第2話 交友を築く時間
2-1
入庁から二ヶ月が経過しようとしていた。
特総課の若手職員たちに与えられた待遇は、日を追うごとにその豪華さと異常さを増していた。
まず割り当てられたのは、駅前に建設されたばかりの新築タワーマンションの部屋だった。
上層部の数フロアが丸ごと特総課の職員宿舎として確保されており、新卒であるオレたちにも一人あたり広々とした1LDKの間取りが与えられている。
本来なら破格の家賃が発生するはずだが、給与明細の控除欄を確認しても「全額手当支給」となっており、実質的な負担は完全にゼロだった。
部屋には新調されたばかりの最新式家電が完備され、ベランダに出れば、国家予算が注ぎ込まれ日に日に煌びやかさを増していく澪標の夜景が一望できる。
さらに、役所内にあるカフェテリアの優遇も異様だった。
特総課専用の金色に輝くIDカードを提示するだけで、高級仕出し弁当や挽きたてのドリップコーヒー、果物をふんだんに使ったスムージーなどが、すべて無料で無制限に提供される仕組みになっていた。
「みんな〜! 午前の書類チェック、本当にお疲れ様! 喉乾いたでしょう? カフェから冷たいスムージーと焼き菓子買ってきたから、仕事の手を止めて食べてね!」
執務室のドアが開き、先輩職員の女性が弾けるような笑顔でトレーを運んでくる。
その動きに合わせて、他の先輩職員たちも「お疲れ様!」「根詰めすぎちゃダメだよ」と口々に優しい声をかけて回っていた。
「えっ、いいんですか!? 先輩、いつもいつもすみません!」
「いいのいいの! 君たちはこの澪標の未来を担う、国家の宝なんだから! 私たちの仕事は、君たちが気持ちよく働ける環境を作ることなんだからね。何か困ったことや、やりづらいことがあったら、どんな小さなことでも私や他の先輩に相談してね?」
「ありがとうございます! 先輩たち、マジで優しすぎます……!」
若手職員たちが感嘆の声を漏らし、満足そうにスムージーを受け取っていく。
ここには、一般的な職場にあるような理不尽な叱責や厳しさなど微塵も存在しなかった。
与えられる指示はどこまでも甘く、たとえ事務処理で軽微なミスを出したとしても、「最初は誰でも失敗するよ」「気にしないで、私たちが直しておくからね」と笑ってフォローされる。
手厚すぎるほどのサポート、甘やかしとも取れる過剰な優しさ、そして破格の給料と手当。
それらが日常となるにつれ、若い職員たちの心には「自分たちは国家に選ばれた特別な存在であり、周囲から無条件に愛されている」という根拠のない万能感と選民思想が、恐ろしい速度で定着していっていた。
「ねえ、本当にこの部署に来られて良かったよね。同期の一般職のやつら、毎日遅くまで残業させられて手取りも安いらしいよ?」
「マジで? 可哀想に……俺たちとは背負ってるミッションが違うから仕方ないけどさ」
デスクのあちこちで、優越感に浸るような雑談が交わされる。
オレは配られたスムージーのストローを咥えながら、自席で淡々とその光景を眺めていた。
(……気味が悪いほどの優しさだな)
教育も指導もなく、ただちやほやと持ち上げられ、甘い蜜だけを与え続けられる環境。
新卒の未熟な人間性にこれほどの待遇を叩き込めばどうなるか。人間がダメになっていくのは火を見るより明らかだった。
オレは静かにストローを吸い上げ、冷たい果実の甘みを味わった。
2-2
「桜律くん、工藤さん。ちょっといいかしら?」
午後の作業が一段落したタイミングで、先ほどスムージーを差し入れてくれた先輩女性職員が、柔らかい笑みをたたえてデスクへやってきた。
「都市整備課へこの計画書の控えを届けてほしいの。向こうの担当者さんから受領印をもらって、ついでに折り返しの資料を受け取ってきてくれるかしら? 急ぎではないから、二人のペースでゆっくり行ってきて大丈夫よ」
「分かりました。行ってきます」
オレは立ち上がり、隣の工藤を見る。工藤は先輩の言葉が終わるか終わらないかのタイミングで無言のまま立ち上がり、指定された資料を手際よくクリアファイルに仕舞い込んでいた。
執務室を出て、役場内の長い廊下を二人で並んで歩く。
吹き抜けになった高い天井と、静まり返った廊下。カツカツと工藤の履くヒールの無機質な音だけが、規則正しく響いていた。
(せっかくの移動時間だし、少しコミュニケーションでも取っておくか。隣のデスクなわけだしな)
