第5話 燃える水晶宮
水晶宮は、夥しい白煙に包まれている。結界の随所に綻びが生じていた。
分厚い光の膜を、何かが蝕んでいる。それは、白蟻を想起させる何かだった。
「触るな! アリシャ!」
兄の呼びかけに、我に返った。鐘楼に登り、光を齲蝕する虫に手を伸ばした時のことだった。
「兄さん? どうしてここに?」
「あのな! それは、何でも溶かすんだ」
額から大粒の汗がこぼれ落ちている。決然とした瞳で私を見据えていた。だが次の瞬間――
彼に抱きかかえられ、私は気が動転した。その時だった。吊り綱の切れた梵鐘は、まるで坂道を転がり落ちる酒樽のように城内を転がり回ったのだ。
それが中庭の噴水広場の入口で静止すると、私はようやく地面に降ろされた。
「全く、いつも無茶しやがって」
「自分だけ、安全な所に逃げるなんて出来ません」
気恥ずかしさは、収まりそうになかった。けれど、眼の前の白髪の元王子には、それだけは宣言しておかねばならなかったのだ。
――ギーギーギー……
不気味な金切り声と共に、何かがゆっくりと旋回している。
鷹の翼が背中からせり出している。
――ギーギーギー……
焼け爛れる紅い空を、幾体ものソレが飛び回っていた。
「陛下は無事だ。結界は張り直せる。虫はそのうち消えるからな……」
「あの異形の鬼たちは、全力の私とほぼ互角です!!」
――ライラの影法師
呪われた魔道具に違いない。十二体いる。もう兄に遠慮など出来ない。例え――
「アリシャ。あの数を覚知で斬れば、間違いなくここで死ぬ」
上空の結界は、既に食い破られ、光を失っていた。奴らが時計の針の如く、等間隔に空へ並び始める。それはまるで、私たちにレクイエムを口ずさんでいるかのようだった。口腔の奥に、光の球が収束している。
「全て斬り伏せます。死ぬことなど怖くない。継承が有るべき順位に戻るだけです!」
兄は、この燃える水晶の城で、不敵な笑みを浮かべ、こう言った。
「……まさか? 俺が、あんな奴らに負けるとか思ってる?」
――瞬断・瞬斬――
あっという間に、八時の位置の一体が切られた。間を詰める魔道具を彼は持っているのだ。
打ち下ろしと横薙ぎが、ほぼ同時の二撃。今の私でも躱すことはまず、出来ない。
ついで九時と十時を討ち取ると、空中で更に跳躍する。
沈みゆく太陽を背に、彼は重々しい呪言を口にした。
――分身する人形
――ユハルが九人いる?
青鬼たちが、羽交い締にめされていった。翼が閉じられていく。十一時の彼が本人らしい。鬼の身体を足場に、時計回りに素早く滑走する。
落下していく奴らの首を、正確に刎ね飛ばした。
でもどうするの? ひょっとして距離を縮める魔道具は、回数制限があるのかもしれない。
彼は、もの凄い勢いで落下している。地表との距離は目と鼻の先だ。激突してしまう。
――万事休す
私が眼を逸らそうとした、その時。
兄は噴水の天頂に刃を突き刺して倒立していた。
悠然と、仕込み杖をしまう兄ユハル。
その顔にはいつもの穏やかな笑みが湛えられていた。
◇
その晩のことだ。
私たちは、久しぶりに二人だけで食事を取った。
「……基本的に、話し合いは無駄だよ、アリシャ」
「ですが……」
どうしても無理なのだろうか。兄はそもそもリウス様を討たんとしているらしい。
「俺には、そっけなかったなぁ。お前だけには、甘かった」
彼はそう言うと、アヒルの肉を上手にナイフで切り分け、次から次へとフォークで口に運んでいる。
私は気もそぞろで、スプーンですくっては、ぽろぽろとこぼしてしまう。
「それでも、私は、助けたい。リウス様の望みは直轄領の水なのでしょう?」
何食わぬ顔で、ナプキンで、口を拭いて尋ねた。
「永遠の命だね。そのための水だよ? リウス様の本懐は。不死を望まない人形遣いはいないさ」
硬質の音を立ててスプーンが、転がる。私は履き違えていたというのか。
では、ユハルも例外ではないと?
兄はただ、目の前に運ばれた魚のソテーに、何事もなかったかのように舌鼓を打っていた。




