第25話 反対意見
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大型シュレッダーの前で唐突に繰り広げられた凄惨な殴り合いと、執務室全体を物理的にも精神的にも呑み込む怒号と困惑。先ほどまで言葉の通じない猛獣のごとく暴れ回っていた田辺と駿河屋は、これ以上の物理的混乱と負傷者の増大を防ぐため、迅速に執務室から引き離されることとなった。
「離せッ! 殺してやる! あのクソ野郎、最初から俺たちを嵌めるつもりだったんだッ!」
「うるせえんだよバカ田辺! 誰が嵌めるかボケ! 触んじゃねえ死ね! お前なんて嵌めるまでもなく殺してやるよ!」
顔面を血と怒りで真っ赤にして絶叫し続ける田辺は、精神的な興奮状態を少しでも鎮めるため、階下のカフェテリアへと連行されていく。一方、右ストレートを鼻に叩き込んで荒い息を吐き散らす駿河屋は、広々とした庁舎1階のエントランスへと引きずられて行った。その見張り兼付き添いとして半ば強引に抜擢されたのは、雪森、佐川が田辺に、飯田、山彦が駿河屋に配置された。厄介なババを引かされた当人たちは酷く不満そうな顔を隠そうともしなかった。
「なんで俺たちがこんな暴れる猛獣の付き添いしなきゃいけねえんだよ……」
「だよな〜。なんで俺たちばっか……」
「愚痴言ってる暇があったらさっさと肩担げ! カフェテリアまで暴れられたら溜まったもんじゃねえぞ!」
「駿河屋の奴、服に血がついてんじゃねえかよ……最悪だ……」
不満をぶちまけ、舌打ちを漏らしながら二人の体の肩を担いで執務室を出ていく4人。パタンとドアが閉まり、執務室には一瞬だけ、嫌な静寂が訪れた。執務室に残されたのは、パーテーションの脇で置物のように静観を決め込むサバキネコと、不在だった者を含めて各フロアから戻ってきた残り34名の職員たち。室内を支配する嫌な静けさと、乱闘によって充満した汗と血と埃の臭いを破るように、世良がゆっくりと中央の長机の前へと歩み出た。
「みんな、まずは一旦落ち着いて耳を傾けてほしい。事情をまだ把握できていない者も大勢いるだろうから、先ほど判明した事実を客観的に整理して共有しよう」
世良は眼鏡のフチをすっと細い指で押し上げながら、淡々と、しかし執務室の隅々にまで隙なく透き通る完璧な声量と滑舌で状況を説明し始めた。大型シュレッダーの中から、未処理および本来廃棄されるはずだった大量の契約文書が細断されずに詰まった状態で発見されたこと。それらの契約書や合意書の代表名義欄には、ことごとく『駿河屋礼衣』の署名と捺印がなされていたこと。そして、その決定的な紙片を目撃した田辺が激昂して殴りかかり、二人の凄惨な殴り合いへと発展したこと――。世良のよどみない説明が進むにつれ、執務室内の空気はみるみるうちに冷気を帯び、そしてドス黒い熱を孕み始めていった。
「……やっぱりな」
「あいつ、普段から勤務態度悪かったし、いつかやると思ってたんだよ」
「俺たちが連日深夜まで残業して死にそうになってる時の、全部アイツが裏でやってたからじゃん」
不在だった職員たちの間に、驚愕と、それに続く強烈な憎悪が急速に伝播していく。火に油を注ぐように、職員たちの口から駿河屋に対する日頃の不満や疑念が次々と吐き出され始めた。
「言われてみれば、あいつ前も視察先で地元の職人さんと飲みに行って大喧嘩したんだろ?」
「そうそう! 警察沙汰になりかけたのを柊くんが必死に頭下げて揉み消したやつ、本当だったんじゃないの?」
「暴力沙汰起こすような奴だよ!? そんな奴が裏で利権横流しして不正書類作ってたって、何の違和感もないじゃない!」
「みんな、待ってくれ! 一旦落ち着こう!」
見かねた柊が、人だかりの真っ只中へと必死の形相で踏み出す。眉をひそめ、両手を大きく広げながら周囲を制そうと声を張り上げた。
