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第20話 田辺電治郎の行方

20-1


 私が特別総合課の執務室中央へ戻った頃には、すでに室内の空気が重苦しく澱んでいた。広大な執務室に集まっているのは、消えた田辺電治郎を除く三十九名の職員と、パーテーションの縁にちょこんと佇むサバキネコ。

 一人が欠けただけの室内は、普段よりも異様に広く、そして不気味なほどの静けさに包まれている。

 神妙な面持ちでパイプ椅子に腰掛ける同期たちの視線が中央に集中する中、静かに口を開いたのは世良くんだった。


 「みんなが庁舎内を捜索してくれている間に、田辺くんが今朝残していった未処理のタスクを僕の方で全て処理しておいたよ。だから、僕もこれで落ち着いてこの話し合いに参加できる」


 眼鏡のブリッジを押し上げながら事もなげに言った世良くんに対し、室内には一瞬の沈黙の後、真逆のリアクションが同時に巻き起こった。


 「す、すげーなお前……! お前ほんとに人間か? スーパーコンピューター『富○』かなんかかよ……」


 雪森くんが心底呆れたように目を丸くして呟き、女子職員たちの間からは感嘆の声が上がる。


 「さすが世良くん! 本当に頼りになる〜!」

 「世良くんがいてくれてよかったよ、本当……」


 一方で、部屋の壁際に身を寄せていた飯田くんや山彦くんは、あからさまに苦々しい表情を浮かべ、恨めしそうに世良くんを睨みつけていた。自分たちが背負うかもしれなかった厄介事を片付けられた安堵と、相変わらず優秀さを誇示されたことへの嫉妬。実に分かりやすく、そして生産性のない感情の揺れだった。


 「……よし。それじゃあまず、現在分かっている客観的な事実から順番に整理していこうか」


 パン、と手を叩いて室内の雑音をカットしたのは柊くんだった。穏やかだが芯のある声で全員の視線を自分に集めると、真っ先に世良くんに視線を送る。

 世良くんは短く頷き、ホワイトボードの横に立った。


 「サバキネコの証言によると田辺くんが今朝、この庁舎に出勤してきた正確な時間は【五時三分】だ。サバキネコにも確認を取ったけれど、認証データと一致している」

 『そうですね。間違いありませんよ』


 パーテーションの上に鎮座したサバキネコが、機械的で無機質な声を響かせた。


 『午前五時三分十二秒、田辺電治郎くんの姿を監視カメラの映像内に確認しております。ワタシの個体識別センサーとも合致しています』


 「ありがとう」と世良くんはサバキネコに軽く頭を下げ、ホワイトボードに『05:03 出勤』とマーカーで書き込む。


 「そして、彼のデスクトップPCの操作ログを遡って調べたところ、彼が最後にキーボードやマウスを操作した記録、つまり最後にPCに触っていた時間は6時33分だった」

 「なるほど……」


 前列に座っていた真智さんが、膝の上で拳を握りしめながら呟いた。


 「ということは、少なくとも今朝の6時30分までは、田辺くんは確実にこの執務室の中で仕事をしていた……ということですね!」


 「その通りだよ」と世良くんは答え、室内を見渡した。


 「そこで一つ質問なんだけど、今朝、田辺くんの次に一番早く執務室に出勤してきたのは誰かな?」


 その問いかけに、後方で気まずそうに腹を押さえていた佐川くんが、おずおずと手を挙げた。


 「……俺だ。俺も昨日、世良に大量の計算タスクを振られてたからさ……早く来ないと終わらないと思って、頑張って7時10分ごろには部屋に着いてたんだよ」

 「佐川くんが来た時、田辺くんは部屋にいたかい?」

 「いや……一人もいなかった。電気は……たしかつきっぱだったかな? 田辺のデスクのことを詳しく覚えてるわけじゃねーけど、たぶん自動で切れてたと思う。カバンはあったから、俺はてっきり、トイレにでも行ってるのかと思って自分の作業を始めたんだが……結局、それきり戻ってなかったんだよな」


 佐川くんの説明を聞き、柊くんが人差し指を立てて全体に提示する。


 「ありがとう、佐川くん。つまり、田辺くんがこの執務室から姿を消したのは、6時30分から7時10分の40分間のどこか、ということになるね。この時間帯に彼の身に何かが起きた可能性が極めて高い」


