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ユハル・イスファ――英雄にならなかった兄へ――  作者: 忍び猫
第一章「アララタ河の水神」
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第6話 白樺の道

 兄は、ブナの生い茂る深い森を縫うが如くに走り出していた。


 何という速さだろうか。シダの群れが野分(のわき)の後のように踏み倒されている。私は、苔むした足元で、滑って転びそうだと言うのに。


 肩で息をする。これ以上、離されてたまるものか。急いで靴を脱ぎ捨てた。


 感覚を研ぎ澄ませる。もう、足裏そのもので地面を捉えたほうが良い。これ以上は、ユハルを見失ってしまう。


 ――追跡が気づかれたのは、火を見るより明らかだった。


 ――常人ならざる鍛錬を積んでいることもまた。


「何が文官の道を選ぶよ。全く」


 急がねばならない。それも可及的速やかに。だが、この暗黒の森で喜びを噛み締めてしまう。


 だって「覚知」した自分と、対等に張り合っているのだ。


 その能力が自分と同じかどうかなんて、些細なこと。


 シダを(かわ)し、苔を飛び、最短経路で兄のもとへ、仄暗(ほのぐら)い巨大な森の中を疾走した。


 絶対に追いついてみせる。視線の遥か先に、ユハルを捉えた瞬間のことだった。


「「ア リ シ ャ !! だ め だ !!」」


 大きな法螺貝(ほらがい)だった。何故、そんなもので、言葉が伝わるのか分からない。


 ゆっくりと五感が平常になっていく。兄の姿は見えなくなった。


「「そ れ 使 わ な い な ら。 連 れ て 行 く。良 い か ?」」


 私は小さく頷いてみせた。すると、突然背後から目隠しをされた。温かい手だった。


「さて、私は誰でしょうか?」


「からかわないで下さい。お兄様。どうやって間を詰めたのですか……」


 困惑した。何故なら私と兄の間には、全力疾走しても追いつけない程の距離があったはずなのに。


「魔道具さ。この法螺貝もそう。魔法の道具だよ」


「な! 幻滅しました! 厳しい鍛錬の末に、会得したものではないのですね?」


「……一応、扱いには、それなりの修練がいる。お前は見たことが有るはずだ」


 すぐには思い当たらない。何故なら、剣士の気風が色濃いこの国は、そういった事に関心が薄いのだ。だがふと心中に閃くものがあった。もしかすると、それは。


「……ルシアの香炉ですか? 水神を奪った、あの卑劣な?」


「そう。神封じの香炉だ。七百年以上前に失われた禁忌の代物だ」


「どうして、そんな物を、ルシアが持っているんです?」


「いま大切なことは、あいつを止めることだ。それ以外は後回しだ」


 そうだ。私は、ルシアを助けたい。その他は余分だ。


 ユハルに手を引かれ、暗い森を抜けた先に、懐かしい道があった。


 幼い日、冬の勾配を彼女と駆けた、あの白樺の道が。


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