「まだ……まだ駿河屋くんが犯人と決まったわけじゃないんだ! 名前を勝手に使われた可能性だってあるし、何かの精巧な罠かもしれないよね!? 事実が確定していない段階で、彼を犯罪者扱いして追い詰めるのは良くないよ!」
「柊、お前いい加減にしろよ」
冷ややかで鋭利な声が、柊の熱っぽい言葉を容赦なく遮った。声を上げたのは曽根崎だった。腕を組み、冷酷な眼光で柊を射抜くように睨みつける。
「これだけの明確な証拠が目の前から出てきて、無関係なわけないだろ! 市バスの売却も、2500億の借金も、全部あいつの名義なんだぞ? 絶対に澪標を裏切って、治牧に利権を横流ししてた真犯人に決まってるだろ」
「そうだよ! てかそれ以外あり得なくない!?」
曽根崎の言葉を皮切りに、寒川、志葉や酒井、水谷といった女子職員たちが一斉に同調の声を上げた。一度溢れ出した感情の決壊は、もはや誰にも止められない。
「前からずっと思ってたんだけどさ、あいついつも勤務時間中にサボってどっか消えてたよね!?」
「そうそう! 酒臭い息吐いて威張ってるだけで、まともに書類一枚書けないくせにさ!」
「自分が裏で悪事働いてたから、後ろ暗くていつもイライラして周りに当たってたんじゃないの!?」
「絶対にそうだよ! 私、前に書類の不備指摘したら胸ぐら掴まれそうになったもん!」
「最悪……! 私たち、そんな犯罪者と一緒に働かされてたわけ!?」
一人が不満を口にすると、それに共感する声が怒涛の濁流となって沸き起こる。これまで誰もが波風を立てないよう胸の奥底に溜め込んでいた駿河屋の横暴さ、粗暴さ、日常的な態度の悪さに対する不平不満が、執務室全体を飲み込んでいった。オレの存在感は消え、「空気」と化していた。この手の集団心理の暴走に巻き込まれるのは御免だ。何より口を挟んでも誰も耳を傾けないだろう。静かに烏龍茶のペットボトルに口をつけようとした、その時だった。スッと横から影が差し、工藤が寸分の狂いもない動作で隣に並んだ。
「……全貌は把握したわ」
工藤は周囲の罵詈雑言には一切目を向けず、低い声で呟いた。
「書類も確認したけれど、確かに駿河屋くんの名前があったわ。筆跡や押印の形式も含めて、表面上は彼本人のものと判断せざるを得ないわね」
「へえ、相変わらず仕事が早いな」
オレが淡々と返すと、工藤は鋭い眼光をこちらへ向けてきた。彼女の氷のような瞳が、ジロリとオレを射抜く。
「……ところで、桜律くん。なぜあなたはこの惨状を止めることもせず、ただ静観していたのかしら? 先ほども言ったけれど、最初に喧嘩が起きた時点で止めに入るべきだったのではないかしら」
またその話か。オレは呆れたように小さく息を吐き、あらかじめ頭の中で組み立てていた返答を口にした。
「オレだけに言うなよ。周りに何人いたと思ってんだ」
「どれだけ低く見積もっても、あなたの身長は180センチはあるわよね?」
工藤は眉ひとつ動かさず、オレの全身を上から下へと値踏みするように視線を滑らせた。
「それだけの無駄に恵まれた体躯がありながら、ただ傍観しているなんて理解できないわ。木偶の坊。パーソナリティの面で、あなたの存在価値を疑うレベルよ」
言いたい放題言ってくれる。体格が良いというだけで、なぜ暴れる猛獣たちの乱闘に飛び込まなければならないのか。オレは肩をすくめてみせた。
「言っておくが、オレは愛と平和をこよなく愛する人間だ。喧嘩なんてしたこともないし、止めたこともない」
「ラブアンドピースの精神を、あなたの日和見主義と無関心の言い訳に使わないで頂戴」
工藤の冷酷な刃のような一言が、容赦なくオレの不毛な言い訳をぶった斬った。
25-2
執務室のボルテージは上がり続け、もはや事件の検証や議論ではなく、単なる駿河屋の「悪口大会」へと完全に変質しかけていた。
