第17話 田辺電治郎を追って
17-1
四月二十日。午後一時のチャイムが庁舎内に鳴り響き、昼休みが終わりを告げた。
オレは3階のカフェテリアで定食を食べ終え、食後の冷たいお茶で喉を湿らせてから、いつも通り淡々と歩いて特別総合課の執務室へと向かっていた。エレベーターを降り、広々とした渡り廊下を歩いていると、曲がり角の陰からひょっこりと人影が現れた。駿河屋だった。普段は乱暴な口調と威圧的な態度で同期を見下すような仕草の多い彼だが、その時はどこかイライラとした様子で、それでいて不審そうに眉をひそめていた。
「おい、桜律」
珍しく駿河屋の方から声をかけてきたので、オレは足を止めて彼の顔を見た。
「なんだ」
「お前、田辺見なかったか? あいつ、午前中からずっと姿が見えねえんだよ」
駿河屋の言葉に、オレは記憶を巻き戻してみた。昼食に行く前、自席でPCに向かっていた自分の視界に田辺が入っていたかどうか。……いや、全く印象にない。
「見てないな。昼休みもカフェテリアにはいなかった」
「……そうか。まあ、お前に聞いたところで、そりゃそうだよな。悪りぃ、邪魔したな」
駿河屋は吐き捨てるようにそう言うと、頭をガリガリと掻きながら、オレとすれ違ってエレベーターの方へと歩み去っていった。一体何の用だったのだろうか。田辺と駿河屋が二人で行動するような仲だったかと考えようとしたが、関わるだけ時間の無駄だと判断し、思考を切り上げて自分の執務室のドアを押した。
室内は、出張から戻った後も相変わらずのどんよりとした空気が漂っていた。各自のデスクには未処理の書類が山積みになっており、あちこちでキーボードを叩く打鍵音や、溜め息、雑談とも苦情ともつかない愚痴が漏れ聞こえている。
オレは自分の席に着き、PCの電源を入れた。隣の席を見ると、工藤が既に自席に戻っており、氷のように無表情なまま恐ろしいスピードでブラインドタッチを続けていた。彼女の画面には、治牧への合同調査で持ち帰ったデータの分析シートと、他都市との比較グラフが表示されている。相変わらず隙がない。
オレも自分の割り当てられた日常業務に取りかかり、淡々と画面の数値を処理し始めた。
17-2
それから二十分ほどが経過した頃だろうか。執務室の入口付近で、少し高めの声が響いた。世良の声だった。
「田辺くん? 田辺くん、ここにいるかな?」
世良がタブレットを片手に、困惑したような表情で部屋の中を見回している。彼のその様子に気づいた柊が、作業していた手を止めて優しく声をかけた。
「どうしたの、世良くん? 何か探し物?」
「うん……実はね、田辺くんに昨日お願いしておいた予算の基礎集計データが、まだ届いていなくてね。今日の午後の打合せで使う予定だったんだけど、彼のデスクに行ってもいなくて。どこに行ったか知らないかい?」
世良の言葉に、柊は「えっ」と表情を曇らせた。
「田辺くんが? うーん……そういえば、僕も今日は朝から見かけていないかな。みんな、田辺くんの行方を知っている人、いない?」
柊が執務室全体に向かって大きな声で問いかけた。キーボードを叩く手がいくつか止まり、同期たちが顔を見合わせる。
「え、田辺? 見てないな……」
「カフェテリアにもいなかったよ?」
「タバコでも吸いに行ってるんじゃないの?」
口々に返答が飛び交うが、誰一人として田辺の居場所を把握している者はいなかった。その時、部屋の奥で足を出して椅子にふんぞり返っていた山彦が、面倒くさそうに口を開いた。
「田辺ならさ、そういえば朝から見てねえぞ」
「朝から?」
柊が目を丸くして山彦の方を振り返る。オレも少しだけ手を止め、山彦の顔を見た。
「朝からいないのか? 昼からじゃなくてか?」
オレが尋ねると、山彦は不機嫌そうに鼻で笑った。
「は? 知るかよ。俺がなんであいつの行動監視しなきゃなんねえんだよ。……あ、でも待てよ」