オレは隣を歩く工藤の美しい横顔に視線の焦点を合わせて話しかけた。
「工藤は、やっぱり仕事が早いな。いつも隣で見ていて感心する。何か作業を早く終わらせるコツとかあるのか?」
工藤は視線すらこちらに向けず、淡々とキーボードを叩くような無機質な声で返した。
「コツなんて存在しないわ。与えられた業務の仕様を正確に把握し、無駄な思考を挟まずに処理しているだけよ」
「なるほど。無駄を省くのが徹底してるんだな。ショートカットキーとかもかなり使いこなしてるみたいだし、参考にさせてもらっている。」
少し打ち解けた手応えを感じて会話を繋げようとしたが、工藤は一切歩調を緩めることなく、さらに冷ややかに突き放してきた。
「参考にするのは勝手だけれど、私の真似をしたところであなたの処理速度が上がるわけではないわ。そもそも、あなたが見ているのは表面上の操作だけであって、本質的なタスクの設計を理解していないでしょう?」
「まあ、確かに工藤ほど完璧に仕組みを理解して動けてるわけじゃないな。だからこうして教えを乞うてるわけだ」
「頼んでもいないのに教えを乞うなんて、随分とおめでたい思考回路ね。言っておくけれど、私はあなたの家庭教師でも上司でもないわ。自分の遅さは自分の無能さとして自覚し、自分で解決しなさい」
「手厳しいな。だが、そういうストレートな物言いをしてくれる奴の方が分かりやすくて助かる。ちなみに、息抜きとかはどうしてるんだ? ずっとあのスピードで打ち続けてると指も疲れるだろ」
世間話のつもりで投げかけたその問いに、工藤はついにピタリと足を止め、氷のように冷たい視線をこちらへ向けた。
「ないわ。それと、話しかけないでちょうだい。あなた、会話が壊滅的に下手ね」
「……え……?」
ピシャリと叩きつけられた言葉に、一瞬だけ思考が止まる。工藤はなおも容赦のない言葉を続けた。
「テンポも間合いも悪ければ、質問の意図も無駄だらけ。中身のない雑談で相手の時間を奪っている自覚はあるの? 社交辞令のつもりなら不快なだけだからやめてちょうだい。私は業務の遂行以外で口を動かす気はないの」
一切の情を挟まない、ストレートで鋭利なぶった切り。
普通の人間なら精神的なショックで立ち直れないほどの辛辣な言い草だったが、オレの脳内ではまったく別の変換が行われていた。
(なるほど、照れ隠しだな。ストレートに『私に気安く話しかけるな』と伝えることで、無駄な距離感を排除しようとする彼女なりの不器用なコミュニケーションか。なかなか独特なジョークを飛ばす)
(やっぱりオレたち、なんだかんだで良いコンビになりそうだな)
オレは冷淡に歩き直した工藤の後ろを静かに追った。
2-3
その夜、柊や世良、日向坂といった仕切り役の優等生グループ抜きの男子数人で、駅前の安居酒屋の個室に集まっていた。
「デキる男たち」の目が光っていないこの空間では、会話のタガが完全に外れ、くだらない本音が飛び交っている。
「いやー、寒川ちゃん高飛車だけどそこがマジで良くね? あの女王様みたいなツンとした感じ、足蹴にされたいわ。絶対わがまま聞いて振り回されたいね」
「俺は下北沢ちゃん派だな。落ち着いた大人の色気があるだろ。あの包容力で『お疲れ様』って言われたら一発で落ちるわ」
飯田が鼻の下を伸ばしながら、下品な笑みを浮かべてビールを煽る。
「でもお前ら、国宮ちゃんは狙うなよ? あいつは俺が落とすから」
「ハッ、山彦に落とせるわけねえだろ。あいつ誰にでも優しくてマジで天使じゃん。俺たち男子全員のアイドルなんだよ!」
田辺が熱っぽく語りながら突っ込む。国宮のあまりの可愛らしさと誰にでも分け隔てなく接する優しさに、男子たちはすっかり心を奪われており、少し話しかけられただけで鼻の下を伸ばして大喜びしていた。
山彦はフンと不機嫌そうに鼻を鳴らすと、頼まれてもいない高額な刺身の盛り合わせや限定の地酒を勝手に注文し始めた。もちろん、後で全員で均等に割り勘にする前提だ。
自分が美味いものを食べて腹を満たすためなら、同僚の財布などどうでもいい。根底にある底意地の悪さと頭の悪さが同居した、救いようのないクズな立ち回りを平然とやってのける。
「てかさ、駿河屋。お前最近マジで何もしてなくね? 昼間も堂々と寝てただろ」
「あ? うるせえな。寝てても給料入んだからやるわけねえだろ。文句あんなら課長に言えよ」
