第92話 解放
肩の断面がズキリと痛んで、瀬城は、腰かけていたベッドの上で目を醒ました。
軽い仮眠のつもりだったのに、ずいぶんと長い夢を見ていた気がする。
ひとつ息をついてから、かつては右腕があった虚空に目を向けた。
〈人形兵器〉の死神•八社宮炉慈丸だと思っていた相手が人形だったのは、本当に予想外の悲劇だった。三人体制になった初戦で、まさか自分だけが死にかけるなんて、とんだ大不覚を取ってしまったものである。
それまでは、あまり強くなられてもあとあと面倒だと考えて十日間と短めに設定したものの、異様な速さで強くなってゆく奇妙な少年と、それに付き添うお嬢様との修行に、正直いってウンザリしていた。けれど、今となっては狛犬姉弟もとい魂喰夜叉の提案を受け入れたのは、本当に正解だったとつくづく思う。
もし彼らがいなかったなら、間違いなく自分はもうこの世にいなかった。
そのうえ、〈緋緋色金〉の死神•池鯉鮒燐太郎と、〈完全なる複写〉の死神•桃花鳥ヶ峰煽璃までもを二人だけで討ち取ってくれた。駒にしては上出来だ。
とはいえ、海童八尋はもう使えない。〈如意自在の長槍〉の死神•六連星燎牙が、彼女に真実を告げてしまったからだ。
燎牙は、八尋の父親にあたる死神だ。これ以上娘に罪を重ねさせまいと、血眼になって居所を捜し求めていたようだ。そうして父と娘は感動の出会いを果たし、燎牙はすべて打ち明けた。富士山の大噴火なんて、黄泉津大神や死神は目論んでなんかいないこと。むしろ、すべての首を取り戻したカグツチが、力を持て余した結果、富士山を大噴火させてしまうこと。そんな未曾有の災厄を阻止するため、黄泉津大神がカグツチの首を十個に切り裂き死神に与え、そう簡単に復活させまいとしてくれていること。
そして、おまえは本来ならば生まれでくるはずがなかった、死神の隠し子という存在であり、その魂を分けた父親が自分であること。駆使できる神通術がまったく同じーーそれこそが、同じ魂を持っていることの何よりの証拠であることーー
そうして八尋は、瀬城と狛犬姉弟に騙されていたことを確信した。
そんな親子の姿を、瀬城はずっと陰に隠れて監視していた。祝か八尋、どちらかの親にあたる死神と、そろそろ相見えるころだろうと予見して、密かにあとを追っていたのだ。
そうして親娘が心を一つにして、祝と煽璃の闘いを止めに行こうとしたその矢先に、数知れないほどの長槍で急襲した。
しかし、父親である燎牙が命を賭して盾となり、さらには桃花鳥ヶ峰煽璃を片付けた祝が追いかけて来るはで、八尋にはとどめを刺すことができず、完全に口止めすることは叶わなかった。
結果、祝には大きな疑念を抱かせる破目になった。彼女の太腿に長槍を刺したのは、目の前で死んでいる死神の仕業であるとなんとか言い訳を繕ったものの、祝は釈然しないどころか、怯えの目色でずっとこちらの様子を窺っていた。
けれど、懸念は不要だった。
桃花鳥ヶ峰煽璃と六連星燎牙の灰の中から奪った天瑞鏡の破片を眺めるその背中からは、次なる死神への蒼白い闘志と闇い我欲が渦巻いていた。
祝は必ず、残る二人の死神を討ちにゆく。
そう、祝は残る死神はあと三人とばかり思っているが、本当ところは残り二人だ。祝の父親であり、三日月刃を駆使する死神と、瀬城の病室に現れて、襲いかかってきた少女の姿をした死神だ。
残り二人、あと二人ーー
しかし、あの少女の姿をした死神は、見目麗しい容貌とは裏腹に、ただただ強く、ひたすらに強いと噂に名高く、なのにどんな神通術を使うのかは誰も知らない。そのうえ日照雨煌悟ですら唯一模倣できなかった神通術であり、それゆえに瀬城も彼女の術だけは使えない。病室に卒然としてと現れ、殺されかけてもその強さの所以を、背中から生やした白骨の巨腕以外に目にすることはできなかった。
「やっぱり、行って確かめるしかないな」
そう静かにつぶやくと、瀬城はベッドから立ち上がり、窓に向かって歩き出した。今ごろ祝は、どちらかの死神とどこかで相見えているはずだ。殺られていれば、狛犬姉弟がすぐに報せにやってくるばずだから、まだ間違いなく生きてはいる。とりあえずは正鹿神社へ、様子を見にいってみるかと肚を決めて、瀬城は窓を開け放った。
「天瑞鏡は、僕のものだ」
