第66話 解き放たれた記憶
目が醒めると、目の前で眠っていたのはあの幼いころの八尋ではなかった。十六歳になった、今の八尋だ。
眠っていた場所も、もちろん児童養護施設の寝室ではなくて、根城にしている正鹿神社の社の中だ。
そろそろ朝が来ようという時分のようで、立て付けの悪い扉の隙間から射し込む蒼白い光が、チラチラと空中に舞う埃を照らしている。
それをしばらく眺めてから、祝はゆっくりと半身を起こした。
そしてひそやかに、それでいて迷いのない語気でつぶやいた。
「そうだーー俺からは、死神の隠し子だ」
脳裏に炎袰の美しい微笑みが蘇る。今の自分には眩しすぎると、目の前にいるわけでもないのに、目を眇めた。
「何で、今ごろになって……」
もう一度つぶやいて、頭を抱えてうなだれた。
祝は炎袰との約束を守り続け、十一年前のあの夜の記憶を、胸底のさらに奥へとずっと蔵い込んでいた。言われたとおり炎袰のことも、魂喰夜叉のことも、魂を喰べられてしまった子供たちのことも、なにもかも。
だけど、己の記憶をここまで封じ込めるなんて、自力だけではどう考えても不可能だ。じゃあ、なんでーーと祝は首をひねりかけたが、すぐにきっと炎袰の仕業だ、と思い至った。
彼女がきっと、蔵い込んだ記憶にさらに鍵のようなものをかけたのだ。きれいさっぱり忘れさせるどころか、なかったことにすらするために。
どうやったのかは、わからない。だけど、彼女は死神だ。きっと、人ならざる力でもってやってのけたに違いない。じゃなきゃ、馬鹿がつくほどの素直さで記憶を封じきっても、今の今まで断片すらも蘇らなかったなんて、明らかにおかしい。ましてや、十一年前から何ひとつ変わっていない炎袰と、白骨の巨腕を目の前にしても、思い出すことがてきなかったなんて、あり得ない。
だが、しかしーー死神によってかけられた鍵は、死神によってこじ開けられた。
ーーやはり、知らずにいたの、か……馬鹿な奴、め……おまえは……死神の隠し子、なのに……
まず青鹿毛炸靭が、一つ目の鍵を壊して、
ーー死神の隠し子ともあろう子供が、この程度だなんて、拍子抜けもいいとこだわ。
ーーあら、どうしたの坊や。もしかして、時分の素性もよく知らずにここへ来たのかしら?
八社宮炉慈丸が、さらにもう一つの鍵を壊し、そして、
ーーこの世に生まれてくるはずもなく、生まれてきてはいけない禁忌の子……だけど……
ーー死神に愛された奇跡の子。それが、おまえたちだ。
地鮒鯉燐太郎が、祝のなかに蔵われた全ての記憶を解き放った。
同時に、次の日の朝を迎えた児童養護施設の光景までもが、昨日のことのように蘇る。
同室で、しかも隣り合わせのベッドで眠っていた子供が二人、眠ったままの姿で息絶えているのが見つかって、皆が驚懼に陥り、近隣住民もろとも騒然となった。
もちろん、すぐに警察が大勢やってきた。
亡くなった子供ふたりに、目立った外傷は見当たらなかった。だけど、誰しもが病死だなんて思わなかった。昨日まではみんなと一緒に元気に遊んだり、ふざけあったりしていたし、持病なんて患っていなかった。突発的な病死であったとしても、隣同士で眠っていた二人が、一晩で同時にーーなんて偶然あるわけないと、みんなが思った。
そのうえ、八尋の首から絞められた跡と思われる痣が見つかって、子供も大人も、揃って色を失った。
事件性が高いと、次の日からも警察は毎日のようにやって来た。祝たちも色々聴かれたけれど、何日経っても手掛かりを掴んだような気配はうかがえなかったし、テレビやマスコミの記者たちが昼夜を問わずに押しかけて来るわで、先生たちはノイローゼ気味だった。
いま思えば先生たちは、同僚のなかに子供を手にかけた者がいるのかもしれないと、互いに疑心暗鬼になっていたのかも。
一カ月経っても二カ月経っても、子供たちはショックから立ち直れずにいた。
