第96話 残り一つ、あと一つ
カラン
ひとつ、小気味よい下駄の音が、どこからともなく響いてきた。
祝は、はっと悪夢から醒めるように瞼を上げた。
直後、視界に飛び込んできたのは、真っ赤な椿の、目にも鮮やかな旋舞であった。
いや、違う。それは、椿柄の着物を纏った少女の、疾風怒涛の回し蹴りであった。
それに気づくとほぼ同時に、月暈がドゴォンと強烈な痛打の音を響かせ、左方向へと吹き飛んでいった。
祝は締め上げられていた手から解放されて、どさりと両手両膝を地に着けた。
コロン
またひとつ、下駄の音を響かせて、少女が軽やかに着地した。
澄み切った月光を閃閃と浴びる、死神・嗛間炎袰であった。
日暈が、瀬城に棘を飛ばすのも忘れて、「げぇええ」と呻いて慄いた。
炎袰が、十メートルは飛んで行った月暈の元へ、飛ぶようにして駆けてゆく。倒れ伏しているその狛犬の口から覗く黒い手を掴み取ると、力任せに引っ張り上げて、ずるりと喰夜叉を引きずり出した。
正体を暴かれた魂喰夜叉が、「ヒッ」と息を呑んで、ぶるりと震える。
炎袰は、月暈から引っこ抜いた魂喰夜叉を乱暴に投げ捨て、今度は日暈へ眼光鋭い目を据えた。
「ひぃぃッ」と、日暈が血相変をえて背を返す。
が、炎袰は疾風をも追い抜く迅さで、逃げ去ろうとする日暈の前に立ちはだかった。
「や、やめ――」
てくれ、と日暈が言い切るよりも先に、炎袰が猛烈な飛び膝蹴りをその鳩尾へとねじ込んだ。
日暈が「ぐはッ」と呻きながら、口から煤黒い泥塊を覗かせる。
炎袰が、すかさずそれを掴み取った。そして月暈同様に、ずるりと魂喰夜叉を引きずり出すと、べちゃりと地面に叩きつけた。
「ぐゔぇッ」と、魂喰夜叉が潰れたヒキガエルのような怪声をあげる。
炎袰が、魂喰夜叉の弱点である真っ赤な瞳を踏みつぶそうと、片足を上げた。
しかし、こんな時ばかりは敏捷い動きを見せる煤黒い妖魔は、平らになって地面を滑り、音もなく遠くへと逃げ去ってしまった。
炎袰が、忌々しげに舌打ちを鳴らす。それから、魂喰夜叉から解放された狛犬姉弟を顧みた。どうやら、無事のようである。気を失って、顔色もいささか悪いが、規則正しい息遣いが見て取れた。さすが神の使いだけあって、見た目以上に頑丈のようだ。
それを確認すると、炎袰は咳き込んでいる祝へと歩みを進めた。
「嗛間炎袰ぉぉ……あと一歩ってところで現れやがってぇぇ」
社の陰へと逃げおおせると、二体の魂喰夜叉は身体を寄せ合い、波打つようにして震えていた。
「おイ、どウすル? さスがニほホまホほロがアいテじャあ、カちメはネえ。モうアきラめルか?」
「いいや、冗談じゃねえ。あと一人で、カグツを復活させることができるってのに、諦めてなんかたまるかよ! 嗛間炎袰か稲司祝ーーどちらかを殺せばいい話なんだ。そうすりゃあ、大勢の人間が死んで、美味い魂を存分に喰い漁ることができるんだ。俺は、絶対に引かねえぞ!」
それになーーと、何を思ってかニヤリと笑うと、二体の魂喰夜叉は一つになった。社の壁を這い、屋根を這い、さらに這って進む先にいたのは、
「あれが、最後の死神かーー」
と呟きながら炎袰を見下ろす瀬城であった。
魂喰夜叉は、軽薄な愛想笑いを張り付けると、
「瀬城ぉ」と、その足に縋るようにして絡まりついた。
「なあ、俺たちが悪かった。もう二度と裏切ったりはしないから、どうかあの死神を斃しくれ。あいつを殺せるのは、あんただけだ」
「たノむヨ、せジろォ。あンたダけガ、たヨりなンだ」
瀬城は、容赦なく魂喰夜叉を蹴り上げた。
屋根の上を水切り石のように何度も跳ねて、魂喰夜叉は飛んでゆく。
「この、うすら下衆どもがッ。言われなくても、あの死神は僕が殺す! 貴様らは、その隙を見て祝に手を出そうなんてするんじゃないぞ!」
魂喰夜叉は屋根の淵ギリギリで止まると、
「わかった! わかったよお!」とヘラヘラとまた媚びるような笑みを浮かべた。
「けど、嗛間炎袰と祝に二人がかりで来られちまったら、さすがにアンタだって勝ち目はねえぜ? だからそのあいだだけ、俺たちが祝を捕まえといてやるよ。けど、殺しはしない。約束する!」
瀬城は、疑わしげたっぷりに魂喰夜叉を睨みつけた。が、二対一では確かに不利と思い至ったか、
「つぎ裏切ったらわかってるだろうな? おまえの複製を吐いて、永遠に追いかけ回してやるからな!」
と、ドスの利いた声音で言った。
魂喰夜叉が、うなずくように何度も上下に蠕動した。
「ああ、わかってるって! だから、嗛間炎袰はたのだぜ?」
ふんと瀬城は鼻をならした。それから、そばにあった煉兎の遺灰をを掻き分けだした。その中に天瑞鏡の破片を見つけ出すと、そっと掴み上げて恍惚の表情でつぶやいた。
「残り一つ、あと一つ」
そのすぐそばで揺らめいている煉兎の魂には、目もくれない。それを見て、魂喰夜叉は密かにほくそ笑み、瀬城の耳には届かない声で独言した。
「てめえじゃあ、嗛間炎袰は殺れねえよ」