「大体さあ、あいつのあの態度は何なの? カッコつけて偉そうにしてるけど、仕事なんて何一つ終わらせてないじゃんね」
「そうだよ、この前も提出期限過ぎた資料探したら、あいつのデスクの奥からグチャグチャになって出てきたんだから!」
「人として終わってるよね。さっさと警察に突き出せばいいのに」
その醜悪な加熱ぶりに冷や水を浴びせるように、世良がパン、と一度だけ高く手を叩いた。
「そこまでにしよう」
世良の声は決して大きくなかったが、計算し尽くされた絶妙なタイミングと通る声質で、周囲の視線を一瞬で自分へと集めた。オレの横で容赦ない人格否定を繰り広げていた工藤も、ぴたりと口を閉じ、世良の方へと視線を向ける。世良は全員の顔を順番に見渡し、落ち着いたトーンで語りかけた。
「現状、駿河屋くんが最も怪しい立場にいることは否定できない。それは僕も同意する。……だが、それでもまだ、彼が真犯人だと確定したわけではないんだ」
世良は、感情によって歪められかけていた「事実」と「推測」の境界線を、静かに、しかし明確に引き直した。さらに、彼は言葉を続ける。
「僕だって、この状況に怒りや落胆を覚えていないわけじゃない。だが、たとえ仮に駿河屋くんが犯人だったとしても……それを理由に、彼を口汚く罵っていい理由にはならないよ。僕たちは感情で動く暴徒ではなく、特別総合課の職員なんだからね」
冷徹なまでに正論であり、反論の隙を与えない完璧な道徳的教誨だった。先ほどまで興奮して口々に悪口を叩いていた寒川や酒井、志葉たち女子職員たちは、バツの悪そうな顔をして口をつぐんだ。当然の道徳と倫理を説かれては、反論するような言葉などどこにも見当たらない。室内は急激に静まり返った。
「……そうだよね。世良くんの言う通りだよ……」
「……まあ、確かに言い過ぎたかもしれないけどさ」
不満げながらも、誰も正面から異論を唱えられない。その隙を逃さず、柊がすかさず前に出た。
「そうだよ! きっと何かの間違いだ! ちゃんと調べれば、絶対に何かの誤解だって分かるはずだよ! だからみんな、冷静になろう!」
柊は必死の形相で訴えかけた。しかし――先ほどの世良の洗練された正論とは異なり、周囲が柊に向ける視線は、冷ややかで白いものだった。誰一人としてその青臭い言葉に頷こうとはしない。
「また柊の綺麗事が始まったよ……」
「……世良くんの言葉とは重みが違うんだよね」
「現実見ろよな、あの証拠見てまだそんなこと言えんのかよ」
ヒソヒソと交わされる陰口。そんな不穏な沈黙の中、ポツリと呟きが漏れた。
「……つーかさ」
声を上げたのは、椅子に深く腰掛けた曽根崎だった。彼は頭の後ろで両手を組み、天井を見上げながら呟く。
「駿河屋がこのままいなくなったら……あれだろ? 不正だったってことで、あの莫大な赤字もそのまま特総課から駿河屋の個人にスライドされるんじゃね? しかも、世間やネットでバチボコに叩かれてる俺たちの評判も、『犯人はあいつでした』って切って捨てれば改善するんじゃねえの?」
「……あ」
その一言が、静まり返っていた執務室に恐ろしい波紋を広げた。
「確かに……!」
「言われてみれば、そうじゃない……!?」
「あいつ一人が責任取って辞めてくれれば、私たちの給料凍結も解除されるんじゃ……!?」
「え、じゃあ駿河屋くんが犯人になってくれた方が、私たちにとっては都合が良いんじゃないの……?」
欲と保身に満ちた同意の声が、ポツポツと、しかし確実に漏れ出し始める。
「待ってくれ! みんな、お願いだから理性的になって考えてくれ!」
柊の顔色が劇的に変わった。「駿河屋を生贄に捧げれば自分たちが助かる」という、極めて醜悪な保身の論理が広がるのを阻止しようと、柊は力強く声を張り上げた。
「そんなの、冤罪かもしれない人間を自分たちの保身のために差し出すようなものじゃないか! そんなことが許されるはずがない!」
