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ユハル・イスファ――英雄にならなかった兄へ――  作者: 忍び猫
第一章「アララタ河の水神」
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第3話 星影さやかな夜

星影(ほしかげ)さやかな夜だった。


深い藍色の空を、流星の群れが長い尾を引いて落ちていく。鈴虫の音がひんやりとした空気に心地よかった。あの雪かきの日から三年はたっただろうか。


市井(しせい)の中で、私たち兄妹はひそんでいた。


赤煉瓦の小さな修道院。ルシアの家に身を寄せていた。


一時の話ではあったのだが、父王は簒奪(さんだつ)の憂き目にあったのである。ただ、その話は少し置いておこう。平定は目前だったのだから。


礼拝堂の裏手で、私たちは仮初(かりそ)めの暮らしを営んでいた。


低い声が、暗赤色の壁に反響する。


「……だから、紙幣を増刷すれば良いわけじゃないんだって」


「そうなのか。上手くはいかないんだな」


兄は、帳面に整然とメモを書き連ねていく。背筋をピンと伸ばして聴き入っているようだった。


今日、学院でならったであろうことを、ルシアはユハルに熱心に教えている。


まるで鬼教師だ。狭い(すす)けた部屋を行ったり来たりする彼女は、教え子を木製の椅子に縛り付けている。


縄こそなかったが。


私は修道院の軒先で足をぶらつかせる。生あくびをしていた。


平和そのものだった。


けれど、最後の流星が、地平線の彼方へ消え去る瞬間、チクリと何かが心を刺す気がした。


神官といえど所詮ルシアは平民。


どうして彼女が我が兄と対等でいられようか。


いずれ王籍に復する身なのだ。


思わず目を凝らして机の方を見つめた。


四角い窓をランプの明かりが照らしている。


「……ユハル? 聞いてる?」


「うん? すまない。少し考え事をしてしまった」


「君は、時折思考が跳躍する。私たちは、まだ基礎を固めなきゃいけない」


ルシアの顔にいつもの穏やかな笑みが浮かんでいた。


授業はもう終わりなのだろう。


「そうだな。いつもありがとう。何かお礼がしたいけど、あいにく今は持ち合わせがね」


灰色の僧衣を(まと)ったユハルは、天窓の月を食い入るように見つめているようだった。


「うーん、私が欲しいのは、物じゃないんだけどな……。ユハル」


兄は、背後を振り返った。


ルシアの声は聞こえるのが不思議なくらい小さな声だった。


ランプの灯がゆっくりと消える。


差し込む月明かりだけが、見つめ合う二人を照らしていた。


私は息を呑んだ。


「好き。今しか伝えられないの。君の気持ちを聞かせてほしいな」


伏し目がちに、言葉を続けたルシア。すみれ色のハンカチで涙を拭っている。


「――これからも、友人のままでいてくれないか? すまない」


兄は、腰を下ろして横を向く。樫の椅子にもたれかかった。


「伝えるのが早ければ、返事は違ったかな?」


ルシアは、兄を見おろすようだった。冷徹な司法官の如く冷たい眼をしていた。


「それはあり得ない」


凛とした声で兄は答えた。いつもの彼だった。


「それを聞いて、安心しましたわ。王子。ならば、これで家庭教師は終わりです」


「え? それはどういう……」


間が悪いことに口を挟んだのは、私だった。兄は眼を瞬かせている。


「王の帰還は明日です。保護者が戦況を知らないはずありませんわ。これからは敬語かと思うと、本当に疲れます」


ルシアは月光に映えて神秘さを纏っていた。けれど、彼女の口調はどこか快活であった。


思いがけない形で、長い冬が終わることを知り、私はほっと胸を撫で下ろしたのだった。


――そう、思っていた。


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