第67話 祝が生まれた日
扉から差し込む光に、もう一度目を上げようとしたときだった。
突如として、ひどく汚濁した視線が二つ、祝の背中にまみれついた。
慌てて手で追い払うようにして振り向けば、背後にいたのは、幽鬼のように佇む狛犬姉弟だった。能面のような表情で、じっとこちらを見据えている。
少したじろぎはしたものの、祝はきっと二匹を睨みつけた。
「俺は死神の隠し子だった。それに八尋も。おまえたちは、そのことを知っていたんじゃないのか!?」
「知っていたですの」
「いたですぞ」
あまりにもあっさりと認められてしまって、祝は怒りを通り越して絶句した。
「じゃ、じゃあ何で、あんなのは死神どもの虚言だ、なんてとぼけるようなこと言ったんだよ。俺たちを騙して、どうするつもりだったんだ!」
空っぽな表情で、狛犬姉弟は弁解した。
「本当のことを言えば、きっとおぬしらは死神殺しをためらってしまうと思ったですの」
「ですぞ」
「当たり前だ!」
祝は怒鳴った。「もう俺は、死神を殺すことなんてできない」と続けて、かぶりを振る。
「あのひとを……嗛間炎袰を殺すことなんて、俺にはできない」
狛犬姉弟が、揃ってこてんと首をかしげた。
「嗛間炎袰? なぜそこで、奴の名が出てくるですの?」
「ですぞ?」
「まだとぼける気かよ」祝は呆れた。そして迷いのない声で断言した。
「思い出したんだよ! 俺は嗛間炎袰の隠し子だったんだ!」
狛犬姉弟が、豆鉄砲を食らった鳩よろしく、口をぽっかりと開けて目を瞠った。姉の日暈が、「そんな、まさか……」と声を震わせる。
祝は頭に血が上って、さらに声を張りあげた。
「間違いない! 子供のころ、バケモンに襲われかけたところをあのひとが助けてくれてんだ。必ず俺を護るって、俺の父さんと約束したんだって、あのひとは、そう言ったんだ!」
二匹が、さらに零れんばかりに目を剥いた。
まだしらばっくれる気か、と祝は舌打ちしたくなった。が、どうもおかしい。まるで雷に打たれたかのように突っ立っている二匹の姿に、偽りの色がまったくもって見当たらない。
弟の月暈が、姉の日暈へおろおろと窺うような目を送る。日暈は、いまだ祝へ目を瞠ったままで佇立している。
まさか、本当に知らなかったのか? と祝が思っていると、日暈の口から突然はっと息を呑むような声が聞こえてきた。それと同時に、一瞬、ほんの一瞬、彼女の瞳の奥から、閃くような光を確かに見た。
「おい、どうした」
祝は訝り、声をかけた。
日暈が、ごくりと一つ喉を鳴らして、
「……そうですの」
と、細く震える声で言った。「おぬしは、嗛間炎袰の隠し子で間違いないですの」
なぜかそれは、祝にではなく、自分自身に言い聞かせるかのような声だった。
祝のなかで、妙な違和感がわだかまる。
やっと認めたか、と吐き捨ててやりたかったが、それは喉でつっかえた。嚥み込むことも、噛み砕くことも、吐き出すことすらもできないものが口の中にあるような、実に妙な気分だ。
そこへ、
「されど、祝」
と日暈が切り出した。「さっきも言ったとおり、わっちゃらがずっと黙っていたのは、はおぬしらが死神殺しをためらわぬためであって、決して騙すつもりなんてなかったですの」
祝は、疑念たっぷりに日暈を見た。
「さっきも言っただろ。もう俺は、死神殺しに手を染めない」
「では、お母上が死んでも、もう構わないというですの? 富士山が噴火して、この国の民が大勢苦しんでも、構わないというですの?」
日暈に責めるような目で凄まれて、祝は少しだけ声に詰まった。しかし、すぐに頑然とした目でもって、日暈からの視線を押し返した。
「母さんのためとはいえ、炎袰を殺すなんて俺にはできない! それに、あんな善いひとが、富士山の噴火を企んでるなんて、とうてい思えない!」
言うや、日暈の顔から愛らしさやあどけなさが一切消えて、陰気な薄笑いが片頬に淀んだ。
「善いひと? 死神が? 嗛間炎袰が?」
「ああ、そうだ!」
祝は、打ち返すようにすぐさま言った。「俺が今ここにいるのは、すべて炎袰のおかげなんだ! 生まれてくるはずもなかった俺が、この世に生まれてくることができたのは、炎袰が父さんに恋をして、命を延ばしてくれたおかげなんだ!」
勢い込んで、一息で言った。けれども、日暈はひとつも動じない。
「まあ、確かにそれは一理あるですの」と否定はしなかったその声には、嗤いが絡みついている。
「人の命を奪うことしかできぬ荒神の犬が、早世の青年に哀れをもよおして、すぐには魂を捥ぐことはせず、結果子宝をも授けるまでに至ったーーそこだけを見れば、確かになかなかの美談ではあるですの」
されど、祝ーーと続ける日暈の瞳孔が散大して、祝の視線を捕まえた。
嗛間炎袰にそこまで愛されておきながら、そなたのお父上は、なぜ死んだのですの?