 推論としては完璧だった。時間軸がここまで明確に絞り込めれば、次に行うべきは行動パターンの検証と消去法による絞り込みだ。

 しかし、次に上がった声は、私のそうした論理的な期待を容易く打ち砕くものだった。


20-2


 「ちょっと待ってよ。そんな朝早くから、あの田辺が1時間半も真面目に仕事し続けられるわけないじゃん」


 腕を組み、足を出してパイプ椅子に深々と寄りかかっていたのは志葉さんだった。彼女はあからさまな呆れ顔を浮かべ、自論を展開し始める。


 「どうせさ、朝五時に起きて仕事なんて慣れないことしたから、強烈な眠気に耐えられなくなったんじゃないの? で、『ちょっとだけ休もう』とか言ってバックヤードにある宿直室に潜り込んで、そのまま今になっても爆睡してるだけでしょ。携帯忘れて行ったから目覚ましも鳴らなかったんじゃない?」


 そのあまりにも安直で、かつ田辺くんの普段の素行に基づいた仮説に、男子勢が即座に跳びついた。


 「あー! あり得る! めっちゃあり得るわそれ!」

 「絶対それだろ! あいつの根性なら十分考えられるって!」


 飯田くんと山彦くんが手を叩いて賛同し、女子席の酒井さんや笹坂さんも「なんだ〜、驚かせないでよ」「また田辺くんのサボり癖かぁ」と安堵の息を漏らし始める。室内の空気が一気に「ただのサボり」という楽観論へ傾きかけた。私は小さく溜め息をつき、静かに挙手した。


 「待ちなさい」

 「……なんだよ工藤。せっかく話がまとまりかけてんのに、雰囲気を壊すなよ」


 すぐ隣にいた駿河屋くんが、凶悪な目つきで私を睨みつけてくる。だが、根拠のない憶測で事実を上書きされるのは容赦しがたい。


 「柊くん。発言の許可を」

 「うん、どうぞ工藤さん。何か気になる点があるんだね?」


 柊くんが促すと、私は志葉さんに向き直り、感情を交えずに事実だけを提示した。


 「志葉さんの仮説は、前提から完全に破綻しているわ」

 「はぁ!? 何よそれ、どこが破綻してるって言うのよ!」


 志葉さんが不満げに眉をひそめるのに対し、私は今までの探索データを脳内で展開した。


 「私は捜索の初期段階で、国宮さん、およびサバキネコと共にバックヤードの全区画の現地調査を行っているの。当然、あなた方の言う宿直室および仮眠スペースも確認対象に含まれていたわ」


 私はサバキネコに視線を送る。


 「第一に、宿直室の扉は施錠されていた。第二に、その鍵を所有・管理しているのは管理者であるサバキネコであり、内部から鍵を閉めて閉じこもることは構造上不可能。第三に、サバキネコに解錠させて内部を直接目視確認したけれど、ベッドにも押し入れにも田辺くんの姿は存在しなかった。以上の客観的解錠記録と目視結果から、彼が宿直室で寝ているという説は100%否定されるわ」


 私の完璧な反証を聞き、志葉さんは顔を赤くして隣の国宮さんを振り返った。


 「な、国宮ちゃん! 本当に宿直室見たの!? 中に誰もいなかった!?」


 振られた国宮さんは、申し訳なさそうに眉を下げ、ペコリと頭を下げた。


 「うん……あかりちゃん、ごめんね。工藤さんの言う通りなの。サバキネコちゃんに鍵を開けてもらって、押し入れの中までちゃんと確認したんだけど……田辺くんはいなかったよ」


