を詳しく洗う必要がありそうね」
工藤は手帳に『11月6日、曽賀・公用車ログ解析』と強い筆圧で書き加えた。
26-5
「主要な不祥事の洗い出しは、ひとまずこのくらいかしら」
工藤が手にしたボールペンを卓上へ静かに置き、胸の奥から溜め込んでいた長い息を吐き出した。長机の上は、まさに戦場のような様相を呈していた。サバキネコが持参した莫大なプリントアウトの山、精査を終えて付箋が貼り付けられた書類、工藤の几帳面な手書きメモで埋め尽くされた手帳、そしてオレの手元で青白い光を放ち続けるタブレット端末。駿河屋は魂が完全に抜け落ちたかのようにパイプ椅子へ深く沈み込み、力なく天井の蛍光灯を見上げていた。荒い息吐きすら収まり、顔は生気を失っている。
「……これで、全部なのか……? 俺の知らねえところで、そんなに大量のヤバい書類が通ってたのか……?」
「今確認したものに比べれば、残りの不祥事は軽微な書類不備や形式的なミスレベルよ。けれど、チリも積もればで全体としてはとんでもない数になることに変わりはないわ」
工藤の容赦ない追撃に、駿河屋は苦虫を噛み潰したような顔になり、両手で顔を覆った。見えない巨大な罠に首まで漬からされていた事実を突きつけられ、もはや威勢よく声を荒らげる気力すら残っていないのだろう。オレは手元のタブレット端末の画面を閉じ、パタンとカバーを重ねた。そして、作業の最初からずっと頭の片隅に引っかかっていた最大の疑問を工藤へ投げかけた。
「……2500億の件は確認しなくていいのか?」
「そっちは柊くんに任せてあるわ」
工藤は迷いのない声で即座に答えた。
「私達3人は、今出てきた大きな不祥事に集中するわよ。これらは世良くんが明日提示してくる議題に選ばれる確率が極めて高いと予想できるわ。だから、まずはこれらを時系列順に並べ直して、事実関係とアリバイを整理していきましょう」
「分かった」
オレが短く応じると、会議室の中に再び静けさが戻ってきた。それから、静まり返った室内で黙々とした整理作業が始まった。工藤が指示を出し、オレが端末のデータを操作して日付とログを突合し、駿河屋が力ない手つきで提出書類のコピーを日付順に重ねていく。1時間近くの時間をかけて、大きな不正・不祥事を完璧な時系列順に並べ替え、それぞれの案件ごとに収集したアリバイや証拠のメモをファイリングしていった。紙が擦れるカサカサという乾いた音と、端末のキーボードを叩く規則的な打鍵音だけが、窓のない密室の中に淡々と響き続けていた。
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