第32話 手加減なしの猛特訓
特訓九日目。
「今日は、昨日までとはちょっと違う実戦練習をしようと思う」
待ち受けていた瀬城が、スラックスのポケットからサバイバルナイフを取り出し、祝に告げた。カバーを地面に放り捨てると、唐突に腕を振りかぶり、祝に向かってサバイバルナイフを投げ放った。
予想だにしていなかったできごとに、祝はただ唖然と佇立していた。
サバイバルナイフは、祝の右頬をすれすれにかすめ去り、後方にある林の木の一本に突き刺さる。その音を背中で聞いて、祝はひっと息を呑んだ。
瀬城が胸を仰け反らせ、大きく息を吸い込んだ。吐き出された気息とともに現れたのは、紫色の毒々しい妖煙ーー腐敗の瘴気だ。
「なっ!?」
祝は絶句し、固まった。
腐敗の瘴気は大蛇のようになって、空中をくねくねと這い進み、高さはおよそ三メートル、直径は二十メートルほどの円を描いて、立ちどころに祝を取り囲んだ。
「何するつもりだよ、先生」
祝は、瘴気の向こう側にある瀬城の気配を睨みつけた。
「君にはこれから、いつどこから飛んでくるかわからない攻撃すべてに、三日月刃で迎撃してもらう。躱してくれてもかまわないが、逃げることは許されない。腐敗の瘴気に触れてしまえば、身体中に壊死が広がって、五分と保たないだろうからね」
瘴気の向こうから聞こえてくる冷淡な声に、祝の背筋は凍りついた。よろめくように後退ると、ふいに柔らかい何かが背中に触れた。咄嗟に振り向きその正体と目が合うと、祝は顎が外れるほどの大口を開けて、言葉にならない叫びをあげた。
「お、お、お……おまっ、おまっ!」
そこにいたのは、今までどこで何をしていたのかすら、さっぱりだった八尋であった。祝を見上げつつ、呑気に小首をかしげている。
「おまえ、何やってんだッ!」
「えっと、祝がどんな調子か気になって、見にきてみたんだけど……」
「ふざけんなっ! 余計なお世話なんだよ!」
唾を飛ばして怒鳴り散らすと、祝は八尋の腕を掴んで引っ張った。
「今すぐここから出ろ!」
「でも、どうやって?」
「あ……」
そう、今ふたりを取り囲んでいるのは、肉体をまたたく間に壊死させ、死に至らしめる腐敗の瘴気。逃げることなど不可能だ。
「先生、待ってくれ!」祝は叫んだ。「今ここに、八尋がいるんだ! 腐敗の瘴気が消えたらすぐに追い払うから、いま攻撃するのはやめてくれ!」
しかし、瘴気の向こう側から返ってきた答えは、祝の期待を踏みにじり、愕然とさせた。
「君は、死神にそんな言葉が通用するとでも思ってるのかい? いざ実戦になったとき、仲間を逃がしたいからそれまで待ってくれ、なんて言って、死神が律儀に待ってくれるとでも思ってるのかい? 奴らはこの国に災いを招び、人の命が一つでも多く消滅することを望んでいるような連中なんだぞ?」
「そ、それは……」
「君が八尋ちゃんを護りたいんだったら、闘うしかない。そばにいる彼女をかばいつつ、すべての攻撃を撃破するんだ!」
瀬城の声はどこまでも冷徹で、とこまでも本気で、これ以上の説得は意味を成さないと思い知らせるには充分だった。
「くそっ!」と吐き捨て、祝は八尋へと振り返った。
「いいか、おまえは俺の背中に貼りついてろ。絶対に離れるな。そんで、もし背後から何かが飛んできたら、俺が撃ち落としてやるからすぐに報せろ」
「うん、わかった」
うなずく八尋は素直ではあるが、緊張感が一切ない。
(こいつ、自分がピンチだって、全然わかってねえ……)
頭を掻きむしりたくなるような衝動に駆られたが、今はもう、それどころではない。
心機を整え、息を静かに吸い込んで、体内にある魂という名の火を熾す。
途端に胸が熱くなり、焦がされるような熱が生まれると、それはすぐに両手へと移動して、解き放てーーとばかりに疼きだす。
いつでも三日月刃を放てる体勢で身構えれば、まるでこちらの動きが見えているかのようなタイミングで、瀬城の声が飛んできた。
「もう手加減はしないーーいくぞッ!」
直後、真正面の瘴気の中から、陽の光を鋭く弾く冷光が見えた。
(ーー来る!)
