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第23話 田辺電治郎の処遇

23-1


 近くの銭湯から連れ戻されてきた田辺は、文字通り「引きずられてきた」という表現がぴったりだった。捕獲した駿河屋が前を固め、後ろを飯田と山彦が挟むようにして執務室のドアを押し開ける。執務室の中で待っていたのは、田辺を除く39人の同僚たちだ。その全員が、鬼の形相で入り口を睨みつけていた。


 「帰ってきたぞ」


 駿河屋が低く吐き捨てると同時に、帰ってきて早々の田辺に向かって、女子グループから容赦のない罵詈雑言が一斉に浴びせかけられた。


 「うわ、来た……信じられないんだけど」

 「本当最悪。女子トイレに忍び込んで寝てたとか気持ち悪すぎる!」

 「生理的に無理! なんでこんな奴と同じ部屋で仕事しなきゃいけないのよ!?」

 「警察呼んで! 今すぐここから叩き出してよ!」

 「あんたのせいでどれだけの人間が捜索に引っ張り出されたと思ってんの!?」

 「最低! 存在自体が不快なんだけど!」


 普段なら田辺と一緒になってバカ騒ぎをしている飯田や山彦も、今回ばかりは庇うどころか無言で冷ややかに見下ろしている。


 「おい飯田……山彦……頼むよ、なんか言ってくれよ……」

 「……いや、何言ってんだよ。流石にキビいって。今回は擁護のしようねえよ」

 「お前何やってたか分かってんのか? 俺たちまで同類扱いされるんだぞ」

 「でも俺、本当に悪気は無くてさ――」

 「悪気がないなら何やっても許されると思ってんのかよッ!」


 不潔な状態から無理やり銭湯に叩き込まれて頭を濡らした田辺は、濡れた髪から雫を滴らせながら肩を小さく縮め、吐き捨てられる言葉のすべてを黙って受け止めていた。39人の中心、執務室の床に力なく正座させられた田辺の前に、工藤がゆっくりと歩み寄る。


 「……田辺くん。一体、朝から何をやっていたのか説明してもらえるかしら?」


 氷のように冷たい工藤の声音に、田辺は縮こまりながら頭をボリボリとかき、記憶を掘り起こすようにぽつりぽつりと話し始めた。


 「いや……その……昨日頼まれてた仕事、終わらせてねえなと思ってさ……」

 「ええ。それで?」

 「朝5時に来れば……昼には間に合うかなって……早朝に出勤したんだよ……」

 「出勤して、それからどうしたのかしら?」

 「作業してたら小腹が空いてさ……カフェテリアに行ったら飯が置いてあったんだよ……」

 「備蓄品に勝手に手を伸ばしたのね?」

 「置いてあったからさ……誰も見てないし、ちょっとくらい良いかと思って……非常階段に持って行って食べたんだ」

 「ハァ……そしてゴミをポイ捨てした。その後は?」

 「食べてちょっと仕事してた! そのあと……猛烈な腹痛が襲ってきてよ……トイレに駆け込んだんだよ……」

 「駆け込んだ先がどこだったか、分かっているの?」

 「は? 便所だろ? ……いや……下痢が酷くてそれどころじゃなくて……個室に入って……そのまま連日の残業の疲労で、便座の上で爆睡してたんだ……」


 言わされた内容は、見事なまでに工藤がさっき執務室で立てた仮説そのまんまだった。昨日やり残した仕事を終わらせるために朝5時過ぎに出勤したこと。小腹が空いてカフェテリアに行ったら備蓄品が置いてあったこと。人目がないのをいいことに勝手に食べて非常階段でポイ捨てしたこと。直後に猛烈な腹痛に襲われてトイレに駆け込んだこと。そしてそのまま激しい下痢と連日の疲労で個室の中で爆睡したこと。ただし、本人には「女子トイレに入った」という犯罪的な自覚すら一切なかったらしい。


