第93話 死神• 楪煉兎
それからすぐに、心から何かがぬるりと抜け落ちて、それと一緒に天瑞鏡への欲念や死神への殺意までもが、清々しいまでに引っこ抜かれてゆくような感覚を覚えた。
「目ぇ醒めたか?」
穏やかな声で、死神男が問いかけてきた。
祝ははっと目を上げると、安堵の色味を帯びた死神男の視線とかち合った。やっぱり表情まではよく窺えなかったが、柔和に微笑んでいるような気配を感じる。
祝は、こくりとうなずいた。それから、
「あそこだ」と、本殿の方を指差した。
「あそこに、俺が持ってる天瑞鏡の破片七枚がある。それに、カグツチもいる」
「わかった」
今度は、死神男がうなずいた。祝の肩から手を離すと、今度はぽんと頭の上に片手を載せた。
祝は、ついくすぐったくなって首を窄めた。
「それじゃあ、あとのことは俺に任せて、もうおまえはおっ母さんのところに行ってやれ。あいつのことだ、たとえ意識がなくても、おまえのことが心配で、ずっと帰ってくるのを待ってるはずだ」
「でも、瀬城先生と、狛犬姉弟になりすましてる魂喰夜叉は……」
「それも、俺と炎袰でケリをつける。おまえは、今は何も心配しなくていい」
「でも……」
祝は、返事にためらった。この一連の後始末を、本当に彼らに丸投げしてしまっていいのだろうか。もちろん、後々に厳しいお咎めを受けることにはなるだろうが、はい、そうですか、と、この場を自分だけが立ち去ってしまってよいのだろうかーーそうやって煮え切らずにいると、
「何も心配いらねえって言ってんだろ。頼むから、此葉にこれ以上寂しい思いはさせないでやってくれ」
と、請われるように言われて、渋々「わかった」と頷いた。
それからふと思って、なあ、と祝は顔を上げた。
「あんた、名前は?」
無性に知りたくなって、尋ねてみた。
「あ?」と声を漏らして、死神男はきょとんとした。
「名前だよ、名前。俺の名前は知ってんだろ? じゃああんたの名前は?」
そう言ってもう一度尋ねると、死神男は、「あ、ああ、そうか」と少し慌てて、
「煉兎だ。俺の名前は、楪煉兎」
と、祝の頭に載せていた手を離して、照れ臭そうに耳の後ろをぽりぽりと掻いた。
煉兎ーーと、祝はしみじみとつぶやいた。
次の瞬間、煉兎の気配がぱっと闇を払って輝いた。名前を呼ばれただけなのに。
それを悟られるのが恥ずかったのか、
「ほら、もう行け」と、煉兎は追っ払うように手を振って、祝から顔を背けてしまった。
なんだか可笑しくなって、今度はちょっと笑いを堪えながら、
「わかったよ」と、祝はまた頷いた。名残惜しい気もするが、彼とはまたどこかで会える気がする。
だから、一つ大きく息を吸って、
「じゃあ」と努めて明るい声で締めようとした。
しかし、その声におっ被さるようにして、
「行かせるかよ」
と、毒々しいほどの耳障りな声が、二人の別れに水を差した。
祝は、声がした方へと首をねじった。直後、視界に飛び込んできたのは、大きくて煤黒い、見るからに粘着質な物質で形成された手であった。それが、またたく間に差し迫り、祝を掴んで持ち上げた。
「ほおりぃぃッ!」
煉兎が、慌てて手を伸ばす。が、今一歩のところで掻っ攫わて、それは虚しく空を掻いた。
煉兎が、「くッ」と唸って、腕が伸びてきた方角を睨みつけた。
二十メートルほど先に立っていたは、狛犬姉弟ーーではなく、彼らに寄生している魂喰夜叉だ。祝を捕まえている腕の出先は、弟である月暈のガバリと開かれた口からだった。