だが、一度「自分たちの救済」という甘い蜜を見出した群衆の暴走は、もはや柊の理想論では止められなかった。
「ていうか、柊くんの方こそ正義感気取りで正気じゃないんじゃない?」
「そこまで庇うほどのやつか? あいつ」
「柊くんだって、前に殴られたり自腹払わされたりしたんでしょ? なんでそんな奴庇うの? むかつかないの?」
「今までやりたい放題やってた駿河屋に、仕返しできるチャンスじゃん」
「そうだよ、私たちがなんであいつのために損しなきゃいけないのよ!」
「あいつが全部泥かぶって消えてくれれば、みんなハッピーじゃん!」
もし駿河屋が目の前にいれば、到底口にできないような邪悪で過激な言葉が、次々と溢れ出ていく。自分たちの保身を正当化するために、彼らは駿河屋を「悪」として固定し、生贄に捧げる理由を探し求めていた。
25-3
悪意と、復讐に近いドス黒い憎悪が執務室を満たしていく。
「そうだそうだ! あいつを追放して終わりにしようぜ!」
「わざわざ調べる必要なんてないって! 証拠も揃ってんだから!」
そんな泥沼の空気の中、突如として怒号に近い声が響き渡った。
「おい――ちょっと待てよッ!!」
声を張り上げたのは、日向坂だった。彼は鼻から血を流し、服の胸元を派手に乱した痛々しい姿のまま、執務室の中央へと足を踏み出してきた。田辺と駿河屋の喧嘩に巻き込まれ、二人から散々に殴られてボロボロになりながらも制止しようとしていた男だ。日向坂は、通りやすい大きな声で全体に向かって叫んだ。
「お前ら、さっきから黙って聞いてりゃ好き勝手言いまくってさ! 俺が不自然だと思ったこと、言わせてもらうぞ!」
周囲が面食らって静まると、日向坂は一息に捲し立てた。
「第一に、なんで今になって大量の不正書類がシュレッダーから出てくるんだよ!? 隠すならもっと前に処分してるはずだろ! 第二に、駿河屋の奴、殴られながらも必死になって『知らねえ!』って否定してただろ! あいつは決して真面目でも素行がいいわけでもない。頭だって回る方じゃない。嘘つくときはもっとわかりやすく狼狽える奴だ! そして何より――!」
日向坂は息を荒げ、鼻血を袖でガシガシと拭いながら全員を鋭く見回した。
「本当にあいつが裏切ってたんなら、あの逃げた先輩5人と一緒に、さっさと治牧に高飛びしてりゃよかっただろッ! なんでわざわざリスク犯してスパイみたいに残ってんだよ! あいつが残ってたって考えるより、逃げた先輩たちが俺たちを内部崩壊させるために、工作書類を残して逃げたって考える方が……よっぽど筋が通ってんだろ!!」
日向坂の命がけの叫びは、加熱していた集団の頭に冷や水を浴びせるのに十分な論理性を孕んでいた。
「……え」
「た、確かに……逃げた先輩たちの仕業って可能性もあるのか……?」
「でも、書類にはあいつのハンコがついてたんだぞ?」
「ハンコなんて、デスクの引き出しに入ってりゃ誰でも勝手に押せるだろ!」
外野の職員たちがザワつき始める。日向坂の提示した疑問点は、あまりにも鋭く、かつ合理的だった。
「その通りだよ!」
すかさず柊が同調し、諭すような口調で全体に呼びかけた。
「日向坂くんの言う通りだ。僕たちは目先の感情や保身にとらわれて、本当の真実を見失っちゃいけない! 誰かを生贄にして解決した気になっても、真犯人が別にいたら僕たちはまた同じ目に遭うかもしれないんだよ!」
さらに、工藤も一歩前へ踏み出さざるを得なくなった。彼女は感情を一切交えないフラットな声で、全体へ向けて提示する。
「……感情論は抜きにして、私からも一言言わせてもらうわ。私と桜律くんは実際に他都市を視察し、治牧の不正構造を調査してきた。その知見から言わせてもらえば……あの複雑極まりない契約の抜け穴や、GPCIスコアの偽装工作を、駿河屋くん単独で構築できたとは到底思えない。彼が犯人主導者であるという説には、構造的な無理があるわ」