 「いや……片方が清掃中だったからさ……開いてる方に入っただけなんだよ……女子便所とかしらねーし……」


 田辺が情けない声でボヤくと、その場の空気がさらに沸点へ達した。


 「何が開いてる方だよ! 女子トイレだろ!!」

 「清掃中って看板が出てたら普通気づくだろバカか!!」

 「開いてるから入ったって、言い訳になってねえんだよ!!」


 「横領、女子トイレ侵入、仕事を半日以上サボって特総課全体の業務を停止させた……おいおい、何拍子揃ってんだよ!」


 雪森があきれたように叫び、佐川が頭を抱えて叫ぶ。


 「役満じゃねえか! 役満!」


 「即刻警察に突き出しなさいよ!」

 「そうよ! 志葉さんの言う通りよ! 犯罪者じゃないの!」

 「言い訳なんか聞き苦しいのよ! さっさと連れて行って!」


 志葉や寒川をはじめとする女子たちは、すでに田辺を名前で呼ぶことすらやめ、「犯罪者」と吐き捨てている。女子の憤激に煽られるように、男子たちからも「洒落になんねえんだよ!」「俺たちの苦労を返せ!」と怒号が飛び交い、感情を抑えきれなくなった数人が田辺に殴る蹴るの暴行を加え始めた。


 「痛ぇッ! 腹減ってたんだよ! 腹痛くなったんだから仕方ねえだろ! 眠かったんだよッ!」

 「開き直ってんじゃねえよッ!」

 「反省の欠片もねえなッ!」

 「お前のせいでどれだけ捜索させられたと思ってんだッ!」


 田辺もついに逆ギレし、正座を崩して1vs多数の不毛な殴り合いの喧嘩へ突入した。当然1人の田辺が圧倒的に劣勢だが、それでも必死に手足を振り回して悪あがきを続けている。俺は壁にもたれかかったまま、その惨状をただ静かに眺めていた。


23-2


 「もういいわ! 通報してやるわよ!」


 志葉が金切声を上げ、怒りに震える手でスマートフォンを取り出した。


 「おい志葉、本気か!?」

 「当たり前でしょ! 横領に不法侵入にサボりよ!? 警察呼ばないでどうするのよ!」

 「そうだそうだ! 通報しろ通報!」


 警察へ通報しようとするその手に、慌てて待ったをかけた男がいる。


 「待つんだ! 通報はダメだ!」


 柊だった。彼が制止に入った瞬間、執務室内の女子全員から一斉に凍りつくような冷たい視線が注がれた。


 「……柊くん、なんでそんな犯罪者の味方をするの?」

 「味方をしているわけじゃないんだ。ただ、いきなり警察に通報するのは踏み込みすぎじゃないかと思って――」

 「じゃあ何よ!? これだけのことをされて黙って許せって言うの!?」

 「そういうわけじゃないけど……!」


 刺すような女子たちの視線。だが、日頃の柊の誠実な立ち振る舞いと人徳もあってか、彼に対する直接的な罵倒や怒号までは飛び交わない。殴り合いをしていた男子たちもピタリと動きを止め、渦中の田辺自身、自分を庇おうとしてくれた柊の姿に心底動揺したような顔で目を見開いていた。柊は正面から全員の視線を受け止め、語りかける。


 「確かに田辺くんのしたことはよくない。けれど、彼に悪気があったわけじゃないんだ。朝早くから仕事をしようとしていたのも事実なんだし……今回ばかりは、みんなで水に流そうじゃないか」