 『補足します』と、サバキネコが追い打ちをかけた。


 『宿直室のスマートロックにおける解錠履歴は、昨夜の定期清掃時が最後です。今朝以降、入室した形跡はありません』


 二重三重の客観的証拠を突きつけられ、志葉さんは不満そうに口を尖らせながらも、「……ふん、じゃあ違うんだ」と吐き捨てるようにして黙り込んだ。


 「……じゃあ、一体あいつはどこへ行ったんだよ」


 山彦くんが頭を抱えて呟く。室内には再び原因不明の停滞感が漂い始めた。


 「ふっふーん……あんたたち、視野が狭すぎるわね」


 高らかで、どこか芝居がかった声が室内に響いた。寒川さんだった。彼女は自慢の長い髪を指先でなびかせると、自信満々に立ち上がった。


20-3


 「いい? 物事はもっと大局的に、そしてドロドロとした『人間関係の裏側』から察するべきなのよ」


 寒川さんは人指し指をチッチッと左右に振りながら、執務室の中央へと歩み出た。


 「朝早くから一人で仕事をしていた田辺くん。そこへ、たまたま別の課の人間が通りかかったとしたらどう? 普段から特総課の横暴に腹を立てていて、特に素行の悪い田辺くんに私怨を抱いている職員がいたとしたら……? 監視カメラが落とされているこの庁舎の盲点をついて、彼を拉致し、どこかの地下倉庫に閉じ込めているのよ! 今も拷問を受けているかもしれないわ!」


 あまりにも飛躍した、まるで三流サスペンスドラマのような説だった。しかし、この支離滅裂な展開に対しても、真面目すぎる世良くんは真剣に検討を始めてしまう。


 「……うーん。確かに他の課との摩擦は絶えないからね。もし本当に他課の職員による私的制裁や監禁が行われているのだとしたら、それは組織として決定的な大問題だ。ただ……そう考えると、田辺くんが書類やPCを中途半端な状態で放置して部屋を出て行った理由の説明だけはつくかもしれないね」

 「でしょ!? 私の推理が一番辻褄が合うのよ!」


 寒川さんが胸を張る。すると、前列の真智さんが勢いよく立ち上がり、己の二の腕をパンッと力強く叩いた。


 「なるほど! つまり……今すぐ私たちが『財政課』『生活課』『都市整備課』『総務課』の全部署へ同時に突入し、同時多発襲撃を仕掛けて田辺さんを奪還すればいいんですね! よーし、暴れてきます!」

 「ダメですのー! 真智さん落ち着いてくださいまし!」


 隣の霞さんが必死の形相で真智さんの腰にしがみつき、引き留める。


 「そんなヤクザみたいな乗り込み方をしたら、田辺さんが見つかる前に特総課が全課から訴えられて即刻解体になってしまいますわ!」


 寒川さんは自分の発言が生み出した混乱に満足したように鼻を鳴らすと、周囲を見下ろした。


 「ふん、他に何か反論はあるかしら?」


 私は頭痛を覚えるのを禁じ得なかった。寒川さんの「他課による監禁説」は、一見すると不穏な説得力を帯びて聞こえるかもしれないが、これについてもすでに明確な否定材料が存在している。

 私は椅子から立ち上がり、寒川さんの視線を正面から受け止めた。


 「寒川さん。あなたのその『他課の人間による怨恨監禁説』だけど……真っ向から否定させてもらうわ」

 「なによ! 何が気に入らないのよ工藤さん! 私の仮説だからって否定してるだけなら許さないわよ」


 寒川さんが眉を逆立てて睨みつけてくる。私は冷静に言葉を続けた。


 「実はね、あなたと同じような疑念を抱き、すでに他の課へ単身突撃を仕掛けた職員が、この中に存在するのよ」


 私の言葉に、室内全体から「えっ……!?」「マジで!?」「誰だよそんなヤバい奴!?」と大きなざわめきが巻き起こった。


 「誰なのよ、そんな無鉄砲な真似をしたのは!」


 寒川さんの問いに対し、私は静かに指を向けた。


 「……日向坂くんよ」


 指名された日向坂くんは、周囲からの視線を一身に浴び、耳まで真っ赤にしながら居心地悪そうに身を縮こまらせた。


 「あ、はは……ごめんみんな。工藤の言う通りなんだ……」


 日向坂くんは気まずそうに頭を掻きながら、経緯を語り始めた。


 「俺も田辺が他課のトラブルに巻き込まれたんじゃないかと思って、真っ先にあいつが過去にトラブルを起こした『都市整備課』に乗り込んだんだよ。『田辺をどこへ隠した!』ってな具合に。……でも、完全に返り討ちに遭った。相手側の管理職の人たちから、当時のタイムカードと業務日誌を突きつけられて、全員の潔白を完璧に証明された上に、『被害者面する前にあのバカを連れてきて土下座させろ』って正論で怒鳴られて追い返されたんだ……」


