第77話 二日月
とはいえ帝徳大学病院は、死神たちに待ち伏せされている可能性もある。
だから瀬城が長槍を飛ばした先は、自身の知り合いが勤めているという小さな総合病院だった。
しかし、彼が操る長槍は、タクシーで行かないかと言いたくなるほどに速度が遅く、祝をいらいらと焦燥させた。
わかってる、もちろん瀬城にだって無理はさせられない。鎮痛剤が効いているとはいえ、痛みが完全に消えるわけではないうえに、その薬の副作用で頭も朦朧としているはずだ。だから、これが彼の精一杯なんだと信じたかった。
けれど今、祝の胸は瀬城への不安と懐疑の念でざわめいていた。
八尋の太腿に突き刺さる長槍は、本当にあの死神が放ったものなのか?
それに、あの死神を殺したのは、本当に八尋だったのか?
祝には、八尋と長槍に乗った死神が激闘を繰り広げる姿など、どうしても想像することができなかった。なにせここ最近の八尋といえば、やたらと死神を庇うようなことばかりを口にしていた。そんな彼女が、その死神相手にあんなにも無残な殺し方をするだろうかーー
それに長槍に乗った死神だって、最初から八尋を殺すつもりでいたのなら、わざわざ連れ去る必要なんてなかったはず。長槍の雨を降らせたときに、祝もろとも簡単に殺せたはずだった。
「……先生」
祝は、恐るおそる瀬城の背中に声をかけた。
ひと息、凍てつくような沈黙を置いて、
「なんだい?」と瀬城が、おもむろに振り返った。
「八尋をこんな目に遭わせたのは、本当にあの死神なんだよな?」
祝が問えば、瀬城はすかさず、そうだよ、と頷いてみせた。
「それ以外に、あり得ないだろう?」
そう言って満面にひろげてみせたのは、祝の信頼を一手に担い、患者や同僚からも衆望を集める、いつもの穏やかな微笑みだった。
それに促されてしまえば、そうかーーと頷くしかほかなかったが、何ひとつ納得なんてできるはずがない。
だって、月明りが射し込むあの草原で、如意自在に長槍を繰り出せた者が、八尋と死神のほかにもいたじゃないか。
そして今まさに、俺たちを乗せて思うがままに長槍を操縦している奴がいるじゃないか。
そう、瀬城先生、アンタだって長槍を操ることができるじゃないかーー
だけど、祝は口を噤んだ。今この場で胸の内を吐露すれば、何もかもが終わってしまうような気がしたからだ。此葉を助けることもできなければ、この国を救うことももちろんできない。そして、地上から三百メートルはあろうこの空の上からいま乗っている長槍を墜落されしまったなら、八尋はもちろん自分自身すら救えずに終わってしまう。
だから祝は、瀬城が言っていることが真実であることを願いながら、病院に着くまでひたすら身を切るような沈黙に耐えた。
前を飛ぶ彼の瞳に、不穏な鬼気を孕んでいたことなど、気づくことなく。
◇◆◇◆
総合病院に到着すると、すぐに医者と看護師が八尋の治療に取り掛かってくれた。
それはよかったのだが、瀬城の知り合いが勤める病院とはいえ看過することはできないと、警察には通報される破目になってしまった。
そのうえ八尋の両親までもが駆けつけて、狭いロビーは騒然となった。
八尋の父親は、祝を見つけるなり噛みつく勢いで掴みかかった。いくら温厚な人格者であっても、今回ばかりは祝を責めたて、八尋に怪我を負わせたのも本当は君なんじゃないかと詰め寄った。
八尋の両親と警察に囲まれ、祝はあわあわと困惑した。
そんなあいだに瀬城が平然と割り込んで、弁舌さわやかに語りをはじめた。
