第51話 黄泉国
問われて、祝の口が我知らずに開いた。
「知るわけねえだろうが、あんなバケモンのことなんて」
あの錆帯びた冷たい声に、え? と八尋が目を剥いた。
「どうしたの、祝。なんだか声が……」
「うるせえ! おまえが、しょうもねえこと訊くからだろうが!」
八尋の顔が青ざめてゆく。それでも、祝の口は止まらない。
「いいか、俺はあんな死神のことなんて、何も知らねえ。わかったら、二度とそんなこと訊くんじゃねえぞ!」
「何なのよ、祝……どうしちゃったのよ」
祝は、ごくりと空唾を呑んだ。口から勝手に湧き出そうとする声とともに。
「べつに……どうもしちゃいない」
「でも……」
祝は二度、三度と首を振った。
「ほっといてくれ。俺は、何もおかしくない」
祝の心臓は、凍えていた。
そう、本当は気づいていた。心の破れ目から聞こえてくる声は、今やもう一人の人格となって、祝の身体を操るまでになっている。
だけど、どうすることもできなかった。俺はきっと、いつかコイツに乗っ取られるーーそんな恐怖を覚えつつも、断ち切る手立てがわからない。誰かに言ったところで、信じてもらえるはずがない。
これ以上は何を言っても無駄だと察したか、それっきり八尋は、むっつりと口を結んで、何も言わなくなってしまった。
「きっと疲れたんですの」
「ですぞ」
狛犬姉弟が、適当な調子で口を入れた。
「祝も八尋も、今日のところはもう寝むですの。それに、明日からは学校へ行くのもおそらくは危険。だったらここでゆっくり寝んで、死神殺しに備えるですの」
「ですぞ」
ああ、と祝は短く応えて、逃げるように埃っぽい床の上に寝そべった。背中に八尋の視線を感じてはいたが、ぎゅっと目を閉じ、闇に潜った。
◇◆◇◆
「死神殺しはどこですか? すぐに召し取るよう、命じたはずです」
「……」
「それに、カグツチと天瑞鏡の破片はどうしました?」
「……」
ここは、死神たちの生まれた〈黄泉国〉。見渡すかぎりにたなびく霧の真っ只中に、寝殿造りの宮殿はあった。
その主殿の簀子縁(濡れ縁)の上で、嗛間炎袰は平伏していた。御簾の向こうがわで座する人影に重ねて問われ、申し訳ございません、と頭はさらに低くなる。
「居場所までは突き止めることができたのですが、不覚にも逃げられた次第で……」
「カグツチと天瑞鏡は?」
「それも……小癪にも偽物を掴まされ……」
突如、曇天の空に龍の爪痕のような八つの稲光が輝いて。炎袰のすぐ後ろで雷鳴を響かせ落下した。地面が真っ黒に焼け焦げて、そこから煙が濛濛と立ち昇る。
人間ならば、度を失うほどの騒ぎだろうが、炎袰は平伏したままで、ピクリともしない。とはいえ内心は決して穏やかではなく、できることなら今すぐにでも逃げ出したい気分だった。
御簾の向こうから、重いため息が聞こえてくる。
「死神に天瑞鏡を委ねさえすれば、取り戻そうなどという浅ましい所業を成す人の子も、きっといなくなることと思っておりました。なにせ死神といえば、命あるものからすれば最も忌み嫌われる神なのですから、誰も立ち向かおうとはしないはず、と」
なのにーーとにわかに語気が尖って、炎袰の背中が、ビクリと跳ねた。
「その肝心の貴方たちが、こうも易々と討たれるようでは、元も子もないではないですか。ましてや炎袰ーー魁である貴方までもが、わたくしに肩を落とさせるとは……」
誠に、面目ない次第でございますーーと、炎袰の声が震えだした。
「次こそは、必ずカグツチと天瑞鏡を取り返して参りますゆえ、どうかもう一刻のご猶予を」
ええ、と御簾の向こうにある影がうなずいた。
「必ずですよ。それに、カグツチと天瑞鏡の破片だけではありません。死神殺しも、わたくしの前に引き連れて参りなさい。可愛い我が子が、殺されたのです。親であるわたくしが、人の子に直々に思い知らせてやらなくては」
言われて、思わず返事に鈍った。それでも今のこのお方に、否定や言い訳は許されないとわかりきっている炎袰は、
「承知しました」
と、従順な声を絞った。これで、とりあえずはこの場を辞することができるはずーーとこっそり息をつこうとすると、
「ああ、わたくしとしたことが、言葉を誤りました」
と、御簾の向こうの影が白々しく言った。
「人の子、ではく、死神の隠し子、でしたね」
その言葉に、炎袰の心臓は鷲掴みにされた。
「炎袰、まさかわたくしが、気づいていないとでもお思いでしたか?」
ゾッとするような優しい声が、その場の空気を凍てつかせる。
「それは、その……」と炎袰は言葉を詰まらせた。
「わたくしの目はごまかせませんよ。貴方のその顔の火傷が、何よりの証拠」
御簾の向こうから聞こえる声に、妙に愉しげな含み笑いの響きが籠る。
黄泉の王の意に背き、陰でコソコソともうけた死神たちの禁忌の子。
死神が身を焦がした末に誕生した、本来ならば生まれてくるはずもなかった子。
「それが貴方にいることくらい、わかっていました」
さらに黄泉津大神は、畳み掛けた。
「そして、貴方のその隠し子こそが、死神殺しなのでしょう? だからあなたは、つい手心を加え、カグツチと天瑞鏡の破片の奪還を失敗った」
そうでしょう? と、とどめを刺され、炎袰は息までもを詰まらせた。
「いいですか、これ以上わたくしへの不忠は許しません。おわかりになったのなら、今すぐ死神殺しを召し取って参りなさい」
黄泉津大神から横溢する神気の波が、御簾をひらひらとはためかす。青い雷電のような眼光が、平伏している背筋に冷たく掠める
頬を伝う冷や汗がぽとりと床に滴ると、炎袰はいよいよ観念した。額を擦り付けるようにしてうなずいて、
「畏まりました……」
と本音を胸底へと沈めて、恭順の意を捧げるほかにすべはなかった。