ひときわ冷たく、錆の含んだ声で言うと、長槍を一本発現させて、窓から闇黒の空へと飛び出した。
◇◆◇◆
「瀬城夏冊が、いつか死神殺しに手を染めるってことくらい。あいつがガキのころから俺たち死神は、みんなわかってた。煌侍郎の馬鹿を除けばな」
死神男が呆れたような声で言った。噂好きでおしゃべり好きの桃花鳥ヶ峰煽璃が、いつも死神を見つけては、鼻息荒くして吹聴してまわってたものだから、ずいぶん有名な話だったという。
「だから俺ぁ、煌侍郎にはさいさん忠告しにいったんだ。隠し子をつくっちまったのはしょうがねえとしても、人間の親子みてえにはなれはしねえって。神通術なんて教えちまったら、いずれ俺たち死神に手をかけようとする日が来るはずだって。なのにあの馬鹿ーーそれを鼻で笑って突っぱねやがった。俺の隠し子は、いずれ医者になって、昼間は病気から人を救って、夜は妖魔から人を救う二刀流のヒーローになるのが夢なんだ。そんなできた隠し子が、おまえらが考えてるような馬鹿な真似なんかするわけねえ、ってな」
で、結局はこのざまだ、と死神男は、呆れを通り越してもはや笑えるとばかりに肩を揺らし、けれど金糸雀色の瞳の奥にはいまだ悲しげな翳を宿して語りを終えた。
茫然自失の祝は、いまだ死神男に肩を支えてもらいながら、なんとか立っているだけだった。
瀬城と狛犬姉弟の話は、何もかもが嘘だったというのか。譬えばほら、狛犬姉弟は、カグツチの首を取り返すために二匹だけで死神たちと相見え、コテンパンにやられて彷徨っていたところに瀬城と出会った、だとか、瀬城がはじめて討った死神は〈腐敗の瘴気〉の死神で、完全密閉型の防護服を着込んで奇襲した、だとか、なにもかもが祝と八尋を利用するための作り話だったということかーー
そこへ、心の隙間から聞こえてくる、あの冷たく錆帯びた祝の声が、またしても祝自身に囁いてきた。
そんなのは、全部嘘だ。狡猾な死神の戯言だ。瀬城はこの国とおまえのためを思って、仲間に加えたんだ。天瑞鏡が欲しいんだろ? だったら瀬城を信じろ。その死神を、今すぐ殺せ!
その声をかき消すように、
「祝、俺を見ろ!」死神男が、声をあげた。
「天瑞鏡は、どんな願いも叶えてくれる。おっ母さんの命だって、確かに救える。けど、いいのか? この国が未曾有の災厄に陥ろうが、おっ母さんさえ救えれば、本当にそれでいいって言うのか? おまえは天瑞鏡の光を浴びたことで、心の隙間に巣食う妖魔に忍び込まれた。そうして意識に直接囁かれ、破片を奪え、死神を殺せと操られてたんだ」
ち、違う! そんなのは嘘だ! 騙されるんじゃねえ。おまえを操ろうとしてるのは、死神の方だ!
心の隙間から聞こえる声も、負けじと祝に訴えてくる。
なあ、いいのか? 天瑞鏡の破片が手に入らなけりゃ、もう二度とあの光は浴びれねえんだぜ? おまえの心を唯一満たしてくれた光だったろ? なのにそれを諦めちまったら、この先ずっと喝えたままで生きるんだせ? それでもいいのか?
「ーー祝」
死神男が、呼びかけた。静かだか、心を絞るような声だった。
「よく考えろ。天瑞鏡から注がれるあの光は、本当におまえの心を満たしてくれてたか? 一時は満たされたような気になっても、注がれれば注がれるほどに、余計に渇いてなかったか? 欲望はさらに膨らみ、もっともっとと悶えるような欲望に駆られてはいなかったか? そんな光に浸されたところで、おまえの心は本当に救われると思うか?」
ひたすら真っ直ぐな眼差しを浴びて、祝は長い半醒状態からようやく目が醒めたような気分だった。正気と思い込んでいたがそうではなく、ようやく自分を取り戻した瞬間だった。
「……そうだ」祝は、静かに頷いた。
「あの光を浴びると、すごく満たされる気持ちになった。けどそんなのは一瞬で、浴びれば浴びるほどに余計に渇いて、母さんを救うことよりも、光を独り占めしたいってことばかり考えて、本当はずっと苦しかった」
そう、俺は、何ひとつ満たされてなんかいなかったーー
直後、また心の破れ目から声がした。
くそったれ。あともう少しだったのに……
ひどく冷たくて、錆帯びた声だ。けれどそれは、もう祝の声ではなかった。誰の声でもない、ひどくおぞましい声だった。