隣にいる姉の日暈が、犬歯を剥いて、してやったりと笑っている。
「くそッ! 離せッ!」
祝が、足を振り回してじたばたともがく。しかし、食い込むほどに強く握られた煤黒い手は、そう簡単には解けそうにない。
狛犬姉弟が、じりじりと後方へと引き下がる。祝を引き連れたままで高く舞い上がり、本殿の屋根へと着地した。
煉兎が後を追おうと、地を蹴った。が、
「動くんじゃねえ! このガキがどうなってもいいのか?」
屋根の上から日暈に脅され、その動きは制された。煉兎がぎりっの歯噛みし、拳を握る。
日暈が、その姿を勝ち誇るかのような目で見下ろして、
「よおし、それでいい」と、妖しい笑みを片頬に刻んだ。
「離せッ! 離しやがれッ!」
祝の方は、いまだ巻き付く指から脱しようと、懸命に身を捻ってもがいている。
それを見て、日暈が忌々しげに舌打ちを鳴らした。月暈に、おい、と声をかけると、彼の口から伸びる煤黒い手に力が籠り、ぎりぎりと祝の身体を締めあげた。
「うぅああぁぁああッ」
祝が、割れんばかりの悲鳴をあげた。
「ほおりぃぃッ!!」
身だけを乗り出し、煉兎も泣き出しそうな声を張りあげた。「やめろ! やめてくれッ!」
その声を聞いて、日暈が満悦の笑みをのぼらせた。今までさんざん虐げられてきた死神に懇願されて、ずいぶん気分がいいようだ。おい、とまた月暈に声をかけると、口から伸びる手の力が緩められ、祝は縛り上げられる苦痛から解放された。
「まったく……てめえは、期待外れだったぜ」日暈が、祝にため息混じりの声を吹きかけた。
「瀬城は、この国が未曾有の危機に陥ろうが、母親を生き返らせる道を選んだぜ。なのに、おまえは冷たいねえ。母親が死んでもいいってのかよ? 何万人の人間が死のうが、母親が生き返るならいいじゃねえか」
祝は、かっと目を恚らした。
「ふざけんな! おまえたちに騙されて、罪のない死神を四人も殺してしまったんだぞ! これ以上手を汚してたまるかよッ。それで病気が治ったところで、俺の母さんは喜んだりはしないんだよ!」
この、糞以下のバケモンが! と思うがままに罵ると、日暈が苦々しげに顔を歪ませ、
「懲りねえガキだなぁ、てめえはよぉ」
と呻るような声で言った。それから月暈に顔を向けて、やれ、と声をかけると、また月暈が口から伸びる手に力が籠り、祝を先ほどよりもさらにきつく締めあげた。
「ぐッああぁぁああッ!!」
祝が、血を吐くような苦鳴を絞る。
「やめろおおッ!!」
煉兎が、悲痛極まる絶叫をあげた。「おまえらの狙いは、俺たち死神だろ!? だったら、さっさと俺を殺せよ! 逃げも隠れもしねえ。だから頼む……こいつはもう、解放してやってくれ!」
日暈が煉兎へ首を巡らし、ニチャリと不気味な笑みを浮かべた。
「いいやあ、俺たちにとっちゃあ、いま用があるのはこっちのガキの方で、最早おまえら死神は、用済みなんだよ」
「なんだと?」と、煉兎が眉根を寄せる。
「そりゃあ、おまえら十人の死神が、全員屍肉になって地面に散らばるところは見てみたいさ。けど、俺たちがもっとも望んでることは、カグツチの完全復活であり、富士山の噴火によって大勢の人間が死ぬことだ。それには、残る二人の死神であるおまえと嗛間炎袰の魂が不可欠ではある」
けど、俺ぁ知ってんだよ、と、日暈が口の端を耳まで届きそうなほどに吊り上げた。
「もう、おまえらを殺さなくとも、いま目の前にいるこのガキさえ殺しちまえば、その二つの魂が、一挙に手に入るってなあ!」




