第70話 一人娘
(やっぱり、知っていやがったか……)
煉兎は、肩でため息をついた。
ほかの死神たちの噂や弱みを握ることを、何よりの滋養としているこの女のことだ。やっぱり隠しきることなんてできなかったらしい。
だったら、いつまでも隠れていたってしょうがないと、煉兎は配電盤の陰から足を進めて、その姿を女の前に晒してみせた。
それを見るや、女はかすかに息を引いた。どうやら煉兎の変わりつつある姿を知ってはいても、今日に至るまでの姿は、さすがに想像以上であったらしい。
「アンタ、母親をまだ殺さずにおいとるんやな……」
まじまじと見られながらそう言われ、煉兎は気恥ずかしさについ顔を逸らしてしまった。
「そりゃあ、隠し子も可愛いワケや。無惨にウチに殺されとうない気持ちも、わからんでもないわ……」
てっきりからかい倒されるもんだと思いきや、予想外の言葉が返ってきた。さらに驚かされたのは、その声調には労わるような響きまでもが帯びていた。
が、それもほんの束の間。
「けどな!」と女は声を尖らせると、嗜虐的な笑みをのぼらせ切り捨てるように言った。
「悪いけど容赦はできへんで。黄泉津大神のご宸襟を安じ奉るんが、ウチの役目や。死神殺しの大罪人は、親に代わってウチがしっかりとお仕置きしといたる」
「いや、そうじゃねえ」煉兎は、すぐさま首を振った。
「いいか、よく聞け。確かに死神殺しは、俺のガキだ。けどな、おまえが闘うとマズいのは、そういうことじゃねえ。そのガキは俺だけじゃなくてーー」
「もう諦めなはれ! 隠し子が死神殺しになったんは、親であるアンタの責任でもあるんやで!」
女は柵の上に、朝陽を背負って立ち上がった。
「せやけど、安心しなはれ。せめてもの慰めに、できるだけ苦しまんように殺したる。生意気なガキやなかったらな」
ほな、これにて話はしまいや、とこちらに背をくるりと向けられて、煉兎は慌てて駆け出した。他人の噂話とあらば、いつなんどきどこからでも駆けつけてくるくせに、なぜ自身の命に大いに関わる重大事には耳を傾けようとしないのか。
「おい馬鹿、待て! おまえ、死にてえのか!? そのガキの神通術はーー」
「いい加減、しつこいで!」
甲高い声とともに飛来したのは、女が胸元から取り出した鉄扇だった。紙のように薄く、鏡面磨きに仕上げられた鋼だけを繋ぎ合わせた代物だ。それが完全に開かれた状態で、風を捌いて差し迫る。
とはいえ煉兎は、慌てることなく難なくそれを躱してみせた。ところが、鉄扇が弾いた鋭い陽光に思いがけず目を突かれ、咄嗟に女から顔を背けてしまった。
すぐに向き直りはしたものの、女はすでに遠くにあるビルの屋上の広告塔の上に立っている。
「あんの、クソ女ぁ!」
歯を軋らせ、煉兎は柵に片足をかけた。身体能力なら、こちらがずっと上なのだ。今からでも追いかければ、ひっ捕まえてやれるはず。
ところが、直後ーー
ひとつの人影が、風を唸らせながら凄まじい速度で、煉兎のすぐ脇を通り過ぎた。
それはまるで、サーフィンでもしているかのような中腰姿勢で、空を滑走しているかのようだった。乗っているのは、サーフィンボードよりももっと細くて長い棒のようなもの…… いや、違う。あれはーーと煉兎の脳裏に浮かんだのは、とある見知った男の顔と、その者が駆使する神通術だ。
「そうか……そういえば、あいつんとこの隠し子も、一緒だったな」
そう一人合点しているあいだにも、通り過ぎていった影は、どんどん小さくなってゆく。そして、あっという間に逃げていった女のそばにまで差し迫ると、一定の距離を保って徐行を始めた。どうやら塒にしている場所まで尾行するつもりでいるらしく、慎重にビルの陰に隠れては、煉兎を振り切り、油断している女のあとを空を滑りながら尾けている。
そんな突然現れた人影の姿に、煉兎は苦笑いが込み上げた。
「なんせ、あっちは一人娘だからな……」
実はこの一連の荒事に、一番気を揉んでいるのはアイツなのかもーーと励ましたくなるような気持ちすら湧いた。
とはいえこれは、煉兎にとっては不幸中の幸いだった。これであの逃げていった女と、死神殺しが相見えても、アイツが止めに入ってくれるはずだ。だったらこっちは早いとこ、その死神殺したちの根城を探しに行くべきだと気持ちを切り替え、
「頼んだぞ」とあの空征く人影に声をかけて踵を返し、ビルの屋上を後にした。
◇◆◇◆
燃えたつようだった夕陽がようやく沈んで、辺りが藍色へと染まるころ祝と八尋、それに狛犬の日暈は、今宵も死神の元へと空を飛んだ。
まだまだ傷の癒えない瀬城は、もちろん正鹿神社で留守番だ。今回も狛犬の月暈が、一緒に残ってくれることになった。
昼間、祝は死神の隠し子について、知っていることすべてを八尋に打ち明けた。狛犬姉弟は止めようとしたものの、それを振り切り、おまえの考えは正しかったんだと口を切った。
俺たちは、本当に死神の隠し子だったんだ。俺は父親が、おまえはたぶん母親が死神に気に入られ、命をすぐには捥ぎ取られずに済んだ結果、俺たちという生まれてくるはずのなかった子供を授かった。けれど、そんな善行は死神にとってはただの気まぐれにしかすぎなかった。アイツらはすぐにそんな恋愛ごっこに気が萎えると、結局は俺の父親の命も、おまえの母親の命も、あっさりと捥ぎ取っていったんだ。
だから俺は、嗛間炎袰と残りの死神たちを許さない。残り五人の死神は、すべて俺が皆殺しにする、と。
そう宣言したうえで、祝は、「で、おまえはどうする?」と八尋に尋ねた。
「俺が、おまえの母親の命を引き延ばしてやったんだ。だから、おまえが今ここでこうして生きていられるのは、すべて俺のお陰なんだーーそう言い張ってくる死神が、残り五人の奴らのなかにいるかもしれない。そんなことを言われて、おまえはその死神を殺せる覚悟はあるか?」
八尋は、まず最初に驚愕に目を剥くと、口を固く結んで黙りこくった。それから、風に攫われそうなか細い声で、「わかんない……」と短く言った。
「わたしに殺せるかどうかは、わかんない。けど、最後まで祝に従いていくってもう決めたし、わたしが一度決めたら、誰の言うことも聞かない性質だってことくらい、祝が一番よく知ってるでしょ?」
最後の方は、おどけるような目であった。が、きっとそれは、彼女の精一杯の強がりだ。それからくるりと踵を返しながら、それにーーと続けて、
「わたし……実の母親のことを知ってる人に一度も会ったことがなかったから、どんな母親だったのか、もし聞けるなら少しでもいいから聞いてみたいの。それに、どんな死神なのかも見てみたいし」
そう言って、スタスタとどこへともなく歩いてゆくその背中には、もうこれ以上なにも言うな、と書いてあった。
そうして、二人と一匹は案内役の火の玉を先立て、青痣のような色した不気味な空を突き進んだ。