最後に、世良がゆっくりと二人、三人の後ろに並んだ。
「僕も彼らと同じく、中立的な立場だ。だが、特総課のガバナンスという観点から見ても、誰か一人に罪を被せて終わらせるような雑な処理は、後々の破綻を招く。事件の真の究明は、僕たち全員の存続のために不可欠だ」
日向坂の熱情、柊の道徳、工藤の観察事実、そして世良の組織論。四人の優秀な人間が畳み掛けるように理論を打ち立てたことで、執務室の暴走しかけた空気は一気に押し戻された。
25-4
だが、一筋縄ではいかないのが、追い詰められた人間の集団だった。
「……さっきから、なんかズルくない?」
不満げな声を上げたのは酒井だった。彼女は仲の良い志葉や水谷に同意を求めるように視線を送る。「そうだよね」と寒川が即座に同調し、不快感を隠そうともせずに吐き捨てた。
「柊くんも、世良くんも、日向坂くんも、工藤さんまで……なんで頭のいい人ばっかり揃って、駿河屋くんの肩を持つようなことばっかり言うわけ!? 全然納得できないんですけど!」
「肩を持っているわけではないわ。客観的な不備を指摘しているだけよ」
工藤が心底呆れたように肩をすくめ、冷淡な声をかける。
「あなたは一体、何を言っているのかしら? 感情ではなく論理の話をしているのだけれど」
「その態度が気に食わないのよ!」
寒川は顔を赤くして噛みついた。
「どうせこのまま頭のいいアンタたちに調べさせたら、私たちがいくら駿河屋くんをなんとかしたくても……捜査能力で手も足も出なくて、核心的なところだけ隠されて、うやむやに逃げられるに決まってるじゃない!」
「そうだそうだ!」
「どうせアンタたちで口裏合わせて、駿河屋くんを無罪にしようとしてるんでしょ!」
「私たちは騙されないわよ!」
笹坂や水谷も叫ぶ。言葉には出さずとも「駿河屋を犯罪者として追い出したい」という本音が透けて見える主張だった。だが、その強弁に酒井や志葉は「そうだよ!」と強く同意し、デスクの陰から曽根崎も声を張った。
「ここにいない田辺や飯田たちだって、そんなうやむやな決着じゃ絶対納得しねえぞ!」
ここで、それまで黙ってやり取りを観察していた駅的が、静かに口を開いた。彼はいかにも理系然とした冷ややかな手つきで眼鏡を直すと、女子たちの感情論を適度に間引いて整理してみせた。
「……まあ、女子たちの感情的な部分は脇に置くとしても、捜査能力が公平でないという指摘自体は一理あるな」
駅的の言葉に、寒川たちが「そうでしょ!?」と眉をひそめる。駅的は構わず続けた。
「なら、こういうのはどうだ? 意見が対立している以上、調査にあたる側の人間……つまり先ほどの4人のうち、最低1人は『駿河屋は不正を行ったという前提・立場』で捜査を行う人間を入れるべきだ」
「おお……! いいこと言うじゃん、駅的!」
「それなら納得できる! 私たちの立場を代弁してくれる人が必要よ!」
さっきまで不満をたらたらと溢れさせていた面々から、しばし歓声が上がった。自分たちの「駿河屋黒説」を代表して調査してくれる人間が入るなら文句はない、というわけだ。その歓声が一瞬沸き立った隙を逃さず、オレは背後から工藤の元へ滑り寄り、聞こえないほどの小声で耳打ちした。
「どうする……世良を引き抜かれたら、白も黒になるぞ」
世良がもし相手側に「黒を証明する立場」として奪われれば、彼の圧倒的な政治力と論理構築能力によって、駿河屋は一瞬で犯人に仕立て上げられて終わる。工藤はオレの方を見もせずに、低く呟いた。
「……言われなくても、わかっているわよ」
工藤はすっと息を吸い込むと、全員の視線を集めるように堂々と一歩前へ出た。
「提案があるのだけれど」
彼女の声に、室内の視線が一斉に集中する。
「両者の意見がここまで真っ向から食い違っている以上……完全にフラットな立場で、最終決定を下せる人間が必要になるわ」
