第64話 もう何も心配はいらないよ
白骨の巨腕が背中の奥へと引っ込むと、炎袰がこちらへ首を巡らせた。
紫水晶のような瞳と初めて視線がかち合って、祝の肩はびくりと跳ねた。
カロンコロンと蓮歩を運んで近寄られると、心臓がばくばくと早鐘を打つ。立ち上がって逃げようにも、もう力は入らない。
炎袰がベッドに手をついて、ぐいと顔を覗きこんできた。もはや観念するような心持ちで向き合ってみれば、注がれていたのは凍てつくよう眼光でもなければ、噛みつくような凶気でもなく、頬を桜色に染めた春の陽射しのような微笑みだった。
泥塊の虚を衝くために向けられたものとは明らかに違う、なぜか照れの混じった人間味の薫る綻びに、祝の冷え切っていた血液が温もってゆくかのようだった。
「怖かったね。もう大丈夫だから安心おし」
柔らかくて、くるまれるような声だった。祝は自分でも驚くほど、素直にこくりと頷いた。
炎袰の笑みが、いっそう深く、眩しくなる。だから、つい調子に乗って、
「あなたは、本当に死神なの?」
と尋ねてみると、途端に紫水晶の瞳に薄雲がかかった。
「そうだよ……怖いかい?」
祝は、大慌てで首を振った。
「ううん、全然! 全然怖くないよ! だって、あの気持ち悪いオバケを退治してくれたんだもん。すっごく強くて、カッコよかった!」
ちょっと頭を揺らしすぎて、目が回った。けれど、炎袰の瞳が晴れて、笑みが戻ると、嬉しくなって胸が弾んだ。
だけどーーやっぱり放っておけないのは、もう二度と起き上がることはないであろう、二人の子供たちのことだった。
「魂を食べられちゃった子たちは、もう生き返らないの? あのオバケは、なんだったの?」
祝に問われて、炎袰は泥塊たちの名残りである、床のシミを睨みつけた。
「あれは、魂喰夜叉っていう名の妖魔でね、わずかな隙間さえありゃあどこからでも人の住処に侵入して、魂を喰い漁っていっちまうのサ」
それから、魂を喰われてしまった子供たちに目を転ずると、だから可哀想だけど、あの子たちはもう……と、その眼差しから悲痛な色が滲み出た。
「ごめんよ……あたしがもっと早くに駆けつけてやれりゃあ、きっと間に合ったはずなんだけど、なかには人の身体に寄生するような奴もいて、それをされちまうと、もう気配すらもすっかり消えちまうもんだからサ……」
無念で、歯痒げな声だった。
祝もあらためて二人の亡骸に目を遣ると、途端に息がつかえて、胸のあたりのパジャマをきゅっと掴んだ。
「あいつら……またここに来るのかな?」
沈みきった声で、祝は訊いた。確か魂喰夜叉は、こういう場所にいるガキどもの魂は、美味くはないが、まったく味がしないことはない、なんてことを言っていた。そのうえ、数がいるから、腹を満たすには手っ取り早い、なんてことも言っていた気がする。だったらまたやって来るんじゃーーと思い至ると、全身が小刻みにわなないた。
「大丈夫サ!」
威勢のいい声をあげて、炎袰が祝の肩をガシリと掴んだ。
「おまいさんには、もう二度とこんな辛い目には遭わせたりしない。何があっても、必ずあたしが護ってみせるサ!」
「……本当?」
祝が、不安げに聞き返した。
ああ、本当サ! と炎袰は力強くうなずいた。
「おまいさんを怖がらせるものなんて、ぜーんぶあたしが追っ払ってみせるサ! だから、もう何も心配はいらないよ」
そう言って白い歯をニカッと見せると、祝も笑い返さずにはいられなかった。肩を掴む両手は、幼児の目から見ても華奢なのに、きっと大丈夫なんだ、と信じ切らせる不思議な力が籠っていた。
気づけば、祝は泣いていた。
笑っていたはずだったし、あまりにも久しぶりな感触に、しばらくは頬に伝う雫が何なのか、すぐには気づくことができなかった。だけど、それが涙であるとわかった途端、なんだか子供返りしているかのような気分になった。
そんななか、炎袰の眼差しに包まれていると、
(いや、僕って子供じゃん)
とすっかり忘れていた至極当然なことを思い出して、そうなったら次から次へと涙が溢れて止まらなくなった。
しまいには、えっえっと嗚咽をこぼしながら泣きじゃくっていると、炎袰が困ったように眉尻を下げた。とはいえ、微笑みは消えることなく、優しい眼差しで祝を見守ってくれている。
「あーあー、そんなに泣くんじゃないよ。お父っつあん譲りの男前が、台無しじゃないのサ」
そう言うと、指先でそっと涙を拭ってくれた。目頭も頬も、もう充分熱いのに、指先の温もりは、ちゃんと肌に伝わってきた。
「炎袰は、僕のお父さんのこと、知ってるの?」
嗚咽を堪えて、祝は尋ねた。
「ああ、知ってるよ」
炎袰の双眸が懐かしげに、それでいて眩しいものでも見るかのように細くなる。
「おまいさんが生まれるずっと前からの知り合いサ。実を言うとサ、おまいさんが生まるとき、お父っつあんと一緒に、あたしもそばにいたのサ」
「本当!?」
「本当サ! そのときにね、あたしはお父っつあんと約束したんだよ。おまいさんのことは、あたしが命を懸けて護り抜いてみせるってサ」
くしゃくしゃだった泣きっ面はどこへやら、祝は膝を乗り出して問いかけた。
「それって、僕が炎袰の隠し子だから?」
てっきり、そうだよ、よく知ってるね、と褒めてくれるものだと思っていた。
ところがその予想は大きく外れた。炎袰の顔からすっと音をたてるように笑みが引くと、紫水晶の瞳が悲しげに曇った。
「おまいさん、なんでそれを知ってるのサ……」
祝もつられて笑みを消した。ぴしりと全身に緊張が走って、二人のあいだに幕が張ったかのような沈黙が下りた。