 「――却下するわ」


 柊の提案を、冷徹な声が即座に切り捨てた。工藤だった。


 「不祥事を感情や身内の情で内々に処理するなど、組織として根本的な欠陥よ。私たちは澪標市の特別総合課として、健全な運営と正当な手続きを行うべきだわ」

 「なっ……工藤お前! 固いこと言ってんじゃねえよ!」


 工藤に徹底的に詰め立てられた田辺が感情を爆発させて暴れ出したが、それは速やかに駿河屋たち男子によって取り押さえられた。


 「静かにしてろ田辺!」

 「お前が喚くと余計泥沼になるんだよ!」


 工藤は暴れる田辺を一瞥すらもせず、さらに言葉を重ねて田辺を追い詰めていく。


 「待ってくれ、工藤さん!」


 柊が再び割って入った。ここから、柊と工藤による激しい議論の応酬が始まった。


 「規律を守ることが大切なのは分かっているよ、工藤さん。でもね、僕たちは同じ部署で助け合ってきた仲間だ。たった一度の不注意や失敗で、仲間を即座に排除することが本当に正しいことなのかな?」

 「排除ではなく、行いに対する正当な処罰よ、柊くん。甘やかすことと庇い合うことを履き違えないでちょうだい」

 「甘やかしているつもりはないんだ! でも、彼には悪意がなかった。ただ腹が減っていて、お腹を壊して、疲れて寝てしまった……運と噛み合わせが悪かっただけなんだよ」

 「不注意で非常用の備蓄品を横領し、女子トイレに不法侵入し、特総課全体の業務を半日以上停止させたのよ? それを『不運』の一言で片付けるのはあまりにも無責任だわ」

 「だからといって、いきなり警察に突き出して彼の人生や社会的キャリアを奪ってしまうのはあまりにも厳しすぎる! やり直しの機会くらい、与えられてもいいはずだ!」

 「やり直しの機会というのは、定められたルールを守った上で反省する人間に与えられる権利よ。ルールそのものを踏みにじり、組織に甚大な損害を与えた人間に最初から免罪符を与えるのは、ルールの形骸化を招くだけよ。一個人の身勝手な不祥事を全体で揉み消せば、今後の特総課の存在意義に関わるわ」

 「揉み消すんじゃない! 内部での厳重注意やペナルティで対応すればいいと言っているんだ!」

 「内々の処罰で済ませるということは、公的な責任から逃れることと同義よ。そんな甘い組織が外部からどう見られるか、あなたには想像がつかないの?」


 柊は「仲間を見捨てるべきではない」「悪意のない失敗ならやり直しの機会を与えるべきだ」という縁故的で感情に配慮した論を張る。対する工藤は「ルールの形骸化は組織の崩壊を招く」「一個人の身勝手な不祥事を全体で揉み消せば、今後の特総課の存在意義に関わる」という徹底した正義と秩序の論理で対抗した。お互いが持てる論理をぶつけ合う。しかし、感情論に寄った柊の言葉は、工藤の隙のない正義の論理の前に、徐々に追い詰められていった。


 「工藤さんの言ってることの方が正しい気がする……」

 「確かに、内部でなぁなぁに処理したら外から何言われるか分からないよな」

 「でも解雇して警察沙汰は流石に可哀想な気も……」

 「可哀想とかそういう問題じゃないでしょ。女子トイレに入られた私たちの気持ちはどうなるのよ」

 「……そうだな。工藤さんの言う通り、ちゃんと手続き踏むべきかもな」


 最初は静観していた女子たちや、「流石に厳しすぎるんじゃないか」と工藤が口にする現実的な処罰の内容に引いていた男子たちも、柊が言葉に詰まり反論できなくなっていくにつれ、次第に工藤寄りの立場へと傾いていく。自分を巡って交わされる議論の意味を、田辺自身は半分も理解していないようだった。だが、周囲の空気がどんどん自分にとって最悪な方向へ傾いていることだけは察したらしく、みるみる顔を青ざめさせていった。