山彦はスマホを取り出し、画面をタップした。
「そういや、俺が今朝送ったメッセージもずっと未読スルーされっぱだな。……おいおい、まさかあいつ、あの『先輩たち』みたいに飛んだんじゃねえだろうな?」
ニヤニヤしながら吐き捨てられた山彦のその言葉に、執務室の空気が一瞬で凍りついた。「飛んだ」――すなわち、5600億円の赤字と激務から逃れるために、無断で職務を放棄して失踪した元先輩職員たちのことだ。
その空気を切り裂くように、部屋の端から鋭い怒号が飛んだ。志葉あかりだった。
「ちょっと山彦くん! 何冗談言ってるのよ! 笑えないんだけど!」
鋭い目つきで睨みつけられた山彦は、流石にマズいと思ったのか、慌てて両手を挙げておちゃらけてみせた。
「いやいや! 冗談ですや〜ん! なんでそんなマジになってんの? あいつがそんな器用なことできるわけないでしょ!」
山彦はヘラヘラと笑いながら誤魔化そうとしたが、ふと視線を横に向けた瞬間、言葉を詰まらせた。国宮が青ざめた顔で自分の口元を手で覆い、本気で怯えたように震えていたからだ。国宮のその様子を見た山彦は、気まずそうに目を逸らし、頭を掻いて黙り込んだ。
その重苦しい沈黙を破ったのは、隣に座る工藤の冷静冷徹な声だった。
「騒ぐのはやめなさい。単に個人的な用件で外出しただけでしょう。庁舎の外へ出ているのなら、ここで騒いでも意味はないわ」
工藤は画面から目を離すことすらなく、淡々とキーボードを叩きながらそう言い放った。取り乱す同期たちを冷ややかに見下すようなその対応に、周囲から不満の視線が集まる。
しかし、その言葉に異を唱える声が、予想外の場所から上がった。
『〜〜〜♪』
無機質な機械音が、執務室のパーテーションの上から聞こえた。サバキネコだった。いつの間にかそこに座り込んでいた猫が、無表情な顔を工藤へ向けた。
『工藤さん。ワタシのデータによれば、それもありませんよ』
工藤の指が、初めてピタリと止まった。
「……どういうことかしら?」
『田辺くんが庁舎の外出したという事実はありません。本庁舎の出入口に設置された監視カメラのログを確認しましたが、彼が外へ退出した記録は一回も存在しないのです』
「え……?」
国宮が掠れた声を上げた。外に出ていない。つまり、田辺は今もこの巨大な庁舎のどこかに潜んでいるか、閉じ込められているか、あるいは――。
ちょうどその時、ドアを勢いよく開けて戻ってきた駿河屋が、サバキネコの言葉を耳にして声を張り上げた。
「おいサバキネコ! 監視カメラがあるなら、それで庁舎内を全部検索すれば一発だろ! どこに潜んでるか探せよ!」
だが、サバキネコは首を横に振った。
『それは不可能です。経費削減および省電力化のため、現在駆動している監視カメラは出入口などの最重要箇所のみとなっております。内部の廊下や執務室周辺のカメラはすべて停止中なんですよね』
「はあ!?」
駿河屋の顔が怒りで真っ赤に染まった。彼は猛然とダッシュすると、パーテーションの上のサバキネコに向かって飛びかかり、その首元を掴もうとした。
「ふざけんじゃねえぞクソ猫が! 役立たずが!!」
「駿河屋くん、やめて!」
間一髪のところで、柊が間に割り込み、駿河屋の太い腕を抱きかかえるようにして必死に制止した。
「放せ柊! こいつぶっ壊してやる!」
「落ち着いて! サバキネコを壊しても田辺くんは見つからないよ!」
二人が揉み合う中、デスクに腰掛けていた飯田が、呆れたように鼻で笑いながら声を上げた。
「なんだよ大騒ぎしてバカじゃねえの? 庁舎内にいるなら電話かければ一発だろ。何で誰もスマホ鳴らさねえんだよ」
飯田はそう言うと、自分のスマホを取り出し、田辺の番号をタップしてスピーカー通話に設定した。
PRRRRR……PRRRRR……
電子的な呼出音が執務室に響く。そして、三回目の呼出音が鳴った瞬間――。
リンリンリンリン!!
リンリンリンリン!!
