第46話 八尋の覚悟
(やばい……マジでやばい)
そこへ、女性が受話器を持ち上げるよりも先に、突然電話が鳴り出した。
条件反射か、女性はその電話をワンコールで取ると、「受付です」とかすかに震える声で応答した。
看護師の女性が、舌打ちするかのように口許を曲げる。目は一時も逸らすことなく、祝を捕まえ続けている。
「あの……看護師長」
受付の女性が、看護師の女性へ遠慮がちに声をかけた。
「なに?」
看護師長と呼ばれた女性は、祝を見据えたままで、苛立たしげな声を返した。
「外来処置室からお電話です。瀬城先生からのご伝言だそうで……」
看護師長は、祝へと〈ここらか一歩も動くな〉と鋭い眼光でもって訴えて、カウンターに回って電話を取った。
祝は、そっと拳を握りしめた。びっしょりだった汗が、にわかに引いてゆくようである。
看護師長は、「はい……はい」と電話の相手へ素直に頷きはするものの、それとは裏腹に眉間は狭まり、返事をするたびに一本、二本と、深い皺を刻んでいた。わかりましたーーと電話を終えると、受話器を受付の女性へ突き返し、肩をいからせて祝たちの元へと戻って来た。
「瀬城先生が、気力を振り絞ってこう仰ったそうよ。この怪我は、自分の不注意によるものだから、警察を呼ぶ必要も、あなたたちに事情を聴く必要もない。一切なにも聴かず、まっすぐ家に帰らせるように、ってね」
祝は、安堵の息を漏らした。狛犬姉弟の予見どおり、生きるか死ぬかの瀬戸際であっても、瀬城はちゃんと警察沙汰にならぬよう取り計らってくれていた。
「あの……先生は無事なんですか? 死んだりなんかしませんよね?」
不安げな声で、八尋が尋ねた。
「命に別条はないようですよ。今は鎮痛剤も打って、落ち着いておられるようです」
そう返す看護師長の声は、納得いかないとばかりにぶっきらぼうだ。
それでも八尋は深い息とともに、そうですかーーと心底安堵する声を零した。
「でも、もう先生は使えねえな」
祝はふたたびギョッとした。自分の口から不意に湧いたのは、またしてもあの錆帯びた冷たい声だった。
「はあ?」と看護師長が、聞き返してきた。今度は、よく聞き取れなかったようである。
「いやっ、なんでも……」と、祝は慌てて首を振った。
それ以上は問いただされることはなかったものの、祝の胸には暗雲が垂れ込みはじめていた。あの声は最初、天瑞鏡の破片から聞こえてきたものだった。それが次第に祝の心の破れ目から聞こえてくるようになり、今となっては祝の口を乗っ取るかのようにして、喋りだすまでになってしまった。
(ちがう、先生がもう使えないなんて、俺はそんなこと思ってない。そんな薄情なこと、思うはずがない……)
しかし今、祝が何よりも心配しているのは、瀬城の安否よりも、死神殺し続行の可否だった。瀬城という大きな戦力を失った現状で、残り六人の死神を果たして斃すことができるかどうかの心配ばかりが先立って、そんな酷薄な自分にぞっとした。
「そういうことですから、あなたたちはもう帰りなさい。ここにいたって、もう何もすることはないでしょ?」
そうぞんざいに吐き捨てると、看護師長は背を向け去ってゆく。
瀬城が無事なら、確かにここにいる必要は、もう何もない。祝と八尋は互いの顔を見合わせると、踵を返して静かに病院をあとにした。
狛犬姉弟が、街路樹の陰から駆け寄ってくる。八尋が瀬城の無事を伝えると、二匹も、ほっと安堵の息をついた。
◇◆◇◆
二人と二匹は長槍に乗り、まずは狛犬姉弟の塒である正鹿神社へと空を飛んだ。本殿の前で、二匹が降りて別れを告げると、祝と八尋はふたりっきりで暗夜の空を突き進んだ。