 「おい! 聞けよ! 俺が悪かったって! なあ! もう二度としないから!」

 「田辺、静かにしてろって何回言わせんだ!」

 「工藤さん! 頼むよ! 警察だけは本気で勘弁してくれよ!」


 騒ぎ、喚いて議論を妨害しようとする田辺だったが、周囲からは完全にシカトされた。


 「柊くん。あなたが以前『誰もが納得できる、公平で透明性のある組織を作るべきだ』と言っていたのを覚えているかしら?」

 「……えっ?」

 「田辺くん一人を特別扱いして見逃すことが、今日彼のために捜索に奔走させられ、業務を止められた39人の同僚に対して『公平』だと言えるかしら?」

 「それは……っ……」


 最後に工藤は、かつて柊自身が言っていた「公平な組織のあり方」という論理を引用し、柊の主張の矛盾を完璧に突いて彼の口を完全に封じた。勝負はついた。執務室を重苦しい沈黙が包み込む。


23-3


 すべての議論は尽くされた。誰もが「これで決定だ」と思いかけたその時だった。


 「……工藤さん。僕は君のやり方に反対するよ」


 静かに手が上がった。世良だった。室内がざわつく。


 「世良……?」

 「あいつ、今になって工藤に異論を唱えるのか?」


 柊vs工藤の図式から、一瞬にして世良vs工藤の構図へとフェーズが移行した。工藤が眉をひそめ、世良を鋭く睨みつける。


 「世良くん……? なぜ今になってそんな擁護を始めるの?」

 「今まで静観していたのは様子見だよ。それに、僕は田辺くんを擁護しているわけじゃない。これは『取引』だ」

 「取引? 話にならないわね」


 工藤が切り捨てようとすると、世良は眼鏡のフチを指で押し上げながら、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。


 「内容を聞く前に突っぱねるなんて、論理的な工藤さんらしくないじゃないか。それとも、僕の提案を聞くのが怖いのかい?」


 世良の煽りに、工藤の眉根がぴくりと動いた。


 「……いいわ。聞き届けてあげる。どんな取引なのか言ってみなさい」


 過半数が工藤を支持しつつも、世良が何を言い出すのか興味を持った層、そして「どちらにつくべきかわからない」と日和っている層が固唾をのんで見守る。世良は執務室の中央へと歩み出た。


 「僕の提示する取引はこうだ。――今回の田辺くんの失態は、すべて水に流すことにする」

 「……は?」


 工藤が呆れたような声を出す。


 「冗談で言っているなら笑えないわよ、世良くん」

 「まあまあ、焦らずに最後まで聞いてほしいな」


 世良は構わず続けた。


 「ただし。もし次に田辺くんが問題を起こした場合……特別総合課が現在背負っている『一人当たりの負債額』を、田辺くん一人に倍増させた上で、警察へ突き出す」


 ――!?


 執務室全体に、凄まじいどよめきが駆け抜けた。


 「ば、倍増だって!?」

 「おいおい、あの途方もない金額を一人で倍背負うってことか!?」

 「正気かよ世良! そんなの破滅どころの騒ぎじゃないぞ!」


 負債額の倍増。特総課の人間が背負わされている途方もない額の借金、すなわち140億円を、倍にして背負わされるということだ。当事者の田辺は可哀想なほど顔を真っ白にして震え上がり、あの冷徹な工藤すらもその無茶苦茶な提案に目を見開いて仰天していた。


 「……正気なの、世良くん!?」


 工藤はすぐに気を取り直し、反論に転じた。


 「そんなものはメリットとして弱すぎるわ! 焼け石に水よ! 一人が倍になろうと、私たちの負債が消えるわけではないわ!」

 「いや、十分に機能するよ」


 世良は静かに首を振った。


 「本来、田辺くんがこのまま警察に突き出された場合に背負う刑事罰や社会的制裁など、この『負債額の倍増』に比べれば足元にも及ばない。量刑の程度を比べるなら、むしろこれは田辺くんにとって致命的なデメリットでしかないんだ。彼に『もし次を起こせば人生が物理的・金銭的に文字通り終了する』という圧倒的恐怖を刻み込む。これ以上の犯罪抑止力があるかい? ……そう思わないかい、寒川さん?」