執務室の隅、田辺のデスクの上に放置されていたカバンの中から、激しい振動音と着信音が響き渡った。
「「……え?」」
全員の視線が、田辺のデスクへと集中した。飯田の手がピタリと止まる。近くにいた山彦が、引きつった顔で恐る恐る田辺のカバンに手を伸ばし、中から振動し続けるスマートフォンを取り出した。画面には『飯田博之』の文字が点滅している。
「……スマホ、置いてある……」
山彦のつぶやきが、部屋中に重く響き渡った。
現代において、肌身離さず持ち歩くはずのスマートフォンが、カバンの中に残されたままになっている。そして本人は朝から姿を見せず、外に出た形跡もない。一瞬の静寂の後、部屋の奥にいた雪森が、ぽつりと呟いた。
「は? ……あいつ、どこに行ったんだよ」
その一言が引き金となった。
「嘘だろ……!? 夜逃げか!?」
「一人で逃げたのかよあいつ!」
「裏切ったのか!? 俺たちを捨てて逃げたのか!?」
「嫌だ! 逃げられないって言ってたじゃない! なんで田辺だけ!?」
執務室は一瞬にして阿鼻叫喚のパニックに陥った。恐怖と怒り、そして取り残されることへの焦燥感が新人たちの理性を吹き飛ばす。怒号と悲鳴が交錯し、デスクを叩く音や椅子が倒れる音が部屋中に響いた。
「みんな! 落ち着いて! 一度落ち着こう!」
「そうだよ! 取り乱しても何も解決しないよ!」
柊と国宮が必死に声を張り上げ、群衆を抑え込もうとするが、一度狂乱に陥った集団の暴走は止まらない。
「落ち着けるわけないでしょ!!」
寒川が金切り声を上げた。彼女は涙目になりながら、自分を宥めようとした国宮の手を激しく振り払った。
「国宮さんはいいよね! 男子たちに守られてて! こっちは田辺がいなくなったら仕事が全部降ってくるのよ! どうすんのよこれ!!」
「寒川ちゃん、私はそんなつもりじゃ――」
「うるさい!!」
ドカァン!!
激しい破壊音が響き渡った。駿河屋が暴挙に出たのだ。怒りの収まらない彼は、目の前にあった空のデスクを思い切り蹴り飛ばした。
「駿河屋くん、やめ――」
制止しようと前に出た柊の顔面に、駿河屋の振り抜いた拳がクリーンヒットした。
バカッ!
という生々しい音とともに、柊の体が吹き飛び、床に激しく転がり落ちた。
「きゃあああああっ!!」
女子職員たちの短い悲鳴が上がり、執務室全体が、氷を打ったように静まり返った。柊は口元を押さえ、痛みに顔を歪めながらゆっくりと体を起こした。唇の端から薄っすらと血が滲んでいる。
「……っ……」
暴力という決定的な一線を超えたことで、周囲の同期たちは一気に我に返り、引いた目で駿河屋を見つめた。特に女子グループや世良たちの視線は、明確な軽蔑と強い拒絶を帯びていた。駿河屋自身も、やってしまったという表情で拳を握りしめたままバツが悪そうに視線を泳がせた。彼は吐き捨てるように「チッ」と舌打ちをすると、床に落ちていた田辺のカバンを思い切り蹴り飛ばし、ドカリと自分の席に深々と座り込んだ。
床に膝をついたまま、柊は血を拭い、周囲を見回した。そして、静かだが力強い声で語りかけた。
「……みんなが困惑して、不安になる気持ちはよくわかるよ。田辺くんがいなくなって、自分たちだけが取り残されるんじゃないかって、恐怖を感じるのも当然だ」
柊は立ち上がり、服のホコリを払った。
「でも……だからこそ、僕たちは今、落ち着いて状況を整理しなきゃいけないんだ。パニックになって同士討ちをして、何になるのか? 一度みんなで話し合おう。ね?」
柊のその姿勢と、殴られながらも仲間を気遣う言葉に、室内には少しずつ冷静さが戻り始めた。駿河屋に対する厳しい視線は消えなかったが、同期たちはそれぞれの席や椅子に腰を下ろし、話し合いに応じる姿勢を見せ始めた。
それを見ていたサバキネコが、冷酷な声で宣誓した。
『暴行罪および器物破損。本来なら即刻懲罰対象、減給および特別罰則の対象ですが……被害者である柊くんが許すのであれば、ワタシとしては目を瞑るとしましょう』
サバキネコはそう言って細い目をさらに細めた。世良がメガネの位置を直しながら、前に出た。
