第8話 ライラの香炉
「進んでるな……。覚知なしで、ルシアの動きを見切るかよ」
ユハルは、天を仰ぐ。仕込み杖を支えにして、立っているのがやっとのようだった。
鉄針は、神の雷を全て削いだ訳ではなかったらしい。地表は焼けただれている。
それでも、広大な白い半球が、私たちを呑み込んでいた。まるで、静かな墓標のように思えた。
「……やってくれるじゃない? 甘くみていたわ、王子様」
その口調に、当初の余裕は感じられなかった。明らかに呼吸が乱れている。
朱い祭服は、見るも無惨に黒く焼けて、神秘的な雰囲気は微塵も感じられなかった。
「ふん、ちょいと雷を返したぐらいじゃくたばらないか」
兄もまた深手を負っていた。上半身ははだけ、肩口の一部は真っ黒な炭と化していた。
――兄さん、辞めて! こんなのもう動ける訳ないじゃない!
私の絶叫がこだました瞬間のことだった。
兄は何か呪言を口にすると、ルシアから香炉を奪い取っていた。恐るべき早業であった。
「貴様……! それは!」
「お前と同じだよ。魔道具さ……」
ルシアは、恐れ慄いていた。羽交い締めにされている。
――あの身体でどうやって?
疑問が脳裏を掠めた時のことだった。
――ライラの香炉――
恐らく兄は、ルシアの呪言を唱えたに違いなかった。
何故なら彼女が見る見るうちに、香炉へ吸い込まれていったからだ。
世界が、色彩を取り戻していく。
見上げれば、中天の空に、燃えるような夕陽。
蒼龍は、ただ雲海の彼方で、雷と戯れていた。
◇
「もらっただけの一点張りですな」
ジェイルは、疲れ切った様子でそう答えた。
罪人の訊問など、およそ一国の宰相のやることではない。
禿げかかった頭部に、頻りに手をやっている。
そんな事を言えた立場でないことは承知している。だが、今はそれどころではなかった。
「それだけ? あの香炉は、ただの魔道具ではないでしょう?」
件の香炉は山頂の神域の奥深くに秘匿された。
それを知るものは、王家を除けば彼一人だけ。
私は、どうしても王家の解体が、彼女の本心だと思えなかった。
水の滴る地下牢の看守部屋で、彼に詰め寄った。
「……人の心を惑わす物です。鍛錬なき者が使えば、道を踏み外します」
「それって――」
ジェイルは、眼の前で一気に水を飲み干すと、深く息を吸って口を開く。
「正気ではありませんな、現在の巫女は。
ただし、姫様? 彼女が、我に返ったところで貴女様と元のご友人に戻れる訳ではありません」
彼女は、イスファ国の神を奪い取り、あろうことか王家の解体を示唆した。
謀反の罪は余りにも明確だ。
「……捕まえればいい。香炉の元の持ち主を」
自ずと口をついて出た言葉だった。
しなびた蝋燭の火が揺れる。
「なっ! 本気ですか? 巫女殿の証言は当てになりませんぞ!」
「神官だった頃に、追放された私たちを守ってくれた!」
それは歴然とした事実だ。今の彼女が嘘をついているのだとしても。
くるりと背を向けた。
ゆっくり鉄の扉に身を寄せ、そっと取っ手を引いた。
息は微かに白い。
見上げれば、石造りの螺旋階段は、どこまでも続く気がした。