 いきなり指名された寒川が、ハッと息を飲んだ。


 「え……あ、私……!?」

 「君たち女子グループも、田辺くんが二度と女子トイレ侵入や軽率な不祥事を起こさないという絶対的な確約が得られるなら、警察沙汰にして特総課自体の名前を外部に汚されるより合理的だと思わないかい?」


 戸惑いながらも、寒川は周囲の女子たちの空気を伺い、なんとか答えを捻り出した。


 「……まあ、女子トイレに入られたのは許せないけど……それだけのリスクを本人が背負って二度としないって誓うなら……女子としても、まあ……同意……できるかも……」

 「ちょっと寒川さん!?」

 「だって志葉さん、本当に警察呼んだら『特総課の女子トイレで盗撮か不法侵入があった』って庁内中で噂されるんだよ? それも嫌じゃない……?」

 「それは……確かにそうだけど……」


23-4


 「ダメよ! そんな前例を作ってしまえば、次に誰かが問題を起こした時に『3倍』『4倍』と無責任に処罰を引き伸ばすような悪習慣が定着してしまうわ!」


 工藤が激しい口調で食い下がる。しかし、世良の表情は崩れない。


 「確かに、その可能性は捨てきれないね。……だが工藤さん、君は『誰かが不祥事を起こせば即座に切り捨てる』という習慣の方がマシだと言いたいのかい?」

 「切り捨てるのではないと言っているでしょう! 失敗に対する責任を取らせるのは組織運営の基本よ!」

 「その責任を挽回する機会すら与えず、一発で排除する冷酷な組織に、一体誰が忠誠を尽くすというんだい? 明日は我が身かもしれないのに?」


 世良はそう言い捨てると、今度は静かに国宮の方を振り向いた。


 「国宮さんはどう思う?」


 国宮は少し悲しそうに目を伏せ、思案したのち、ゆっくりと口を開いた。


 「……私は……工藤さんの言いたいことも分かるよ? ルールが大事なのも理解できる。でも……友達に手を差し伸べることもなく、失敗したらそのまま切り捨てるような関係なんて……私は絶対に嫌だな……」


 「国宮さん……」

 「そうだよな、一度の過ちで即排除なんて怖すぎるよ」

 「国宮さんの言う通りだよ。仲間を見捨てるようなマネはしたくない」


 国宮の感情的だが根底にある強い訴えに、男子たちが一瞬で固まった。国宮に嫌われたくない男子たちの間に、見えない同調圧力が生まれ始める。


 「それでも!!」


 工藤は譲らなかった。


 「組織としての自浄作用が疑われるような真似は許されないわ! 歪んだ人間関係や感情論よりも、私たちは絶対的な正義とルールに従うべきなのよ! なぜそれが理解できないの!?」

 「果たして……本当にそうだろうか?」


 世良は静かに、しかし執務室全体に響き渡る声で問いかけた。彼は全員が見渡せる位置へとゆっくり踏み出す。


 「自治破綻処理特例法――その条文を引用させてもらうよ。自治破綻処理特例法、第十七条:特別総合課職員の不祥事・職責離脱に伴う特例免責の失効および債務承継。メガロポリス推進計画に基づき政府直轄地に指定された自治体において、特別総合課に所属する職員が、免職・失職・解雇または公務員としての職責を離脱する事由(自己都合による辞職を含む)を生じさせた場合、当該職員は以下の義務を負う。

1. 職責を離脱する時点で対象自治体または特別総合課が負担する累積負債総額を、その時点における特別総合課の在籍職員総数で除した金額(均等割受託額)について、当該職員個人への求償権が即時に確定するものとする。