なかでも八尋は特にひどかった。少し内気なきらいはあったものの、見知った人の中であれば、屈託がなくて朗らかな少女であったはずなのに、あの日を境にして、警戒心のやたら強い、いつも何かにびくびくと怯えているような性格へと様変わりして、それなのに祝にだけはどこまででも追いかけていこうとするひっつき虫になってしまった。
首の痣が見つかって以来、あの子もきっと、殺されるところだったんだーーと噂され、だけどなぜ、あの子だけが助かったのかーーという好奇の目に晒され続けていたのだから無理もない。
そのうえ子供たちのあいだでは、児童養護施設には夜になると、子供の魂を喰い漁るオバケがこっそりと忍び込んでくるーーなんていう噂話が広まった。
先生たちは、何を馬鹿なことを、と笑ったが、最初に噂を広めた子供は、実に勘が冴えている。というよりも、その子はきっとあの夜に、祝や八尋たちと同じ部屋にいて、深い眠りに浸されてはいたものの、潜在意識の一角で魂喰夜叉や炎袰の話を聞きかじっていたのだろう。
そうやって作られた怪談は真実性を増して、もう犯人は捕まらないのではーーという気配が漂うと、子供たちはいっそう怯える日々を過ごす破目になってしまった。
そんななか、ただひとり祝だけは超然としていた。
恐れるものは何もなかったし、眠るときは、いつも大の字になってぐっすりと眠った。
ふてぶてしいなと、冷たい視線を注ぐ子供や先生もなかにはいたが、確固たる自信を持って、あんなことはもう二度と起こらないよ! と言い張れば、憧憬の的となって、八尋の頼れるヒーローになった。
だって、あのひとが言ってたんだもん。もう何も心配はいらないよって。え? あのひとって誰かって? そんなの知らない。もう忘れちゃったーー
◇◆◇◆
気がつけば、扉から差し込む光に眩しさが増して、祝は追憶から我に返った。すっかり頭が冴えると、途端に罪悪感が伸し掛かってきて、震える両手で顔を覆って、かすれる声で呟いた。
「もう、死神殺しはできない……」
炎袰を殺すなんて、できるわけない。此葉を死なせることになっても、あんなに優しくしてくれたひとを手にかけるなんて、できっこない。
隣から、八尋の寝息が聞こえてくる。そうだ、こいつも死神の隠し子なんだったーーと思い出すと、さらに罪悪感が重みを増した。彼女もまた、死神のおかげで生まれてこれた存在だというのに、立派な恩知らずの一員にしてしまった。きっと本当のことを知ってしまったら、深く後悔するはずだ。
(八尋の言っていたことは、正しかったんだ。俺たちは、死神のことを知らなさ過ぎた。あのひとは、俺を護るって約束してくれた。あんなに優しいひとが、富士山の大噴火を企んでいるなんて……そんなはずない!)
しかしーーどうしても腑に落ちない点が、一つある。
池鯉鮒燐太郎は、言っていた。
おまえたちの母親は、もっと早くに死ぬはずだったーーと。
死神が心を奪われ、死なすには惜しいと、魂の回収を先延ばしにされた存在。それこそが貴様らの母親であり、子供なんて授かるはずもなかったのに、その運命を我知らずに変えた女たちだーーと。
だとすれば、炎袰は祝の母親である此葉に恋をして、今でもその魂を回収せずにいてくれているーーということか?
いや、それはおかしい、と祝はすぐにその考えを打ち消した。だって炎袰は、祝が生まれるずっと前から、父•朔夜と知り合いだったと言っていた。お父っつあん譲りの男前が台無しじゃないのサ、なんてことも言っていたし、命を懸けて祝を護り抜いてみせると約束した仲だとも言っていた。
だから炎袰が恋をしたのは、朔夜のはずだ。そのおかげて自分が生まれたんだーーと祝は独りうなずいた。
じゃあなぜ池鯉鮒燐太郎は、おまえたちの母親は、と言ったのか……
しばし考えはしたものの、きっと言い間違えたんだな、と祝は至極単純な答えを導き出した。
きっと八尋のことだけを指して、〈おまえの母親は〉と言いたかったんだーーと自分自身に言い聞かせ、もう考えるのをやめてしまった。