駿河屋はガラ悪く脚をテーブルの上に投げ出し、ジョッキをドカンと叩きつけた。あまりのガラの悪さに、田辺も飯田もそれ以上追及できない。
「伏里もなんか言えよ。お前さっきから黙ってスマホ見ながらチビチビ飲んでんじゃねえよ」
「……べつに。お前らの低次元な女品評会に興味ないだけ」
伏里は斜に構えてボソリと呟き、冷めた目線を送る。だがその手元では、タレがつきすぎて辛くなった唐揚げの最後の一個を、さりげなく田辺の皿へと送ってやっていた。
2-4
同じ頃、少し離れた路地裏にあるおしゃれなダイニングバーでは、コミュ力の高い女子グループが集まっていた。グラスに注がれた果実カクテルがライトに透け、華やかな笑い声が室内に響いている。
「やっぱり一番格好いいのは柊くんだよね〜! 気遣いもできるし、本当に隙がないというか完璧!」
「世良くんも捨てがたくない? 知的で落ち着いててさ、将来絶対に出世するタイプじゃん。私そういう人がいいな」
酒井や下北沢がキャーキャーと盛り上がる中、国宮莉緒は花が開いたような満面の笑顔で大きく頷いていた。
「うんうん、二人とも本当にステキだよね! 私、どっちのプレゼンもすごーいって思わず感心しちゃった!」
国宮はグラスを傾け、心の底から楽しそうに可憐な微笑みを浮かべる。その純粋で優しい立ち振る舞いは、場をふんわりと明るく彩っていた。
「そういえばさ、工藤さんって全然飲み会来ないよね。今日だって誘ったのに秒で断られたし」
「あー、あの人ね。なんか一人で浮いてない? 正直、ちょっと取っ付きにくいというか、冷たすぎて無理だわ」
「えー、そんなことないよぉ! 工藤さんもきっと人見知りで緊張してるだけだよ。今度私から優しく話しかけてみようかな!」
困ったように首をかしげながら、健気に仲間をフォローする国宮。みんなに愛される天使のような彼女の心遣いに、女子グループの雰囲気はさらに和やかないいものになっていった。
2-5
入庁二ヶ月の節目として、特総課全体での大々的な親睦会が開催された。
一次会が終わり、二次会へと流れる夜の歓楽街。酒が回り、気が大きくなった新卒たちは、夜風に吹かれながら路上でワイワイと大声で騒いでいた。
その時だった。
「痛えな! どこ目ぇつけて歩いてんだよブスが!」
千鳥足で歩いていた駿河屋が、通りすがりのいかつい男と肩がぶつかり、相手の胸ぐらを躊躇なく掴み上げた。
「あぁん!? お前こそ調子乗ってんじゃねえぞオラァ! 誰に向かって口きいてんだ!」
「なんだとコラァ! やんのか死にぞこないが!」
相手の連れたちも一斉に集まり、路地裏が一瞬で一触即発の喧嘩手前の空気に包まれる。
「おい、駿河屋やめろって!」
「ヤバいって、警察呼ばれたらどうすんだよ!」
周囲の同期たちが青ざめ、パニックになりかける中、群れを割って真っ直ぐに飛び込んできたのは柊優だった。
「二人とも、落ち着いて!」
柊は一切の躊躇なく、暴力が弾け飛びそうな喧嘩の真っ只中に割り込んだ。激昂する駿河屋の太い腕を全力で掴み、相手の男たちに向かって深々と頭を下げる。
「すみません! こちらの仲間が酒に酔っていて大変な失礼を働きました。本当に申し訳ありません!」
「おい柊、余計な手ぇ出すな! 俺がこの街のゴミごとぶっ飛ばしてやるんだよ!」
「落ち着くんだ、駿河屋くん!」
柊は暴れる駿河屋の肩を両手で力強く抑え込み、射抜くような真剣な眼差しで彼を真っ直ぐに見つめた。
「僕たちがここで問題を起こせば特総課の仲間に迷惑がかかっちゃうよ。こんなところで自分を貶め、不利になるようなことはしないでくれ! ここは一度落ち着いて、頭を冷やしてから怒りが収まらないなら僕に当たってくれ。」
必死で体を張り、仲間を守ろうとする柊の圧倒的な正義感と熱量。
相手の男たちも柊の異様なまでの気迫と真摯さに毒気を抜かれたのか、「ちっ、次からは気をつけろよ」と不快そうに吐き捨てて去っていった。
「柊くん、大丈夫!?」
「さすが柊くん……凄すぎるよ……」
駆け寄る同期たちから、惜しみない称賛と羨望の眼差しが柊に注がれる。駿河屋も気まずそうに顔を逸らし、小さくチッと言ったまま何も言えなくなった。
その歓喜と安堵の輪から少し離れた路地裏の影で、オレは缶烏龍茶を手に、その光景を静かに眺めていた。
仲間の絆に感動し、柊を称える同期たちの中で、オレだけが冷めた思考で事実を反芻する。
夜風が、街の灯りに照らされた澪標の歓楽街を冷たく吹き抜けていった。