駅的が速攻で「同意する」と頷いた。
「合理的だな。感情的な対立を深めるより、審判枠を設ける方が収束が早い」
他の男子や女子たちは「ん? どういうこと?」とピンときていない様子だったが、賢い駅的が肯定しているので、ポカンとしながらも「確かに……?」と首をかしげている。
「要するに、裁判官みたいな人を立てるってこと?」
「そういうことだろ。自分たちで決められないから、中立な人に判断してもらうんだよ」
工藤は間髪入れずに言葉を重ねた。
「中立な立場として3人の人間を推薦し、彼らに議論を尽くしてもらった上で、最終的な審判を下してもらう。……というのはどうかしら?」
「それならみんなも納得できるよね!」
柊がすかさず助け船を出し、全体に訴えかけた。群衆は「一方的に工藤たちに決められるよりはマシか……」と、渋々納得の表情を見せ始める。
(……一方的に駿河屋を犯罪者認定して追い出そうとしていたのは誰なんだよ……)
オレは心の中で呆れ果てていたが、口には出さず黙っていた。工藤は間髪を入れず、本題を切り出した。
「では、その審判を下す3人のうちの1人として――世良くんを指名したいのだけれど」
「分かった。僕で良ければ引き受けよう」
世良が爽やかな笑みを浮かべて即答した。
「ちょっと待ちなさいよ!」と寒川が怒鳴り、曽根崎が「あーッ! 世良はこっちでピックしようと思ってたのに!」と悔しそうに愚痴をこぼす。
「狡いぞ工藤! 優秀な奴を先に身内に囲い込む気か!?」
「世良くんはこっちの証明役に欲しかったのに!」
だが、駅的が呆れたように鼻で笑い、彼らを一蹴した。
「無駄だ。俺たちも世良を指名するつもりだったが……工藤の提案が出た時点で、世良が中立枠に置かれるのは確定していた。どうせ奪い合いになるリソースなら、中立に置くのがゲーム理論上の最適解だからな。……最初から読まれてたんだよ」
「なによその態度!」と女子たちがキーキー噛みついたが、駅的は「これだから感情論は……」とあしらい、強引に納得させた。
25-5
「じゃあ、具体的に誰を引き抜きますの?」
霞が首をかしげて尋ねた。志葉が即座に「当然、柊くんに決まってるでしょ!」と声を上げ、女子たちが「賛成!」と同意の声を上げる。
「柊くんなら優しいし、私たちの意見も聞いてくれそうじゃん!」
「そうそう、柊くんに捜査チームに入ってもらおうよ!」
だが、それに速攻で「待った」をかけたのは、またしても駅的だった。
「……さっきまでの柊を見ていなかったのか?」
駅的は心底呆れたように溜息をついた。
「あいつはどう考えても駿河屋に縁故的で感情論に染まっている。味方に引き込んだところで、足を引っ張るか、置物になるのが関の山だ」
「なによ! 柊くんは公平に見ようとしてるだけでしょ!?」
「公平のベクトルが『駿河屋救済』に振り切れていると言っているんだ。客観性を欠いた人間を捜査側に置くのはリスクでしかない」
「じゃあ誰がいいって言うんだい?」と伊勢志摩が尋ねると、駅的は迷いなく指を突きつけた。
「日向坂だ」
「えっ……!? 俺!?」
指名された日向坂が、自分の胸を指差して驚愕の声を上げた。周囲からも「なんで日向坂なんだよ!?」と疑問の声が湧き上がる。
「日向坂なんて、ただ暴れて鼻血出してるだけじゃん!」
「なんであいつが捜査側なんだよ!」
駅的は「逆に、なぜそんなことも分からないのか」と言わんばかりの冷淡な態度で説明した。
「工藤に『駿河屋は黒だ』という立場で捜査を頼んでも、どうせ拒否されるに決まっている」
工藤が素早く追撃する。
「そうね。私は駿河屋くんに、そんな高度なスパイ工作ができるとは到底思えないもの。断るわ」
駅的は振り向き、男子と女子の群衆へと言い放った。
「分かったか? 消去法だ。熱情だけで動かず、現場で殴られながらも客観的な不自然さに気づけた日向坂しかいない」