 日向坂くんは溜め息をつき、力なく首を振る。


 「それに、都市整備課の人たちも言ってたぞ。『うちだって田辺を探してるんだ。未提出の協定書が残ったままで困ってる』って。他課の職員たちも、田辺の失踪によって迷惑を被っている側であって、彼を隠すメリットなんてどこにもないんだよ」


 その情けない顛末を聞き、隣にいた雪森くんがニヤニヤしながら日向坂くんの肩を叩いた。


 「なんだよ日向坂〜! お前めっきり絞られて帰ってきただけかよ! ドンマイドンマイ、お前の無駄骨に免じて拍手してやるよ!」


 パチパチと軽い拍手を送る雪森くん。日向坂くんは「無駄骨って言うなよ……」と肩を落としている。


 (……相変わらず、雪森くんのこの軽薄さと緊張感の欠如は何とかならないものかしら)


 私は内心で冷ややかに分析したが、今の状況でそれを指摘しても議論が脱線するだけだと思い、思考の表層から取り除いた。


 「以上の証言から、寒川さんの説も棄却されるわ。田辺くんは他課に拉致されたわけでも、閉じ込められているわけでもない」


 寒川さんは「くっ……」と悔しそうに歯噛みしながら、自分の席へ引き下がった。


20-4


 「となると……やっぱり田辺は、この庁舎のどこか別の『死角』に潜んでるってことだろ」


 腕を組んで思案していた曽根崎くんが、意を決したように声を上げた。


 「俺に言わせれば、お前らは考え方が大雑把すぎるんだよ。田辺の奴はズバリ……極めて狭い場所に隠れてるんだ!」


 「狭い場所……?」と柊くんが首を傾げる。


 「そうだ! 例えば『天井の裏』とか『ロッカーの中』とか『トイレの個室』とかさ! そういう、普通なら人が入らないような狭い隙間に身を潜めてるんだよ!」

 「なるほど……」


 柊くんは感心したように顎に手を当てた。


 「確かに『天井裏』なんて発想は僕たちにはなかったな。死角としては完璧かもしれない。そこまでは探していなかったよ」

 「だろ!? 天井裏ならカメラにも映らないし、誰も見つけられない!」


 調子に乗る曽根崎くんだったが、ここで世良くんが冷ややかに介入した。


 「いや、曽根崎くん。天井裏の可能性はまずあり得ないよ」

 「なんでだよ世良! 否定すんなよ!」


 「論理的に考えてごらん」と世良くんはメガネを掛け直す。


 「この庁舎の天井点検口は床から三メートル以上の高さにある。そこへ登るためには、絶対に脚立か相応の足場が必要になる。もし田辺くんが一人で天井裏に登ったとしたら、使った脚立は廊下にそのまま残されていなければおかしいだろう? だが、そんな放置物はどこにもなかった」