祝は、猛然と腕を振りかぶる。
刀身の先端が、わずかに瘴気の中から顔を出した。
(あんな玩具みてえなサバイバルナイフ、どおってことねえ!)
しかし、その刃の全貌が明るみになるや、祝は振りかぶったままの姿勢で目を剥いた。
「いいぃぃいいッ!?」
祝めがけて飛んできたのは、サバイバルナイフではなかった。本当にサバイバルナイフが玩具に見えるほどの、猛利な穂を待つ長槍だった。
なんで!? と思うと同時に、それが大気をひっ裂き差し迫る。
祝は、慌てて八尋の頭を掴んで押し伏せて、同時に自らも地面に突っ伏した。
額を思いっきりぶつけた八尋の、「ぎゃん!」と言う、ちょっと可哀想になるような悲鳴と同時に、長槍が祝の後頭部を掠め過ぎた。逃げ遅れた髪の毛の一房が地に散って、冷たい汗がこめかみに伝った。
長槍の刃長は、七十センチはありそうだった。そのうえ全長は、三メートルはあっただろう。そんな戦国時代の猛将が愛用していたかのような豪壮な凶器を、瀬城はいったいいつの間に用意していたのか……祝には皆目見当もつかないが、いま彼は、それを分身の力で無数に携え、虎視眈々と俺たちを狙っている――そう考えただけで、足許から震えが這い上がる。
そこへ、今度は左方向から、冷たい銀光が煌めいた。
二本目の長槍が、瘴気の中から姿を現す。滑空するそれは、二人が這いつくばっているのを見透かしているかのようにして、低空位置で差し迫る。
祝は跳ね起き、八尋の腕を掴んで身体をぐいと引き上げた。そしてすぐに背中を突き飛ばし、自身も弾道から跳び避けた。
直後、長槍が祝の脛裏を掠め、スラックスを斬り裂き、瘴気の中へと消えていった。
鋭い疾風の吹き抜ける余韻に、祝はぞっと総毛立つ。
三度、長槍の穂先が、瘴気の中から顔を出した。しかも祝の真正面から。
(なんで? なんでだよ!?)
祝は、完全に乱惑した。長槍の狙いが、あまりにも的確すぎるのだ。まるでこちら側の景色が、瀬城には全て見えているかのように。
長槍が祝の顔前、もとい前に立つ八尋の後頭部めがけて迫り寄る。祝は、覆い被さるようにして八尋を押し倒した。
長槍は、またしても祝の後頭部すれすれを通り過ぎ、瘴気の渦へと消えてゆく。
(ダメだ……このままじゃ、絶対に逃げ遅れる)
この腐敗の瘴気に、閉じ込められたのが祝ひとりだったなら、なんとか長槍から身を躱し続けることはできたはず。しかし八尋を避難させてからでは、いつか自分は逃げ遅れる。なにせ相手は、確実にこちらの動きを見通しているのだ。
だったら三日月刃で迎撃すべきだ。そんなことは祝にだってわかっている。
(だけど、もし外したら……)
大怪我どころでは済まされない。ふたり揃って串刺しだ。
そのとき、凍てつくようなひらめきが祝の身体を駆け抜けた。
(先生は、本気で俺を殺すつもりなんじゃ……)