「……まあ、言われてみれば……じゃあ日向坂くんでいいよ……」
寒川たちが不満そうに呟くと、日向坂が「『じゃあ』ってなんだよ! 雑に決めるな!」と盛大なツッコミを入れた。
「さて、残りの二人も決めようか」
世良が爽やかに全体をまとめる。
「それじゃあ、男女から一人ずつ推薦しようか」
寒川が指を折りながら「世良くんで一人、女の子で一人……あれ? あと一人は?」と首をかしげた。駅的がすかさず「話を聞いていなかったのか? 世良は中立の別枠だと言っただろう」と冷たく突っ込む。
「聞いてたわよ! ちょっと確認しただけでしょ!?」と寒川が噛みつくが、駅的は「これだから……」と軽くあしらって流した。柊が女子の群衆に向かって提案する。
「女子代表は……国宮さんに頼んでもいいかな?」
話を振られた国宮が「えっ、私……?」と困ったように頬に手を当てた。しかし、工藤が容赦なく切り捨てた。
「却下よ」
「えぇ!?」
「国宮さんのような、感情や場の空気に流されやすい人間には任せられないわ」
あまりにもバッサリとした切り捨てに、曽根崎が思わずツッコミを入れた。
「なんで自分たちの味方になりそうな人材をソッコーで切り捨てるんだよ! ……まあ、そこまで言い切ってくれるのは逆に信頼できるけどさ!」
「じゃあ、誰にする……?」
重苦しい空気が漂う中、一人の人物に白羽の矢が立った。
「真智さん、あなたはどうかしら?」
工藤に指名された真智は、ビシッと背筋を伸ばすと、ハキハキとした快活な声で言い放った。
「お指名光栄ですが、拒否させていただきます!」
「……なぜかしら?」
「私は、駿河屋くんを犯人として追い出した方が、特別総合課にとって最終的に得だと判断しました! だから私は『排除派』として全力で動かせてもらいます!」
清々しいほどの悪意と計算を笑顔で宣言され、執務室全体が一瞬で静まり返った。
「すご……あいつ堂々と開き直りやがった……」
「でも、ある意味一番わかりやすいね……」
「……ならば、他に誰がいるかしら」
工藤が困惑気味に呟くと、南野が控えめに手を挙げた。
「あのさ……ボクから提案があるんだけど」
志葉が疑わしそうに眉をひそめる。
「南野さんにできるの?」
「いやいや、ボクじゃなくて……ちあちゃんならどうかなって」
南野が指差したのは、執務室の最奥で、話を聞いているのか聞いていないのか分からない様子でぼんやりしていた大上千愛だった。曽根崎が即座に難色を示す。
「大上ぃ!? あいつ、田辺と大差ないレベルの問題児だろ!」
それもそのはず、大上は去年の今頃、「やる気がなくなったから」という理由で2週間ほど無断欠勤をかました前科を持つ、超マイペースかつ自由奔放な人間だった。世良が不思議そうに尋ねる。
「なぜ大上さんなんだい? 南野さん」
「ちあちゃんはね……興味関心のないものには、とことん無関心なんだ。だからこそ、誰の意見にも流されずに、一番フラットに見れるんじゃないかと思って」
伊勢志摩が「本当に大丈夫なのかな……」と呟くと、大上がぬっと顔を上げ、頬をぷくっと膨らませたのちに口を開いた。
「……ちあ、できるよ」
「じゃあ任せるけど……まあ、人畜無害そうだし、誰の味方もしなさそうだし、いいか」
女子枠は大上でまとまりかけた。
「さて、男子の方はどうする?」
工藤が視線を巡らせ、ふと思いついたようにオレの方を指差した。
「その流れで行くなら、ここに極めつけの人畜無害な人間がいるじゃない。桜律くん、あなたにしなさい」
「は!?」
真っ先に猛反発したのは、寒川や志葉を中心とした女子たちだった。
「アンタたち仲良いんだから、どうせ裏で結託するでしょ! 絶対ダメ!」
「別に仲は良くないわ」
「別に仲は良くないぞ」
オレと工藤の声が完璧にハモった。完全に一致した否定だったが、寒川は耳を貸さなかった。