「院長、祝くんはまったくの無実です。何も関係ありません。僕が襲われたとき、この目で犯人を見たんですから間違いない。その犯人というのは、僕が以前担当した患者の関係者だったんです。奴は自分の恋人が死んだのは、僕が医療ミスをしたせいなんだと思い込んでいた。だから僕の命を狙ったんです。そう、奴はそうとう狂っていました、ガソリンを浸して火をつけたチェンソーで、僕を八つ裂きにしようとしたんです。けど、腕を焼き切るだけで、殺すことはできず、今度は院長の娘である八尋ちゃんを攫ったんです。しかも僕のお見舞いに来てくれていた最中に。そして奴は、電話越しに言いました。彼女の命を助けたければ、僕の命と引き換えだ、と。そのうえ、警察にはもちろん、八尋ちゃんの両親にも絶対に連絡するなと要求された。もし連絡をすれば、その場で八尋ちゃんを殺すと言われたんです。だから彼女も、院長ご夫婦に連絡することができなかった。僕は居ても立ってもいられず、病室を抜け出しました。そして、攫われた最中にその場にいた祝くんにも協力を要請して、彼女を奪還するために廃校になったとある小学校へと駆けつけた。結果、八尋ちゃんを取り戻すことはできましたが、無傷で救い出すことはできなかった……だけど、八尋ちゃんがいま生きているのは、すべて祝くんのおかげなんです。間違っても、犯人なんかでは決してない。え? 犯人と恋人関係にあった、患者の名前を覚えているかって? いやあ、今すぐ思い出すのは無理ですよ。何百人という患者を診てきたんですから、思い出せるはずがないでしょ。だけど心配いりませんよ。帝徳病院に戻れば、カルテが残ってるはずですから。しかし、犯人がまだ捕まっていない以上、八尋ちゃんも僕も、帝徳病院に戻るのは危険だと思いますよ。ここで安静にさせてもらうのが一番でしょ。もちろん、警察の協力要請には応じます。だけど、今日はもう休ませてもらえませんか? 祝くんも僕も、八尋ちゃんを助けるために命懸けだったんです。任意の事情聴取なら、明日でも遅くはないでしょ? ということで、今日のところはお引き取り願います。ご苦労さまでした」
祝は終始、唖然としていた。庇ってくれていることは重々理解しているが、あまりに淀みのないでっちあげに、開いた口が塞がらなかった。
けれど瀬城が語る言葉には、魔術のような力でも宿っているのか、大人たちは一網打尽になって丸め込まれた。
警察連中は、「それじゃあ、また明日来ます」と言い残して退散してゆき、八尋の父親は、祝に深々と頭を下げて謝罪した。そのうえ母親からは、「八尋はわたしたちがついてるから、祝くんはお家に帰って、どうかゆっくり休んでちょうだい」と、明らかに多すぎるタクシー代を半ばむりやり握らされた。
そうして海童夫妻は、八尋のいる外来処置室へと去ってゆき、いつの間にか瀬城も病室へと運ばれてしまった。
結局ひとりぽつんと残された祝は、病院をあとにするしかほかなかった。自動ドアをしょんぼりとくぐって立ち尽くしていると、夜風が優しく頬を撫でた。
ふと見上げれば、細く朧な二日月が中天に昇って見下ろしている。早く八尋が回復するようにと、衒いのない祈りをその優しい月光に捧げて、さあ帰ろうとしたところ、スラックスの両方のポケットの重みに気づいてはっとした。
取り出したのは、桃花鳥ヶ峰煽璃と長槍に乗った死神の亡骸から奪い取った天瑞鏡の破片である。その二枚を取り出して、ペタペタと、感触を噛みしめていると、同時に背面の紋様が蒼白く光った。その輝きを一身に浴びると、途端に八尋への心配も、瀬城への疑念も、この先にあるあらゆる不安までもが、あっと言う間に塵と消え、うっとりと忘我の境地へと誘われた。
「残り三つ……あと三つ……」
またいつもの冷たく錆帯びた声が口から漏れると、次なる死神殺しへの武者震いが湧く。そうして祝は、恍惚とした笑みを浮かべて、静かに病院をあとにした。




