第5話 胸騒ぎ
――今更、昔を思い出して、どうなるのだろう。
青磁の細い花瓶に生けられた石楠花を見つめた。思考は沈殿し、浮上を繰り返す。逡巡は何度周回しただろう。
だが、今大切なのは、龍神を奪還し、ルシアを捕らえることだ。そして彼女を……。
――だって、決めたんだから。世界一の女王になるんだって。
その時だった。どこからともなく、誰かが私を呼んでいた。
「? お兄様? いつの間に!」
「もう三日も、夕食に顔を見せないと父上から聞いた」
「どうかしてますわ。お兄様。こんな夜遅くに訪ねるなんて」
「男子禁制でも構わない。お清めの儀式だろうと、お前を助ける」
頬に朱が差した気がした。そっと視線を外した。身体中を熱が波打つのが分かる。
「ルシアを……どういたしますの?」
核心を突く。答えそのものより、私はただ、はやる鼓動を落ち着けたかった。
「本人を捕まえて問いただす。その答え次第だよ」
静かなそれでいて力強い兄の返答。いつもの慈愛に満ちた笑顔。
気づけば星の綺麗な夜だった。翡翠の窓枠から、明滅する光が見える。
彼女の望みは、もう決まっているだろう。恐らくは十中八九――。
それでも、私は心の奥底にかすかな希望を抱いた。
あくる朝のことだった。
王座の間で、宰相補佐の兄が父上に拝謁していた。アララタ河の治水事業らしかった。
「……河道の蛇行は、複雑怪奇そのもの。陛下、土のうの積み上げは限界。堰の切替は最早間に合いません」
父王アガト・イスファは重い口を開いた。しわがれた声は、深い憂いを帯びている。
「神の棲まぬアララタ河は、人の手に余るな。だが、賊の見当はついておるのじゃろう? 其の為の時間稼ぎなのだからな」
「承知しております、陛下。既に件の者は、配下の手練れが捕捉しました」
「ほう? 仕事の早い奴だ。それで、賊はいつ山頂の神域を襲撃するのだ?」
「恐れながら、賊の狙いは、別の所に有るようでございます」
片膝をつき恭しく臣下の礼を取る兄ユハル。その姿勢を見れば分かった。これ以上は口にするつもりがないのだ。
玉座に深く腰掛ける父は、王笏を小さく叩くと呵々大笑した。
「王籍に戻す必要はないようだな? ユハルよ。万事、任せた」
「御意」
ビロードの外套を翻した兄は、悠然と王の間を退出していく。
勝算があるのだろう。それでも胸騒ぎがする。
父が止めるのも聞かず、私は駆け出していた。