「……え?」
返せたのは、その一声のみだった。それ以上に返せる言葉は、一語も見い出すことができなかった。
日暈は、祝から答えが返ってくるなんて最初から期待はしていなかったようで、「答えは簡単」と、早々に問答の時間を切り上げた。
「嗛間炎袰が、結局は魂を刈り取って、お父上を殺したからですの」
今度は声も出なかった。糸のように震える息が、口から零れただけだった。
「人の持つ愛という名の感情に興味を引かれて真似事に興じてはみたものの、しょせんは天地容れ《てんちい》ざる荒神の犬。すぐに飽きるや、結局は主に従い、お父上の命を刈り取って、死に至らしめたからですの」
一語の反駁も出てこなかった。「け、けど……」となんとか声だけは絞ったものの、その先の言葉は見つからなかった。
ちなみに、祝ーーと日暈がさらに続けた。
「おぬしのお父上は、いったいいつお亡くなりになられたですの?」
祝は、思わず日暈から顔を背けた。知りたくない事実を突きつけられる気しかしなくて、言いたくなかった。しかし、日暈の問い詰めてくるような目が、知らないとは言わせないとばかりに、ちくちくと頬を刺してくる。
「俺が生まれたその日だった。父さんが死んだのは……」
白状させられるかのようにして、ぼそりと言った。
此葉からそれを教えられたのは、小学生になって初めての誕生日ーーつまり六歳になった日のことだった。
今日はお父さんの七回忌でもあるんだよ、と告げられた。それから此葉がベッドのサイドテーブルにいつも飾っていた朔夜の写真と小さな骨壷に向かって手を合わせて、先生と一緒に施設へと帰った。
晩御飯の後にケーキが出て、子供たちはみんな大喜びで食べていた。けれど、祝にはなんの味もしなかったうえにケーキの上に載っていた、『祝くん、お誕生日おめでとう』と書かれたチョコプレートは、なんとも皮肉な味だった。
「なんと! それは、酷い……」 日暈が、ここぞとばかりに顔を顰めて驚いてみせた。
「嗛間炎袰はよりにもよって、そんな日にそなたのお父上を殺したですの? 待ちに待った我が子がようやく生まれたその日に? 幸せな日々が始まるはずだったその矢先に? まるで、天国に手が届きそうなその瞬間に、地獄へと突き落とすかのような所業ですの!」
「だっ、だけど!」
祝は、むきになって声をあげた。「炎袰が父さん殺したなんて、わかんないだろ! もしかしたら、ほかの死神がーー」
やったことかもしれないだろ、と言い切るよりも先に、祝の耳にあの日の炎袰の声が蘇った。
ーー実を言うとサ、おまいさんが生まるとき、お父っつあんと一緒に、あたしもそばにいたのサ。
そうだ。紛れもなく、本人がそう言っていた。祝が生まれた日ーーすなわち朔夜が死んだ日に、彼のそばにいた死神は炎袰だった。
不安が、牙となって胸を噛む。気づけば、口の中はカラカラに乾いて動悸が早鐘を打っていた。
「嘘だ……嘘だろ……?」
祝は記憶のなかにいる炎袰に、縋るような気持ちで問いかけた。けれど、さらに蘇った彼女の声が、かすかな希望の光を吹き消した。
ーーだけど、知ってるだろう? あたしは死神なんだ。憶えていたって、この先いいことなんて何ひとつない。それに……
いずれ、あたしを恨む日がきっと来る。
残酷なまでに、はっきりと蘇った声だった。
それは、いずれ朔夜を殺したことに気づかれる日がきっとくるーーという意味だったのか……




