第1話 龍に乗る巫女
遥か雲海の彼方より、巨大な龍が真っ逆さまに降って来たのだ。
それが石畳を這いずり回るさまは、さながら苦悶にのたうち回るようであった。
山頂の神域は一方ならぬ喧騒に包まれている。
その時だった。
纏っていた雷光が、宵闇に迸ったのだ。
紅く巨大な瞳が暗く濁り、正気を失っているのが分かった。
ごつごつと隆起した皮膚のあちこちが裂け、真っ青な血を噴き出していた。
イスファの民の誰が見間違えるだろうか。
我らの水神である。
だが、その姿は凄惨そのものだ。
周囲にこだまする滝の音が、更に焦りを募らせていく。
眼前の龍に、威厳に満ちたかつての面影はない。
龍の頭に、何者かが乗っていた。
朱い祭服に身を包んだその人間は、私が見知った者だった。
幼い頃、共に笑い共に学んだあの友にほかならない。
「まさか……ルシアなの?」
蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う従者たちを横目に、私は駆け寄ろうとした。
だが。
「久しぶりだね。アリシャ。まさか、神に逆らうつもりじゃないだろうね?」
背筋に怖気が走る。
毒蛇に睨まれた蛙のように怯んだ。
剣が利き手から、乾いた音を立てて地面に落ちる。
――それでも
「……私たちの水神を返して!」
肺腑より抉り出すような、精一杯の言葉。
だが、ルシアは静かに微笑みながら言った。
「そう? なら、貴女。私の言うことを聞いてくれる?……なんでもよ」
「……条件次第ね。聞けるものなら、聞いてあげるけど」
王女としての矜持が、私に口を開かせた。
さっと、足元の剣を拾い上げる。
切っ先を向けた。
「ふーん。感心しないな。全然だめ」
ルシアは、暴れまわる龍を宥めすかすように、二本の角を握りしめた。
稲光が鱗という鱗から、虚空へと消し飛ばされていく。
すると龍は、古びた香炉にあっという間に吸い込まれて行くではないか。
片手に収まるそれは、到底、神を封じる器とは思えない。
私はただただ唖然とその光景を見つめているだけだった。
「さて、感心しないのは、貴女だけじゃない。アリシャ。ユハルにもね」
「兄さんが? なぜ?」
眼前の巫女は、美しい黒髪をなびかせながら、人差し指を唇に当てた。
「こんな肝心な時に、お姫様のそばにいないなんてね。幻滅だなぁ。男子禁制のお清めの儀とはいえねぇ?」
「変わらないのね。理想が高すぎるのよ。神官を辞めたのは、何故かしら?」
思わず軽口を叩いてしまった。
だが、雲間にのぞく半月を背に、彼女は真剣な眼差しをしている。
眼に映る光は、月光などではなかった。
「今度は失敗しない。アリシャ、次で最後だ」
向けられた敵意はほんの一瞬だけのことだった。
無防備に背中を見せる旧友。
彼女は無言で、麓へと足を向ける。
私は剣を握り締めたまま、ルシアを斬り伏せることが出来なかった。




