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ユハル・イスファ――英雄にならなかった兄へ――  作者: 忍び猫
第一章「アララタ河の水神」
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第4話 覚知

 夜鳥(やちょう)の声が煩い季節だった。蒸し暑さのあまり、目が冴えて眠れない。


 宮廷医に夢見草(ゆめみぐさ)の類を処方されたが、一向に改善されない。私は頭がおかしくなりそうだった。


 この頃だった。何かにつけて感覚が研ぎ澄まされていったのは。


 まず、背後を歩く人の声を鮮明に聴き分けるようになった。


 他愛のないおしゃべりを、そっくりそのまま羊皮紙(ようひし)に書きつける。


 他人の恋愛事情はいいゴシップになった。とても王女のやることではないが、


 小遣いの酷く制限された当時の私には、それなりに良い稼ぎ口になった。


 流石に部屋の盗み聞きは、兄に止められたのだが。


 冴えわたる感覚が顕著だったのは、特に剣術においてである。


 生徒は勿論のこと教師の剣も止まって見えた。ひどく遅い。


 私は復学当初、からかわれているのだと思った。組み手はいつも模造刀を喉元に軽く置いて終わりだった。


 ただ辛うじて兄の剣だけが、まともな袈裟懸(けさが)けを描いて見えたのだが。


 ある真っ暗な夜のこと、座学の授業をさぼっていた私は、元寺院の学舎に一人取り残されていた。


 不意に手元のランプの明かりが消えた瞬間のことだった。


 頭上のアーチに七名、級友が張り付いていることが、はっきりと()()()()。獲物は吹き矢の類であることも。


 私はさっと身を翻し、長柄の儀仗を手にすると、飛び上がり大きく一薙(ひとな)ぎしたのである。


 彼らは、立ちどころにもんどり打って転げ回った。一瞥(いちべつ)をくれて小回廊(しょうかいろう)を背にする。


 その日以来、私は他人の詮索はやめることにした。


 あくる朝のことだった。私は校長に呼び出されたのだった。長いお小言を覚悟していた。


 だが、豪奢(ごうしゃ)な絨毯が敷き詰められた、香草の薫る白い部屋で告げられたのは、耳慣れない言葉だった。


覚知(かくち)だね。君のそれは」


 ガルド校長は、物憂げにそう答えた。この国随一の剣聖である。


「カクチ……? そんな物、教本にありましたか?」


「相伝書には記述がある。曰く、妖怪の術じゃと」


 筋骨(たくま)しい老人の執務机に詰め寄る。黄緑色のローブの袖口を思わず掴んでしまった。


「先生。私は王女です。言葉が過ぎるのではないですか?」


「失礼した。しかし、貴女様の力は、人の手に余るものじゃ」


 校長は、頭を抱えている。灰皿には無数の水煙草の吸い殻が、積み上げられていた。


「兄の剣だけは、動いて見えるのです。彼から一本取るのは苦労しました」


 わたしは、ふと疑問に思っていることを口にした。ぽつねんと掛け時計の振り子を眺めながら。


「ユハル様を打ち負かすとは……」


「ええ! 私は特別なんだわ!」


 鼻息荒く快哉(かいさい)を叫ぶ。だが、ガルド校長は声を潜めて言った。


「己の時間を強制的に進める。若死にするのです……」


 むしろいまこの時間が止まった気がした。時計の針が怖くて見れない。


 震える手を胸に当てて、心音を確認する。


 強い雨脚とともに、どこか遠くで雷が(とどろ)くのを()()()


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