2. 前項により確定した金額について、当該職員は直ちに一括して国および対象自治体に対し弁済する義務を負う。」


 世良の言葉に、全員が固唾をのむ。


 「もしこの場で、僕たちが田辺くんを切り離すことで『不祥事の負債が澪標市から消えていく』という実例を作ってしまったらどうなる? 今後、澪標市の内部から特総課に対して罠を仕掛け、僕たちを一人ずつ切り離して財政を立て直そうとする動きが生まれないと、どうして言い切れる?」

 「なっ……それは論理の飛躍よ!」

 「飛躍かな? 他の部署の人間が僕たち特総課をどう見ているか、工藤さんならよく知っているはずだ。彼らにとって僕たちは『排除すればするほど市の財政が助かるお荷物』なんだよ。ここで仲間を一人切り捨てる前例を作れば、次からは外部から意図的にハメられることになる」


 世良の言葉が、職員たちの胸に刺さった。


 (……なるほどな)


 俺は心の中でつぶやいた。世良の狙いがはっきりと見えた。今ここで田辺を捨てれば、明日は我が身だ。他の課の人間が、自分たちと同じように「自分たちを切り捨てる」ための攻撃を仕掛けてくるかもしれない。世良は職員たちの潜在的な保身と恐怖を、巧みに煽ってみせたのだ。


 「それこそ……組織の自浄作用どころか、僕たち特総課の存在そのものを脅かすことになるんじゃないのかい?」

 「……っ……」


 工藤は反論の言葉を詰まらせた。女子の意見をまとめられる寒川。男子の空気を支配する国宮。そして保身の恐怖を植え付けられた全体。世良は静かに笑った。


 「これは隠蔽ではない。澪標市の特総課のみならず、ここにいる全員、ひいては他の課の職員に汚職をさせない、組織を守るために『必要な偽善』だ。そして……それを選択できるのは、今ここにいる40人だけなんだよ」


 熱に浮かされたような大衆の空気と、それを完璧にコントロールする世良のカリスマ。工藤がハッと気づいた時には、すでに彼女一人で反論できるフェーズをゆうに超えていた。


23-5


 二日後の、22日。田辺の行方不明事件は、「屋上で昼寝をしていたのを発見された」という内容で上層部へ報告された。結果として大ごとにはならずに済み、捜索時に話を聴いていた他課の職員たちも、


 「あいつサボって居眠りしてたのかよ」

 「まあ、田辺ならやりそうだな」


 という苦笑交じりの反応だけで処理されたのだった。肝心の田辺本人はというと、世良と二人きりで何らかの厳密な契約書面を交わしたらしく、二度目はないと精神的に追い詰められた様子で、必死な顔でデスクにかじりついて仕事をこなしていた。昼過ぎ、執務室の廊下で柊が工藤に声をかけているのが見えた。


 「工藤さん、ちょっといいかい? 一緒に昼食でも――」

 「あいにく、予定があるの。失礼するわ」


 工藤は冷ややかに言い捨てると、柊の脇を通り抜けて立ち去っていった。ポツンと取り残された柊のとなりに、俺は歩み寄った。


 「気にしなくていいぞ」


 俺が声をかけると、柊は苦笑いを浮かべて振り返った。


 「桜律くん……」

 「工藤のやつ、世良にちょっと言い負かされたのと、自分の思うような展開にならなくてむくれているだけだ」


 暗に「お前が拒絶されたわけじゃない」と伝えてやると、柊は少しホッとしたように肩の力を抜いた。


 「ありがとう、桜律くん。……工藤さんには、また意見を覆すような形になっちゃったからね。でも、世良くんのおかげで田辺くんを守ることができて、本当にホッとしているんだ」


 俺は無言で柊に小さく頷きかけた。その時だった。


 「ぎゃあああああああッッ!?」


 執務室の中から、田辺の耳をつんざくような悲鳴が響き渡った。何事かと、俺と柊は急いで執務室のドアを開けた。そこには、大量の紙束を抱えた田辺が、シュレッダーの前で顔を真っ赤にして絶叫していた。


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