 「そ、それは……!」


 曽根崎くんは冷や汗をかきながら反論を試みる。


 「脚立に紐か何かを取り付けておいて、天井裏に登った後に自分で引き上げたんだよ!」

 「それも不可能だよ、曽根崎くん」


 世良くんは即座に切り捨てた。


 「天井点検口の開口部は四十センチ四方程度しかない。一般的な折りたたみ脚立であっても、あの開口部を通して天井裏に引き込むのは物理的なサイズ制限から見て不可能だ」


 完璧なロジックに詰まった曽根崎くんがぐぬぬと唸っていると、後方からふわりとした声が上がった。


 「あのね……もしかしたら田辺くん、背中に綺麗な羽が生えて、天井までパタパタって飛んで行ったんじゃないかな……?」


 南野さんが、真顔でそんなメルヘンな推理を披露した。

 室内が一瞬で凍りつく。


 「南野さん。真面目にやって頂戴」


 私は氷のような視線を送る。


  「ふざけている場合ではありませんのよ!」


 霞さんもお怒りだ。


 「お前、マジで何言ってんだクソが!」


 駿河屋くんの怒声が飛ぶ。


 そんな怒号の嵐の中、国宮さんだけが「えっ……田辺くんって天使なのかな……? でも、うーん……それはきっと違うと思うな……」と真面目に悩み、優しく否定していた。


 「……チッ、天井がダメなら『ロッカー』だよ!」


 南野さんの謎発言によって生まれた混沌を強引に打ち消し、曽根崎くんが叫んだ。


 「ロッカーなら足場も要らない! 田辺のバカがふざけて更衣室のロッカーに入り込んで、内側から鍵がかかって出られなくなってるケースは十分考えられるだろ!」


 「あー……」と山彦くんが鼻で笑う。


 「まあ、田辺の頭の悪さを前提にするなら、その説はかなりしっくりくるな。アイツならやりかねん」

 「だろ!? アイツなら絶対やる!」


 「ちょっと待ってよ」と佐川くんが口を挟む。


 「さすがの田辺でも、自分からロッカーに入って出られなくなるなんて、そんなコントみたいなことするか……?」

 「じゃあお前、他に反論の証拠でもあんのかよ佐川!」


 曽根崎くんに強く出られ、今日一日何の証拠も集められていなかった佐川くんは、「うぐっ……」と絶句して黙り込んでしまった。

 声の大きさとノリで押し切ろうとする曽根崎くんの姿勢に、私は強い違和感を抱いた。


 「曽根崎くん。あなたの『ロッカー密封説』も否定させてもらうわ」

 「な、なんだよ工藤! 地下にも他課にもいないんだから、消去法でここくらいしか残ってないだろ!」


 焦りを見せる曽根崎くんに対し、私は静かに告げた。


 「あなたのその主張を、明確な事実をもって否定できる人物が、この部屋にいるわ」


 私は一番窓際に座っていた男に視線を送った。


 「……桜律くん」


 指名された桜律くんは、肘をつき、冷めきった無表情のまま、短く答えた。


 「……ああ、そうだな」


 桜律くんは淡々と語り始めた。


 「オレは捜索の際、男子更衣室の内部を直接確認した。ロッカーの隙間も一通り目視したが、田辺の姿はなかった」


 さらに、前列の真智さんが元気よく補足する。


 「はい! 女子更衣室のロッカーも、私たちが完璧に捜索しました! 田辺くんは居ませんでしたよ!」


 「いや、女子更衣室に田辺がいたらそれはそれで別の事件だろうが!」と周囲から総スカンを食らう真智さんだったが、桜律くんという客観的な目撃証言が得られたことで、曽根崎くんの「ロッカー説」は完全に瓦解した。


20-5


 「くそっ……! だったら……『トイレ』だ!」


 追い詰められた曽根崎くんは、汗を拭きながら最後の説をぶち上げた。


 「男子トイレの個室で、急な腹痛を起こして倒れてるんだよ! 鍵を閉めたまま意識を失ってたら、外からは分からないだろ! これなら文句ないはずだ!」


 (本当に往生際が悪いわね……)


 トイレの個室で倒れているという説は、一見すると否定が難しいように思えた。上の隙間から覗き込まない限り、内部の確認が困難だからだ。私自身、男子トイレの中まで直接捜索に入ることは出来なかったため、これを即座に論破する明確な材料を持ち合わせていなかった。


 (どう反論すべきか……)


 私が思考を巡らせようとした、その時だった。


 「……ちょっと待てよ」


 部屋の隅、陰気なオーラを纏った伏里くんが、低い声で立ち上がった。

 曽根崎くんは最初、「あ?」と威圧的な態度を取ろうとしたが、相手が伏里くんだと気づくと、私や世良くんの時とは打って変わって強気な笑みを浮かべた。


 「なんだよ伏里。お前に、俺の説が論破できるわけねぇだろ」


 しかし、伏里くんは卑屈な笑みを浮かべつつも、淡々と己の捜索結果を提示し始めた。


 「……へへ、俺は世良や工藤みたいに頭が良いわけじゃねえからな。愚直に、しらみつぶしに探すことしか思いつかなかったんだよ……。だから、庁舎内の男子トイレは、全階・全個室、上から覗き込んで全部チェックして回ったんだ」

 「な……!?」

 「その上で言わせてもらうけど……どのトイレの個室にも、田辺の姿はなかったぞ。倒れてもいなかったし、落ちてもいなかった。だから、曽根崎の『トイレで倒れてる説』は成り立たない」