「サバキネコ。田辺くんの『最後の目撃情報』について、詳しく教えてくれないかい?」
サバキネコは耳をピクリと動かした。
『ワタシが最後に見たのは、今朝『午前5時3分』に彼が庁舎の東側通用口から出勤してきた監視カメラの映像だけですね。それ以降の映像はありません』
「午前5時……!?」
佐川が目を見開いて声を上げた。
「なんでそんな朝早くに!? あいつがそんな早朝に出勤してくるわけないだろ!」
その疑問に対し、世良が重い溜め息をつきながら答えた。
「……それについては、僕に心当たりがある。昨日、田辺くんに振っていた業務の進捗を確認したんだ。そうしたら、彼は何一つ手を付けていなかった。だから僕が彼に注意したんだ。『明日まで――つまり今日中に終わらせないと、特総課全体の手続きが止まってしまう。明日中に必ず完成させてくれ』とね」
世良は苦々しい顔で言葉を続けた。
「きっと彼は、焦って朝早くに出てきて作業をしようとしたんだと思う」
世良の説明を聞いていた下北沢が、腕を組んで眉をひそめた。
「ちょっと待ってよ。もしそうなら……仕事の方はどうなるの?」
下北沢は部屋の中を見回しながら指を折った。
「山彦くんの話だと、朝から姿を見ていないんでしょ? ってことは、昨日まで全く手をつけていなかった仕事が、朝から一切進んでいないってことじゃない。今日中に終わらせなきゃいけないなら、もうあと半日しかないのよ?」
世良は静かに頷いた。
「ああ、その通りだ。……でも安心してほしい。田辺くんの担当分は、僕が今から引き受けて今日中に終わらせるよ」
「世良くん……! でもそれじゃ君の負担が――」
柊が心配そうに声をかけるが、世良は無理に作ったような笑顔で首を振った。
「大丈夫だよ、柊くん。僕がやるしかないんだから」
その時、後方から飯田が再び大声を張り上げた。
「そんなことよりさあ! じゃああいつは本当にどこに行ったんだよ!? 朝5時に来て、スマホ置いてどっか消えたんだぞ!? 事故か!? それともやっぱり事件かよ!?」
飯田の騒ぎ立てる声によって、せっかく落ち着きかけていた場が再び乱れそうになった。
「ちょっと飯田くん!」
寒川が立ち上がり、怒りを込めて飯田を指差した。
「今、話し合いの途中なんだから好き勝手喋らないでよ! パニックを煽らないで!」
「そんなこと言ったって俺だってパニックなんだよ! あいつと昨日まで一緒にバカやってたんだぞ!? どうすんだよ急にいなくなったら!!」
大慌てで取り乱し続ける飯田と、それを責め立てる女子たち。収拾がつかなくなりかけた様子を横目で見ながら、オレは隣の世良に向かって静かに歩み寄り、耳元で提案した。
「世良」
「……ん? 桜律くん、どうかしたかい?」
「飯田や、ああやってパニックになって騒いでる奴らには、具体的な役割を与えた方がいい」
世良は一瞬目を見開いたが、すぐにオレの意図を理解したように深く頷いた。人間は暇と恐怖が結びつくと暴走する。体に負荷をかけ、作業に集中させた方が手っ取り早い。
「なるほど……ありがとう、桜律くん」
世良は前へ踏み出し、パンと手を叩いて全体に指示を出した。
「みんな、聞いてくれ! じっとしていても不安が募るだけだ。今から手分けして、庁舎内を捜索しよう!」
世良はタブレットを開き、素早くグループ分けを提示した。
「飯田くん、山彦くん、駿河屋くんたちはエントランスを見てきてほしい。女子の皆さんは休憩室や給湯室を中心に頼む。もし田辺くんを見つけたら、すぐに連絡してくれ!」
「お、おう! 分かった!」
「探せばいいんだな!?」
役割を与えられたことで、飯田たちは現金なほど素直に動き出し、ぞろぞろと執務室を飛び出していった。他の同期たちも、それぞれの担当エリアへと散っていく。
あっという間に騒がしかった執務室から人が減り、静けさが戻ってきた。
部屋に残ったのは――世良、柊、国宮、工藤、寒川の五人と、パーテーションの上に佇むサバキネコ。
そして、オレを含めた残り34名のメンバーは、消えた田辺電治郎の行方を追うため、広大な庁舎の捜索へと繰り出すことになったのだった。