「とにかくダメなものはダメよ! ズルい!」
男子枠が決まらず、押し問答が続きかけたその時、オレは静かに手を挙げた。不毛な押し付け合いを終わらせるためだ。
「……伏里はどうだ」
オレが指名すると、壁際で大人しくしていた伏里が露骨に嫌そうな顔を浮かべた。
「おい、なんで俺なんだよ……」
しかし、寒川たちが即座に乗っかった。
「いいじゃん! モブAが推薦してんだから受けときなさいよモブB!」
「まあ、伏里なら今んとこ完全に中立そうだしな」
当人の意向など一瞬たりとも反映されないまま、外堀が埋められていく。
「……わかった、わかったから」
伏里は深く溜息をつき、頭をかきながら引き受ける姿勢を見せた。ただし、一つだけ条件を提示する。
「引き受けてやるが、一つ条件がある。……審判を下し、決定させるなら、『多数決』は不可だ。『全会一致』のみ。3人全員の意見が揃うまで決定とは認めない。それが飲めるなら、やってやってもいい」
安易な多数派工作を防ぐための、賢明な条件だった。世良が即座に頷いた。
「確かに。一人の人間の人生や処分を左右するのだから、3人全員が納得できるまで議論が尽くされるべきだね」
「まあ……それもそうか」
周囲も渋々その条件を受け入れた。
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ここまでの方向性が決まるまで、パーテーションの縁で置物のように静観していたサバキネコに対し、世良が向き直った。
「サバキネコ。僕たちが話し合ったこの方針で進めたいのだが、許可をもらえるかい?」
サバキネコは細い目を毛づくろいするように細めると、鈴をチリンと鳴らした。
『ふむ……いいでしょう。ただし、ワタシから【二つの条件】を加えさせてもらえるなら、許可するとしましょう』
「条件?」
世良が問い返す。サバキネコは着地し、カツカツと小さな足音を立てて机の上を歩いた。
『一つ目は【期限】についてです。ワタシも政府へ月に一度、定期報告を行わなければなりません。ですので、待てても【4月30日】が限度です。もしそれまでに全会一致の結論が出ない場合……その時点で、3人の「多数決」で多い方を、特別総合課が出した最終結論として報告させてもらいます』
誰もが息を呑んだ。無制限の議論は許されないという明確なタイムリミットだ。
『そして二つ目は【役職】についてです。本来であれば、今月中に空席となっている「5つの幹部ポスト」をすべて決めなければなりませんでした。しかし、田辺くんの騒動に続き、このような事態になっては、とてもまともな話し合いなど望めないでしょう』
サバキネコは冷酷な瞳で全体を見渡した。
『ですので……本来なら5つのポストを個別に決める予定でしたが、4月30日に【特別総合課長】の1名だけを投票で決定します。そして、残りの4つのポストの人事権は、選ばれた【新課長】にすべて一任することとします。それらが飲めるのであれば、この調査および審判の手続きを許可しましょう』
課長一人の決定に、すべての権力が集約される――あまりにも巨大な賭けだった。しかし、周囲の男子や女子たちは「まあ、別にとりあえずは問題ないか」「期限があるのは当然だしね」と、事の重大さをイマイチ理解しきれていない様子で受け入れた。世良も全員の雰囲気を察し、優雅に頭を下げた。
「分かった。全員の納得が得られた。その二つの条件、受諾させてもらうよ」
『交渉成立ですね。……それでは、健闘を祈りますよ』
サバキネコが不気味に目を細め、執務室の奥へと消えていく。怒号と混乱に包まれていた執務室は、こうして「4月30日」というタイムリミットを刻む、巨大な裁判所へと姿を変えたのだった。
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