 一つ一つの個室を物理的に確認したという完璧な現場検証。曽根崎くんは顔を青くし、必死に食ってかかった。


 「ほんとにちゃんと見て回ったのかよ! お前が見落としただけなんじゃないのか!?」

 「見落としてなんかねぇよ……」

 「オレが保証しよう」


 曽根崎くんの追求に苦悶の表情を浮かべていた伏里くんだったが、援護射撃が飛んできたことに一瞬呆気に取られた表情を見せた。保証する、といい名乗りを上げたのは桜律くんだった。

 伏里くんはすぐに表情を固めて桜律くんをまっすぐに見据える。


 「……桜律。俺が地下駐車場に降りる前、一緒に男子トイレを確認したよな? 俺が個室を上から覗いて確認してるのを、お前も見てただろ」


 桜律くんは、伏里くんの視線を受け止めると、一切の感情を挟まずに頷いた。


 「……ああ。伏里の言っていることは正しい。あいつは全ての個室を正確に確認していた。オレが保証する」


 桜律くんの明確な保証。伏里くんは自虐的に鼻を鳴らすと、曽根崎くんに向かって追い打ちをかけた。


 「……ほらな。さっき工藤の時に『男子更衣室にはいなかった』って保証した桜律が、俺のことも保証してくれてるんだ。俺の時だけ否定したりしないだろ? これで文句ないよな、曽根崎」

 「う、ぐ……くそっ……!」


 桜律くんという「客観的な第三者」の保証を得たことで、曽根崎くんの最後の仮説は完全に打ち砕かれ、彼は力なくパイプ椅子に沈み込んだ。


 ――しかし。


 その一連のやり取りを横で見ていた私は、決定的な違和感に襲われていた。


 (……おかしいわ)


 私の脳内で、先ほど執務室へ戻る道中に桜律くんから直接聞いた「探索報告データ」が高速で再生される。


 (桜律くんは私にこう言っていたはずよ。『地下駐車場へ向かう途中、寒川さんにエレベーターの扉を閉められ、伏里くんと一緒に地下に取り残された』と……。彼らが一緒に行動していたのは地下駐車場周辺のみであり、桜律くんが伏里くんの『全階の男子トイレ捜索』に終始同行していた事実など、時間軸の計算上、絶対にあり得ないわ……!)


 伏里くんの証言は、桜律くんの存在を利用して自分の捜索の信頼性を補強するための、明らかなハッタリ——あるいは認識の飛躍だった。そして、桜律くんがそれに対して行った「保証」は……完璧な「偽証」だった。


 (なぜ……? なぜ桜律くんは、そんな嘘をついたの……?)


 私の理性が、即座に「桜律くんの偽証を告発し、論理的正確性を正すべきだ」と警鐘を鳴らす。口を開きかけ、彼の名を呼ぼうとした。


 しかし――私は寸前で踏みとどまり、言葉を飲み込んだ。


 横顔を見せた桜律くんの、冷めきった瞳。彼は、伏里くんを助けるためでも、曽根崎くんを貶めるためでもなく……ただ「不毛で無意味な推論のループ」を最速で終わらせるために、あえて偽証という手段を選択したのだ。

 ここで私が桜律くんの嘘を暴けば、「伏里のチェックは信用できるのか」「やはりトイレにいるのではないか」という無価値な議論が再燃し、この不毛な会議はさらに数時間引き延ばされることになる。


 (……合理的選択、ね)


 真実の解明よりも、生産性のない会議の強制終了。 桜律くんの意図を瞬時に理解した私は、静かに口をつぐみ、胸の前で腕を組んだ。


 「……さて」


 柊くんがホワイトボードを見上げながら、重い溜め息をついた。


 「宿直室、他課の部屋、更衣室、ロッカー、そしてトイレ……。考えられる『死角』は、これで全て否定されたことになるね」


 振り出しに戻った室内。三十九人の職員たちは、出口のない迷宮に迷い込んだかのように、ただ沈黙するしかなかった。

 田辺電治郎は、一体どこへ消えたのか。 重苦しい静寂が、再び特別総合課の執務室を侵食していった。


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