言葉はない。もちろん、勝利を称え合うような気分でもない。八社宮炉慈丸を屠ったとはいえ、あまりにも代償が大きすぎた。瀬城は利き腕である右腕を失って、このさき医者を続けていくことはおろか、普通の生活を送ることすらも相当な困難を強いられるはず。そんな彼の姿を想像して、祝は思わず唇を噛んだ。
しかし、やはり頭の中を占めるのは、震えを覚えるほどの天瑞鏡への渇望だ。
「死神殺しは続けるぞ」
相手の顔には一瞥も与えず、さも当然であるかのように、そう告げた。
言われた八尋は、青ざめた顔で首を竦めた。目に見えて、心が挫けてしまっている。
「だけど祝……もう先生は、闘えないのよ?」
さっきの闘いだって、もうダメだ、って何度も思ったーーと、細く震える声で言う。
「なのに、二人だけで死神に挑んだりしたら、今度こそわたしたち死んじゃうわよ」
「何を今さら」低く笑って、祝は言った。
「命の保障なんて全くないって、俺は最初から言ってただろ。なのに、俺ひとりじゃ心配だ、なんて豪語しておいて、今ごろになって惜しくなったのか?」
ち、ちがう! と八尋が、かぶりをぶんぶんと振った。
「けどっ、祝が死んじゃったら元も子もないじゃない。いちばん悲しむのは、おばさんなのよ?」
祝はしばし口を閉ざすと、陰々とした声でぼそりと言った。
「悲しむ、か。確かにな」
「……祝?」
「だけど、俺が死んだところで、悲しむのは、母さん一人だけだ。だったら俺の命なんて、どってことないだろ」
「な、何よそれ! 馬鹿なこと言わないで!」
「それに、俺だって死んだところで悔いはない。死神どもが全員で押し寄せて来たって、もう微塵も怖くない」
さすがに見栄が混じったと、自分でも思った。死ぬのは怖いし、死神だって怖い。お龍をはじめとする人形兵器たちとの闘いは、思い出しただけでも血が凍る。
だけど諦めることなんて、到底できない。天瑞鏡が、欲しくて欲しくてたまらない。心を満たすあの光をもう一度浴びたくて、身悶えしそうになるほどの衝動が、冷めたはずの血を沸き返させる。
「たがらーー俺は死神殺しを明日も続ける。天瑞鏡を持っているアイツらは、ひとり残らず皆殺しだ」
自分でも底冷えするような暗い声で祝は言った。覚悟を決めたわけじゃない。自分でも、もう止めることができないのだ。
八尋はいまだ長槍から身を乗り出したまま、だまし絵でも見るかのような目で祝を見ていた。長槍を横に滑らせ、さらに祝へと身を寄せると、じっとその目を覗き込んできた。瞳の奥底の、さらに裏側にある何かを探り当てようとするかのように。
そうやって食い入るように眺めていたかと思いきや、八尋はふいに前を向いた。ひたすら真っ直ぐに、じっと先を見据えていた。
果たして、何かを見つけ出してくれただろうか――祝には何もわからなかったが、
「だったら、わたしも従いていく」
と八尋は言った。先ほどとは打って変わって、怯えやためらいを一切感じさせない声音だった。
「なんだよ、さっきまではずいぶんビビってたのに」
驚き半分、冷やかし半分に、祝は言った。ちらりと横目で覗き見た八尋の目には、いつの間にか凛とした光が宿っていた。
「だって、祝だけじゃ心配だもの」
芯の通った、力強い声だった。祝は、なんだか負けた気がして、
「勝手にしろ」
と、ぷいと横を向いて言い捨てた。どうせダメだと言っても、こういうときの八尋は、絶対に折れない。
それから二人は、ずっと無言のままだった。
自分のアパートの前で降り立った祝は、「じゃあね」と、独り飛び去ってゆく八尋の後ろ姿を見送った。
そして、ふと思った。
もしかして、何かしらの覚悟を決めたのは八尋の方だったのかもしれない。




