第1話 偽りの星空
北の白夜に広がるのは、蒼の父星と紅の母星だ。極彩色の双極の星。その周りを幾つもの星座が静かに巡る。
とりわけ目を引くのは、虎を形作る星々だ。その光が眩いのは、かつて兄弟であった龍の星辰を、今もなお追い続けているからだと言われている。
――綺麗だ。けれども。
ここにあるものは、全てニセモノだ。
なぜなら、天頂の夜空は、到底ありえない速度で回転している。時計の針よりもずっと速く、空は疾走していた。
――幻術だ。間違いなく。
尖塔の屋根に人影が見える。
夜に溶け込んだマントが、風を孕んで翻っていた。
月明かりに照らされた相貌が浮かび上がった。
耳元まで裂けた口に象牙色の牙が対を成している。
――鮮血がこぼれ落ちていた。
その血は、紛れもない本物だった。
何故なら――
◇
「香炉は返却して頂きましょう。アレは元々、私たちの物です」
ディルガ外務卿ベルグは慇懃な物腰で返却を求めた。
その言葉には有無を言わせぬ圧力がある。
「水神を狙ったのではないと? ふふ、音に聞こえし外政の雄も、隠し事は出来ぬと見えます」
ユハルは、静かに敵意をむき出しにした。
石英のタイルが張り巡らされた部屋が、息苦しいほどの緊張に満ち溢れていく。
「お二人とも……。大切なことをお忘れです。香炉を盗んだ犯人をまだ捕らえておりません」
二人が、私を見つめた。
私は一口水を口に含んだ。
「あれは、怪盗カイゼルの仕業です」
何が可笑しいのだろう。
ベルグは忍び笑いを漏らしている。兄はただじっと腕を組みながら思案顔だ。
「……何がおかしいのです」
この金髪の男は好きになれない。
父上はこんな陰険な笑いを浮かべる男を婿にするつもりだったらしい。
そう聞いた時のことを思い出すだけで背筋が冷えた。
「アリシャ姫、その男は一年前に死んでいる。ちょっとした事故でね……」
一国の王女に向けていい態度ではない。
余りにも礼を欠いた声音だった。
「『カイゼル』は名跡のようなものです」
ぴしゃりと兄がベルグを戒める。
執務室が静寂に包まれた。
月の光が差し込んでいた。
「なるほどね。影法師を闇市に流したのも『カイゼル』か」
ベルグは布張りの安楽椅子に腰掛け、物憂げな表情を浮かべていた。
窓の外を見て独り言のように呟いていた。
「……下手人を引き渡して下さい。ガランに手を出さないなら、香炉はご返却します」
兄に促され、そっと狭い白く磨かれた部屋を退出しようとしたその時だった。
「おや? いつからあの国の国使になられたのかな? 貴方はイスファの人間でしょうに」
一拍置いて、ベルグの低く呻くような声が磨き抜かれたタイルに反響した。
「同盟を結んだのです。何、既成事実を明文化したに過ぎません」
「やれやれ、下手に出ていれば良い気になってさ。こんな男が義兄? 王族ですらないくせに」
態度が豹変している。
外務卿は最早敵意を隠していない。
こちらへにじり寄って来る。
瞳が、紅い月の色に染まっている。
いつの間にか、金色の髪は床に届くほど伸びていた。
何より――
その長い牙は、人のものではなかった。




